タグ:三善清行

一の鳥居
堀川通を今出川通から南下した西側に晴明神社の一の鳥居が建立されています。
一の鳥居-扁額
鳥居に掛る扁額には神紋の晴明桔梗印が掲げられています。
神紋の五芒星(ごぼうせい)は、桔梗の花を図案化したもので、
陰陽道では魔除けの呪符として伝えられています。
しかし、意味するものは難解で、詳細は割愛します。

かって、この地には安倍晴明の屋敷があり、晴明は平安京・内裏の鬼門を
封じるために屋敷を設けたと伝わります。
創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、
南は中立売通に至る広大なものでした。
一条戻橋の欄干
鳥居をくぐった左側に一条戻橋の欄干の親柱が境内に移され、
橋が再現されています。
この親柱は大正11年(1922)から平成7年(1995)まで
実際に使用されていたものです。

橋の脇には式神の石像が置かれていますが、式神は本来は人の眼には見えないそうです。
安倍晴明は式神十二体を自由に操り、
日常は一条戻橋の下に封じ込めていたと伝わります。
二の鳥居
参道を進み葭屋町通(よしやまちどおり)を横断した所に、
二の鳥居が建立されています。
鳥居に掛る社号額は、安政元年(1854)に土御門晴雄(1827~1869)により奉納されたものを
忠実に再現し、平成29年(2017)に新調されました。
晴明の14代目の子孫で陰陽師の安倍有世(あべ の ありよ:1327~1405)から、
本姓ではなく家名を名乗るようになり、土御門家の初代とされています。
土御門晴雄は、明治新政府で編暦・頒暦といった暦の権限のみならず、
測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握する事に成功しました。
しかし、新政府に天文や測量は科学の礎でありまた陸海軍の円滑な運営にも欠かせない
という正確な認識が広まり、明治3年(1870)に陰陽寮は解体されました。
土御門晴雄は、陰陽道としての土御門家の最後の当主となりました。
晴明井
二の鳥居をくぐった右側に晴明井があり、
安倍晴明の念力により湧き出たとされています。

画像は撮り忘れましたが、かってこの地に千利休の屋敷があったとされ、
晴明神社の一角に千利休屋敷跡の碑が建立されています。
千利休は晴明井の水を茶の湯に使用していたとされ、
豊臣秀吉もその茶を服したと伝わります。

井戸の上部には五芒星が刻まれた石が設置され、
星型の頂点の一つには取水口があります。
取水口の方向はその歳の恵方を向いており、恵方は毎年変わるため、
立春の日に上部の石を回転させ、その年の恵方に合わせます。
本殿-1
正面に本殿があり、現在の本殿は、明治38年に建てられました。
晴明神社は平安時代の寛弘4年(1007)に創建されました。
寛弘2年(1005)、安倍晴明が亡くなると第66代・一条天皇(在位:986~1011)は、
晴明の遺業を賛え、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。
本殿-2
室町時代、応仁・文明の乱(1467~1477)で社殿は焼失し、更に安土・桃山時代には
豊臣秀吉による都市改造により社地は縮小され、古書、宝物なども散逸し、
社殿も荒れたままの時代が続きました。
幕末の嘉永6年(1853)以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、
昭和25年(1950)には堀川通に面するように境内地が拡張されました。
齋稲荷社-1
本殿の右側には末社・齋稲荷社(いつきいなりしゃ)、天満社、地主社があります。
齋稲荷社-2
齋稲荷社の齋とは、賀茂神社に仕える齋王が籠る場所である
齋院(さいいん)にあったことに由来します。
また、晴明は稲荷神の生まれ変わりとする説もあります。
晴明像
本殿の前に安倍晴明の像が建立されています。
晴明神社に保存されている肖像画を元に作成され、衣の下で印を結び、
夜空の星を見て天体を観測している姿を表しています。

安倍晴明は延喜21年(921)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた
とされていますが、安倍文殊院では当地が生誕の地としています。
幼くして京都に移り、陰陽師・賀茂忠行保憲父子に陰陽道を学び、
天文道を伝授されたと伝わります。
第61代・朱雀天皇の信を得て仕えると、第62代・村上天皇の時代には、
天徳4年(960)に40歳で陰陽寮に所属し、天文博士から天文道を
学ぶ学生の職である天文得業生となり、50歳の頃天文博士となりました。
天元2年(979)、59歳の晴明は当時の皇太子・師貞親王
(もろさだしんのう=後の第65代・花山天皇)の命で那智山の天狗を
封ずる儀式を行いました。
熊野古道・大門坂の上部には、花山天皇にお供した安倍晴明が庵を結び、
その庵の近くにあった「晴明橋」の石材が残されています。

小右記』によると、正暦4年(993)、第66代・一条天皇が急な病に伏せった折、
晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため
正五位上に叙されたと記されています。
また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004)には深刻な干魃が続いたため、
晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ、雨が降り、一条天皇は
晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されています。

晴明の2人の息子・安倍吉昌(955?~1019)と安倍吉平(954?~1027)が
天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明の師家である賀茂氏と
並ぶ陰陽道の家としての地位を確立しました。
晴明の死後、早くも神格化され、歴史物語の『大鏡』『十訓抄』や説話集の
今昔物語集』『宇治拾遺物語』はいくつかの晴明に関する
神秘的な逸話が掲載されています。
厄除桃
社殿前の右側には「厄除桃」の像があり、桃を撫でることによって
身を清めるとされています。

古くから桃には邪気を祓う力があると考えられ、『古事記』では、
伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、
黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた。
伊弉諸尊はその功を称え、桃に「大神実命(おおかむづみのみこと)」の名を
与えたと記されています。
御神木
「厄除桃」の前に、樹齢約300年とされる御神木の楠が葉を繁らせています。
一条戻橋
晴明神社前の堀川通を神社から約100m南に進んだ所に一条戻橋が架かっています。
現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられたもので、
橋の長さも幅も拡げられました。
一条戻橋の下-上流
橋の上流の方には、かっての橋の面影が残されているような気がします。

「戻橋」と呼ばれるようになった伝承が残されています。
延喜18年(918)に漢学者・三善清行(みよしきよつら)が亡くなった際、
熊野で修行中の子・浄蔵は父の死を聞いて急ぎ帰り、
この橋の上で葬列に追い付きました。
棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、
父子が抱き合ったとの伝説から「戻橋」と名付けられました。

『平家物語』剣巻では、源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が、
夜中に戻橋の東詰を通りかかると、美しい女性から、
「夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしい」と頼まれました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、
それを引き受け馬に乗せました。
すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へと
飛び立ちました。
綱は鬼の腕を太刀で切り落とし、北野社の回廊に落ちて屋根は破れましたが
命は救われました。
切り落とした腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたのですが、
綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。
また、北野天満宮には渡辺綱が寄進したと伝わる石灯籠が、
現在でも残されています。
一条戻橋の下-2
戻橋の下には安倍晴明によって封じ込められた12名の式神が住みつき、
その式神が橋占を行う名所でもありました。
源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院の出産の際、
その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行いました。
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子
(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったとされ、その予言が正しければ、
僅か8歳で壇ノ浦に入水した悲惨なものだったと思われます。

戻橋には嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来ては
いけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があり、
逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願って
この橋に渡りに来ることがありました。
御成橋
一条戻橋の下流には中立売通に、明治6年(1873)に架け替えられた
堀川第一橋が架かっています。
江戸時代には「御成橋」と呼ばれ、天皇の行幸路になっていました。

一条通を東へ進み、その先の油小路通を北上して、今出川通との角にある
白峯神宮へ向かいます。
続く
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鳥居
「天王町」の交差点の西、北側に岡崎神社があります。
延暦13年(794)に第50代・桓武天皇は長岡京から平安京に遷都した際、
王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つとされています。
疫病神を鎮めるために牛頭天王が祀られ、都の東(卯の方位)に鎮座することから
「東天王社」と称されていました。

弘仁年間(810~824)に焼失し、貞観11年(869)に第56代・清和天皇は、
姫路市の廣峯神社から祭神を勧請し、改めて社殿を造営されました。
元慶年間(877~885)に清和天皇の皇太后・藤原高子(ふじわら の こうし/たかいこ:
842~910)の発願により、境内に東光寺が創建され、
東天王社はその鎮守社となりました。
延喜5年(905)に東光寺は勅願寺となり、東天王社は東光寺と一体になって栄えました。
祖霊社
鳥居をくぐった左側に有る石段を登ると、奥に祖霊社があり、
手前にも小さな祠がありますが、詳細は不明です。
不明な祠-龍の彫り物
社殿には龍の彫り物が見られ、岡崎神社がかって
「龍神さん」と呼ばれていたことに関係があるのかもしれません。
絵馬殿
北側に絵馬舎があります。
絵馬
掲げられている絵馬。
三宮社-1
その北側には三宮社があります。
三宮社-2
仙洞御所の苑中に祀られていましたが、宝永5年(1708)3月8日の大火で御所は焼失し、
宝永7年(1710)に当地へ遷座されました。
倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、蛭子大神、大国主大神(大黒神)が祀られ、
商売繁盛の神として信仰を集めています。
狛兎
参道へ戻ると、狛犬では無く、狛兎が境内を守護しています。
岡崎神社は御所の東(卯の方位)にあることから、
兎がシンボルとされていると思われます。
兎は多産であることから神社では子授けや安産祈願のお守りとされています。
能舞台
坂を登ると右側に能舞台があります。
能舞台-老松図
舞台の老松図は神坂雪佳(かみさか せっか:1866~1942)の筆とされています。
三善清行
能舞台は三善清行(みよし の きよゆき/きよつら:847~919)の
邸宅址に建てられました。
三善清行は平安時代前期の公卿・漢学者で、右大臣・菅原道真に引退を勧告し、
道真自身も第59代・宇多天皇に学業に専念したいと上申していました。
しかし、宇多天皇から却下され、やがて昌泰4年(901)に昌泰の変が発生しました。
清行は順調に昇進し、延喜18年(918)に72歳で逝去されました。
本殿前
本殿の前
狛犬と狛兎
狛犬と狛兎
本殿-1
治承2年(1178)に、第80代・高倉天皇の中宮・徳子の安産祈願の幣帛を
賜ったことにより、安産の神として信仰されるようになりました。
文保3年/元応元年(1319)には、第96代/南朝初代・後醍醐天皇により社殿が再建され、
正一位の神階と神宝を賜わりました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で東光寺は焼失し、廃寺となりましたが、
東天王社は焼失を免れました。
慶応年間(1865~1868)に「岡崎神社」と改称されました。
招き兎
「招き猫」ならぬ「招き兎」
本殿-2
祭神は速素盞鳴尊(すさのをのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)と
三女五男の八柱御子神(やはしらのみこがみ)です。

高天原を追放され、出雲に降り立った速素盞鳴尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)の
生贄にされそうになっていた奇稲田姫命と出会いました。
美しい奇稲田姫命が愛しくなった速素盞鳴尊は、
奇稲田姫命との結婚を条件に八岐大蛇の退治することにしました。
速素盞鳴尊の神通力によって奇稲田姫命は湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に姿を変えられ、
その櫛を髪に挿した速素盞鳴尊は、「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」を
用いて八岐大蛇を退治しました。
八岐大蛇の尾から出てきた草那藝之大刀(くさなぎのたち)を天照御大神に献上し、
それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなりました。
二神は結ばれ、現在の須我神社(すがじんじゃ)の地に宮殿を建てて移り住み、
三女五男の八柱御子神を儲けました。
また、須我の地で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣作る 
その八重垣を」と詠み、これが日本初の和歌とされています。
神饌所
本殿の左右には神饌所と思われる建物があります。
結婚式場
右側の奥には結婚式場があります。
子授けうさぎ像
本殿右側の手水舎には、黒御影石で造られた「子授けうさぎ像」が祀られています。
月を仰ぎ体に力を満たしたうさぎであり、水を掛けてお腹を擦り祈願すると、
子宝に恵まれ安産になると信仰を集めています。
神輿庫
その右側に神輿庫があります。
毎年10月16日に氏子大祭が行われ、先頭には旧二条城にあったと伝わる
直径6尺(約1.8m)の大樽太鼓を牛に牽かせます。
その後ろを11基の振鉾と神輿が続き氏子町を練り歩きます。
かっては、神輿にウコンや錦の腹帯が巻かれて巡幸し、安産祈願が行われていました。
雨社
その右側に雨社があります。
かって、如意々岳(大文字山)の山中の石祠に鎮座していましたが、
大正6年(1917)に当地へ遷座されました。
大山祇命(おおやまつみのみこと)・国挟槌尊(くにさつちのみこと)・
豊宇気媛命(とようけひめのみこと)・闇象女命(みづはのめのみこと)が
祀られています。
岡崎別院
岡崎神社の左側に東本願寺の岡崎別院がありますが、現在は工事中で
参拝は断念しました。
山門前には「親鸞聖人御草庵遺蹟」の碑が建っています。
親鸞聖人は、承安3年(1173)に現在の京都市伏見区日野で生まれ、
9歳であった治承5年(1181)に青蓮院で得度しました。
その後、1年余りの間北山別院で修学して比叡山へ登り、
横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、
天台宗の堂僧として不断念仏の修行を行いました。
20年間修行しましたが、自力修行の限界を感じました。
聖徳太子を敬っていた聖人は、29歳の建仁元年(1201)の春頃、
太子建立の六角堂へ百日参籠を行いました。
聖人は95日目の暁に、聖徳太子化身の救世観音菩薩から夢告を受けたとされています。
その夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある
法然聖人が住していた吉水草庵を訪ね、この地で草庵を結び、
百日にわたり法然聖人の元へ通い、そして法然聖人の弟子となりました。

岡崎神社と岡崎別院の間を登れば金戒光明寺ですが、
聖護院からの通りへ戻り、高麗門から金戒光明寺へ参拝します。
続く
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