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寺号標
船岡山の西側に千本通りに面して上品蓮台寺があります。
山号を蓮華金宝山、院号を九品三昧院(くぼんさんまいいん)と号する
真言宗智山派の寺院です。
寺伝によれば、飛鳥時代に聖徳太子が母の菩提寺として創建され、
平安時代に宇多法皇により中興されたと伝わります。
一方で、『日本紀略』の天徳4年(960)9月9日の条に「寛空が北山に一堂を建立し、
亡き父母の供養をした」とあり、
これが実質的な上品蓮台寺の創建と推測されています。
かって、平野神社の西付近に第62代・村上天皇の御願により創建された
香隆寺(こうりゅうじ)があり、寛空が兼帯していたため、
上品蓮台寺は一時「香隆寺」と呼ばれていました。
香隆寺はその後荒廃し、上品蓮台寺に併合されました。

その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文禄年間(1592~1596)に
豊臣秀吉の援助を受けた根来寺の性盛(しょうせい)による復興され、
真言宗智山派に改宗されました。
住所
千本通りを挟んだ東西に12の塔頭が建立されて「十二坊」と呼ばれるようになり、
町名として残されていますが、現在は「北区紫野十二坊町」です。
江戸時代には洛陽四十八願所霊場の一ヵ所となりましたが、江戸幕府或いは明治政府の
上知令(じょうちれい/あげちれい)により、多くの寺領が失われ、
塔頭も3院を残すのみとなりました。
通用門-1
北側に通用の門があります。
かって、京都には五つの葬送地があり、
「五三昧(ごさんまい)」と呼ばれていました。
鳥辺野(とりべの)、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)の三大風葬地の他に
東寺の西側に狐塚(きつねづか)、現在は「さいいん」と呼ばれる
西院(さいん)です。
上品蓮台寺は、蓮台野への葬送菩提の寺として栄えました。
通用門-2
院号の「九品(くほん)」は、浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表し、
人の往生には上品・中品・下品があるとしています。
更にそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、
上品上生(じょうぼんじょうしょう)では、来迎に導かれ、
阿弥陀如来の浄土に往生できるとされています。
また、下品下生は、五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者
とされています。
札
門には歓喜天の修法である「浴油供(よくゆく)」が修されたことなどが
記されています。
一般の寺院では、ほとんど見かけることはありませんが、
かっては、普通にこのように掲げられていたのでしょうか?
書院
上品蓮台寺は、観光寺院ではありませんので、建物の説明を記した駒札などが
ほとんど立っていませんので詳細は不明です。

門をくぐった正面は書院だと思われます。
庫裡
北側には庫裡があります。
井戸
南側に井戸があります。
手水鉢
現在では使用されていませんが、手水鉢が併設されています。
本堂
更に南へ進むと本堂があります。
本尊は延命地蔵菩薩です。
清凉寺の釈迦如来像は、一時期、上品蓮台寺に安置されていました。
清凉寺の釈迦如来像は、インド・コーシャンビー国の国王・優填王(うでんおう)が
栴檀(せんだん)の木で等身大の釈尊の立像を造らせたものです。
その像が中国に伝わり、開元寺に安置されていました。
永観元年(983)に宋に渡った奝然(ちょうねん:932~1016)は、
開元寺に安置されていた像を、現地の仏師に依頼してその像を模刻させ、
日本に持ち帰りました。
永延元年(987)に帰国した奝然は、愛宕山を中国の五台山に見立て、
この地にその像を安置する寺の建立を意図したのですが、延暦寺に反対され、
実現できず、上品蓮台寺に安置されるようになりました。
長和5年(1016)に奝然が入滅し、奝然に随持して入宋した弟子の盛算
(じょうさん)が、奝然の遺志を継ぎ、清涼寺を創建し、
像は清涼寺へ遷されました。
定朝の墓
本堂の裏側に墓地があり、その入口に仏師・定朝の墓があります。
定朝は、平安時代後期に活躍した仏師で、寄木造技法の完成者とされています。
治安2年(1022)に藤原道長が創建した法成寺金堂・五大堂の造仏の功績により、
仏師として初めて法橋(ほっきょう)の僧位が与えられました。
「定朝様」と呼ばれる柔和で優美な造形を確立し、
平安貴族からは「仏の本様」と讃えられました。
後に、息子の覚助からは院派慶派、弟子の長勢からは円派が生まれました。
寶泉院
本堂から南へ下った所に塔頭の寶泉院(ほうせんいん)があります。
鐘楼
寶泉院から戻ると、上品蓮台寺の境内の南東角に鐘楼があります。
大師堂
鐘楼の北側に大師堂があります。
大師堂-扁額
大師堂の扁額。
修行大師像
大師堂の北側には修行大師像が祀られています。
聖天堂-鳥居
庫裡の北側に聖天堂の鳥居が建っています。
聖天堂
鳥居をくぐった正面には聖天堂があり、歓喜天が祀られています。
歓喜天の浴油供は秘法の中でも最上の祈祷法とされています。
歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、
ガネーシャの父はヒンズー教最高神の一柱・シヴァとされています。
ガネーシャは、難羅山に陣取って魔神として暴れ回り、他の神々から憎まれ、
毒物を喰らわされ苦しんでいました。
それを見た十一面観音ががこれを哀れみ、ガネーシャに仏法に帰依する事を
誓わせ、その山中にある油の池に連れて行きました。
十一面観音は、油を加持してガネーシャの頭より灌がれたところ、
ガネーシャの悪い毒物が除かれ、善神となりました。
十一面観音と力を合わせて世の中の苦しんでいる人々を救う誓願を立てられ、
その二人の姿が「歓喜双身天」になったとされています。
このことから、浴油供が最上の祈祷方法となりました。
また、歓喜天が象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」との説があります。
大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、
除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。
祠
聖天堂の手前には小さな祠が並んでいますが詳細は不明です。
参道
参道を北へ進むと門があります。
真言院-門
門には塔頭の真言院と記されていますが、境内に建物は見当たりません。
阿刀氏塔
墓地があります。
五輪塔は「阿刀氏(あとし)塔」と呼ばれています。
空海の母は、阿刀宿禰(あとのすくね)の娘で、その兄か弟に
阿刀大足(あとのおおたり)がいました。
延暦7年(788)に空海は阿刀大足を頼って平城京が置かれた奈良に行き、
大足から論語・孝経・史伝・文章などの個人指導を受けました。
空海は延暦11年(792)に大学寮に入り、延暦23年(804)には大足の援助を得て
第18次遣唐使の学問僧として唐に渡りました。
大足は平安京遷都に伴って京都に移り住み、伊予親王に学問を教授していたとされ、
大同2年(807)に起こった伊予親王の変に連座して失脚したとみられています。
この塔は阿刀氏供養のため建立されたと推察されます。
頼光塚
墓地の北西隅に源頼光朝臣(みなもと の らいこう あそん)塚があります。
『平家物語』「剣巻(つるぎのまき)」を要約すると
以下のようなことが記されています。
『平安時代の中頃、頼光の父・源満仲は、筑紫国三笠郡土山に住んでいる
鍛冶職人の男を呼び寄せ、名刀を造るように命じました。
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈り、二振りの刀を鍛え上げました。
満仲が刀の切れ味を罪人を使って試したところ、罪人の髭まで切れてしまい、
その刀を「髭切(ひげきり)」と命名しました。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、
「膝丸(ひさまる)」と命名しました。
二振りの刀は頼光に与えられ、「膝丸」を頼光が持ち、
「髭切」は頼光に仕えていた四天王の随一・渡辺綱に与えられました。
渡辺綱が馬に乗り、一条堀川の戻り橋を渡ったときに若い美女から自宅まで
送ってほしいと頼まれて馬に乗せましたが、その美女は鬼に姿を変え渡辺綱に
襲い掛かりました。
渡辺綱は鬼の手を「髭切」で切り落として命を長らえ、
以後、「髭切」は「鬼丸」に改名されました。

また、頼光は瘧(おこり=熱病)で苦しんでいた時に怪しい法師が現れ
膝丸で斬りつけました。
しかし、法師は逃げて、頼光が四天王と共に後を追いました。
北野の裏に大きな塚があり、その塚の中に大きな土蜘蛛が逃げ込んでいました。
頼光と四天王は土蜘蛛を捕え、鉄の串に刺して河原に立てて曝しました。
頼光の病は癒え、以後「膝丸」は「蜘蛛切」に改められました。
一説ではその土蜘蛛を埋めた「蜘蛛塚」とも伝わります。

花山天皇陵へ向かいます。
続く

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本堂
千本通りを北上して、「千本寺之内」の信号の次にある信号の左側に、
引接寺(いんじょうじ)があります。
引接寺は、山号を「光明山」、正式な寺号を「歓喜院引接寺」と号する
高野山真言宗の寺院です。
かって、引接寺の北、船岡山の北西から紙屋川にかけての地区は
「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、化野(あだしの)、
鳥辺野(とりべの)と共に京都の三大風葬地の一つでした。
現在の千本通りは、蓮台野へ死者を運ぶ道であり、
通りに沿って千本の卒塔婆が立てられていたことに由来します。
「引接」とは、仏が衆生を浄土に往生させるとの意味があり、
引接寺で引導を渡され、蓮台野へ運ばれたと思われます。

引接寺は寺伝では、小野 篁(おの の たかむら:802~853)が、閻魔大王から
現世浄化のため、亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の
法儀を授かり、自ら閻魔大王の像を刻んで祠に安置したのが始まりとされています。
寛仁元年(1017)に恵心僧都・源信の門弟・定覚上人が、
「光明山歓喜院引接寺」として開山し、「諸人化導引接仏道」の道場としました。
毎年、春のゴールデンウィーク中に公演される「大念仏狂言」は、定覚上人が
布教のために始めた「大念仏法会」が起源とされています。
応永13年(1406)に第100代(北朝第6代)・後小松天皇が、北山山荘への行幸の際に
立ち寄られ、普賢象桜を分け与えたと伝わり、
引接寺は花見で賑わうようになりました。
3代将軍・足利義満は桜の開花に合わせて狂言を行うようにと
米50石を寄進しています。
大念仏狂言は昭和39年(1964)に後継者不足から中断し、昭和49年(1974)には
不審火により狂言堂が全焼しましたが、狂言面は庫裡で保管され、被害を免れました。
翌年、千本ゑんま堂大念仏狂言保存会が結成されて稽古を再開し、
その翌年には大念仏狂言の公演が再開されて今日に至っています。

本尊の閻魔大王は、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
長享2年(1488)に仏師・定勢によって造像されました。
像高・横幅ともに2.4mで、脇侍として右に判決文を記録する司録(しろく)と
左に罪状を読み上げる司命(しみょう)像が安置されています。
昭和52年(1977)の火災で一部が損傷し、平成18年(2006)に仏師・今村宗圓が
境内のイチョウの木で修復しています。

閻魔大王の湯呑茶碗「萬倍碗(まんばいわん)」に賽銭を投げ入れると、
1万日参拝したのと同じ功徳があるとされています。

堂内の壁画は「閻魔王庁の図」は狩野元信の筆によるもので、現存する地獄壁画の
板絵では日本最大ですが、剥落が激しく残念に思えます。
地蔵池
本堂の右側を進むと地蔵池があります。
多数の石仏が祀られ、今の千本通りから発掘された
数十体の地蔵像も安置されています。
精霊迎えでは、この池で「お塔婆流し」が行われ、「お迎え鐘」を撞いて
先祖の霊を我が家に迎えます。
紫式部供養塔
高さ6mの紫式部供養塔は、元中3年/至徳3年(1386)に円阿上人の勧進により
建立されたとの刻銘があり、国の重要文化財に指定されています。
紫式部は『源氏物語』に狂言綺語(きょうげんきぎょ)を記して好色を説いた罪で
地獄に落とされたと伝わり、成仏を願って建立されました。
紫式部供養塔-基礎石
一重目の円形基礎石に14体の地蔵小像が刻まれ、その上の軸部東面には薬師如来、
南面に弥勒菩薩、西面に阿弥陀如来、北面に釈迦如来像の四仏坐像が表されています。
紫式部供養塔-二重目
その上には四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部が置かれています。
更に9枚の笠石を重ね、十重の塔としていますが、二重の宝塔と十三重石塔の残欠を
組み合わせたものです。
紫式部像
塔の手前には紫式部と大黒天、布袋尊の像が祀られています。
普賢象桜
また、普賢象桜が植栽されています。
鎌倉の材木座にあった普賢堂の横に咲いていたことから名付けられた、
八重桜の日本最古の品種で、遅咲きの桜です。
茶釜塚
茶釜塚
小杉大明神
小杉大明神
童観音
童観音は平成17年(2005)に造立された、高さ2mのブロンズ坐像で、
「わらべちゃん」と呼ばれています。
鐘楼
童観音から東へ進むと精霊迎え、送りの鐘撞き堂があります。
梵鐘
梵鐘には天授5年/康暦元年(1379)の銘があり、市の文化財に指定されています。
観音堂
観音堂には本尊の本地仏である地蔵菩薩像、右に開基・小野篁像、
左に灑水観音(しゃすいかんのん)が安置されています。
灑水とは香水を注いで清めることで、 悪病が流行した時に、
観音様を祀り、楊枝と灑水を供えると病が鎮まったと伝わります。
茶室
本堂の左側には茶室がありますが、非公開です。

千本通りを北上して上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)へ向かいます。

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