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鶴林寺
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書写山ロープウェイの駐車場から鶴林寺の駐車場までバイクで約1時間を要しました。
駐車場から仁王門の方へ歩いて行くと左側に安産子育て地蔵尊が祀られていました。
仁王門の前には「新西国三十三箇所・第27番」「聖徳太子霊跡」と刻まれた
石柱が建っていますが、その他にも「西国薬師四十九霊場・第22番」、
「播州薬師霊場・第9番」「関西花の寺二十五霊場・第9番」の札所となっています。
仁王門は、三間一戸の楼門形式で、室町時代に建立され、江戸時代末期に大修理、
改造されたものと推定され、兵庫県の文化財に指定されています。
仁王像が制作された年代は不明ですが、歴史を感じさせます。
仁王門を入った所で入山料500円を納めますが、宝物館とセットで800円です。
今回は宝物館の入館を予定していましたが、圓教寺でその時間を費やしてしまいましたので、
宝物館は諦めました。
門をくぐった正面に本堂があります。
本堂前の左側に菩提樹、右側に沙羅双樹の木が植栽されています。
釈迦入滅の際、周囲に茂っていた沙羅双樹が枯れ、こずえが鶴が飛ぶような姿になったとされ、
鶴林寺の寺号の由来となりました。
沙羅双樹は耐寒性が弱く、日本で育てるには温室が必要なため、
別種のツバキ科のナツツバキが植えられ、「沙羅(シャラ)」と呼ばれています。
鶴林寺もこの木が植えられています。
現在の本堂は、棟札から室町時代の応永4年(1397)に建立されたことが判明し、
国宝に指定されています。
高句麗の僧・恵便(えべん)は、物部氏ら排仏派の迫害から逃れてこの地に隠棲していました。
崇峻天皇(すしゅんてんのう)2年(589)にこの地を訪れた聖徳太子は、
恵便のために精舎を建立したのが鶴林寺の始まりとされています。
太子建立七大寺の一つとされ、当初は刀田山(とたさん)四天王寺聖霊院と号していました。
養老2年(718)、武蔵国の大目(だいさかん=国司の一役職)・身人部春則(むとべはるのり)が
太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立しました。
9世紀の初め、慈覚大師円仁は、入唐の際に立ち寄り、
薬師如来を刻んで国家の安泰を祈願されました。
天永3年(1112)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に
「鶴林寺」と寺号が改められました。
「鶴林」とは釈迦 涅槃の「沙羅双樹の林」を意味します。
現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有しますが、
鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上、寺領25,000石の規模を有しました。
戦国時代、近隣の書写山は戦火に巻き込まれましたが、播磨姫路領主だった
黒田職隆(くろだもとたか)、黒田孝高(くろだ よしたか=通称・官兵衛)親子の説得を受けて
信長派となり、戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存しています。
しかし、信長・秀吉の弾圧を受け、江戸幕府の厳しい宗教政策のため、衰徴していきました。
本尊は、平安時代作の木造薬師三尊像で、持国天像と多聞天像を脇侍としていますが、
秘仏とされています。
本堂の右斜め前方に三重石塔が建ち、その奥に平安時代の天永3年(1112)に建立され、
国宝に指定されている太子堂があります。
兵庫県最古の建物で、天台宗の伽藍配置では、常行堂と対を成す
「法華堂」だったと考えられています。
堂内の東側壁画に聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれていますが、
その壁画は中世から厨子で覆われて秘仏扱いとされ、現在は国の重要文化財に指定されています。
本尊は、釈迦三尊像で、中尊の釈迦如来坐像は像高45.5cm、平安時代後期の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には、平安時代に描かれた来迎壁、九品来迎図、仏涅槃図が残されていますが、
黒ずんでいて肉眼では図柄が確認できないそうです。
本堂の左斜め前方に、平安時代に建立され、
国の重要文化財に指定されている常行堂があります。
元は檜皮葺でしたが、室町時代後期の永禄9年(1566)に瓦屋根に葺き替えられました。
常行堂は、正式には常行三昧堂と云い、本尊である阿弥陀如来像の周囲を、
阿弥陀仏を思いながら念仏を唱えて何十日も歩き続ける厳しい修行が行われていました。
常行堂は、かなり格式のある天台宗寺院にしか存在せず、その遺構として、
鶴林寺の常行堂は、日本最古のものです。
常行堂の南側に三重塔があり、兵庫県の文化財に指定されています。
三重塔は室町時代に建立され、江戸時代の文政年間(1818~30)に大修理が行われ、
初層はほとんど新材で補修されました。
相輪は昭和25年(1950)に改鋳されました。
昭和51年(1976)に放火により内部を焼損しましたが、昭和55年(1980)に
解体復元修理が行われました。
心柱は二層目で止まり、初重の四天柱内に須弥壇が築かれ、壇上には本尊として
大日如来坐像が安置されています。
三重塔の左奥に経堂があり、その左側には鳥居が建っています。
経堂の右側に地蔵菩薩が並んで現れて来る図が刻まれた石碑が建っています。
石碑には図の右側に「現在未来夫人衆 吾今慇勤附嘱汝」、
左側に「以大神通方便力 勿令堕在諸悪趣」と、
「地蔵菩薩本願経」から引用されている文が刻字されていますが、
意味は理解できていません。
鳥居の先には行者堂があり、国の重要文化財に指定されています。
行者堂は、室町時代の応永13年(1406)に鎮守社の日吉神社として建立されましたが、
明治以降に神変大菩薩(役行者)を祀る行者堂となりました。
前面は春日造り、背面は入母屋造りで、こうした建物では最古級とされています。
毎年3月23日には前庭で護摩供が行われています。
行者堂の右側に茶屋があり、茶屋を通り過ぎた先に新薬師堂があります。
江戸時代の中期、大坂から鶴林寺へ薬師詣でに訪れた医師・津田三碩は、
本尊の薬師如来が60年に一度しか開帳されない秘仏であったため、
目のあたりに拝むことができませんでした。
三碩は「いつでも拝める薬師様を」と、新薬師堂の建立を発願しました。
延宝7年(1679)に新薬師堂が落慶し、本尊の開眼供養が行われましたが、
三磧はこの日を待たず他界されていました。
安置されている仏像の背面から製作者と発願者である津田三碩の名が書付で
残されてはいますが、江戸時代よりもっと古い仏像ではないか?との疑問も残されています。
堂内には鶴林寺の本尊よりも大きい薬師如来坐像が安置され、
日光・月光両菩薩像が脇侍として安置されています。
周囲には十二神将像が安置されています.
左奥の摩虎羅(まこら)大将像はウィンクする仏像として有名になりました。
新薬師堂の右側に講堂があり、研修道場になっています。
講堂の裏側には特攻隊の慰霊碑が建立されています。
この碑はかって、加古川町寺家町の中村家旅館の前に建立されていました。
中村家旅館は、陸軍の指定旅館で加古川教育飛行隊で編成された
特攻隊員が宿泊されたそうです。
講堂の先、正面に塔頭の浄心院があり、塀の前には聖徳太子十二歳像が祀られています。
12歳の聖徳太子は、恵便法師の教えを受けるためにこの地を訪れました。
太子は恵便法師を木の丸殿に招き、仏教の修学に励まれたとされていますが、
木の丸殿の門がここにあったと伝わり、「不開(あかず)の門跡」と呼ばれています。
浄心院は境内の西端に在ることから通称「西の寺」と呼ばれています。
かって、木の丸殿があったとされていますが、江戸時代中期に全焼し、
草創よりの歴史は不詳となっています。
浄心院の前に地蔵堂があり、子安地蔵尊が祀られています。
浄心院の東側に隣接する宝生院は、古くから鶴林寺塔頭の一つで、古文書では
16世紀初頭には「宝生坊」、17世紀中頃には「玉泉坊室宝生院」と記されていました。
16世紀末、鶴林寺は真言宗に改宗を強いられていましたが、万治3年(1660)に
再び天台宗に戻し、中興した良盛法印が住しました。
江戸時代末期では鶴林寺塔頭八院中の一つでしたが、明治にかけて荒廃し、
一時加古郡高等小学校の教室、職員室にも流用されていました。
その後、豪盛法印によって改修、整備が行われました。
宝生院の東側に隣接する真光院は、永正12年(1515)の『鶴林寺料田惣目録』に、
二十数ヶ坊のうち「奥の坊」として記録されるのが前身で、
江戸時代以降に鶴林寺八院中「真光院」の名称で記載されるようになりました。
現在は境内の東端にあり、「東の寺」と呼ばれています。
真光院の前方に放生池がありますが、蓮の葉で覆われています。
きれいな花を咲かせ、葉の上で亀が甲羅干しをしています。
池の中には弁財天社があり、池の背後には宝物館があります。
池の前方に室町時代の永禄6年(1563)に建立された護摩堂があり、国の重要文化財に指定されています。
三間四面、本瓦葺の均整のとれた小堂で、外部は和洋、内部は禅宗様の折衷様式となっています。
本尊は不動明王で、堂内の中央には護摩壇があります。
護摩堂の西側に観音堂があります。
江戸時代の宝永2年(1705)に、姫路藩主・榊原政邦の寄進により再建されました。
元来、愛太子観音と呼ばれる白鳳時代の聖観音菩薩像が祀られていましたが、
明治の神仏分離令後に浜の宮神社の本地仏であった、
現本尊の聖観音菩薩像が安置されています。
白鳳時代の聖観音菩薩像は、現在は宝物館で保存され、現本尊は秘仏であり、
厨子前に御前立の聖観音菩薩像、須弥壇の右側に善光寺如来像が安置されています。
観音堂の西側に法華一石一字塔があり、右側に加古川観光大使・女子プロゴルファーの
ささきしょうこさんの写真が立てられていました。
江戸時代の明和8年(1771)に建立された供養塔で、法華経の文字を一つの石に
一字づつ書いて千部収め、読誦して回向し三界万霊の菩提を弔ったものです。
法華一石一字塔の裏側に回るとマニ車があります。
「ふりきり石」と説明され、「インドの陀羅尼が彫られていて、この石に念じ、
回すことで心にある邪念を振り落とし、新たな自分に生まれ変わる」と解説されています。
また、「願いを叶える効果あり、回すことでより良い未来に自分を向かわせる
功徳がある」とも記載されています。
法華一石一字塔の北西側に、室町時代の応永14年(1407)に建立された鐘楼があり、
梵鐘と共に国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は約千年前の高麗時代に鋳造された朝鮮鐘で、「黄鐘調(おうじきちょう)」と
呼ばれる音色を持つ名鐘とされています。
鐘楼の南側に宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔の前に石風呂があります。
湯浴みするための浴槽で、長さ128cm、幅67cm、現状で高さ31cmの大きさがあります。
境内の南側には仏足石が祀られています。
法華山一乗寺へ向かいます。
続く