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善光寺堂
日體寺から東へ進むと五条坂と合流し、更に東へ進んだ突き当りに清水寺があります。
山号を「音羽山」と号する北法相宗の大本山で、西国三十三所観音霊場・第16番、
第14番の札所で、仁王門前の左側にある善光寺堂はその第10番札所です。
但し、納経は清水寺の納経所で一括して行います。
善光寺堂-堂内
善光寺堂は清水寺の塔頭の一つで、鎌倉時代以前からこの地にあり、
地蔵菩薩を祀る地蔵堂でした。
その後、如意輪観音像が併祀され「地蔵院」となり、明治になって神仏分離令
による境内の整理が行われ、奥の院南庭にあった善光寺如来堂を合併されました。
善光寺如来堂に安置されていた善光寺型阿弥陀三尊像が遷されたことから、
「善光寺堂」と称されるようになりました。
堂内中央に洛陽三十三所観音霊場の札所本でもある如意輪観音像、
左側に旧本尊であった地蔵菩薩像、右側に善光寺阿弥陀三尊像が安置されています。
首振り地蔵
善光寺堂前の小堂があり、首が回転する地蔵尊が祀られていることから
「首振り地蔵」と呼ばれ、清水寺七不思議の一つに数えられています。
かって、祇園の幇間(ほうかん)であった鳥羽八が座敷の合間を縫って、
自らの姿を彫り、生形見(いきがたみ)の地蔵として奉納されたと伝わります。
思う人の方向に首を回転させて祈願すると願い事が叶うと、江戸時代から
信仰され、恋愛成就や首が回らない借金苦に御利益があるとされています。
馬駐
善光寺堂前の石段を登った所に馬駐(うまどめ)があり、日本最古の遺構として、
国の重要文化財に指定されています。
馬に乗って来た身分の高い公家や武士もここに馬を繫ぎ、
ここからは徒歩で参詣しました。
現在の建物は応仁の乱後の慶安2年(1649)に再建されたもので、
5頭の馬が繋げる規模の大きさがあり、しかも馬駐の遺構としては
全国的にも珍しいものです。
間口は三間(10.5m)、奥行き二間(5.1m)、高さ5.2mの大きさがあります。
馬駐-鐶
柱には馬の手綱を繫いでおくための鐶(かん)という金具が横向きに
取り付けられていますが、2か所だけ下向きに取り付けられ、
清水寺の七不思議の一つとなっています。
狛犬
仁王門の前にある狛犬は、東大寺南大門にある狛犬を模して造られたとされ、
どちらも口を開けた阿形の像で、清水寺七不思議の一つに数えられています。
元々は金属製の阿形、吽形像でしたが、戦時供出され、現在の狛犬は
昭和19年(1944)に信者団体により寄進されました。
仁王門
仁王門は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、その後、室町時代に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
朱塗りされていることから「赤門」とも呼ばれる八脚三間一戸の楼門です。
横幅9.9m、奥行き8.4m、高さ14mの堂々たる門です。
また、仁王門は「目隠し門」との別名があります。
高台にある清水寺から御所を見下ろすことができないように
仁王門が建てられています。
清水寺は平成6年(1994)にユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の
構成資産として登録されました。
仁王門-カンカン貫
仁王門の南西の柱の腰貫がへこんでいます。
腰貫をたたくと、対角にある腰貫に音が伝わり、「カンカン」と聞こえるそうで、
多くの人にたたかれ、へこみとなって残されています。
この腰貫は「カンカン貫」とも呼ばれていますが、
重要文化財なので試すのは控えた方が良いと思ます。

左右には仁王像が安置されていますが、画像に収めるのは困難です。
室町時代の文明元年(1469)に焼失し、その後再造され、江戸時代の
寛永6年(1629)の大火では焼失は免れましたが、補修されています。
像高365cmあり、京都に現存する仁王像としては最大の像です。
西門
西門は平安時代に建立され、現在の門は寛永6年(1629)に発生した大火後の
寛永8年(1631)に再建されました。
三間一戸、丹塗りの八脚門で横幅8.7m、奥行き3.9m、高さ4mの単層の門です。
右に持国天像、左に増長天像が安置され、二躰は共に像高が2.2mで
南北朝時代の作とされています。
西門-日想観
西門からは西山に沈む夕日が望め、日想観の聖所となっています。
日想観とは、まさに沈もうとしている夕日を見つめ、心を堅くとどめて
乱すことなく、一すじに想いつめて他のことに触れず、阿弥陀如来の
浄土を想念(そうねん)する観法(かんぽう)です。
念彼観音力
西門への石段の右側に「念彼観音力」碑が建立されています。
観音経には、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」という
経文が 13回出てきます。
観音様の力を念じれば、いろいろな危険や苦しみ、困難から解放されるという
13個の例え話が説かれています。
観世音菩薩は、助けを求める衆生の声(世間の音=世音)を観じとって、
33種に姿を変え、六世間(地獄・餓鬼・畜生・修羅(しゅら)・人(にん)・
天)の衆生を救済するために、広大な慈悲の心を誓われました。
この碑は清水寺・中興開山とされる大西良慶和上の筆によるものです。
虎の石灯籠
更に南側には虎の図が彫られた石灯籠があります。
どこから見てもその虎と目が合う、「八方睨みの虎」で、虎を得意とする
絵師・岸駒(がんく:1756or1749~1839)の作で、この虎が夜になると吠え、
水を飲みに抜け出すと伝わり、清水寺七不思議の一つに数えられています。
祥雲青龍
西門への石段の左側には「祥雲青龍」像が造立されています。
清水寺では毎年、3月14日、3月15日、4月3日、9月14日、9月15日に
青龍会(せいりゅうえ)が行われています。
青龍会が始まってから15年目に当たる平成27年(2015)12月に
祥雲青龍像が造立されました。
青龍は都の東方の守護神であり、清水寺では龍は観音様の化身とされ、
龍が音羽の瀧に夜ごと飛来して水を飲むという伝承が残されています。
青龍会では、長さ約18mの青龍を先頭に、荘厳な装束に身を包んだ一行が
地域守護と除災を祈願して境内と門前町を巡行します。
鐘楼
仁王門から石段を上った左側に鐘楼があります。
江戸時代初期の慶長12年(1607)に現在の場所に移築・再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
鐘楼は通常は4本の柱で支えられていますが、この鐘楼の柱は6本で、
七不思議の一つに数えられています。
一説では創建当初の梵鐘が、大きくて重く、4本の柱では支えられなかった
とされていますが、本当の理由は定かではありません。
鐘楼-梵鐘
4代目となる梵鐘は、室町時代の文明10年(1478)に鋳造され、
国の重要文化財に指定されていました。
4代目の梵鐘は劣化が原因で保存され、現在の梵鐘は
平成20年(2008)に再鋳された5代目で、高さ約2.1m、
口径約1.2m、厚さ約13㎝、重さ約2,365kgとなります。
鹿間塚
鐘楼の奥(西側)、小高く盛り上がった所は「鹿間塚(しかまづか)」と呼ばれています。
清水寺が創建された2年後の宝亀11年(780)に坂上田村麻呂(758~811)は、
妻の病気平癒に効果が期待できる鹿の生き血を求めて音羽山中で狩りをしていました。
射止めたのは妊娠した雌鹿で、修行中の賢心(生没年不詳/後に延鎮と改名)と出会い、
殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進しました。
そして、雌鹿をこの地に埋葬して供養したと伝わります。
その後、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任ぜられ、東国の蝦夷平定を命じられました。
若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て
戦いに勝利し、無事に都に帰ることができたことから延暦17年(798)に延鎮と協力して
本堂を大規模に改築し、毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、
観音像の脇侍として祀りました。
水子観音堂
その少し先に水子観音堂があり、水子観音が祀られています。
随求堂
参道の突き当りには随求堂(ずいぐどう)があります。
塔頭・慈心院の本堂で、大随求菩薩を本尊としていますが秘仏です。
江戸時代の享保3年(1718)に再建されたもので、正面最上部の
妻には鏝(こて)を使った鏝絵の雲龍意匠が施されています。
大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)は、観音菩薩の変化身とされ、
衆生の求めに対して自在に願いを叶えてくれると言われています。
随求堂には地下へと下る階段があり、暗闇の中で数珠を頼りに巡る
「胎内めぐり」が体験できます。
本尊の真下には、大随求菩薩の梵字が刻まれた石があり、
闇の中に浮かび上がります。
三重塔
随求堂から参道は右手へ折れ、その短い石段を登った右側に三重塔があります。
三重塔は平安時代の承和14年(847)に、第50代・桓武天皇(在位:781~806)の第十二皇子・
葛井親王(ふじいしんのう/かどいしんのう:798~850)の勅命により創建されました。
兄である第52代・嵯峨天皇(在位:809~823)の皇子誕生に清水寺本尊の千手観音菩薩の
霊験があった事により奉じたとされています。
また、葛井親王の妻は、坂上田村麻呂の娘です。
その後、幾度かの焼失が繰り返され、現在の塔は江戸時代の寛永9年(1632)に
再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
昭和62年(1987)に解体修理が行われ、鮮やかな色彩が現在でも残されています。
高さは約31mあり、国内最大級の三重塔で、市内からもよく望め、
古くから清水寺のシンボル的な存在となっています。
内部中央には東向きに大日如来像が安置され、四方の壁には真言八祖像が、
さらに天井や柱には密教仏画や飛天、龍などが極彩色で描かれています。
三重塔-龍の瓦
三重塔の南東の鬼瓦には龍が使われています。
龍神は水の神とされ、火伏・魔除けのために置かれているとされ、
清水寺七不思議の一つにもなっています。
三重塔-前の石仏
三重塔の前に地蔵菩薩の石仏とその右側に石灯籠があり、
「かげきよつめがたくわんぜおん」と刻まれた石碑が建っています。
石灯籠の火袋の中には、線彫りの小さな観音像が祀られているそうですが、
内部は暗く確認はできませんでした。
この観音像は壇ノ浦の合戦で捕らえられた平家の武将、
平景清(たいらのかげきよ:?~1196?)が獄中にいる間、自分の爪で
石に観音様を彫り、清水寺に奉納されたものだと伝えられています。
経堂
三重塔から角を曲がった所に経堂があり、国の重要文化財に指定されています。
平安時代中期には一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる講堂として
栄えましたが、それ以降は記録から消え、一切経も現在は残されていません。
現在の建物は寛永10年(1633)に再建され、
平成12年(2000)に解体修理が行われました。
堂内須弥壇には釈迦三尊像、愛染明王像、宝塔が安置され、
鏡天井に江戸時代の絵師・岡村信基筆の墨絵の円龍が描かれています。
毎年2月15日の涅槃会はここで行われ、当日は縦約391cm、
横約303cmの大涅槃図が掲げられます。
この涅槃図は狩野派の絵師・山口雪渓が宝永4年(1707)から2年半を
かけて描いたと伝わります。
開山堂
経堂の先に田村堂(開山堂)があります。
奈良時代の末期、奈良の子島寺で修行を積んだ僧・賢心(後に延鎮と改称)は、
ある夜、夢に白衣の老翁があらわれ「北へ清泉を求めて行け」との
お告げを受けました。
賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で
清らかな水が湧出する瀧を見つけ、老仙人と出会いました。
老仙人は、行叡居士(ぎょうえいこじ)と言い、この瀧のほとりで
草庵をむすび修行をしていました。
行叡居士は賢心に観音力を込めたという霊木を授け
「あなたが来るのを待ち続けていた。
どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」と
言い残して姿を消したといいます。
賢心は「行叡居士は観音の化身だ」と悟り、この霊木で千手観音像を刻み、
行叡居士の旧庵に安置しました。
これが清水寺の始まりであるとされています。
その後、坂上田村麻呂の寄進により本堂が建立され、更に大規模に改築されたことから、
清水寺では、行叡居士を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけています。

現在の建物は寛永10年(1633)に再建、平成18年(2006)に修復されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
繧繝彩色(うんげいさいしき)という手法が施され、丹塗りの柱と屋根を
つなぐ組み物は、朱や緑など五色で彩られています。
堂内中央の須弥壇上には、国の重要文化財に指定されてる唐様式の厨子があり、
厨子内に像高78cmの坂上田村麻呂公像とその妻・三善高子
(みよし の たかこ/たかいこ:生没年不詳)坐像が安置されています。
併せて室町時代作の行叡居士坐像と江戸時代作の延鎮上人坐像が安置されています。
轟橋
その向かいに拝観受付があり、入山料400円を納めて轟門(とどろきもん)へと
向かいます。
轟門の前の橋は「轟橋」と称され、、現在は水は流れていませんが、
かっては轟川が流れていました。
橋は清水寺の口を表し、橋の中央の木板は舌、両側の石板は歯が表されています。
手水鉢
橋の左側にある手水鉢は「ふくろうの手水鉢」と称されています。
台石は中央に仏像、四隅にふくろうが浮き彫りされています。
台石は鎌倉時代の宝篋印塔の塔身とされています。
朝倉堂
その左後方に朝倉堂があり、国の重要文化財に指定されています。
永正7年(1510)に越前の守護大名・朝倉貞景(1473~1512)の寄進により、
「法華三昧堂」として創建されました。
創建当初は朱が鮮やかな舞台造りでしたが、寛永6年(1629)の大火で焼失した後、
崖が埋め立てられました。
整地の際に石函(いしはこ)が出土し、中から約7寸(約22cm)の金色の
清水型千手観音像が発見され、現在は成就院の本尊として祀られています。
寛永10年(1633)に朝倉堂として、現在の姿である全面白木造りで再建され、
平成25年(2013)に解体全面修復されました。
堂内の宝形作り唐様厨子の内部には、本堂と同様に清水寺型千手観音、
毘沙門天、地蔵菩薩の三尊像が安置され、洛陽三十三所観音霊場・
第十三番札所となっていますが、納経は清水寺の納経所で行います。
また、絶対秘仏とされる「文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)」が
安置されています。
もとは地主神社の本地仏として、地主神社の本殿で祀られていたのですが、
明治の神仏分離令により清水寺へ遷され、朝倉堂に安置されるようになりました。
朝倉堂は通常非公開です。
朝倉堂-扁額
朝倉堂には「補陀殿」の扁額が掲げられています。
「補陀落山(ふだらくさん)」にあるとされる「観音菩薩が座する宝殿」という
意味合いが込められた扁額であると伝えられています。
画像はありませんが奥のほうにある仏足石は、
「平景清の足形石」とも「弁慶の足形石」とも呼ばれています。
轟門
轟門まで戻ります。
画像はありませんが、門の正面には左右両脇に持国天と広目天、
背面には阿・吽形の狛犬が安置されています。
轟門には、「釈迦の教えが獅子が吼えるように四方八方に轟く」という
意味が込められています。
轟門が何時頃創建されたかは定かでありませんが、現在の門は
寛永6年(1629)の大火後、寛永8~10年(1631~33)に再建されました。
東大寺の転害門を模して建立されたと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
寛永の大造営では、第3代将軍・徳川家光(在職:1623~1651)の寄進により
大火で焼失した伽藍のほとんどが復元されました。

轟門には「普門閣」の扁額が掲げられています。
普門には「観音菩薩が広く衆生に救いの門を開いている」との意味があり、
そのためか轟門には門扉がありません。
鉄下駄
回廊を進むと長さ約30cm、重量12kgの鉄下駄が展示されています。
錫杖
その背後には2本の錫杖(しゃくじょう)が立てられています。
錫杖の大きい方は長さ2.6m、重量96kg、小さい方は長さ176cm、重量17kgあります。
鉄下駄と錫杖は弁慶が持ち物だったとの伝承が残されています。
大黒天像
回廊はその先で右に曲がり、更に左へ曲がって本堂の前に続きます。
左へ曲がったところに、室町時代作で像高113cmの
出世大黒天像が安置されています。
かって、五条大橋(現在の松原橋)の中島にあった大黒堂の
本尊であったと伝わります。
本堂
本堂の画像は工事中のものですが、工事は完了していますので後日、
完成後の画像を掲載する予定です。
平安時代になると、第50代・桓武天皇(在位:781~806)は新寺建立禁止令を発布し、
平安京内に東寺西寺の二官寺以外の新寺の建立は禁止されました。
清水寺は平安時代以前に建立された坂上田村麻呂の私寺として、
例外的に存続が認められました。
延暦24年(805)、太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜って桓武天皇の
御願寺となり、弘仁元年(810)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となって
「北観音寺」の寺号を賜りました。

清水寺の伽藍は康平6年(1063)の火災以来、近世の寛永6年(1629)の焼失まで、
記録に残るだけで9回の焼失を繰り返しました。
平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺
南都北嶺」の争いにも、たびたび巻き込まれ、
延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡していました。
現在の本堂は寛永6年(1629)の火災後、寛永10年(1633)に徳川家光の
寄進により再建されたもので、国宝に指定されています。

本尊の十一面千手観世音菩薩像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に
伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像で
「清水寺形千手観音」と呼ばれています。
33年に1度開扉の秘仏とされ、秘仏本尊を模して造られた
「お前立ち像」が安置されています。
脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、
剣を持つ特殊な形の像です。
その左右に室町時代から江戸時代作の「二十八部衆立像」が並んでいます。
二十八部衆は千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされ、
二十八部衆のそれぞれに500名の部下を持って本尊を守護巣とされています。
また、毘沙門天像の厨子の左右には風神・雷神像が安置されています。
本尊の十一面千手観世音菩薩像は、西国三十三書観音霊場・第16番、
の札所本尊でもあります。
音羽の滝
本堂の舞台のすぐ下に音羽の瀧があります。
清水の舞台は、蹴鞠(けまり/しゅうきく)の達人で、長く蹴鞠の手本とされた
藤原成通(ふじわら の なりみち:1097~1162)の『成通卿口伝日記』に
寛治5年(1091)に「清水の舞台で蹴鞠をしながら往復した」と記されていることから、
当時には既に存在していたと推定されています。

舞台床は18mx10mの広さで、
長さ5.5m、幅30~60cm、厚さ10cmのヒノキ材が使われています。
平成29年(2017)~令和2年(2020)にかけて行われた修理では166枚が張り替えられました。
舞台は本尊に芸能を奉納する場であり、古くから雅楽や能、狂言、歌舞伎などが
演じられ、現在でも特別な法会の際には舞台奉納が行われています。
舞台の最先端から地上までの高さは約13mで、4階建てのビルの高さに相当します。
江戸時代の記録では、舞台から飛び降りた人が234人に及びました。
当時は舞台の下は樹木が茂り、そのお陰で多くの人が命拾いしましたが、
34人が死亡しました。
願掛けにより、所願成就の際は無事着地し、不成就の場合でも補陀落浄土への
道が開けていると信じられていたようです。
明治5年(1872)に京都府から禁止令が出され、以後は減少したそうです。
奥之院
音羽の瀧の背後の真上には奥の院があります。
子安塔

本堂の東側には「堂々巡り筋痕」が残されています。
かって、お百度、お千度の堂々巡りの際に、闇の中で長押しに数珠を当て、
それを手掛りとしてお参りした痕跡ですが、
弁慶が指で付けたとの伝承も残されています。

地主神社へ向かいます。
続く
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三角州
加茂大橋からの光景です。
右の高野川と左の加茂川が合流して鴨川となります。
三角州の奥に見える森は「糺の森(ただすのもり」と称される原生林で、
その中に旧三井家下鴨別邸やその奥に下鴨神社があります。
糺の森の「ただす}の由来には諸説ありますが、
かって、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)で
行われていた潔斎(けっさい)の儀に由来しているのかもしれません。
第52代・嵯峨天皇の御代(809~823)にその場が、糺の森へ遷されたことにより、
蚕の社に「元糺」の言葉が残されています。
平安京が造営された当時、糺の森は約495万㎡でしたが、応仁・文明の乱(1467~1477)の
戦乱で総面積の7割を焼失し、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、
現在の約12万4千㎡(東京ドームの約3倍)の面積となりました。
平安時代やそれ以前の植物相をおおむね留めている原生林であり、
国の史跡に指定されています。
高野川の上流に下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
降臨したとされる御蔭山があります。
加茂川の上流には賀茂建角身命の孫神を祀る上賀茂神社があります。
社号標
京阪と叡山電鉄の出町柳駅の西、高野川に架かる河合橋を渡り、
その先で右折して北上した所に社号標が建っています。
下鴨別邸-入口
その先の鳥居の手前、左側(西側)に旧三井家・下鴨別邸への入口があります。
庭を愛でながら食事やスィーツなどが楽しめます。
下鴨別邸
三井家の始まりは近江国に土着した武士で、
六角氏に仕えるようになったとされています。
織田信長の上洛により六角氏は滅ぼされ、三井氏は逃亡して伊勢国の津付近から
松坂近くの松ヶ島へ居を移しました。
慶長年間(1596~1615)には三井高俊(みつい たかとし:?~1633)が武士を廃業して
松坂に質屋兼酒屋を開き、「越後殿の酒屋」と呼ばれました。
寛永年間(1624~1645)の初め頃、高俊の嫡男・俊次は江戸本町四丁目に
小間物店を開き、後に呉服も手掛けるようになりました。
高俊の四男・高利(たかとし)は俊次の元で手代同様に働きながら
経験を積んでいましたが、母の看病のため松坂へ帰ることとなりました。
延宝元年(1673)に俊次が病死したのを機に高利は、息子たちに指示して
江戸本町一丁目に「三井越後屋呉服店」を開業しました。
これまでの慣習を破った新商法により店は栄え、京都に仕入れの店も開きました。
天和3年(1683)に店舗を拡張して両替店を開き、貞享3年(1686)に高利は本拠を松坂から
京へ移し、京都にも両替店を開店しました。
江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となりました。
高利は元禄7年(1694)に73歳で亡くなり、真如堂で葬られました。
以後、真如堂は三井家の菩提寺となりました。
高利没後、その遺産は嫡男・高平以下子供たちの共有とされ、各家は元禄7年(1694)に、
家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立しました。
その後、「三井十一家」と称される同族の11家が一体となって
三井家を盛りたてました。
下鴨別邸-玄関
高利の長男・高平(1653~1737)は宝永元年(1673)に江戸での呉服店に開業を高利に
願い出て、江戸本町一丁目で「三井越後屋呉服店」を開業しましたが、
高平の当初の役割は京都での仕入れでした。
元禄4年(1691)には家族を呼び寄せ、三井総領家の「北家」と称された油小路二条下ルに
屋敷を構えました。
その8代目の三井高福(みつい たかよし:1808~1885)は、
三井銀行と三井物産を創業し、明治13年(1880)の引退に際して木屋町三条上ルに
「木屋町別邸」を建造しました。
10代目の高棟(たかみね:1857~1948)は、明治39年(1906)に麻布区今井町
(現・東京都港区六本木)に大邸宅の「今井町邸」を建設した他、
「下鴨別邸」を建造しました。
明治31年(1896)に約2万㎡の土地を購入し、木屋町別邸の建物を
主屋として移築し、玄関棟が新たに建築されて大正14年(1925)に完成しました。
明治42年(1909)に高利の祖父・高安の300回忌に合わせて蚕の社にあった
三井家の祖霊社・顕名霊社(けんなれいしゃ)が下鴨へ遷座されたのに伴い、
その参拝の休憩所としても使用されました。

戦後、三井財閥は解体され、顕名霊社は油小路邸へ遷され、
下鴨別邸は昭和24年(1949)に国に譲渡されました。
平成19年(2007)までは隣接する京都家庭裁判所の所長宿舎として
使用されていましたが、
平成23年(2011)に国の重要文化財に指定されたのに伴い、約4年間にわたる工事を経て、
平成28年(2016)10月1日から一般公開されるようになりました。
拝観料は500円で、京都市内在住の70歳以上や
市内の小・中学校に在学する生徒は無料となります。
秀穂舎
参道を北上すると泉川に架かる橋があり、その手前の右側(東側)に
秀穂舎(しゅうすいしゃ)がありますが閉門中でした。
第三十四回式年遷宮の折に、下鴨神社の神職(学問所画工)が住んでいた社家
旧浅田家住宅を改修して開館した資料館で、
下鴨神社所蔵の資料などが展示されていますが、当日は閉門されていました。
秀穂舎-華表門
表門は「華表門(かひょうもん)」と称されています。
「華表」とは鳥居のことで、門は鳥居をかたどっており、
下鴨神社の社家に多く見られるそうです。
秀穂舎-石人文官
門の前に立つ石像は「石人文官(せきじんぶんかん)」と称されています。
下鴨神社への参道の一帯は、神職の屋敷街で、
このような石像が、その証となったそうです。
泉川
裏には泉川が流れ、流れに面にして禊場があります。
御蔭通
更に北上すると、表参道を御蔭通が横切っています。
毎年、5月15日の賀茂祭(葵祭)に先だって、
5月12日には御蔭祭(御生神事=みあれしんじ)が御陰神社で行われます。
社伝では御陰神社のある地に、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)が降臨したとされ、神霊が御陰神社から
下鴨神社へと遷されます。
その祭列が通ることから「御陰通」と名付けられました。
御蔭祭の起源は、第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の
時代(BC581~BC549)と伝わります。
世界遺産の碑
御陰通を横断すると表参道の脇に「世界文化遺産」の碑が建立されています。
下鴨神社は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として
ユネスコの世界遺産に登録されました。
下鴨神社は正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と称され、
山城国一宮で、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
神仏霊場の第101番札所でもあります。
表参道
表参道の少し離れた東側には泉川、西側には「瀬見の小川」が流れています。
紅葉橋
直ぐ先の左側に「紅葉橋(もみじばし)」が架けられています。
こがらし社跡
下を流れるのが「瀬見の小川」で、下流側には禊場らしきものが見られます。
無社殿地唐崎社(からさきのやしろ)紅葉橋揺拝所かと思われます。
唐崎社は高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座し、
瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)が祀られ、賀茂祭の解除(げじょ=お祓い)の
社とされていましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で社殿が焼失しました。
元禄7年(1694)、御手洗池に井上社として再建され、
明治4年(1871)に唐崎社の旧社地は上地令の対象となりました。
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として紅葉橋揺拝所が再興されました。

また、紅葉橋の辺りに雨乞いを祈る「こがらし社」がありました。
願いが叶うと泉川の小石が飛び跳ねたとの伝承が残され、
鴨の七不思議の一つに数えられています。
表参道の東に泉川が流れているので
「こがらし社」は、もう少し東にあったのかもしれません。
河合神社-鳥居
橋を渡るとその先に鳥居が建っています。
河合神社の東側鳥居で、先に見えるのが西側鳥居です。
西側鳥居から北へ延びるのが旧馬場ですが、現在は舗装されています。
河合神社-三井社
鳥居をくぐると左側(南側)に三井社があります。
三井社は「三塚社」とも呼ばれ、社殿前に立つ駒札には「古い時代の下鴨神社は、
古代山代国・愛宕(おたぎ)、葛野郷(かずぬごう)を領有していた。
その里には下鴨神社の分霊社が祀られていた。
この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社として祀られていた神社。
摂社・三井神社の「蓼倉里三身社」とは別の社。」と記されています。

鴨社蓼倉郷の現在地を特定するのは困難ですが、下鴨神社の北部に
「左京区下鴨蓼倉町」の地名が残されています。
また、東部の高野川を越えた所に高野蓼倉町の地名も見られます。

祭神は中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
東社に伊賀古夜媛売命(いかこやひめのみこと)、
西社に玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
伊賀古夜媛売命は賀茂建角身命の妻で、玉依媛売命は子ですが、
豊玉姫の妹ではなく、一般に巫女を指す名とされています。
河合神社-山門
三井社の前に下鴨神社・第一摂社である河合神社の神門があります。
創建は初代・神武天皇の御代(BC660~BC585)とされています。
河合神社-社殿
社殿の配置図
河合神社-拝殿
拝殿
正式には「鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこやけのじんじゃ)」と
称され、平安時代の延長5年(927)に編纂された『延喜式』
「神名帳」にその名が記されています。
「小社宅(こそべ)は、『日本書紀』では「社戸(こそべ)」とも記され、
本宮・賀茂御祖神社の祭神と同じ神々との意味があります。
河合神社-本殿
本殿
天安2年(858)に名神大社に列し、元暦2年(1185)には正一位の神階に列せられ、
明治10年(1887)に賀茂御祖神社の第一摂社となりました。
現在の社殿は延宝7年(1699)に行われた式年遷宮の古社殿が修造されたものです。

祭神は玉依媛売命(たまよりひめのみこと)で、初代・神武天皇の母神で、
より美しなりたいという願望と縁結びを叶え、
更には安産や子育ての神とされています。
河合神社-鏡絵馬
右側に、多数の鏡絵馬が奉納されています。
河合神社-鏡絵馬-描き方
玉依姫命は美貌の持ち主とされ、美貌成就を祈願して奉納されています。
河合神社-貴布禰社
左側に貴布禰神社(きふねじんじゃ)があり、
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
応保元年(1161)収録の『神殿屋舎等之事』に、
河合神社の御垣内に祀られていたことが記載されています。
河合神社-任部社
その左に任部社(とうべのやしろ)「古名 専女社(とうめのやしろ)」があり、
八咫烏命(やたがらすのみこと)が祀られています。
河合神社創祀のときより祀られています。
古名の「専女」とは、稲女とも書き
食物を司る神々が祀られていたことを示しています。
鎌倉時代末期に成立した『百練抄(ひゃくれんしょう』の
安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀され、
この時より祭神が八咫烏命に改められたと推察されています。
八咫烏は、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされ、神武東征では神武天皇を大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。

昭和6年(1931)、八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として
日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神となり、
サッカーボールが多数奉納されています。
河合神社-鴨長明資料館
西端には鴨長明資料館があります。
大炊殿(おおいどの)と秀穂舎(しゅうすいしゃ)との共通拝観券(500円)で
拝観できるそうですが、秀穂舎が閉まっていたため、拝観は後日とします。
河合神社-六社
境内の左側(西側)には六社(むつのやしろ)があり、右側から
諏訪社[祭神:建御方神(たけみなかたのかみ)]、
衢社(みちしゃ)[祭神:八衢毘古神(はちまたひこのかみ)、
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)]、
稲荷社[祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)]、
竈神(かまどのかみ)[祭神:奥津日子神(おくつひこのかみ)、
奥津比賣神(おくつひめのかみ)]、
印社(いんしゃ)[祭神:霊璽(れいじ)]、
由木社(ゆうきしゃ)[祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)]が祀られています。
建仁元年(1201)の第八回、新年遷宮のために描かれたとみられる
「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々に祀られていましたが、
江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となっていました。
いずれも、衣食住の守護神です。
河合神社-鴨長明方丈
境内の右側(東側)には鴨長明の方丈が再現されています。
鴨長明は久寿2年(1155)、下鴨神社最高位の地位にある
正禰宜(しょうねぎ)惣官(そうかん)、鴨長継(かものながつぐ)の
次男として誕生しました。
元久元年(1204)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の
職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得ました。
しかし、賀茂御祖神社・禰宜の鴨祐兼(すけかね)が長男の
祐頼(すけより)を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、
神職としての出世の道を閉ざされました。
その後、長明は出家し、東山に次いで大原、晩年は京の郊外・日野山
(京都市伏見区日野町)に方丈を結んで隠棲し、
建暦2年(1212)に『方丈記』を著しました。
『方丈記』は、長明が庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であり、
日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、
『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれています。
馬場
河合神社の東の鳥居を出ると、北側へと馬場が伸びています。
毎年、5月3日に行われる流鏑馬神事では、勇壮に馬が駆け抜け、
馬上から的にめがけて矢が放たれます。
瀬見の小川
「瀬見の小川」は馬場に沿って流れています。
河崎社-1
馬場を北上すると左側(西側)奥に末社の河崎社(こうさきのやしろ)があります。
河崎社-2
承和11年(844)に山城国粟田郷(あわたごう)が賀茂御祖神社の社領と制定され、
現在の知恩寺付近の山城国粟田郷河崎里に創建されました。
知恩寺には現在でもその名残として加茂明神鎮守堂が残されています。
京都大学から田中神社一帯にあった、鴨長明一族の鴨氏の集落・鴨村の社でした。
その後、度重なる兵火を受け、集落は鴨社神館御所跡へ移住し、
河崎社も天明5年(1785)に御所跡へ遷座されました。
大正10年(1921)に京都市都市計画法により、河崎社境内が下鴨本通となり、
鴨社神宮寺跡の賀茂斎院歴代斎主神霊社へ合祀されました。
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系譜の始祖神が祭神として祀られています。
糺の池
背後には糺の池が復元されていますが、まだ整備中で立入が禁止されています。
二十二所社
北側に隣接して摂社の二十二所社があります。
創祀されたのは不詳ですが、元々この鴨社神宮寺境内に祀られていました。
正徳元年(1711)の第24回式年遷宮により造替えされ、
末社・雄太夫社と相殿となりました。
明治10年(1877)3月21日に摂社七社の内、第六社として制定され、
21年ごとの遷宮に合わせて開帳される珍しい社であることから、
明治43年(1910)4月8日に特別保護建造物に指定され、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系譜を始祖とする氏とその祖神魂命、
更に第9代・開花天皇の皇子・彦坐命(ひこにますのみこと)の系譜と
初代・神武天皇や第10代・崇神天皇より賜った姓の氏祖の神々が祀られています。
賀茂建角身命の御子神である玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られ、
日吉大社の祭神でもあったことから、日吉大社の揺拝所として、
一時「日吉社」とも呼ばれていました。
雑太社
北側に雑太社(さわたしゃ)があり、神魂命(かんたまのみこと)と
賀茂建角身命が祀られています。
元は鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として祀られていた神社です。
神舘御所は下鴨村の南にあり、賀茂祭の時に内親王が清服に改める所とあります。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で鴨社神舘御所は焼失し、
雑太社は鴨社神宮寺域へ遷されました。
しかし、宝永5年(1708)に鴨社神宮寺も火災を受け、河合神社へと遷されました。
第二十三回・正徳元年(1711)式年遷宮では、神宮寺域内にあった
日吉神社との相殿となり、昭和34年の第三十二回式年遷宮事業により
造替のため昭和20年(1945)末に解体され、遷宮事業が遅延のため仮殿のままでしたが、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。
雑太社-ボール
社殿前にはラグビーのボールが祀られています。
第一蹴の地
また、「第一蹴の地」の碑が建立されています。
明治32年(1899)、日本に伝わったラグビー(蹴球)は、
明治43年(1910)になって、京都に伝わり、糺の森でラグビーの
「第一蹴」が行われたとされています。
この「第一蹴の碑」は、昭和44年(1969)に三高(京都大学の前身)
蹴球部OBによって建立されました。
令和元年(2019)に日本で開催されるラグビーワールドカップの抽選会が、
平成29年(2017)5月に京都迎賓館で行われ、日本はプールAと決まりました。
その抽選に先立ち、各国の関係者が「第一蹴の碑」と「雑太社」の前に集まって、
蹴鞠の奉納・体験が行われました。
垂水
北側の垂水(たるみ)は、平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として
新たに造られたと思われます。
第38代・天智天皇の志貴皇子が
「いけばしる 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる 春になりにけるかも」と
詠まれたことから造られたと思われます。
斎主神霊社
その北側には賀茂斎院歴代斎主神霊社(いつきのみやのみたまのおやしろ)があり、
35代にわたる斎王の神霊が祀られています。
斎院(さいいん)とは、賀茂社に奉仕した皇女のことで、
伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」と呼ばれています。
平安時代、平城上皇が都を平城京へ戻そうとした際、第52代・嵯峨天皇は
賀茂社が自分に味方するならば、皇女を神迎えの儀式に奉仕させると祈願しました。
弘仁元年(810)の薬子の変で嵯峨天皇側が勝利し、
4歳の有智子内親王(うちこないしんのう:807~847)が初代・賀茂斎院となりました。
歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、
3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入しました。
斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に
奉仕し、賀茂祭では上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行いました。
その時の行列は華麗なもので、清少納言が『枕草子』で
祭見物の様子を書き留めています。
斎院は、平安時代末期となると源平の争乱でしばしば途絶するようになり、
第82代・後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王(れいし/いやこないしんのう:1200~1273)が
第35代・斎院を退下したのを最後に承久の乱の混乱と皇室の資金不足で廃絶しました。
切芝
馬場のその先に、右へと折れる参道があります。
「瀬見の小川」に架かる橋を渡ると表参道となり、その南東側に切芝があります。
鴨の七不思議の一つで、切芝は糺の森のへそ(真中)とされ、古代からの斎場でした。
御神木
その西側の御神木は、現在は枯れてしまっています。
御神木-枯れる前
平成29年(2017)の参拝時には樹皮が剥がれて白く枯れた幹が
見え、つっかえ棒によって支えられていましたが、青々と葉を茂らせていました。
あけ橋
馬場へ戻って北上すると、右側に「あけ橋」が架かっています。
平安時代末期の社頭を描いた『鴨社古図』に見える橋で、
古くからこの下を流れる「瀬見の小川」を渡ることがお祓いであり、禊でした。
祓い清め、身が改まることから「あけ橋」と呼ばれてきました。
あけ橋-涸れ沢
しかし、現在は「瀬見の小川」の流路が変わり、橋の下に流れは無く、
東から流れてきて、この橋の南で流路を南へ変えています。
お休み処
橋を渡って東へ進むと、表参道に面して「おやすみ処」があります。
手水舎
参道の東側に手水舎があります。
覆屋は第10代・崇神天皇7年(BC91)に糺の森神地で瑞垣の造替を賜った
記録をもとに再現した透塀です。
手水舎-鉢
御手洗は、祭神の神話伝承に因む舟形磐座石で、御神水をそそぐ樋は、
「糺の森の主」と呼ばれていた樹齢600年のケヤキです。
古代から糺の森は、清水の湧く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。
「糺」は「直澄(ただす)」とも記され、語源の一説ともなっています。
奈良の小川
その南側には「奈良の小川」が流れています。
この流れが下り、南北の流れとなると「瀬見の小川」と呼ばれます。
奈良殿橋
表参道の「奈良の小川」に架かる石橋は「奈良殿橋」と呼ばれ、
正面に見える鳥居は「南口鳥居」です。
奈良の小川-復元
その南側に平安時代の流路が復元されています。
烏の縄手
新旧の「奈良の小川」の間にある参道は、鴨の七不思議の一つで
「烏(からす)の縄手」と呼ばれています。
縄手とは「狭い、または細い、長い道」という意味で、
八咫烏は下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされていることから、八咫烏の神様へお参りする長い参道を意味しています。
かっては、幾筋もこのような参道がありましたが、その一部が復元されました。
奈良の小川-復元-水源
「烏の縄手」へ入って行くと、南側に復元された「奈良の小川」の水源があります。
祭祀遺構
その南側に平安時代後期の、糺の森の祭祀遺構が復元されています。
祭祀遺構-図面
平成13年(2001)から実施された発掘調査で検出された祭祀遺構の内、
石敷遺構1と石敷遺構2が復元されています。
奈良殿神地への参道
「烏の縄手」へ戻り、北へ進むと「奈良殿神地/直会殿・楼門」の立札があります。
奈良殿神地への分岐
その先で参道が分岐し、右は直会殿・楼門、左は奈良殿神地への参道となり、
奈良殿神地の方へ進みます。
奈良殿神地
奈良殿神地(ならどののかみのにわ)は古代祭祀遺構の一つです。
周囲東西18m、南北25m、高さ1.6mの小島で、島の東西を流れるのは、
みたらし池からの湧水、南側は泉川からの支流です。
二つの流れが合流する清浄な地とされ、本宮の祭神・賀茂建角身命が
天鳥舩(あまのとりふね)に乗り降臨されたとの神話伝承や、
島の形が舩に似ていることから「舩島(ふなしま)」とも呼ばれています。
舩島の中央が磐座で、磐座の地中に井戸のような遺跡があります。
古代、中州は全く新しい、生まれたばかりの神聖な清らかな土地と考えられ、
神々が鎮まるに相応しい土地として清浄視されてきました。
『日本外史』では賀茂斎王が楢刀自神(ならとじのかみ)の祭祀を
行っていたことが記され、「奈良殿」の由来となっています。
刀自とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、
古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、
神饌を司る神として祀られたと考えられています。
島の周辺に卯の花が群生していたことから、神事は「卯の花神事」とも呼ばれ、
賀茂祭を前にして解除(げじょ=お祓い)の神事が行われていました。
また、祈雨や止雨の祭祀も行われていた記録も残されています。

南口鳥居まで戻り、本宮を参拝します。
続く

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白雲橋
国道162号線を北上すると清滝川に架かる白雲橋があります。
茶山栂尾の碑
その橋の手前右側(東側)に「茶山 栂尾(とがのお)」の碑が建っています。
表参道
橋を渡って少し進んだ先に高山寺の表参道があります。
新型コロナによる緊急事態宣言で、裏参道の先にある無料駐車場は
閉鎖されていますので、参道脇の路肩にバイクを駐車し、
表参道まで戻り、石段を登りました。
表参道-寺号碑
富岡鉄斎筆の「栂尾山 高山寺」の石碑が建っています。
「尾」には 山裾の、なだらかに延びた部分の意味があり、高雄は高尾とも記され、
槙尾(まきのお)と栂尾で三尾(さんび)と称され、北に位置するのが栂尾です。
表参道-仏足石の碑
「仏足石参道」の石碑も建っています。
世界遺産の碑
世界文化遺産の碑
高山寺境内は国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
表参道-入山受付
入山受付がありますが、紅葉の季節以外は境内は無料です。
かってこの付近に大門があったと伝わります。
表参道の石灯籠
参道の両脇には石灯籠が建ち、
その先には正方形の石が17枚連なって敷かれています。
表参道からの東屋
谷を越えて東側に東屋が見えます。
表参道-石水院への別れ
その先で参道は石水院へと分岐しますが、直進して金堂へと向かいます。
金堂への石段
金堂は楞伽山(りょうがせん)の中腹に築かれているため、石段が待ち受けています。
楞伽山はスリランカにある山の名とされていますが、詳細は不明です。
羅婆那夜叉(らばなやしゃ)と称する王が華宮殿に住んでいたとされています。
釈迦が説法をするため、この山を訪れた際、王は釈迦の一行を出迎えた
との故事に因み、明恵は境内の裏山を「楞伽山」、庵室を「華宮殿」とも
「羅婆坊」などとも呼びならわしました。
金堂
現在の金堂は寛永年間(1624~1644)に仁和寺・真光院の古御堂が移築され、
堂内には室町時代作の釈迦如来坐像が安置されています。
かって、この地では山岳修業が行われ、奈良時代の宝亀5年(774)に
第49代・光仁天皇の勅願で「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される
華厳宗の寺院が建立されたと伝わります。
平安時代には神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と
称されていました。

鎌倉時代の建永元年(1206)に明恵は、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、
「日出先照高山之寺(日、出でて、まず高き山を照らす)」の額を下賜され、
この句に因み寺号を「高山寺」としました。
明恵は、治承4年(1180)、9歳の時に両親を亡くし、神護寺の
文覚上人(もんがくしょうにん)の弟子であった叔父の上覚に師事しました。
文治4年(1188)に出家、東大寺で具足戒を受け、「高弁」と名乗り
東大寺の他、仁和寺でも学びました。
23歳の時に紀伊国有田郡白上に遁世(とんせい)し、
3年にわたって山岳修業を行いました。
建久2年(1191)に仏眼仏母尊(ぶつげんぶつもそん)を本尊として仏眼の法を修め、
明恵が見た夢を記録した日記「高弁夢記」を記しています。
高山寺には23歳の建久7年(1196)から51歳の貞応2年(1223)までの
高弁夢記が残され、国の重要文化財に指定されています。
また、仏眼仏母尊は特に密教で崇められている仏の一尊で、
真理を見つめる眼を神格化したものです。
人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となります。
これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として
生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、
仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展しました。
明恵が念持仏とした絵画の絹本著色仏眼仏母像は
鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。

建久8年(1197)、24歳の明恵は、故郷の紀州湯浅山上の庵で世俗を斥け、
欲を断ち仏道に精進しました。
「形をやつして人間を辞し、志を堅して如来のあとを踏まむ」とまで思いつめ、
自ら五根(目・耳・鼻・舌・身)を削ごうと考え、
日常生活に支障がないとして、耳を切り落としました。
明恵はその後一時高雄に戻りましたが、再び白上へ移り、元久元年(1205)に
仏跡を巡礼しようと天竺(インド)へ渡る計画を立てましたが、
春日明神の神託を受け、断念しました。
その後もインドへの渡航を企てましたが叶いませんでした。
建永元年(1206)に栂尾の地を与えられ、神護寺十無尽院を再興しました。
また、神護寺十無尽院は著しく荒廃していたため、実質的には明恵が
高山寺を開山したとされています。
明恵は華厳宗の復興に尽力し、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならび、
しばしば超人的な学僧と評されます。
一方で仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、
生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践しました。
閼伽井
金堂の裏側に閼伽井があります。
承久元年(1219)に明恵は、現在の金堂の地に本堂を建立しました。
本堂には運慶作の丈六(約4.85m、坐像の場合はその半分)の
盧舎那仏(るしゃなぶつ)などが安置されていました。
本堂の東西には阿弥陀堂・羅漢堂・経蔵・塔・鐘楼などが建立されましたが、
室町時代に殆どの建物が焼失しました。
宝塔
金堂の左側に建つ宝塔は昭和56年(1981)に建立され、
塔内には写経が納められています。
春日明神
金堂の右側には鎮守社があり、春日明神が祀られています。
向山
春日明神社の前からはきれいに植林された北山杉の美林を望むことができます。
高山寺の先の中川の集落は、田畑に適する土地が僅かしか無く、
「山稼ぎ」(林業)が生業になっていました。
水が豊かで冷涼な北山の里で、特に杉の木を育てるには適地ですが、
木材を流して運べる広い川がなく、大きな木を運び出すのは困難な場所でした。
ある日、僧侶から「磨き丸太」の技術を教えられ、室町時代に千利休により
「茶の湯」文化が完成されると、北山杉は茶室などの
数寄屋建築に用いられるようになりました。
「磨き丸太」は菩提の滝で採取した砂が使われていましたが、
現在では水圧やたわし状のもので磨くことが主流となっています。
石水院跡
春日明神社の東北方向に、石水院跡がありますが、
石段の先は立ち入りが禁止されていますので詳細は不明です。
建保4年(1216)に建立された明恵の住坊でしたが、
安貞2年(1228)の洪水で流失しました。
仏足石-覆屋
参道は南西方向へと緩やかに下り、現在の主要な建物が並ぶ参道と合流します。
西側の金堂からの参道より一段低い所に、広い空き地があり、
小さな覆屋がポツンと建っています。
仏足石
覆屋の内部には仏足石が祀られています。
明恵の遺蹟の一つで聖跡とされていましたが、
摩耗したため文政年間(1818~1830)に復元されました。
千輻輪宝(せんぷくりんぽう)、金剛杵(こんごうしょ)、
双魚紋(そうぎょもん)などの紋様が刻まれています。
明恵上人廟
参道まで戻ると、その先には明恵上人の御廟があります。
寛喜4年(1232)、58歳の明恵は禅堂院で厳密(ごんみつ)を具現化し、
その中で息を引き取ったとされています。
厳密とは、華厳と真言密教を融合した、明恵が打ち立てた独自の宗教観です。
画像はありませんが、御廟の境内に宝篋印塔と如法経塔が建ち、
共に鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
明恵上人廟-笠塔婆
御廟の前に二基の鎌倉時代の笠石塔婆が建ち、一方には「山のはに
われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに まだ友とせむ」と刻まれ、
明恵が詠んだとされています。
もう一方には「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」と刻まれ、
明恵の遺訓碑とされています。
開山堂
御廟から下った所に開山堂があり、明恵上人坐像が安置されています。
開山堂は、明恵が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に建立されましたが、
室町時代に焼失し、享保年間(1716~1736)に再建されました。
1月8日に明恵上人生誕会、1月19日に明恵上人命日忌法要、
11月8日に献茶式が行われています。
明恵上人坐像は鎌倉時代の作で等身大の像高83cm、
国の重要文化財に指定されています。
嘉禎2年(1236)に明恵上人の遺徳を敬い、禅堂院の東南に十三重塔が建立され、
上人年来の本尊であった弥勒菩薩像が安置されました。
禅堂院と塔を結ぶ渡廊に上人坐像が安置されたとの記録があり、
本像と推定されています。
開山堂-土蔵
開山堂の奥には土蔵がありますが、詳細は不明です。
聖観音像
開山堂の境内には、赤堀信平(1899~1992)作の聖観世音菩薩像が祀られています。
梵字碑
また、梵字の石碑が祀られています。
参道両側の石垣
開山堂からの参道の両側には、かっての諸堂や塔頭跡の石垣が積まれています。
経蔵
経蔵(法鼓台文庫)は昭和34年(1959)に建立された鉄筋コンクリート造り、
3階建ての建物で、博物館寄託の仏像・絵画等の美術品を除く、聖教(しょうぎょう)・
典籍・古文書類のほぼ全てが収められていますが、非公開です。
法鼓台道場
経蔵から下った所に昭和44年(1969)に建立された法鼓台道場があります。
法鼓台道場-門
しかし、道場への門が閉じられ詳細は不明です。
遺香庵-入口
更に下ると茶室・遺香庵がありますが、通常非公開です。
明恵上人の700年遠忌を祈念して昭和6年(1931)に、近代の茶道の普及に
努めた高橋箒庵(そうあん)の指導のもとに建立されました。
庭園は小川治兵衛によって作庭され、京都市の名勝に指定されています。
遺香庵-鐘楼
参道から見えるのは茶室の待合で、梵鐘が吊り下げられ、
鐘楼を兼ねているのかもしれません。
梵鐘には遺香庵の建築に携わった人々の名前が刻まれているそうです。
茶園
遺香庵の向かい側(西側)に茶園があり、「日本最古之茶園」の碑が建っています。
建久2年(1191)宋から帰国した栄西は、宋で入手した茶の種を明恵に贈りました。
明恵がそれを清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)に蒔いたのが
茶園の始まりとされています。
その後、高山寺の中心的僧房・十無尽院(じゅうむじんいん)の
跡地と推定される現在地に茶園が移されました。
明恵は茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植しました。
それが宇治茶の始まりで、宇治の里人に茶の栽培を教えた様子が詠まれた
明恵の歌が万福寺の山門前に残されています。
南北朝時代(1337~1392)、茶は全国に広まりましたが、
高山寺で生産された茶が「本茶」、それ以外は「非茶」と呼ばれました。
しかし、第3代将軍・足利義満が宇治茶を庇護したため、
宇治茶は著しい発展を遂げました。
石水院-門
参道の東側に石水院がありますがありますが、参拝は有料です。
石水院-拝観受付
受付で800円を納めます。
石水院-池
書院と石水院との間には池があり、渡廊で結ばれています。
廂の間
石水院は、鎌倉時代初期に建立され、後鳥羽上皇が学問所として
使われていた建物を、明恵上人が賜ったと伝わり、国宝に指定されています。
当初は金堂の東にあり、経蔵として使われ、「東経蔵」と呼ばれていました。
安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向かいにあった石水院が流失したため、
東経蔵に春日・住吉明神が祀られ、石水院の名を継ぎ、中心的堂宇となりました。
寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ
顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となりました。
明治22年(1889)に現在地に移築され、住宅様式に改変されました。
西側は広縁で向拝が付され、「廂(ひさし)の間」と称されています。
かっては春日・住吉明神の拝殿があり、その名残として正面には
神殿構の板扉が残されています。
広縁には富岡鉄斎筆「石水院」の扁額が掲げられています。
鉄斎は当時の住職・土宜法龍(どき ほうりゅう:1854~1923)と交流があり、
最晩年に高台寺に滞在したそうです。
善財童子像
中央には善財童子像が安置されています。
善財童子は『華厳経入法界品』に「インドの長者の子」と記されています。
「ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を
訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いた」と、
菩薩行の理想者として描かれています。
明恵上人は善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、
善財童子の木像を安置していたと伝わります。
石水院-庭園
北側庭園

画像はありませんが、南側の縁からは清滝川を越えた向山が望めます。
日出先照高山之寺
東側の間には後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺
(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」が掲げられています。
縦105.8cm、横58.8cm、厚さ2cmの大きさで、明恵上人が建永元年(1206)11月に、
後鳥羽上皇の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜った際に
下賜されたと伝わります。
背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、
長房が院と明恵との仲立ちをつとめたと推定されています。
明恵上人樹上座禅図
床の間には国宝「明恵上人樹上座禅像(複製品)」の掛け軸が下げられています。
高山寺の後山・楞伽山(りょうがせん)の華宮殿(けきゅうでん)の西に
二股に分かれた一株の松がありました。
明恵上人はその松を縄床樹(じょうしょうじゅ)と名付け、
常々そこで坐禅入観したと伝わります。
明恵上人の遺訓
床の間の右側には、明恵上人の遺訓「阿留辺幾夜宇和(あるべききょうわ)」が
掲げられています。
また、酉の刻から申の刻に至る勤行次第が記されています。
子犬の像
その前の子犬の像は湛慶作と伝わり、像高25.5cmで
「木彫りの狗児(くじ)」と呼ばれています。
明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬を模したと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
白光観音尊
床の間がある左側の間には「白光観音尊」像が安置されています。
仏眼仏母像
絹本著色仏眼仏母像を縮小した複製品も展示されています。
明恵が念持仏とした鎌倉時代初期の作で国宝に指定されています。
十無盡院
西面には、長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の
額が掲げられています。
鳥獣戯画-甲
東側の間のガラスケースには、国宝の「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」
甲巻の複製が展示されています。
鳥獣人物戯画は甲・乙・丙・丁の4巻からなり、甲・乙巻は平安時代後期、
丙・丁巻は鎌倉時代に制作されたと考えらています。
甲巻は縦30.4cm、全長1,148.4cmで、擬人化された動物が描かれていますが、
平成21年(2009)から4年かけて行われた大規模な修復作業で、
中盤と後半の絵が入れ替わっていることが判明しました。
室町時代の火災の際に持ち出され、その後つなぎ直した際に順序が
入れ替わった可能性が指摘されています。
草むらから蛇が現れ、動物たちが遁走して遊戯が終わるという構成になっているようです。
鳥獣戯画-乙
乙巻は縦30.6cm、全長1,189.0cmで、実在・空想上の動物が写生的に描かれた
動物図鑑としての性質が強く、絵師たちが絵を描く際に手本とする粉本であった
可能性も指摘されています。
鳥獣戯画-丙
丙巻は縦30.9cm、全長933.3cmで、前半10枚は人々による遊戯、
後半10枚は動物による遊戯が描かれています。
京都国立博物館による修復過程で元は表に人物画、裏に動物画を描いた
1枚だった和紙を薄く2枚にはがし繋ぎ合わせて絵巻物に仕立て直したことが判明しました。
元々は10枚の人物画の裏に動物画が描かれ、江戸時代に鑑賞しやすいように
2枚に分けられたと推定されています。
鳥獣戯画-丁
丁巻は縦31.2cm、全長1,130.3cmで、人々による遊戯の他、
法要や宮中行事も描かれています。
東屋
石水院を出て、裏参道を下って行くと東屋がありますが、
現在は立ち入りが禁止されていました。

国道を高雄の方へ戻って、西明寺へ向かいます。
続く

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鳥居
「さわらびの道」の早蕨(さわらび)の古跡のすぐ先に宇治上神社の鳥居が建ち、
その前には「世界文化遺産」の石碑が建立されています。
宇治上神社は日本最古の現存する神社建築として平成6年(1994)に、
「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。
宇治市では平等院と宇治上神社が登録され、滋賀県大津市の延暦寺と
京都市内の清水寺や二条城など17の社寺と城で構成されています。
鳥居-扁額
鳥居には殆ど読めませんが、「離宮」の扁額が掲げられています。
明治以前まで二社一体で、宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は
「上社」・「本宮」と呼ばれ、両社を合わせて
「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称されていました。
明治に入って宇治神社と宇治上神社は分離し、宇治上神社は村社に列し、
宇治神社は明治44年(1911)に府社に昇格しました。
神門
神社の表門の手前には池があり、池には石橋が架けられています。
拝殿
門をくぐった正面に拝殿があります。
鎌倉時代の初期に建立され、国宝に指定されています。
平成15年~16年(2003~2004)に行われた年輪年代測定法で、
建保3年(1215)頃の建立と推定されています。
神のための本殿に対し、人が使う拝殿は住宅建築の様式である寝殿造が採用されています。
屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根が設けられています。
切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、
こうした形は縋破風(すがるはふ)と称されています。
清め砂
拝殿前の「清め砂」は9月1日の八朔祭で氏子により奉納され、
正月や祭事の際に境内にまき散らし、境内の清めに使われます。
御神木
授与所背後のケヤキの木は、樹齢約300年と推定され、樹高約27m、
幹回り約4.8mで、御神木とされています。
桐原水-1
拝殿の右側に、「桐原水」の建屋があります。
桐原水-2
「桐原水」は今も湧き出ている現存する唯一の宇治七名水で、手水に使われています。
飲用する場合は沸かす必要があるそうです。
本殿-1
本殿は康平3年(1060)頃の建立と推定され、現存する最古の神社建築として
国宝に指定されています。
桁行5間、梁間3間の大きな覆屋に中に一間社流造の内殿3棟が左・中・右に並んでいます。
左殿と右殿は三斗組(みつどぐみ)で、組物間に蟇股が置かれ、覆屋とは構造的に一体化されて、
左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
また、左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、
建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されています。
左殿の扉絵は唐装の二人の童子、
右殿の扉絵は笏を持つ束帯姿の二人の随身が描かれています。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木(ふなひじき)とし、蟇股を用いないなど、
形式にも違いがあり、覆屋からも独立しています。
本殿-2
左殿(向かって右)に菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)、
中殿に応神天皇、右殿に仁徳天皇が祀られています。
菟道稚郎子命と仁徳天皇は兄弟で、応神天皇を父とし、
応神天皇は八幡神としても祀られています。
岩
本殿の右横の岩は、元は何かの社殿があった旧地です。
踏み荒らされないように岩が置かれ、祀られています。
拝殿の右奥にも、同じように岩が祀られています。
春日社
春日神社は鎌倉時代後期に造営された一間社流造、檜皮葺の建物で、
国の重要文化財に指定されています。
二社
春日神社の右側には、左に住吉社と右に香椎社があります。
香椎社には神功皇后と武内宿禰神(たけのうちのすくねのかみ)が祀られています。
神功皇后は応神天皇の母親で、武内宿禰は第12代・景行天皇(けいこうてんのう)から
第16代・仁徳天皇まで仕えたとされています。
神功皇后が三韓征伐からの帰途、麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)兄弟が起こした反乱に対し、後に応神天皇となる皇子を
護ったとされ、石清水八幡宮では本殿内に祀られています。
厳島社
本殿の左側には厳島社が祀られています。
武本稲荷
厳島社から左へ進むと武本稲荷社があり、伏見稲荷大社の祭神である
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られています。
平等院を開いた藤原頼通(ふじわら の よりみち)は武本稲荷社に
神馬を献上していたとされ、その後氏子の人々が田楽を奉納したのが
宇治猿楽の始まりとされています。
武本大神
武本稲荷社の右上方には武本大神が祀られています。
与謝野晶子句碑
「さわらびの道」まで戻り源氏物語ミュージアムの方へ進むと、
与謝野晶子の「宇治十帖」の歌碑が建っています。
与謝野晶子没後50年、市制40周年を記念して平成4年(1992)10月に建立されました。
歌碑には両面に10首が晶子の真筆によって刻まれています。
晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出版したのですが、誤りが多く、欠陥本でした。
その後、一から書き直したのですが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で原稿が焼失しました。
再び書き直しに取り組み、17年後の昭和13年(1938)、
晶子61歳の時に6巻本『新新訳源氏物語』を完成させました。
与謝野晶子-句
更に『源氏物語』54帖の情景を詠み込んだ54首の和歌から成る
『源氏物語礼讃歌(げんじものがたりらいさんか)』を発表しました。
与謝野晶子は、生涯で5万首ともいわれる和歌を詠み、その中の数多くにさまざまな形で
『源氏物語』の影響を受けたと見られるものが残されています。
総角
歌碑の先に仏徳山への登山口があり、そこに「宇治十帖」第3帖「総角(あげまき)」の
古跡の碑が建っています。
薫24歳の秋八月から冬十二月の話で、八の宮の一周忌法要の夜、
薫は大君(おおいきみ)に意中を訴えたのですが拒まれました。
大君は独身を貫く決意をし、薫と妹の中君を結婚させようと考えていました。
大君の意思を知った薫は、中君を匂宮(におうのみや)と結婚させようと考えたのですが、
匂宮の母が反対し、叶いませんでした。
11月、大君が26歳の若さでこの世を去り、薫は深い悲嘆に沈み、宇治に籠って喪に服しました。
薫の悲しみを人伝てに聞いた匂宮の母は、中君と匂宮の結婚を認めました。

ここから源氏物語ミュージアムまで徒歩約3分の距離ですが、
引き返し宇治神社から上流側すぐの恵心院へ向かいます。
続く

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