地蔵堂
長等神社横の三井寺の入口から石段を上った途中に地蔵堂があります。
「中坂世継地蔵」が祀られ、現在の建物は文久2年(1819)に建立されたもので、
大津市の文化財に指定されています。
江戸時代、なかなか子供が授からない女性が、小さな地蔵菩薩を彫って祈願し
奉納したところ、たちまち身ごもったとの伝承が残されています。
観音堂
石段を上った正面に観音堂があります。
本尊は平安時代作の如意輪観音坐像で、
西国三十三所観音霊場の第14番札所本尊でもあります。
かって、観音堂は聖願寺とも正法寺とも呼ばれ、現在地から険しい道を登った山上で、
女人結界となっていた「華の谷」にありました。
室町時代の文明9年(1477)のある夜、寺中の僧たちの夢の中に老僧が現れ、
「自分は華の谷に住まう者だが、いまの場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、
これからは山を下り人々の参詣しやすい地に移り、衆生を利益したい」と告げられました。
僧たちが夢告に従い、文明13年(1481)に現在の地に遷されたと伝えられています。
観音堂-2
現在の観音堂は、江戸時代の貞享3年(1686)に焼失後、元禄2年(1689)に
再建されたもので、滋賀県の文化財に指定されています。
礼堂・合の間・正堂からなり、内部には多くの絵馬が奉納されています。
その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されています。
観音堂-本尊
本尊は如意輪観音で、脇侍として愛染明王と毘沙門天が祀られています。
如意輪観音坐像は、平安時代作で一面六臂、像高91.6cmの木造・漆箔像ですが
秘仏とされています。
令和2年3月17日~6月30日まで特別開帳されます。

愛染明王坐像は、平安時代作で像高92.1cmの木造・彩色像で、
如意輪観音坐像とともに、国の重要文化財に指定されています。
水子地蔵
観音堂の前には水子地蔵尊が祀られています。
手水舎-1
手水舎-2
手水舎は大津市の文化財に指定されています。
華の谷への道
境内の南側に展望台への石段があります。
展望台の先には、更に山の上の方へと続く石段があり、
「華の谷」へと続いているように思われます。
そろばん記念碑
展望台には「大津そろばん記念碑」が建立されています。
大津そろばんが日本のそろばんの発祥とされています。
慶長17年(1612)、長崎奉行・長谷川藤広に随行して長崎に赴いた片岡庄兵衛は、
明(みん)人からそろばんの見本と使用方法を授かって帰郷しました。
庄兵衛は研究を重ね、日本人に適した形に改良し、大津そろばんを完成させました。
その後江戸幕府から「御本丸勘定方御用調達」に任命され算盤の家元となり、
制作方法の伝授・価格の決定等を一任されるようになりました。

旧東海道、逢坂の関付近が起源で、盛んに製作されていたそうですが、
明治になって鉄道開通に伴う立ち退き等の影響を受け完全に消滅しました。
現代、生産高8割を占める播州そろばんは、 天正年間(1573~1593)の三木城落城に
際して大津に避難していた人々が、技術を習得し持ち帰ったという逸話が残されています。
展望台からの境内
展望台からの境内
左側の観音堂と手水舎をはさんで、右側に絵馬堂の屋根が見えます。
奥の右側に観月舞台、その左側に百体堂があり、毘沙門堂へと下る石段をはさんで、
観音堂の陰になって見えない所に鐘楼があります。
琵琶湖
浜大津の風景
正面に競艇場が見えます。
観音堂の屋根と比叡山
観音堂の屋根越しに見える比叡山。
比叡山の山門派と園城寺の寺門派は、最澄の没後間もなく
後継をめぐって対立が起きました。
その後、120年余りくすぶり続けた対立は、永祚(えいそ)元年(969)に
寺門派の余慶が第20代・天台座主に任じられたのをきっかけに激化しました。
「山門寺門の確執」と呼ばれ、しばしば武力闘争にも発展しました。
更に約190年後には平家は山門派、源頼政は寺門派と連帯しました。
寺門派は東大寺と興福寺にも働きかけ、山門派に対抗しましたが、
頼政軍は敗退しました。
その3年後の寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲は、
都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めました。
「もし平氏に助力すれば合戦する事になり、延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」との
恫喝に山門派は屈し、義仲の申し入れを受諾すると、東塔には砦が築かれました。
東坂本には五万騎が集結していたと云われ、平家は都落ちすることになり、
滅亡へと追い込まれました。
源平の争乱が終結すると、山門寺門の確執も沈静化しました。
絵馬堂
絵馬堂まで下りました。
観月舞台
観月舞台は江戸時代の嘉永3年(1849)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
眼下に琵琶湖の景観を望む、「観月の名所」と呼ばれるに相応しい場所にあります。
観月舞台-仰ぎ見る
毘沙門堂への石段を下った途中で観月舞台を仰ぎ見ました。
百体堂
百体堂は江戸時代の宝暦3年(1753)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国三十三所観音霊場
本尊像、堂内の左右には坂東三十三箇所秩父三十四箇所の本尊が安置されています。
合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれています。
百体堂-大津絵
百体堂の前には大津絵「鬼の寒念仏」の絵馬が掲げられています。
赤鬼が僧衣をまとっている典型的な図柄で、
本性を隠した偽善者を風刺しているとされています。
大津絵は逢坂関の西側に位置する近江国追分を発祥の地とし、
東海道を旅する旅人たちの間の土産物や護符として重宝されていました。
寛永年間(1624~1644)のころに、当初は信仰の一環として仏画が描かれていましたが、
世俗画へと転じ、18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになりました。
「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど、
護符としての効能も唱えられるようになり、江戸時代を通じて東海道大津宿の名物となりました。
観音堂-鐘楼
鐘楼は江戸時代の文化11年(1814)に上棟されたことが棟札に残され、
滋賀県の文化財に指定されています。
十八明神社
観音堂-鐘楼-梵鐘
鐘楼にはかって、「童子因縁之鐘」と呼ばれた梵鐘が吊るされていました。
この鐘を鋳造するに際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。
とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。
 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事で、そのまま帰ってきました。
 日が改まり、梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が
浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が
行方不明になったという伝説が伝わっています。
残念ながら、「童子因縁之鐘」は戦時供出され、現在は重要文化財の
朝鮮鐘」を模鋳したものが吊られています。
朝鮮鐘とは朝鮮半島で主に統一新羅時代から高麗時代に鋳造された銅製の鐘の総称です。
十八明神社
鐘楼の横から下ってきた左側に十八明神社があります。
十八明神社は延暦寺に向かって建てられ、「ねずみの宮」とも呼ばれています。
『太平記』によると、園城寺の僧・頼豪(らいごう)は白河天皇から
園城寺の戒壇道場建立の勅許を得たのですが、対立していた延暦寺の強訴により
勅許が取り消されてしまいました。
これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩を炊き壇上で果ててしまいました。
その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、
堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと伝わります。
毘沙門堂
十八明神社の向かいにある毘沙門堂は、江戸時代の元和2年(1616)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
宝形造、唐様式の小建築物で、極彩色が施されています。
元和2年(1616)、園城寺五別所の一つ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたのですが、
明治42年(1909)に三尾社の下に移築、昭和31年(1956)の解体修理に
際して現在地に遷されました。
紅葉の参道
毘沙門堂から微妙寺へと緩やかに下る参道です。
散り始めた葉が参道にうっすらと積もり、木に残る葉は、
冬の訪れが近いことを示すように深い紅色に染まっています。
衆宝観音
参道脇には衆宝観音が祀られています。
衆宝とは衆生が求めて止まない財宝のことで、観音像は右手を岩に置き、
左手を建て膝の上に置く特異な姿をしています。
三個の蓮華のうち、未開の蓮華は、未だこの世に姿を現さない我々の状態を、
半開の蓮華は現世に生きる私達を、全開の蓮華は完成された人格を現しています。
財宝とは私達の心の宝、つまり仏性を意味しています。
童観音
童地蔵-1
童地蔵-2
参道には童観音と童地蔵が祀られています。
天台智者大師像
参道を下った左側に天台智者大師像が祀られています。
智顗(ちぎ:538年 ~ 597年)は、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶で、
天台教学の大成者であり、天台宗の開祖とも慧文(えもん)、慧思(えし)に次いで
第三祖ともされています。
智顗は天台大師とも智者大師とも尊称されています。
微妙寺
微妙寺は、圓城寺五別所(別院)の一つで、平安時代の正暦5年(994)に
明尊大僧正によって創建されました。
長等神社から南へ進んだ、現在の長等公園付近に微妙寺、尾蔵寺、
近松寺(ごんしょうじ)があり、三井寺三別所と呼ばれていました。
近松寺は、平安時代に安然和尚によって創建され、今も創建地に残されています。
江戸時代の寛文11年(1672)には20歳になった近松門左衛門
(杉森信盛、通称平馬)が近松寺を訪れ、3年間過ごしました。
その後、武士の身分を捨てて京へ上り、一流の戯曲作家となりました。
尾蔵寺は廃寺となり、昭和63年(1988)に現在地に移された微妙寺には
尾蔵寺の旧本尊であった十一面観音立像が安置されています。
この十一面観音立像は像高81.8cm、平安時代の作で
天智天皇の念持仏であったと伝わります。
古くから、厄除開運、健康長寿、財福授与などを願う参詣客で賑わい、
被っていた笠も脱げてしまったことから「笠脱げの観音」と呼ばれました。
微妙寺の現在の本堂は明暦元年(1655)に再建されたもので、本尊は薬師如来です。

画像はありませんが、微妙寺から参道を挟んだ向かい側に文化財収蔵庫があります。
平成26年(2014)10月に、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃記念事業として開館されました。
微妙寺本尊の十一面観音立像や梵鐘の朝鮮鐘などが収蔵されていますが、
館内の撮影は禁止されています。
勧学院
微妙寺からの参道は南北の通りとなり、参道を北へと進んだ左側に
勧学院がありますが、立入は禁止されています。
勧学院客殿は、学問所として鎌倉時代の正和元年(1312)に建立されました。
その後、火災や豊臣秀吉によって破却され、安土・桃山時代の慶長5年(1600)に
豊臣秀頼により再建され、国宝に指定されています。
狩野光信による襖絵「花鳥図」は、国の重要文化財に指定され、
文化財収蔵庫で展示されています。
三尾影向石
勧学院の北側を山へと登って行くと、井桁に組んだ切石によって囲まれた
「三尾影向石」があります。
かって、この地に上三尾社があり、三井寺が創建される以前から
長等山の地主神として、三尾明神が祀られていました。
影向石(ようごうせき)は三尾明神が降臨された際の磐座であり、神聖な場所です。
古来よりこの辺りを「琴尾谷」と呼び、この谷を流れる清流に天人が舞い降り、
琴や笛を奏で舞戯、歌詠し神を慰めたと伝わります。

園城寺(三井寺)-その2(唐院~霊鐘堂)に続く

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