参道
常照寺から「鷹峯」の信号を超えて、更に西へ進んだ南側に光悦寺があります。
光悦寺は山号を大虚山と号する日蓮宗の寺院です。
元和元年(1615)に本阿弥光悦は、徳川家康からこの地を与えられました。
長坂道
この地には、「京の七口」の一つ、長坂口があり、長坂を経て杉坂に至る
丹波街道への登り口であり、古くからこの地にしばしば関所が設けられる
要所でもありました。
光悦寺から西へ進んだ先には、古道「長坂道」入口が残されています。
しかし、光悦一族が移り住む以前は、「辻斬り・追い剥ぎ」の出没する
物騒な土地であったの記録が残されています。
本阿弥光悦が、一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住してからは
「光悦村」と呼ばれ、東西約360m、南北約760mに及ぶ広さがありました。
光悦宅を中心に、通りには55件の屋敷が建ち並んでいたと伝わります。
光悦の没後、屋敷を寺に変えられたのが光悦寺です。
山門
参道を進むと山門があり、手前には題目標石が建っています。
鐘楼
更に参道を進んだ左側に、元禄5年(1692)に建立された茅葺の鐘楼があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘
庫裡
庫裡
庫裡に隣接して拝観受付があり、拝観志納金300円を納め、本堂へ向かいます。
本堂
本堂
本堂-渡廊
本堂への渡り廊下の下をくぐって順路が続きます。
広大な境内に7つの茶室が点在しています。
妙秀庵
左側に庫裡に接して茶室・妙秀庵があります。
本阿弥光悦は、近衛信尹(このえ のぶただ)、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」に
位置づけられる書家であり、陶芸、漆芸、茶の湯にも秀でていました。
茶の湯は古田織部に学び、書においても左へ斜めにずれる織部の特徴が、
光悦に影響を与えたとする説もあります。
しかし、古田織部は慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際に、
豊臣方に内通した罪で京都所司代・板倉勝重に捕えられ、切腹して果てました。
茶の湯に親しんだ光悦を偲んで、大正期(1912~1923)以降に
これらの茶室が建立されました。
巴の池
右側の「巴の池」は光悦作と伝わりますが、現在は木立の中に埋もれています。
三巴亭
池の先に大正10年(1921)に建立された三巴亭(さんぱてい)があります。
数奇屋造りで、八畳2室、水屋等からなり、北西の八畳は「光悦堂」と称され、
仏壇には光悦の木像が安置されています。
大虚庵-1
大虚庵は、光悦が鷹峯に建てた居室の名ですが、現在の建物は大正4年(1915)に、
道具商・土橋嘉兵衛の寄付により、茶道・速水流四代目・宗汲(そうきゅう)の
設計により建立されました。
大虚庵-2
大虚庵はその後、正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更され、
間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に改造が加えられました。
大虚庵-光悦垣
大虚庵の露地を仕切る竹垣は、「光悦垣」とも
「臥牛垣(がぎゅうがき/ねうしがき)」とも呼ばれています。
矢来風に菱に組んだ組子の天端を割竹で巻いて玉縁とした光悦寺独特の垣で、
垣根の高さは親柱からなだらかなカーブを描き端部が低くなっています。
背後の山は鷲ヶ峰です。
了寂軒
了寂軒は、かっての常題目堂跡に建てられました。
田中王城の句碑
了寂軒の通りを挟んだ向かいに「山二つ かたみに時雨 光悦寺」と刻まれた
田中王城の句碑があります。
田中王城は、京都生まれの俳人で、初め正岡子規の句風を慕い、
後に高浜虚子に師事しました。
ホトトギス同人となり京都俳壇の第一人者となって、多くの門下を育てると共に
雑誌『鹿笛』を刊行しました。
昭和14年(1939)に55歳で亡くなりました。
フリーアの碑
句碑の東奥にチャールズ・ラング・フリーアの碑が建っています。
フリーア(1854~1919)は、アメリカ・デトロイト出身の実業家で、鉄道事業で
巨万の富を得、日本・中国・インドなどの美術品を収集し、
スミソニアン博物館に寄贈しました。
同博物館は、アジア専門のフリーア美術館を設立し、一般公開しています。
フリーアは、光悦に傾倒し、来日の度に光悦寺を訪れ、光悦の墓参を行ったとされ、
昭和5年(1930)にこの碑が建てられました。
本阿弥光悦の墓
碑から東へ進んだ奥に本阿弥光悦の墓があります。
光悦は、永禄元年(1558)に京都で刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする
本阿弥光二の長男として生まれました。
光悦は家業を継いだと思われますが、芸術分野でその名が残されています。
俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者となり、
後世の日本文化に大きな影響を与えました。
光悦作の白楽茶碗「不二山」や舟橋蒔絵硯箱は国宝に指定され、その他にも
楽茶碗・書籍・蒔絵硯箱など、多数の作品が国の重要文化財に指定されています。
寛永14年(1637)に80歳で当地で亡くなりました。
板倉父子供養塔
その横に京都所司代・板倉勝重と重宗父子の供養塔があります。
板倉勝重は天文14年(1545)に三河国額田郡小美村(愛知県)に生れ、
次男だったため幼少の頃に出家しました。
その後、父と長男が相次いで戦死したため、徳川家康の命で還俗して武士となり、
家督を相続しました。
慶長8年(1603)に家康が江戸幕府を開くと、従五位下・伊賀守に叙任され、
同14年(1609)には近江国・山城国に領地を加増され1万6600石余を知行、
大名に列せられました。
元和6年(1620)に長男・重宗に京都所司代の職を譲り、
寛永元年(1624)に79歳で亡くなりました。
優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら
納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と謳われました。
寛政5年(1973)に備中松山藩(岡山県高梁市)の第4代藩主・板倉勝政により
松山城下に勝重・重宗父子の霊を祀った
八重籬神社(やえがきじんじゃ)が建立されました。

重宗は30年以上にわたって所司代職を務め、承応3年(1654)に退任して江戸で幕政に
参与し、保科正之や井伊直孝ら大老と同格の発言力を持っていたとされています。
明暦2年(1656)に下総・関宿5万石を与えられて藩主となりましたが、
病に倒れ、71歳でこの世を去りました。
水原秋桜子句碑
参道へ戻り、南へ進むと「紅葉せり つらぬき立てる 松の幹」と刻まれた
水原秋桜子の句碑があります。
水原秋桜子は明治25年(1892)に東京で生まれ、医師となって昭和医学専門学校
(現・昭和大学)で初代産婦人科学教授に就任するとともに、
家業の産婦人科を継ぎ、宮内省侍医寮御用係として
多くの皇族の出産に立ち会いました。
一方で高浜虚子の影響を受けて俳句に興味を持ち、『ホトトギス』に
句を投稿するようになりました。
大正10年(1921)からは『ホトトギス』の例会に出席し、
虚子から直接の指導を受けるようになりました。
大正13年(1924)に『ホトトギス』の課題選者に就任し、後に『馬酔木(あせび)』を
主宰するようになりました。
やがて、『馬酔木』の内外で反虚子、反ホトトギスを旗印とした
新興俳句運動の流れが起こりました。
本阿弥一族の墓
南へ進んだ突き当りを西に入ると、本阿弥光嵯・光甫、
他一族の墓があります。
本阿弥光嵯は天正6年(1578)の生れで、元和9年(1623)に光悦の養子となり、
後を継いで加賀前田家に仕えました。
光瑳は、刀剣の研磨、水仕立て、拭い、磨きとすべての工程で名人と称えられ、
書においても光悦から学び、門人中随一の能筆で、
寛永14年(1637)に64歳で亡くなりました。

光甫は光嵯の子で、慶長6年(1601)に生れ、37歳の時に祖父光悦が没するまで、
茶の湯、香道、書画、陶芸、彫刻を学びました。
家業である刀剣の鑑定に優れ、工芸は光悦の遺風を継ぎました。
天和2年(1682)に82歳で亡くなりました。
前田家から光嵯に二百石、光甫に三百石が与えられています。
翹秀軒
西に進むと、かって大虚庵があった場所に翹秀軒(ぎょうしゅうけん)があります。
翹秀軒-長椅子
南側に長椅子が置かれ、座ると眼前に鷹ヶ峯と鷲ヶ峰が聳えています。
鷹ヶ峯と鷲ヶ峰
ここからは見えませんが鷲ヶ峰の北に天ケ峰があり、
これらを総称して「鷹峯三山」と称されています。
鷹ヶ峯
鷹ヶ峯
古来、この地一帯は「栗栖野(くるすの)」と呼ばれ、
その一角に高岑寺(たかがみねじ/たかみねじ)があったと伝わります。
平安時代には、代々の天皇が栗栖野に行幸し、遊猟、鷹狩に興じました。
また、鷹狩に使う鷹を捕捉できる場所としても知られ、
いつしかこの地は「高岑」から「鷹峯」へと表記されるようになりました。
本阿弥庵
翹秀軒から東へ進むと本阿弥庵があります。
本阿弥庵-待合
本阿弥庵には待合があり、茶会が催されることがあるのかもしれません。

本阿弥庵の前から下った所に騎牛庵があるようですが、閉ざされており
行くことができず、詳細は不明です。

光悦寺の通りを挟んだ北側にある圓成寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村