現在の京阪「八幡市駅」
京阪電車は令和元年(2019)10月1日に京阪線2駅と鋼索線2駅の
駅名を変更すると発表しました。
深草駅は「龍谷大前深草駅」に、八幡市駅は「石清水八幡宮駅」に変更され、
鋼索線の八幡市駅と男山山上駅は「ケーブル八幡宮口駅」と
「ケーブル八幡宮山上駅」に改められます。
これにあわせ、「京阪電車 石清水八幡宮・龍谷大前深草 駅名変更記念入場券」
(300円)が10月1日10時から石清水八幡宮駅、龍谷大前深草駅で販売されます。
販売期間は10月6日までで、各駅限定150セットで終了となります。
記念グッズとなる「京阪電車 石清水八幡宮・龍谷大前深草・石清水八幡宮参道ケーブル
駅名変更記念マグネット」(1200円)も用意され、こちらは10月5日、6日に開催される
「鴨東線開通&8000系誕生30周年記念イベント」の中で販売されます。
男山ケーブルは大正15年(1926)に男山索道によって開業されました
その後、男山鉄道に社名変更され、京阪電気鉄道の子会社となりましたが、
昭和19年(1944)に資材が供出され、廃止されました。
昭和30年(1955)に京阪電気鉄道の直営で復活され、
平成13年(2001)には現在の車両が導入されました。
令和元年10月1日には鋼索線の通称は、「男山ケーブル」から
「石清水八幡宮参道ケーブル」に変更されるのに伴い、
同年5月から6月にかけてリニューアル工事が行われました。
かっての車両色は京阪電車の特急色でした。
あかね
こがね
リニューアル工事に合わせ、車両デザインも一新されました。
太陽と月に見立て、「陽(赤)の遣い」と「月(黄)の遣い」がデザインのコンセプトとなり、
メタリックフィルムでラッピングされ、光の情緒感と神聖さが表わされています。
車両には「あかね」、「こがね」と命名され、石清水八幡宮の御神紋「流れ左三つ巴」を
モチーフにしたシンボルマークが採り入れられています。
ケーブルでは高低差82m、距離400mを3分で山上へと運び上げてくれますが、
石清水八幡宮へは歴史を知る上で、ケーブルよりも歩いて登る必要があります。
八幡市駅前のロータリーを進み、右に曲がると一の鳥居が見えます。
社標前は東高野街道の起点となっています。
東高野街道は洞ヶ峠(ほらがとうげ)を超え、大阪府の河内長野市で西高野街道と
合流して高野山へと至ります。
街道は、出来るだけ直線になるように計画されて通された古代道路と推定されていますが、
いつごろ開通したのかは定かではありません。
一の鳥居は高さ約9m、最大幅約11mの花崗岩製で、最初は木製でしたが、
寛永13年(1636)に松花堂昭乗(1548~1639)の発案により石鳥居に造り替えられました。
鳥居に掲げられた扁額は元は、第66代・一条天皇(980~1011)の勅額でした。
長徳年間(995~999)に平安の三蹟と称えられる藤原行成(972~1027)が
天皇の勅を奉じて筆を執り、元和5年(1619)に松花堂昭乗が行成筆跡の通りに書写しました。
「八」の字は二羽の鳩がデザインされています。
八幡神とされる誉田別命( ほんだわけのみこと)が国内を平定するときに、
水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いとされています。
また、男山にはかって、多くの鳩が住み、「鳩嶺(はとがみね)」とも呼ばれていました。
鳥居をくぐると参道の右側に放生池があります。
背後の山上に本殿があります。
参道の左側には筒井があります。
以前は井桁のみでしたが、寛延2年(1749)に「泉殿」が建てられたという記録が残っています。
筒井は、男山名水の一つで、八幡五水の中でも、一番の清水といわれましたが、今は...?。
筒井の先に北門があります。
頓宮殿
斎館
北門をくぐると周囲は回廊で囲われ、囲われた場所は「頓宮」と呼ばれています。
頓宮殿や回廊は慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで焼失し、
頓宮殿は大正4年(1915)に、回廊は昭和44年(1969)に再建されました。
頓宮殿の左側には斎館がありますが、鳥羽・伏見の戦いで焼失する前は
元慶2年(878)に創建された極楽寺がありました。
頓宮には普段は誰もいませんが、三大勅祭の一つである9月15日の石清水祭では、
本殿から3座の神霊が御鳳輦(ごほうれん=神輿)3基で頓宮殿まで降りてこられ、
ここで勅使により奉幣が捧げられます。
石清水祭の始まりは、貞観5年(863)の旧暦8月15日に宇佐神宮に倣った「石清水放生会」で、
生ける魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました。
御鳳輦は頓宮で一晩滞在されることから、頓宮周辺は「宿院」と呼ばれていました。
天暦2年(948)からは勅祭となりましたが、室町時代になると戦乱のため
度々延期されるようになり、文明年間(1469~87)以降は中絶しました。
江戸時代の延宝7年(1679)に200年ぶりに再興されましたが、明治の神仏分離令により
仏式で行われていた「石清水放生会」は明治元年(1868)年に「仲秋祭」、
同3年に「男山祭」と改称され、仏教色は一掃されました。
明治5年(1872)には神幸の儀が廃されて単に地方長官が奉幣使として
参向されることになりましたが、明治16年(1883)に明治天皇の旧儀復興の命により、
翌年から勅使参向が復活しました。
明治2年(1869)に「男山八幡宮」と改称されていた社号が「石清水八幡宮」に復したのに伴い、
「石清水祭」に改められました。
戦後、昭和20年(1945)に官制廃止により旧儀中絶となりましたが、
昭和24年(1949)に復興されました。
石清水祭は葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の一つで、15日午前2時に山上の
本殿にて御鳳輦(神輿)3基に3座の神霊を奉遷する儀式から始まります。
午前3時に約500人の神人と呼ばれるお供の列を従え、表参道を下ります。
午前8時に放生川にて魚や鳩が放たれ、午前9時には4人の童子による
「胡蝶の舞」が舞われます。
その日の夕刻に御鳳輦は山上へと還幸になります。
廻廊の西側にある黒門を出た所に全国最大規模の五輪塔があります。
但し、この門は通常閉まっていますので、一の鳥居前から
神應寺の方へ向かわないと行けません。
鎌倉時代の作で高さ約6m、地輪の一辺が2.4mあり、国の重要文化財に指定されています。
この石塔には刻銘が無く、造立の起源が不明なため、様々な伝説があります。
その①
摂津尼崎の商人が、中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、
その恩に報いるために建立されたと伝えられています。
航海の安全を祈って参詣されることから「航海記念塔」とも呼ばれています。
その②
亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたことから「忌明塔」とも呼ばれています。
その③
鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚。
その④
石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓。
どれが真実なのか?それとも別に答えがあるのかあるのか?解明は難しそうです。
お墓の歴史HPで五輪塔が解説されていましたので、引用します。
『■ 五輪塔は真言宗開祖「空海」によって考え出された墓塔とされている。
空海は、この宇宙は六つの構成要素から成り立つとした。
これを「六大体大」と呼ぶ。
「六大」とは「地・水・火・風・空・識」の六つの存在要素を指し、
このうち「地・水・火・風・空」の五つを「五大」といい、物質的な存在を表す。
「地」は大地であると同時に、固体を表す。
「水」は流れたり、移動したり、下降するもの、つまり水や液体を表す。
「火」は燃え上がり、上昇するものであり、「風」は動く気体を表す。
そして、「空」は空間を表している。
この「五大」に、精神的な存在である「識」が加わって「六大」となる。
「識」とは認識作用のことで、宇宙は物質だけでなく、そこに認識作用が加わって
はじめて存在するとされる。
空海は「識」のことを「智」とも「覚」とも「心」とも言っているが、
つまりは我々の精神活動を言っている。
また、全ての物質の形は宝珠・半円・三角・丸(玉)・四角の五つの相で成り立つとし、
これらを組み合わせることによって五輪塔の形を作り上げた。
また、人間も小宇宙であり、五大要素によって構成されているとし、
地輪(方形)=体
水輪(円形)=血液
火輪(三角形)=体温
風輪(半円形)=呼吸
空輪(宝珠形)=これらがうまく融合した状態のことであると説いている。
五大は人間の五体、つまり人を表し、大自然そのものを表している。
墓塔の五輪塔は、この宇宙観から生まれた。
墓石に「五大」の「地・水・火・風・空」を表し、宇宙=人間を表現する。
ここに「識」が加わってはじめて宇宙=人間が成り立つのである。
つまり、召還=お性根入れ=開眼法要を行うことによって、「六大」が完成するわけである。
新しく墓石を建立したとき開眼法要を行うのは、墓石に心=魂を入れることに外ならない。
そうしてみると、墓石には「魂」、「心」が宿っている訳であるから、
決して粗末には扱えない。』---引用はここまで。
五大思想は元来インドにあった思想で、五輪塔はインド思想を構築し直した密教が
日本に伝わり、平安時代後半頃から造立が始まったと考えられています。
頓宮の南門は昭和13年(1938)に山上本宮の南総門が新築されたのに伴い、
ここに移築されました。
本殿
南門をくぐった右側(西側)に摂社の高良神社があります。
高良神社は宇佐八幡宮から八幡大神を勧請した行教和尚が、貞観2年(860)に社殿を建立し
、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭神として祀ったと伝わります。
高良玉垂命は記紀にも登場しておらず、その正体は諸説あり、現在も定かではありません。
鳥居前の左側には男山名水の一つでもある藤井があります。
鳥居をくぐり石段を上った正面に拝殿があります。
拝殿の左側(南側)に聳えるタブの木は樹齢約700年で御神木とされています。
根回り約7.5m、樹高約24mの大きさがあります。
神社前には江戸時代後期の高良神社と宿院の図が描かれています。
かっての賑わいは『徒然草』「第52段」に記されています。
『昔、仁和寺の僧侶が年寄りになるまで石清水八幡宮に参拝したことがないのを
苦にしていて、ある日思い立って徒歩で一人石清水八幡宮へ向った。
男山山麓の極楽寺、高良神社を参拝して帰った。
京に帰って、同僚の僧に「長年の念願をやっと果たすことができました。
石清水八幡宮は、うわさに聞いていたよりずっと素晴らしく感動いたしました。
ところで、たくさんの人が山へ登るのを見ました。
行ってみたいという気持ちもありましたが、八幡宮の参拝が目的でしたから、
山には登りませんでした。」 と言った。
僧侶は、山上の本殿を拝むことなく帰ってしまったのです。
「どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した』という戒めが込められています。
当時の極楽寺も壮大な伽藍を持つ大寺院だったそうですが、
高良神社もまた慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで焼失しました。
現在の社殿は明治12年(1879)に再建され、地域の人々の氏神として、
毎年7月17日、18日に例祭が行われています。
高良神社太鼓まつり ※17日-宵宮 18日-本宮 18日19時頃-宮入り
参道を進んだ左側に「く」の字のように見える「頼朝松」があり、
その背後に見える石段は裏参道です。
建久6年(1195)、東大寺の大仏殿落慶供養に参列するため上洛した源頼朝は、
石清水八幡宮を参拝し、持参した6本の松の苗木を境内に植えたと伝えられています。
昭和の初めまで、1本がかろうじて生き残っていたですが、
昭和22年(1947)に落雷によって焼失しました。
現在の松は、昭和30年(1955)に奉納されたものです。
頼朝松から石畳の車道を横切った所に放生川が流れ、安居(あんご)橋が架かっています。
この橋は、石清水祭の放生会の舞台になります。
表参道から本殿へ向かいます。
続く
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