堺町御門
京都御苑は東を寺町通、南は丸太町通、西は烏丸通、北は今出川通に囲まれた
東西約700m、南北約1300mの敷地の内、宮内庁が管理する京都御所、京都大宮御所及び
仙洞御所以外は環境省の管轄で、「京都御苑」と呼ばれる国民公園となります。
しかし、京都市民の多くはこれらを総称して「御所」と呼んでいます。
延暦13年(794)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)は長岡京から平安京へと遷都し、
南北は現在の二条通から一条通、東西は大宮通から御前通にわたって
内裏が造営されました。
現在の京都御所は、内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏である
「里内裏」の一つ、土御門東洞院殿の地でした。
土御門東洞院殿は、南北朝時代に北朝の光厳上皇の意向によって、
ここが皇居として定められ、以後定制とされました。
江戸時代には京都御苑内に140以上の宮家や公家の邸宅が建ち並んでいましたが、
明治で都が東京へ遷されると、これら邸宅が取り除かれ、公園として整備ました。
周囲には「外郭九門」と呼ばれる門が築かれ、現在も残されています。
その一つ、堺町御門は行願寺から北上し、丸太町通を西へ進んだ所にあります。

江戸時代末期は長州藩が護衛していましたが、文久3年8月18日(1863年9月30日)に
起こった八月十八日の政変でその任を解かれ、
長州藩に近い三条実美(さねとみ:1837~1891)ら
公卿7人とともに京を追放されました。
その翌年の元治元年7月19日(1864年8月20日)に長州藩勢力が挙兵して
禁門の変が起こりました。
真木和泉(1813~1864)・久坂玄瑞(1840~1864)隊は開戦に遅れ、到着した時には
既に壊滅状態にありましたが、越前藩兵が護衛する堺町御門を攻撃しました。
久坂玄瑞と寺島忠三郎(1843~1864)らは朝廷への嘆願を要請するため、
鷹司邸へ侵入し、互いに刺し違え、自害して果てました。
遺命を託された入江九一(1837~1864)も鷹司邸を脱出した時に越前藩士に発見され、
槍で突かれて死亡しました。
長州勢は長州藩屋敷に火を放って逃走し、真木和泉は敗残兵と共に天王山
辿り着きましたが、他の勢力との合流に失敗しました。
真木和泉は敗残兵を逃がし、宮部春蔵(1839~1864)ら17名で天王山に立て籠もりました。
21日に会津藩と新撰組に攻め込まれると、小屋に立て籠り火薬に火を放って自爆し、
宝積寺に葬られました。
現在は天王山の中腹に十七烈士の墓があります。

門を入った正面に鷹司邸跡があります。
藤原北家嫡流の近衛家実の四男・兼平(1228~1294)を祖とし、兼平の邸宅が平安京の
鷹司室町にあったことが家名の由来となりました。
鷹司家第23代当主・輔煕(すけひろ:1807~1878)は、安政5年(1858)の
日米修好通商条約締結への勅許に不同意、将軍継嗣問題では
一橋派の意見に同意したため、大老・井伊直弼(1815~1860)による安政の大獄により、
右大臣を辞任し、出家しました。
安政7年3月3日(1860年3月24日)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺後に赦免され、
謹慎を解かれて還俗しました。
文久3年(1863)に関白職に就きましたが、八月十八日の政変ではこれに関与せず、
逆に三条実美らの帰京を運動したため、関白を罷免されました。
禁門の変では久坂玄瑞らが邸内に立て篭もったために邸宅は焼失し、
輔煕は謹慎処分となりました。
黒木の梅
少し西へ進むと北へ延びる建礼門前大通があり、その北東側の角に
「黒木の梅」が植栽されています。
原株は第121代・孝明天皇の英照皇后(えいしょうこうごう:1835~1897)が
幼少のころに愛でられていたものとされ、九条家跡にあったものを
大正天皇即位大礼の時に現在地に移植されました。
その後枯れてしまい、現在は接ぎ木により植継ぎされています。
高倉橋
建礼門前大通の南側には九条池があります。
かって、この地には九条家の屋敷があり、九条池はその屋敷内に設けられた
庭園の遺構で、安永7年(1778)頃に造られました。
九条家は藤原北家嫡流の藤原忠通の六男・九条兼実(1149~1207)を祖とし、
藤原基経(836~891)が創建したとされる京都九条にあった九条殿に
住んだことが家名の由来となりました。
兼実の孫・道家の子である教実(のりざね:1211~1235)・良実(1216~1271)・
実経(1223~1284)が摂関となり、それぞれが九条家二条家一条家の祖となりました。
この三家に近衛家鷹司家を加えた五家は「五摂家」と呼ばれ、
藤原氏嫡流(ちゃくりゅう)で公家の家格(かかく)の頂点に立ち、
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できました。
江戸時代の九条家は広大な屋敷を構えていましたが、明治時代初期の
東京移住命令に伴い、母屋などの主要な建物は東京の九条邸に移築されました。
近年になってこれが東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名されました。

九条池に架かる橋は「高倉橋」と名付けられ、明治15年(1882)に
建礼門から丸太町通へと出る御幸道の計画に基づき橋が架けられましたが、
その後計画は中止となりました。
橋には旧三条大橋と五条大橋の橋脚を再利用し、
かつては三条小橋の擬宝珠を載せていました。
現在の擬宝珠は新調されたものです。
九条池-東側
橋から池の東側を覗くと、石の上に乗っていた亀があわてて池の中に飛び込みました。
それに驚いた二匹の鯉により、波紋が生まれ、水面がざわつきました。
しかし、それに動じない亀や水鳥もいて、小さな池の中にも面白い光景が見られます。
九条池-西側
池の西側には九條家の別邸として使用されていた
「拾翠亭(しゅうすいてい)」があり、現在は茶室として使われています。
間ノ町口から入った所に拝観入口があり、木・金・土に営業されていて、
拝観料は100円です。
厳島神社-鳥居
池の北西側には島があり、島には厳島神社が祀られています。
安芸の国にある厳島大神を崇敬した平清盛が、摂津の国・兵庫築島(大輪田泊)に、
厳島大神を勧請し社殿を建立しました。
宗像三女神が祀られ、後に清盛の母・祇園女御が合祀され、
後世当地に遷座されて九条家の鎮守社となりました。
鳥居は清盛が建立したとされる唐破風鳥居で、重要美術品に指定されています。
閑院宮邸跡-門
更に西へ進んだ京都御苑の南西角に閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと)があります。
閑院宮は江戸時代中期の宝永7年(1710)に第113代・東山天皇の皇子・直仁親王
創設した宮家で、昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に断絶しました。
旧閑院宮邸は、近年整備され、場所を変えずに江戸時代の遺構を残す
唯一の宮家屋敷です。
かっての敷地は広大で、東は九条池のすぐ隣まであったとされています。
旧閑院宮邸は、無料で見学することができます。
閑院宮邸跡-建物
門を入るとL字形に配された建物があり、内部は展示室となっています。
閑院宮邸跡-書院
南の庭園に面して書院のような建物があります。
閑院宮邸跡-池-1
現在の池は平成15~17年(2003~2005)に行われた閑院宮邸跡の
全面的な整備で復元されたものです。
発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋戻し、その上に京都御所の
御池庭で見られるような小石を並べた州浜(すはま)を設け、
当時の池の意匠を再現したものが新たに造られました。
宗像神社-鳥居
閑院宮邸跡を出て少し東へ進み、その先を北上した所に宗像神社の鳥居が建っています。
花山邸跡石碑
鳥居をくぐると「花山院邸跡」の碑が建っています。
かって、この地には藤原冬嗣(775~826)の邸宅「小一条殿(こいちじょうでん)」
がありました。
平安京遷都の翌年の延暦4年(795)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の命により、
冬嗣が筑紫(現在の福岡県)から勧請して自らの邸内に祀ったのが
宗像神社の始まりとされています。
冬嗣の孫である藤原明子(ふじわら の あきらけいこ)は、第54代・仁明天皇の
第一皇子・道康親王に入内して東宮御息所となり、嘉祥3年(850)3月19日に道康親王が
第55代・文徳天皇(在位:850~858)として即位した直後の3月25日に
第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう=後の第56代・清和天皇)を出産しました。
藤原伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)の娘・藤原懐子
(ふじわら の かいし/ちかこ:945~975)は、応和3年(963)頃、皇太子・憲平親王に
入内し、康保4年(967)に親王が第63代・冷泉天皇(在位:967~969)として即位した
翌年の安和元年(968年)に第一皇子・師貞(もろさだ)親王(後の第65代・花山天皇)を
出産しました。
花山法皇はこの地を御所とし、以来「花山院」と呼ばれるようになりました。
藤原家忠(1062~1136)は天承元年(1131)に従一位左大臣に任ぜられ、
「花山院左大臣」と呼ばれ、花山院家の祖となりました。
以降、明治維新まで花山院家の邸宅がありました。
花山稲荷神社
東側には花山稲荷大明神が祀られています。
社伝によれば関白・藤原忠平(880~949)の時代に伏見稲荷を勧請したとされています。
社殿は宝永5年(1708)や天明8年(1788)の大火でも類焼を免れ、
火伏の神としても信仰を集めました。
佐賀県の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、花山院萬子媛(まんこひめ)が
寛文2年(1662)に大名・鍋島家へ嫁いだ際に祀った花山院邸内の分霊で、
「祐徳」は姫君の諡(おくりな)です。
祐徳稲荷神社は「西の日光」とも呼ばれ、日本三大稲荷の一つとされていますが、
三大稲荷には伏見稲荷大社と愛知県の豊川稲荷の他に茨城県の笠間稲荷神社
岡山市の最上稲荷なども候補に挙がり、諸説あって定かではありません。
花山稲荷神社-楠木
社殿の右側にに聳える楠は樹齢600年ともいわれ、
御苑内では最長老の楠とされています。
京都観光神社
参道の左側(西側)に京都観光神社があります。
昭和44年(1969)11月1日に観光業者の発案で観光客の安全息災と業界の発展を祈念して、
道案内の神として猿田彦大神を勧請し創祀されました。
豊栄の庭-1
豊栄の庭-2
豊栄の庭-3
参道を進んだ右側の「豊栄(とよさか)の庭」は、
平成28年(2016)9月11日に築庭されました。
花山邸跡-釣殿
「豊栄の庭」の背後にあるのは旧花山院邸の釣殿でしょうか?
宗像神社-拝殿
参道の正面に宗像神社があります。
宗像神社は応仁の乱で焼失した後、再建されました。 
現在の本殿は江戸時代の安政年間(1855~1860)に再建されたもので、
宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命)を主祭神としています。
宗像三女神は天照大神の「歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを
受けられよ」との神勅を受け、宗像より朝鮮半島に向かう古代海路であった
海北道中の島々に降臨したとされています。
配祀神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は藤原時平(871~909)が合祀し、
天石戸開神(あまのいわとわけのかみ)は藤原家忠によって合祀されました。
少将井神社
宗像神社の左前にある少将井神社は、かつて中京区の少将井・少将井御旅両町の
間にあった八坂神社の御旅所を遷祀したものとされています。
現在も祇園祭の後祭である7月24日には八坂神社から神職が参向し、神饌を供進、
祇園祭斎行の報告が行われます。
繁栄稲荷社
その左側にある繁栄稲荷社には命婦(みょうぶ)稲荷神が祀られています。
藤原基経(836~891)の身分がまだ低かった時、数人の童に捕まり杖で打たれている
狐を見かけました。
基経がそれを乞い受けて解放すると、夢中にその狐が現れて、
「住む場所を賜れば火難などの災害を除く力になる」と誓ったので、
現鎮座地をあてがって宗像神の眷属としたとされています。

宗像神社を出て下立売(しもだちうり)御門へ向かいます。
続く
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