小倉百人一首文芸苑の右隣りに二尊院があります。
二尊院は正式には山号を小倉山、院号を二尊教院、
寺号を華台寺と号する天台宗の寺院です。
承和年間(834~847)に第52代・嵯峨天皇の勅願により、
慈覚大師・円仁が開山したと伝わります。
但し、円仁は承和2年(836)から遣唐使として渡航を試み、承和2年(836)と
翌承和3年(837)は失敗しましたが、承和5年(838)に成功して博多津から出港しています。
帰国したのは承和14年(847)ですので、円仁が開山したとすると承和5年以前となります。
二尊院はその後荒廃し、鎌倉時代に法然上人が住し、
関白・九条兼実らの帰依を受けて寺は栄えました。
法然上人の高弟・湛空(1176~1253)は、二尊院の第3世に就き、
第83代・土御門天皇と第88代・後嵯峨天皇に戒を授けました。
更に天台宗の僧で法然の師である叡空(?~1179/1181とも)が二尊院の第4世の時には、
第89代・後深草天皇、第90代・亀山天皇、第91代・後宇多天皇、第92代・伏見天皇の
戒師となったとされていますが、後深草天皇の在位は1246~1259年ですので、
叡空が生存していた年代と一致しません。
寺は隆盛を極め、二尊院は南北朝時代(1336~1392)の頃から明治維新まで、
「黒戸四ヶ院」の一寺となりました。
黒戸四ヶ院とは、皇室の仏事を行う二尊院他廬山寺・
般舟三昧院(はんじゅうざんまいいん)・遣迎院(けんごういん)を指し、
宮中の仏壇が黒の棧をはめた戸を扉に使っていたことが「黒戸」の所以です。
暦応2年(1339)には足利尊氏が天龍寺を創建するのに伴い、
亀山殿内仏院・浄金剛院が境内に移されました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)では延焼を受け、堂塔伽藍が灰燼に帰しました。
二尊院は荒廃し、約30年後になってようやく本堂と唐門(勅使門)が再建され、
現在の総門は慶長18年(1613)に角倉了以(すみのくら りょうい)が
伏見城の薬医門を譲り受け、二尊院へ寄進・移築したもので、
市の文化財に指定されています。
総門をくぐった左側に「西行法師 庵の跡」の碑が建っています。
西行法師は、三上山の百足退治をしたと伝わる藤原秀郷(別名:俵藤太)の8世孫で、
保延3年(1137)には、鳥羽上皇の北面武士として仕えていました。
しかし、保延6年(1140)、23歳の時に妻子を捨て、勝持寺で出家し、
その後この地で草庵を結んだとされています。
鞍馬山など京都北麓に隠棲し、天養元年(1144)頃に奥羽地方へ旅立ち、
その後も高野山から四国、伊勢へと心の赴くまま諸所に草庵を営みました。
文治2年(1186)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため、2度目の奥州下りを行い、
その途次に鎌倉で源頼朝に面会しています。
その後、伊勢国に数年移り住んだ後、
河内国の弘川寺へ移って建久元年(1190に入寂されました。
和歌に秀で、『新古今和歌集』には94首が選ばれています。
総門から真っすぐに約100m伸びる参道は「紅葉の馬場」と呼ばれ、
モミジとサクラが交互に植えられていますが、今は新緑で覆われています。
参道の右側には昭和から平成の俳人・丸山海道と佳子夫妻の句碑が建っています。
「春深し 佛の指の 置きところ」海道
「萩咲かす 二尊に触れて 来し風に」佳子
その先には高浜虚子(1874~1959)の句碑が建っています。
「散りもみじ こゝも掃き居る 二尊院」
高浜虚子は大正11年(1922)12月7日に二尊院に訪れましたが、
今は桜の花びらが句碑の周りに散っています。
唐門は室町時代の永正18年(1521)に三条西実隆(さんじょうにし さねたか)によって
再建された勅使門でしたが、現在では開門され、
一般の参拝者も門をくぐることができます。
山号「小倉山」の扁額は、第104代・後柏原天皇(在位:1500~1526)の勅額です。
現在の本堂は、永正18年(1521)に三条西実隆、公条(きんえだ)父子が諸国に浄財を募り、
御所の紫宸殿を模して再建されました。
平成28年(2016)に約350年ぶりとなる「平成の大改修」が完了しました。
本堂は京都市指定有形文化財です。
第105代・後奈良天皇から深く帰依され、「二尊院」の扁額は後奈良天皇の勅額です。
本尊(パンフレットより)
本尊は釈迦如来と阿弥陀如来で、本尊として二尊が安置されていることが
「二尊院」の由来となっています。
二尊が安置されたのは、唐の時代に中国浄土教の僧・善導大師が広めた
「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」によるものとされています。
二河白道とは無人の原野に忽然として出くわした、北に水と南に火の河で、
その中間に一筋の白道がありますが、幅は狭く常に水と火が押し寄せている光景です。
人がその場所にさしかかると、後方や南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってきます。
河は深くて渡れず、思い切って白道を進もうとした時、東の岸より
「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣=はっけん)が、
また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がしました。
東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘います。
しかし、一心に疑いなく進むと西岸に到達します。
白道は浄土往生を願う清浄の信心を意味し、東岸の声は娑婆世界における
釈尊の発遣(=浄土に往生せよと勧めること)の教法、西岸の声は浄土の
阿弥陀仏の本願の招喚(=浄土へ来たれと招き喚(よ)ぶこと)に喩えられています。
また、火の河は衆生の瞋憎(しんぞう=怒りと憎しみ)、
水の河は貪愛(とんない=むさぼり愛着する心)、
無人の原野は真の善知識に遇わないことの喩えです。
群賊は別解・別行(べつげべつぎょう=別の見解と別の行法をする者)、
異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊(ごうん)・
四大(しだい)に喩えられています。
本堂の左側は白砂が敷かれ、庭園が築かれています。
庭園の左奥には茶室・御園亭があります。
第108代・後水尾天皇の第6皇女・賀子内親王(よしこないしんのう)の
御化粧之間が二条家に与えられ、元禄10年(1697)に二尊院へ移築されました。
春と秋のみ一般公開されているようです。
本堂裏の斜面には六地蔵が祀られています。
本堂の右側には位牌堂の「御霊屋」があります。
本堂前の右側に橘、左側に桜が植えられ、周囲を円で囲われ、白砂が敷かれています。
この桜ではないと思われますが、境内には「二尊院普賢象桜」と
呼ばれている桜が植栽されています。
4月半ば過ぎから咲き始め、五月の連休まで咲いている
日本で一番遅咲きの桜とされてます。
八重咲きの桜で、花の中央から二つの変わり葉が出て、これが普賢薩摩の乗っている
白象の牙を思わせることから「普賢象桜」と呼ばれています。
垣で丸く囲われたこの庭は、「龍神遊行の庭」と呼ばれ、かってこの地に龍女が住み、
正信上人によって解脱昇天したと伝わります。
庭を囲う垣は「二尊院垣」と呼ばれ、蛇腹をかたどったものとされています。
本堂の右側に弁天堂があり、弁財天の化身である九頭竜弁財天・宇賀神が祀られています。
また堂内には、不動明王像、愛染明王像、大日如来像、
毘沙門天像などが安置されています。
二尊院の南側に隣接する小倉百人一首文芸苑にある池は、
「龍女池」と呼ばれ、龍女が住んでいたと伝わります。
龍は夜な夜な池を出て、門に掲げられた額を舐め、字形や彩色が消えるほどになりました。
第3世・湛空上人はこれを防ぐため、龍女に自らの戒法を授けるため
血脈を書いて池に沈めました。
すると龍女成仏の証拠として千葉の蓮華一本が咲いたと伝わります。
弁天堂の屋根には鳳凰が祀られています。
弁天堂の右前には扇塚があります。
弁天堂の斜め前に「源平桃」と称される桃の木が植栽されています。
一本の木に白花と紅花、及び紅白の絞りの三色の花を咲かせます。
源氏(赤)と平氏(白)が競うように咲くことから「源平の桃」と称されています。
源平桃の西側に角倉了以の像が建っています。
角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての
嵯峨野出身の豪商で、慶長9年(1604)の朱印船貿易の開始とともに
安南国(フランス統治時代のベトナム北部から中部)との貿易で富を得ました。
慶長11年(1606)には、幕府から保津川の河川改修工事の許可と
通航料徴収などの権利を得て工事に着手しました。
総工費は現在では75億円相当ともされ、5か月で完成させました。
また、慶長15年(1610)の豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建の際は、
子・素庵(そあん)と共に、鴨川を開削し、資材運搬を行いました。
父子は慶長19年(1614)に、伏見迄「高瀬川」と呼ばれる運河を開削し、
高瀬舟を運行しました。
水深の浅い高瀬川では、底が平らで喫水が低い高瀬舟が必要不可欠として新造されました。
鐘楼は慶長年間(1596~1615)に建立されました。
右横には「藤原定家卿七百年祭記念」の碑が建っています。
梵鐘は平成6年(1994)の開基・嵯峨天皇千二百年御遠忌法要を記念して再鋳されました。
「しあわせの鐘」と名付けられ、「自分が生かされているしあわせを祈願」
「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」を
祈願して三回撞くことができます。
旧梵鐘は慶長9年(1604)に鋳造されました。
弁天堂と鐘楼との間にある石段を登った途中で右側に進むと伊藤仁斎の墓があります。
伊藤仁斎(1627~1705)は、江戸時代前期に活躍した京都生まれの儒学者・思想家で、
『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重しました。
当時は、同じく京都生まれで朱子学に熱中した林羅山(1583~1657)が、
慶長10年(1605)に徳川家康に登用され、幕藩体制の基礎理念として
幕府公認の学問となっていました。
仁斎は初めは朱子学者でしたが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る
「古義」を標榜し、寛文2年(1662)には堀川に古義堂(堀川学校)を開きました。
宝永2年3月12(1705年4月5日)に亡くなりました。
その横には、仁斎の長男・東涯(1670~1736)の墓もあります。
東涯は、仁斎が開いた古義堂(堀川学校)を継ぎ、古義学の興隆の基礎を築きました。
更に石段を登った右側に、右から三条西実隆(さんじょうにし さねたか)、
実隆の次男・公条(きんえだ)、公条の長男・実枝(さねき)の墓があります。
三条西実隆の妻は勧修寺教秀(のりひで)の三女で、第105代・後奈良天皇の
生母・勧修寺藤子の姉または妹であり、皇室とは縁戚関係にありました。
和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、
連歌師の宗祇(そうぎ)から古今伝授を受けました。
古今伝授とは古今和歌集の解釈に関する奥義の伝承で、一子相伝の秘事とされていました。
永正18年(1521)には公条と共に二尊院の勅使門や本堂を再建しました。
公条は当代一流の文化人として重用され、天文11年(1542)には右大臣にまで
昇進しましたが、天文13年(1544)に二尊院で出家しました。
実枝は天正7年(1577)に織田信長の推挙により大納言に任じられました。
一方で、三条西家に伝わる『源氏物語』の学を集大成した『山下水』を著し、
古今伝授を、子の公国が幼かったため弟子の細川藤孝(幽斎)に伝えました。
その後、古今伝授は細川藤孝から八条宮智仁親王へと伝えられています。
石段を登った上に法然上人廟がありますが、二尊院のHPでは湛空上人廟とされています。
光明寺では、法然上人の遺骸は二尊院へ移された後、光明寺へ運ばれ、
荼毘に付され遺骨の一部が光明寺の本廟と一部が知恩院の御廟に
安置されたとあり、一時石棺が安置された場所かもしれません。
堂内の石碑は湛空上人のものとされ、慶長5年(1253)に中国の石工によって
彫られたと伝わり、碑堂は室町時代末期の建築として京都市指定文化財になっています。
湛空上人廟から深く落ち込んだ小倉山の山肌を迂回するようにして
約100m進んだ所に時雨亭跡があります。
「藤原定家卿 百人一首撰定の遺蹟」と記されていますが、
後世に好事家(こうずか)が造営した跡と推定されています。
常寂光寺の時雨亭跡と同様に眺望が開けた場所にありますが、
立木が少し邪魔をしています。
市内方面
比叡山方面
時雨亭跡から戻り、湛空上人廟から北へ進むと角倉了以の墓があります。
角倉了以は慶長19年7月12日(1614年8月17日)に亡くなりました。
了以には琵琶湖疎水を開削する腹案がありましたが、明治18年(1885)に
田辺朔郎(たなべ さくろう:1861~1944)が設計・監督して着工され、
明治23年(1890)に完成しました。
角倉了以と田辺朔郎は、共に京都の「水運の父」として讃えられています。
吉田光由のものとされる墓もあります。
吉田家は宇多源氏の佐々木氏族を先祖とします。
佐々木家5代目の佐々木秀義の子・厳秀(かねひで)が近江国吉田荘を領したことにより
「吉田」を名乗ったが始まりで、角倉家は現在の嵯峨天龍寺角倉町に
住したことから家号としたとされています。
光由が吉田家の何代目かは不明ですが、慶長3年(1598)に嵯峨で生まれ、
角倉了以は外祖父に当たります。
吉田光由は初の和算家・毛利重能(もうり しげよし)に師事した後、
角倉了以の子・素庵のもとで中国の数学書『算法統宗(さんぽうとうそう)』の研究を
行い、それをもとに寛永5年(1628)に『塵劫記(じんこうき)』を著し、出版しました。
『塵劫記』は算盤を使った計算法を記載した算術の教科書として、
庶民に爆発的に受け入れられました。
また、兄の光長と共に北嵯峨に農業用のトンネル水路「菖蒲谷隧道」の工事を行いました。
寛文12年11月21日(1673年1月8日)に75歳で亡くなりました。
更に北へ進むと門がありますが閉じられています。
門から北へ進むと石段があり、石段を登ると三天皇が分骨されたと伝わる
三帝陵があります。
右側の十重石塔は、本来は十三重石塔で、笠石と相輪が失われていますが、
第83代・土御門天皇のものとされています。
中央奥の五重石塔は第88代・後嵯峨天皇のものとされています。
左側の宝篋印塔は第90代・亀山天皇のものとされています。
三帝陵の左側、門の正面に当たると思われるところには、鷹司家の墓があります。
鷹司家は、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・
二条家・一条家・鷹司家)の一家で、明治維新後も京都に留まっていましたが、
しばらくして東京に移りました。
その他、二尊院には二条家・三条家・四条家・嵯峨家などの墓があります。
墓地から下り、境内の北側へ進むと室町時代に建立された八社ノ宮があり、
社殿は市の文化財に指定されています。
松尾神社・愛宕神社・石清水八幡宮・伊勢皇大神宮・熱田神宮・日吉神社・
八坂神社・北野神社の八社が祀られています。
境内には吉田光長・光由兄弟により、江戸時代中期に築造された菖蒲谷隧道の
「木樋(もくひ)-泥樋管」が展示されています。
菖蒲谷隧道は現在でも使用され、平成24年(2012)の修復工事で
新しいものと交換され、展示されるに至りました。
「小倉餡発祥の地」の碑も建立されています。
祇王寺へ向かいます。
続く
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