門をくぐった右側に本堂の裏側が見えますが、ガラス障子がはめられています。
その上流
更にその先には茶室・残照亭があります。
参道の右側は広い苔庭で、その奥に観音像が祀られています。
観音像の左側に滝組があります。
滝から流れ落ちた小川を、茶室前の飛び石で渡り、その先の石段を登ります。
滝上部の左側の石塔
金鳳閣の屋根には鳳凰が冠せられ、その名の由来となっています。
観音堂の前から、美しい姿の全容を見ることが出来ます。
右側奥に鐘楼があります。
東側には観音堂があります。
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蓮華寺駐車場から直ぐの東側に崇道神社(すどうじんじゃ)の参道があります。
慶長18年(1613)、崇道神社境内の山腹にある墓から鋳銅製の墓誌が発見され、
この墓が小野毛人(おの の えみし:生誕不明~677)を
埋葬したものであることが判明しました。
小野毛人は小野妹子(おの の いもこ)の子で、第40代・天武天皇
(在位:673~686)に仕え、当時の最高国家機関である太政官を
務めていたとされています。
墓誌は国宝に指定され、現在は京都国立博物館で保管され、
墓は京都市の史跡に指定されています。
参道を進むと二の鳥居が建ち、その先の左側に「五味藤九郎之碑」が建っています。
当時の代官であった五味藤九郎(?~1680)は、延宝5年(1676)に現在の上高野東山町
山麓の巨岩を貫通し、高野川の清流を水路を開いて南台地へ水を引きました。
これにより農業が発展し、水路には多数の水車が設置され、
主に精米用として共同で使われていました。
更に参道を進むと三の鳥居が建っています。
三の鳥居をくぐり、石段を登ると左側に鳥居が建ち、
鳥居をくぐった北側に伊多太神社があります。
伊多太神社の創建は不詳ですが、延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』に
その名が見え、この辺り一帯で最古の社であり、大社でした。
出雲系農耕神を祭神とすることから、出雲族がこの地へ移り住み、
祀られるようになったと考えられています。
「伊多太」の語源は、豊作祈願の神事「湯立て」や「五十猛神(いたけるのかみ)」に
由来するとされています。
五十猛神は、素戔嗚命の子で、「射楯神(いたてのかみ)」とも呼ばれ、
林業の神として信仰されています。
かっては、現在の三宅八幡宮の南にあり、
三宅八幡宮は当社の末社として創建されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失して荒廃しました。
明治16年(1883)に当時の三宅八幡宮の地で再興されましたが、明治41年(1908)に
伊多太神社は崇道神社に合祀され、三宅八幡宮は現在地へ遷座されました。
伊多太神社の南側には教之大神・足之大神・鎌倉大神・三輪大神・日吉大神・
三穂津大神が祀られています。
参道の東側に社務所があります。
本殿への石段です。
石段を登った途中の右側に、宇佐八幡大神・北野天満大神・市杵嶋姫大神・
弁財天大神が祀られています。
本殿
崇道神社の創建は貞観年間(859~877)とされ、第49代・光仁天皇の皇子・
早良親王(さわらしんのう:750?~785)のみを祭神とする唯一の神社です。
早良親王は第50代・桓武天皇の実弟ですが、天平宝字5年(761)に出家しました。
東大寺を開山した良弁から後事を託される指導的立場でしたが、光仁天皇の勧めで
還俗し、立太子されました。
しかし、桓武天皇の意思に反したものと思われます。
桓武天皇は、東大寺や興福寺などの奈良寺院の影響力排除を一因として
延暦3年(784)に平城京から長岡京へと遷都しました。
長岡京遷都の翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺され、
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁されました。
無実を訴えるため絶食しましたが、十余日後に流罪処分となり
淡路島に護送途中、現・大阪府守口市の高瀬神社付近で亡くなりました。
その後、飢饉や疫病の大流行、桓武天皇の皇后や近親者が相次いで亡くなりました。
延暦11年(792)、陰陽師(おんみょうじ)の占いで早良親王の怨霊によるものとの
結果が下され、親王の御霊を鎮める儀式が行われました。
その直後と2ヵ月後の2度の大雨による川の氾濫で大きな被害を受け、
天皇は延暦13年(794)に平安京に遷都しました。
同年、天皇は現在の上御霊神社の地に早良親王の御霊を祀り、
延暦19年(800)には「崇道天皇」の諡号が贈られました。
延暦24年(805)、親王の遺骸は淡路島から奈良市八島町の
崇道天皇陵へ移葬されました。
更に貞観年間(859~877)に皇城の鬼門に当たるこの地に崇道神社が創建され、
早良親王の御霊が祀られるようになりました。
本殿前の左側には恵比寿大神・貴布祢大神・日吉大神が祀られています。
右側には春日大神・赤山大神・十二社大神が祀られています。
その後方、左側に天照大御神と豊受大神が祀られ、右側に出雲高野神社があります。
『延喜式神名帳』に見える「出雲高野神社」に比定され、
かってからこの地で祀られていたようです。
古代、この地は出雲族により支配され、「出雲郷」と呼ばれ、
出雲族により創祀されたと考えられています。
その後は小野氏の支配による「小野郷」と呼ばれ、
出雲高野神社は衰微したと思われます。
明治維新後、式内社を復するようになり、大正4年(1915)に再建されました。
社務所から下り、東へ進むと行者の滝があり、
滝の左側に小野毛人の墓への参道があります。
付近に役行者像が祀られていることが滝の名の由来となったと思われます。
役行者像に並んで数体の石仏も祀られています。
滝の東側に式内社・小野神社があります。
小野郷であった時代に小野氏により創祀されたと思われ、
小野妹子と小野毛人が祀られています。
昭和46年(1971)に現在地で再建されました。
境内の東側に観音堂があり、如意輪観音が祀られています。
小野毛人の墓への参道入口へ戻り、墓へと向かいます。
滝の上部には長岡大明神が祀られていますが、詳細は不明です。
5分余り登れば大正4年(1915)に建立された、内藤湖南の撰文による
墓碑が建っています。
慶長18年(1613)に石棺が発見され、埋納されていた鋳銅製の墓誌から
小野毛人の墓であることが判明しました。
墓誌は墓に戻されたのですが明治28年(1895)に盗難に遭いました。
その後取り戻され、大正3年(1914)に国宝に指定されて
現在は京都国立博物館で保管されています。
墓の前からは展望が開け、正面の奥に京都タワーが望めます。
下山して崇道神社参道の東側に隣接する栖賢寺(せいけんじ)へ向かいます。
続く
大原街道沿いに蓮華寺の駐車場があります。
蓮華寺は山号を「帰命山(きみょうざん)」と号する天台宗の寺院です。
かってこの地には加賀藩前田家の家臣・今枝重直の庵がありました。
今枝重直(1554~1628)は、美濃国出身の武士で父は斎藤道三の家臣でしたが、
重直は織田信長に仕えました。
その後、豊臣秀吉、豊臣秀次に仕えましたが、文禄4年(1595)6月末、秀次に突然、
謀反の疑いが持ち上がり、強制的に出家させられて青巌寺に蟄居となり、
後に切腹しました。
重直は前田家から招かれ、前田利長の家臣となりました。
元和5年(1619)に隠居していますので、この頃からこの地で庵を結び、
石川丈山(1583~1672)や狩野探幽(1602~1674)らと交流を深めながら
晩年を過ごしました。
山門は創建当初のものです。
重直は仏教に深く帰依して出家し、この地で寺院の建立を願っていたのですが、
果たせず寛永4年12月23日(1628年1月29日)に亡くなりました。
重直の孫・今枝近義(いまえだ ちかよし:1614~1679)は、祖父の願いに応え、
菩提を弔うために蓮華寺を造営しました。
近義は寛文2年(1662)に七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院を
現在地で再建し、現在地が廃寺となった蓮華寺の跡地であったことから
寺号を「蓮華寺」としました。
西来院は時宗の寺院でしたが、延暦寺の僧・実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)を
開山に迎えたことにより延暦寺実蔵坊の末寺となりました。
山門をくぐると、石畳の参道が庫裡まで続いています。
参道の右側に鐘楼があります。
梵鐘には萬福寺二世・木庵性瑫もくあん しょうとう:1611~1684)の銘があり、
萬福寺と同じ形式です。
蓮華寺の造営にあたり、黄檗宗の開祖である隠元隆琦(いんげん りゅうき:
1592~1673)や二世の木庵性瑫らが協力しました。
鎮守社の鳥居が建っていますが、鳥居から先の立ち入りは禁止されています。
井戸屋形
参道左側の約300体の石仏は、京都市電河原町線の敷設工事に際に
発掘されました。
かっては鴨川の河原であり、処刑者や戦災や天災による死者の屍が
打ち捨てられる遺棄葬の場でした。
そうした死者を弔うための石仏群でしたが、鴨川の氾濫によって埋没していました。
工事によって掘り起こされ、この地に運ばれて供養されています。
中央の地蔵菩薩像を除き、他は全て大日如来像です。
小書院
庫裡に拝観受付があります。
拝観料は400円です。
庫裡から書院へと続く小部屋には阿弥陀三尊像が安置されています。
書院
書院の東側に池泉鑑賞式庭園が築かれ、紅葉の名所となっています。
池は「水字形」と呼ばれ、「水」の字をかたどっています。
蓮華寺の造営には石川丈山や狩野探幽らの協力もあったと伝わり、
庭園は石川丈山による作庭とする説もあります。
池の右手前には舟石(ふないし)が配され、その奥に亀島があり、
亀島に架かる石橋脇の立石は鶴石です。
亀島には「唐人帽丸形」と呼ばれる石灯籠が据えられています。
亀島の後方に蓬莱山に見立てた石組みが築かれ、
今枝重直の一代記が刻まれた石碑が建てられています。
石碑は石川丈山の篆額(てんがく)と木下順庵(1621~1699)の撰文によるものです。
庭園の右側に本堂がありますが、書院から見えるのは裏側で、
南向きに開けられています。
蓮華寺の造営には黄檗宗の僧が協力したことにより、
本堂は黄檗宗の様式で建立されています。
本堂周辺の撮影は禁止されていますので画像はありませんが、本堂前には
両側に「蓮華寺形灯籠」が据えられています。
寺号の扁額は石川丈山によるものです。
堂内の天井には狩野探幽により龍図が描かれていましたが、明治期に失われ、
昭和53年(1978)に仏師の西村公朝によって復元されました。
本尊は像高60㎝の釈迦如来坐像の金剛仏で、堂内中央須弥壇の
螺鈿厨子内に安置されています。
この螺鈿厨子は明朝(1368~1644)初期の中国製で、
加賀藩が輸入したものと推定されています。
左側に安置されている阿弥陀如来像は鎌倉時代の作ですが、
台座と光背は江戸時代作です。
左側の螺鈿厨子内には不動明王が安置されていますが、秘仏とされ、
厨子は本尊より大きく見えます。
書院の南側にあり、参道からも見える土蔵は、明治5年(1872)の学制まで、
男女共学の寺子屋の教場として使われていた形跡が残されていますが、非公開です。
崇道神社(すどうじんじゃ)へ向かいます。
続く
高樹院から南下すると、左京区岩倉から左京区上高野となり、
三宅八幡宮は、左京区上高野三宅町に立地しています。
こちらは西側の入口ですが、少し下って南側参道から参拝することにしました。
神域の守護は狛犬では無く、狛鳩なので心もとなく思えます。
八幡神である誉田別命( ほんだわけのみこと)が国内を平定する時に、
水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いとされています。
鳥居手前の池の畔には、歌人・中山周三(1916~1999)の歌碑が建っています。
「輪をかきて 飛びいる鳩の 先頭の 一羽は群れの 何を保障す」
三宅八幡宮にも多数の鳩が群れていますが、
周三は北海道の人なので、この境内の光景かは不明です。
鳥居の脇に駒札が立っています。
それによると、第33代・推古天皇の時代(593~628)、推古天皇15年(607)に
小野妹子(おの の いもこ:生没年不詳)が遣隋使として派遣され、
隋へ渡るために九州へと向かったのですが、筑紫付近で病を患いました。
宇佐八幡宮へ祈願して病は平癒し、帰朝後に宇佐八幡宮を勧請したのが
三宅八幡宮の始まりとされています。
小野妹子は小野氏の出身で、小野氏は滋賀県湖西地方の小野村(現在の大津市)を
本拠とし、三宅八幡宮辺りから大原及び市原へかけての一帯は、
小野氏に支配され、「小野郷」と呼ばれていました。
また、三宅八幡宮付近に一族の住居があったと伝わり、小野妹子の子・小野毛人
(おの の えみし:生誕不明~677)の墓も八幡宮付近にあります。
但し、これが事実だとすると、三宅八幡宮の創建は石清水八幡宮よりも
総本社である宇佐八幡宮よりも古くなってしまいます。
石清水八幡宮は、貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されて
現在の離宮八幡宮の地で創建され、後に現在地へ遷座されました。
また、宇佐八幡宮は八幡大神が示顕されたのは第29代・欽明天皇34年(571)ですが、
社殿が造営されて創建されたのは神亀2年(725)です。
そのような矛盾はさておき、鳥居をくぐると左側に手水舎があります。
手水舎の北側の井桁は北白川産の白川石で、
九代目・市川團十郎の寄進によるものです。
九代目・市川團十郎(1838~1903)は、明治時代(1868~1912)に活躍した
歌舞伎役者で、屋号を「成田屋」と称しました。
歌舞伎を町人の娯楽から、日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに
尽力し、その功績から「劇聖(げきせい)」と謳われました。
現在の拝殿は明治2年(1887)に再建されました。
創建当初、三宅八幡宮は現在地から南にあった伊太多神社の境内に、
同社の末社として造営されました。
元弘3年/正慶2年(1333)、第96代・後醍醐天皇は隠岐を脱出し、挙兵すると
これに呼応した足利尊氏らにより鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇の京都への帰還の先発隊の一員となったのが
児島高徳(こじま たかのり:生没年不詳)です。
児島高徳は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で、
備前国児島郡(現在の岡山県倉敷市)の出身とされ、
後鳥羽上皇や宇多天皇の後裔とする説もあります。
高徳は、一時岩倉に居を構え八幡大神を崇拝していたとされています。
児島高徳の別名が「備後三郎三宅高徳」であったことから
「三宅八幡宮」と呼ばれるようになったとの説があります。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
十数年を経て里人により復興されました。
明治時代(1868~1912)に入り、伊太多神社が崇道神社(すどうじんじゃ)へ
合祀されたのに伴い、三宅八幡宮が現在地へ遷されたとされています。
現在の本殿は明治20年(1887)に再建されました。
江戸時代の末期、祐宮(さちのみや=後の第122代・明治天皇)が重い病を患い、
当社に祈願して病気が平癒したことから、特に子供の守り神として
信仰されるようになりました。
また、「害虫駆除」のご利益があるとされ、「虫八幡」とも呼ばれれています。
祭神は八幡大神です。
宇佐八幡宮などでは「八幡大神は誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、
比咩大神(ひめおおかみ)の三柱を総称したもの」とされていますが、
三宅八幡宮では、誉田別命の一柱のみです。
誉田別命とは、第15代・応神天皇のことで、後に男系断絶した第16代・仁徳天皇皇統と
現在まで続く第26代・継体天皇皇統の共通の男系祖先である皇祖神でもあります。
応神天皇は秦氏の祖先である弓月君(ゆみづきのきみ)を、新羅の妨害から守り、
帰化させました。
弓月君は百二十県の民を率いて日本に渡ると養蚕や織絹などの技術を伝え、
朝廷の設立や山城国等の開発などに大きく貢献しました。
本殿の裏側
旧灯籠
拝殿の東側に社務所があり、その南側に絵馬展示資料館が
平成20年(2008)に開館しました。
入館は有料(300円)ですが、館内には奉納された子育て祈願絵馬が展示され、
所蔵されている絵馬133点は、京都市有形民族文化財に指定されています。
鳥居を下った東側に放生池があります。
三宅八幡宮では毎年9月に秋の大祭(放生会)が行われ、14日夜に宵宮祭、
15日に神事が営まれています。
養老4年(720)に隼人の乱が勃発した際、八幡大神が自ら征討に赴いたとの伝承があり、
戦死者となった隼人の慰霊が八幡宮での放生会の起源とされています。
池の畔には水車小屋がありますが、水車は朽ちてしまい、現在は残されていません。
延宝年間(1673~1681)の頃、当時の代官・五味藤九郎(?~1680)の尽力によって
上高野に水路が開かれ、多数の水車が設置されました。
水車は「唐臼(からす)」と呼ばれ、主に精米用として共同で使われていました。
当地、稲荷町にあったものが修復されて移されまし。
池から通路を南へ進むと、懸崖造りの多宝塔が見えてきます。
通路が東へと曲がった先に三明院の山門があります。
三明院は、山号を「延壽(寿)山」と号する真言宗醍醐派の寺院です。
参道の石段の両側には羅漢像が祀られています。
石段を登った所には鳥居が建ち、香取大明神が祀られています。
香取大明神とは、千葉県香取市にある香取神宮の祭神であり、
経津主神(ふつぬしのかみ)の別名です。
『日本書紀』では武甕槌神(たけみかづちのかみ)を伴い、
葦原中国を平定した神とされています。
右側に第三世・佐竹周海僧正の像が祀られています。
三明院は、明治39年(1906)に、当地出身の佐竹信光和尚が開山し、
佐竹周海僧正により中興されました。
現在の本堂は昭和13年(1938)に再建され、弘法大師を本尊とし、
両脇侍に不動明王と歓喜天が祀られています。
境内の西側に地蔵堂、鐘楼、多宝塔と並んでいます。
多宝塔は昭和36年(1961)に建立され、十一面観世音菩薩像が安置されており、
毎月1日に開帳されています。
境内には楓が植えられ、隠れた紅葉の名所ともなっています。
三宅八幡宮の参道へと戻ります。
参道を南へ進むと西側に大楠公の像が建立されています。
楠木正成(くすのき まさしげ:?~1336)は、鎌倉時代末期から
南北朝時代にかけての武将で、忠臣として明治13年(1880)に正一位を追贈されました。
また、「大楠公(だいなんこう)」と尊称され、明治5年(1872)には神戸市に
楠木正成を祀る湊川神社(みなとがわじんじゃ)が創建されました。
参道には鳥居が並んでいます。
更に南へ進むと高野川沿いの道路に突き当たり、一の鳥居が建っています。
高野川沿いに上流方向へ進み、蓮華寺へ向かいます。
続く