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遣迎院-山門
京阪「鳥羽街道」駅から東へ進み、その先の奈良街道を左折して北へ進みます。
田中神社の前を通り過ぎ、そこから約160m先を東へ入った所に
遣迎院(けんごういん)があります。
遣迎院は山号を「慈眼山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
西山国師遺跡霊場の第10番札所です。

遣迎院は、東福寺と同じく九条道家(1193~1252)の開基で、
証空(1177~1247)を開山として正治元年(1199)に創建されました。
かって、この地には延長2年(924)に左大臣・藤原忠平(880~949)によって創建された
法性寺がありました。
忠平の子孫・藤原忠道(1097~1164)の代には
100棟を超える堂塔が建ち並ぶ大寺院になりました。
境内も広大で、北は九条大路、南は伏見稲荷大社との境界、東は東山山麓、
西は鴨川まで至り、京洛二十一カ寺の一つに数えられていました。
忠道の六男・九条兼実(くじょう かねざね:1149~1207)は、建久5年(1194)に
自らの別邸である月輪殿(つきのわどの)に快慶作の阿弥陀如来立像と
釈迦如来立像を安置しました。
兼実は法然上人に帰依し、建仁2年(1202)に法然上人を戒師として出家し、
「円証」と号しました。
正治元年(1199)に兼実の孫・道家は証空を開山に招き、法性寺内にこの二尊を
本尊として遣迎院を創建したと伝わります。
遣迎院-証空の碑
証空は、法然上人に23年間常随して浄土教の深義に達し、
円頓菩薩戒を相伝した高弟です。
西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖となり
西山(せいざん)上人とも、西山国師とも称されています。
宝治元年(1247)11月26日、証空が71歳の時にこの地で入寂され、
遺身は門弟たちにより三鈷寺へ運ばれ、荼毘に付されました。

遣迎院は、天台・真言・律・浄土など四宗兼学の道場として栄えましたが、
天正13年(1583)、豊臣秀吉が大仏殿を建立するに当たり、遣迎院の境内をその敷地と
定めたため、遣迎院は移転を余儀なくされました。
しかし、大仏殿の計画は中断され、結果的に遣迎院は二寺に
分断されることになりました。
当寺は、「慈眼院」と改められましたがその後、遣迎院に復し、
「南遣迎院」とも称されています。
もう一方の寺は、廬山寺の南隣に移され天台宗の寺院となりましたが、
昭和30年(1955)に敷地を立命館大学に売却して北区鷹峯へ移転し、
浄土真宗遣迎院派の本山となりました。
阿弥陀如来立像と釈迦如来立像は、鷹峯へ遷され、南遣迎院の本尊は、
十一面観音菩薩です。
道標
南遣迎院から奈良街道へ戻り、少し南の丁字路を左折して東へ進みます。
少し登り坂となりますが、東福寺塔頭の光明院へ突き当たります。
光明院から南へ永明院・南明院と続きますが、参拝は後にして更に南へ進むと
その先は階段となります。
新しい道標の下に古い道標も建っていましたが、文字は消えて判読できません。
南谷墓地入口
左折して東へ進み、直ぐその先の四つ角を右折して南へ進み、更に直ぐ先の丁字路を
左折して東へ進むと左側(北側)に「南谷墓地」への入口があり、
「五条三位 俊成卿・兆殿司 墓道」の碑が建っています。
夜泣地蔵尊の碑
入口の西側には「夜泣地蔵尊参道」の碑が建っています。
南谷墓地入口-石段
その参道の正面は建物ですが、その手前の右側に墓所への石段があります。
夜泣地蔵尊-1
それを登った左側に夜泣地蔵尊が祀られています。
夜泣地蔵尊-2
東山七条の蓮華王院(れんげおういん=三十三間堂)にも
夜泣地蔵尊が祀られていますが、関係があるのか?無いのか?は不明で、
子供の夜泣を治す御利益があるように思われます。
俊成墓前
石段を登った正面に、塀で囲まれた墓地があり、その入口は
「五条三位 俊成卿・東福寺兆殿司 墓前」の碑が建っています。
藤原俊成の墓
塀の中の左側(北側)に大小の二基の五輪塔が並んでいます。
右側(東側)の大きな五輪塔が藤原俊成の墓とされています。
藤原俊成(ふじわら の としなり/しゅんぜい:1114~1204)は、10歳の時に
父・権中納言・藤原俊忠(ふじわら の としただ:1073~1123)と死別し、
鳥羽上皇の腹心であった義兄・藤原顕頼(ふじわら の あきより:1094~1148)の
後見を得て国司を歴任しましたが、位階は18年間従五位下のままでした。
保延4年(1138)に、当時の歌壇の指導者として活躍した藤原基俊(ふじわら の もととし
:1060~1142)に師事して本格的に歌壇へ参入すると、
第75代・崇徳天皇(在位:1123~1142)から知遇されるようになりました。
また、第74代・鳥羽天皇の皇后・美福門院の乳母子である
美福門院加賀(生年不詳~1193)と再婚し、美福門院の御給(ごきゅう=年給)により
昇叙されるようになりました。
しかし、保元元年(1156)7月の保元の乱により崇徳院歌壇が崩壊し、
安元2年(1176)には病が悪化して出家しました。
治承2年(1178)に九条家歌壇に師として迎えられ、
寿永2年(1183)には後白河院の院宣を受け、
文治4年(1188)に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進しました。
その『千載和歌集』には、平清盛(1118~1181)の末弟・平忠度(たいら の ただのり:
1144~1184)の歌が「詠み人知らず」として一首掲載されています。
平忠度は武勇に優れ、歌人としても才能があり、俊成に師事していました。
平家一門は、寿永2年(1183)7月に都落ちしたでのすが、忠度は、その後に従者6人と共に
都へ引き返し、俊成に百余首の歌を収めた巻物を託して立ち去り、
翌年、一ノ谷の戦いで戦死しました。
それから約20年後の元久元年(1204)11月30日に俊成は91歳で亡くなりました。

左側(西側)の五輪塔は、浄如禅尼の墓とされています。
浄如禅尼は、冷泉家の出身とも、藤原俊成の娘ともする説があり、詳細は不明です。
吉山明兆の墓
右側手前の自然石は、吉山明兆(きつさん みんちょう:1352~1431)の
墓とされています。
吉山明兆は、東福寺永明門派・大道一以(だいどう いちい:1292~1370)の門下で
画法を学び、大道一以に付き従い東福寺に入り、
初の寺院専属の画家として大成しました。
僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、
「兆殿主」と呼ばれていました。
永明院には『円鑑禅師(蔵山順空)像』の図を残しましたが、重要文化財に指定され、
現在は京都国立博物館へ寄託されています。
東福寺では三門の天井画や法堂の蟠龍図、大涅槃図などを描きましたが、
法堂はその後焼失して、蟠龍図は失われました。
吉山明兆は、室町幕府4代将軍・足利義持(在任:1395~1423)から
「望むところがあれば何でも申し出るがよい」と持ちかけられましたが、
「金銭的な望みはないが、東福寺の衆徒が桜を愛するあまり境内に多くの桜の木を
植えれば、後世おそらく遊興の場となろう。
よって願わくばこれを禁じられたい」と申し出たと伝わります。
以来、東福寺の桜の木はすべて伐採され、それは現在にも引き継がれていて、
東福寺には桜の木が一本もありません。

その奥の塔の詳細は不明です。
業仲明紹の墓
中央の自然石は、南明院を開山した業仲明紹(ぎょうちゅう めいしょう:生没年不詳)
の墓ですが、業仲明紹の詳細は不明です。

南明院まで戻り、東福寺を巡ります。
続く
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鐘楼門
「ねじりマンポ」の西口から西へ進んだ突き当りに円明教寺があります。
円明教寺は山号を医王山と号する真言宗東寺派の寺院です。
山門は重層構造で、上層は鐘楼となっていましたが、梵鐘は戦時供出され、
今はありません。
本堂
本堂
円明教寺は奈良時代に修験僧で白山を開山したと伝わる泰澄により、
円明寺として創建されたと伝わります。
また、平安時代後期に天台宗の寛済法師が円明寺を創建したとの説や、
平安時代中期に曼荼羅寺(後の隋心院)を創建した
仁海によって再建されたとも伝わります。
隋心院の末寺で真言宗善通寺派の寺院になったともされています。
その後、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての
公卿・西園寺公経(きんつね)に譲られ、別荘(円明寺山荘)の庭園の
一部として整備されたのが「御茶屋池」と伝わります。

円明寺は、鎌倉中期には西園寺公経の娘婿で、東福寺を建立した
九条道家に譲られ、池庭が更に整備されました。
その後、道家の息子で一条家始祖となる実経(さねつね)に譲られました。
室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477)では、兵火を受け衰微し、
江戸時代初期には無住となって薬師堂を残すのみとなり、「薬師堂」と呼ばれました。
弘化3年(1846)、無住となった円明寺には観音寺から住職が派遣されていました。
円明教寺と呼ばれるようになったのは近代になってからで、
現在でも住職は他の寺と兼務しているようです。

本尊は、平安時代の薬師如来像で脇侍の日光・月光両菩薩像の他、
平安時代の毘沙門天立像と鎌倉時代の地蔵菩薩立像が安置されています。
しかし、住職が殆ど不在のため、参拝は無理なようです。
鎮守社
鎮守社でしょうか? 詳細は不明です。
庫裏
現在は本堂の薬師堂と庫裏を残すのみとなっています。
御茶屋池
寺から下った南側に「御茶屋池」があります。
斜面に高い堤防が築かれ、水が溜められています。
現在は潅漑用として、水利組合によって管理され、
池の北側には民家が立ち並んでいます。
かっては池に面して公経の山荘が営まれ、道家の時代には
別荘の数も増え、池庭も整備されました。
道家から譲られた実経は晩年、円明寺山荘で隠棲し、「円明寺殿」と称されました。
遠くに比叡山から東山連峰が一望でき、
閑静で風光明媚な地であったことが想像できます。

小倉神社へ向かいます。
続く

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