寺号標
平安時代、第3代天台座主・慈覚大師円仁はこの地に天台声明の道場を開きました。
その後、勝林院が建立され、付近一帯は
「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
以来、この地には多くの念仏修行者が住みつくようになり、
貴人が都の喧騒を離れて隠棲する所ともなりました。
大原の三千院は、大原寺の管理と念仏行者を取り締まりを行う、
梶井門跡の政所(まんどころ)が起源です。

そもそも、三千院の始まりは延暦年間(782~806)で、延暦寺を開いた伝教大師最澄
が、東塔南谷の梨の大木の下に創建した「円融房」とされています。
貞観2年(860)に承雲和尚はその地に最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、
「円融院」と称し、東坂本の梶井に里坊を建立しました。
元永元年(1118)に第73代・堀河天皇の皇子である最雲法親王が、
円融院に皇室子弟として初めて入り、梶井門跡となりました。
保元元年(1156)、最雲法親王は第49代天台座主に就任し、
大原の地に現在の三千院となる政所を建立しました。

貞永元年(1232)に坂本の梶井門跡が焼失し、京都市内に移転されました。
その後も市内で移転を繰り返し、元弘元年/元徳3年(1331)に
船岡山の東麓で定着しました。
かって、その地には第53代・淳和天皇の離宮があり、第54代・仁明天皇の
第七皇子・常康親王(つねやすしんのう)に引き継がれ、
承和11年(844)には「雲林院」と称されていました。
貞観11年(869)に親王は遍昭に雲林院を譲渡し、遍昭は雲林院の別当を兼ね、
雲林院を天台宗の修行場としましたが、鎌倉時代になると次第に衰微しました。
その跡地に梶井門跡が移転しました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、梶井門跡を継いだ
第93代・後伏見天皇の第4皇子・尊胤法親王(そんいんほうしんのう)は、
梶井門跡の本坊を大原の政所に移しました。

江戸時代になり、第3代将軍・徳川綱吉は、時の梶井門跡であった
慈胤法親王(じいんほっしんのう)が三度にわたり天台座主を務めたこと称え、
元禄11年(1698)に現在の京都府立医大がある辺りの公家町に寺地を与えました。
明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して梨本宮家を起こし、
公家町の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に遷されました。
明治4年(1871)に大原の政所が本坊と定められ、梶井門跡の持仏堂の名称
「一念三千院」から「三千院」と改称されました。
「一念三千」とは、一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずることで、
中国天台宗の開祖である天台大師・智顗(ちぎ)が創案したとされ、
天台宗の観法であり、また根本教理となっています。

石垣
参道沿いの石垣は、築城で名高い坂本の穴太衆(あのうしゅう)によるものです。
御殿門
御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である
政所の入口にふさわしい城郭を思わせる重厚な門構えになっています。
勅使玄関
門をくぐった正面には客殿の勅使玄関がありますが、現在は生垣で隠されています。
生垣沿いに左へ進むと参拝入口があり、その前から玄関を見ることが出来ます。
庫裡
庫裡に拝観受付があり700円を納め、参拝入口から入ると、
順路は廊下を玄関の方へ向かいます。
坪庭
廊下の脇に坪庭があります。
聚碧園-傾斜地-1
客殿は平安時代には龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所でした。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に、豊臣秀吉による宮中修復の際、
紫宸殿の余材が利用されて修復され、その後大正元年(1912)にも
補修が施されています。
明治39年(1906)の客殿各室には、当時の京都画壇を代表する画家たちの
襖絵が奉納されていました。
当時若い世代であった竹内栖鳳菊池芳文や重鎮であった望月玉泉今尾景年
鈴木松年によって描かれましたが、現在は宝物館である円融蔵に所蔵されています。
聚碧園-傾斜地
客殿の庭園は「聚碧園(しゅうへきえん)」と称される池泉観賞式庭園で、
江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ・1584~1656)による修築と伝わり、
京都市の名勝に指定されています。
東部は自然の傾斜地を利用して作庭されています。
聚碧園-池
西部は円形とひょうたん形の池泉が結ばれ石橋が架けられています。
背後の渡り廊下は円融房へと結ばれています。
宸殿
客殿から東の廊下の階段を登ると、門跡寺院にしか見られない宸殿があります。
宸殿は三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を
執り行うために、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建立されました。
御懴法講は平安時代の保元2年(1157)、後白河法皇が宮中の仁寿殿に於いて
始められた宮中伝統の法要で、江戸末期までは宮中で行われていたため、
「宮中御懴法講」と呼ばれていました。
懺法とは知らず知らずのうちにつくった悪い行いを懺悔して、心の中にある
「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒をとり除き、心を静め清らかにするもので、
天台宗のなかでも最も大切な法要儀式とされています。
明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶え、その後
明治31年(1898)に明治天皇の母・英照皇太后の一周忌に際し復興されました。
昭和54年(1979)に明治天皇70回忌法要が営まれてからは、
毎年5月30日に行われています。
宸殿の東の間には玉座があり、下村観山の大きな虹が描かれた
襖絵があることから「虹の間」とも呼ばれています。
宸殿の本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来ですが秘仏とされています。
持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額「三千院」は
宸殿に掲げられていますが、撮影は禁止されています。
有清園
宸殿から往生極楽院を望む庭園は「有清園(ゆうせいえん)」と呼ばれ、
京都市の名勝に指定されています。
江戸時代に作庭されとされ、中国の六朝時代を代表する
詩人・謝霊運(しゃれいうん・385~433)の
「山水清音有(山水に清音有り」より命名されました。
瑠璃光庭園-地蔵像
庭園内には地蔵菩薩の石像が祀られています。
往生極楽院
往生極楽院は、平安時代末期から大原の地にあった阿弥陀堂であり、
通称で「極楽院」と呼ばれていました。
寺伝では恵心僧都源信が父母の菩提を弔うため、姉の安養尼と共に建立したと
伝えられていましたが、吉田経房の日記「吉記」の記述から、久安4年(1148)に
建立されたことが明らかとなりました。
吉記には、高松中納言・藤原実衡(さねひら)の妻である
真如房尼(しんにょぼうに)が、
亡き夫の菩提を弔うために建立したと記されています。
江戸時代の元和2年(1616)と寛文8年(1668)に大幅な修理が施されるとともに
向拝が付けられ、現在の姿となりました。
明治4年(1871)、三千院が大原の地に移転されてから境内に取り入れられ、
明治18年(1885)に「往生極楽院」と改称されました。
現在の建物は、国の重要文化財に指定されています。

堂内には平安時代作で国宝に指定されている阿弥陀三尊像が安置されています。
中尊の阿弥陀如来坐像は像高2.3mあり、
堂内の天井を舟底形にくりぬかれて安置されています。
天井には現在は肉眼では判り難いですが、
極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれています。
再現したものが円融蔵で展示されています。

向かって右側に像高131.8cmの観世音菩薩、左側に像高130.9cmの勢至菩薩坐像が
安置され、共に「大和座り」と呼ばれる前かがみの座り方をしています。
寺伝では恵心僧都源信の作とされていましたが、勢至菩薩の胎内から
墨書銘が発見され、久安4年(1148)に造立されたことが判明しました。
足のつま先を立て、衆生救済のためにいつでもすぐに立ち上がる
姿勢を表しています。
わらべ地蔵
庭園に祀られている「わらべ地蔵」は、石彫刻家の杉村孝氏の作によるものです。
弁天池
往生極楽院の東側に弁天池があります。
弁天池-滝
「細波(さざなみ)の滝」と呼ばれる三段式の滝からの流れが注いでいます。
弁天池-島
池には鶴島、亀島があります。
延命水
この水は「延命水」と呼ばれています。
朱雀門-内側
往生極楽院の正面には「朱雀門」があります。
常時閉じられていますが、本来は正門です。
江戸時代に再建された鎌倉様式の四脚門で、
東福寺の月華門を模したとされています。
弁天像-鳥居への石段
有清園から石段を登ります。
弁天像-鳥居
鳥居を挟んで右の石段を登れば金色不動堂、左は紫陽花苑へ至ります。
弁天像
妙音福寿大弁財天像と宇賀神が祀られています。

左の紫陽花苑へと進みますが、手入れ中だったため画像はありません。
数千株の紫陽花が植えられ、6月中旬~下旬が見頃となります。
売炭翁石仏への橋
紫陽花苑に沿って北へ進むと朱塗りの橋があります。
律川
この川は「律川(りつせん)」と呼ばれ、三千院の境内は境内南を流れる
「呂川(りょせん)」との2つの川に挟まれ、
呂川・律川の名は声明の音律の「呂」と「律」に由来しています。
売炭翁石仏
橋を渡った所に鎌倉時代作で像高2.25mの阿弥陀如来石仏が祀られています。
売炭翁石仏-2
また、この場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた
「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、
「売炭翁石仏」とも呼ばれています。
おさな六地蔵-1猫
川の上流沿いに「おさな六地蔵」が祀られています。
六地蔵の全ての画像はありませんが、表情が豊かと感じたものを掲載します。
猫を抱いていることから「猫地蔵」とも呼ばれています。
おさな六地蔵-2
おさな六地蔵-2
おさな六地蔵-3鳥
おさな六地蔵-3
鳥を頭に乗せた「鳥地蔵」と勝手に命名しますが、鳥が乗っていることさえ
感じずに精神統一された境地に入っている姿が表されているのかもしれません。
おさな六地蔵-4
おさな六地蔵-4
おさな六地蔵-二躯
おさな六地蔵ではありませんが、その並びに祀られていた二体の地蔵尊。
金色不動堂
橋から戻り石段を登ると金色不動堂の裏側に出ます。
護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)4月に建立されました。
本尊は智証大師・円珍作と伝わる像高97cmの金色不動明王立像で、
重要文化財に指定されていますが秘仏です。
毎年4月に行われる不動大祭期間中の約1ヶ月間に開扉されます。
金色不動堂-納経所
また、近畿三十六不動尊霊場・第16番札所の本尊でもあり、納経所もあります。
その横には無料休憩所があり、お茶の接待を受けられます。
起き上がり小法師
納経所では起き上がり小法師が多数奉納されています。
宝篋印塔-写経塚
金色不動堂から観音堂への石段の脇に宝篋印塔があり、
「写経塔」と刻まれています。
草木供養塔
その右側には草木供養塔があります。
観音堂への石段
観音堂への石段
観音堂
観音堂は平成10年(1998)に建立されました。
観音堂-堂内
堂内には像高3mの金色に輝く観音像が安置されています。
小観音堂
右側に小観音堂があります。
小観音像
小観音堂には小さな観音像が多数奉納されています。
茶室
境内には茶室もあります。
慈眼の庭-1
北側には平成10年(1998)に作庭された二十五菩薩慈眼の庭があります。
慈眼の庭-2
補陀洛浄土を模して二十五の石が菩薩に見立てて配されています。
観音菩薩
補陀落は観音菩薩が降臨する霊場とされています。
帰り口の門
弁天像の鳥居へ下り、朱雀門の前を通り、西側の門を出ます。
円融房
門を出て下ると円融房の横に出ます。
現在の円融房は、最澄の創建時のものと異なり、コンクリート造りの建物です。
現在では修行道場や写経場として使われているようです。
円融蔵
円融房の向かいに宝物館の円融蔵があります。
往生極楽院の舟底形天井が原寸大に復元され、、
天井画が創建当時の顔料で極彩色で描かれています。
鎌倉時代の寛元4年(1246)作の救世観音半跏像は、四天王寺の当初の
本尊像を模したものとされ、かって、三千院門主が四天王寺の別当を
兼ねていたことから、三千院に伝えられていると考えられています。
鎌倉時代作の不動明王立像も安置されており、救世観音半跏像と共に
国の重要文化財に指定されています。
納経所
円融蔵に併設して納経所があります。
三千院は、神仏霊場巡礼の道・第106番、
西国薬師四十九霊場・第45番、近畿三十六不動尊霊場・第16番、
京の七福神めぐり(弁財天)の各札所となっています。
呂川
御殿門を出て、三千院の南側を流れる呂川(りょせん)に沿って登ります。
円融房前の門
円融房前の門があります。
朱雀門
その先には「朱雀門」があります。
勝手神社-鳥居
更に登ると左側に勝手神社への参道があります。
勝手神社-橋
参道を進むと律川(りつせん)に架かる勝手大橋があります。
勝手神社
橋を渡った先に勝手神社があり、勝手明神が祀られています。
勝手神社は、来迎院、三千院、勝林院などで行われる声明の鎮守社として
吉野の勝手神社を勧請して創建されました。

呂川沿いの参道まで戻り、更に登って来迎院へ向かいます。
続く

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