タグ:五輪卒塔婆

仁王門
荘厳寺の北へバイクで20分足らず、西脇市から丹波市へ入った所に
石龕寺(せきがんじ)があります。
山号を「岩屋山」と号する高野山真言宗の寺院で、第31代・用明天皇2年(587)に
聖徳太子(574~622)により創建されたと伝わります。
用明天皇2年(587)に用明天皇が崩御され、皇位を巡り
崇仏派の蘇我馬子(そが の うまこ?~626)と排仏派の物部守屋(?~587)との
争いになり、太子は馬子の軍に加わって戦いました。
戦いに挑み、太子は自ら毘沙門天像を刻んで兜の真甲に頂き、合戦に勝利すると
毘沙門天像は空高く飛んで、当地に降り立ったとされています。
太子は毘沙門天を探して諸国を巡り、この地の山の頂に瑞雲がたなびいているのを
見つけて山へ入ると、探していた毘沙門天が石龕の中にありました。
太子はその石龕の横に一宇を建て、毘沙門天を安置したのが
石龕寺の始まりとされています。

仁王門は鎌倉時代(1185~1333)に再建されました。
石龕寺は鎌倉時代から室町時代に隆盛を極めて多くの坊を有し、
南北朝時代から室町時代には石龕寺の修験者達が熊野本宮への先達を務めました。
仁王門-阿形
仁王像は仁治3年(1242)に仏師・肥後別当定慶(ひごべっとうじょうけい:
1184?~?)により造立され、国の重要文化財に指定されています。
肥後別当定慶は、運慶(?~1224)の次男・康運(こううん)が改名したとの見方が
有力で、興福寺東金堂の維摩居士像(国宝)などを造立した定慶(生没年不詳)とは
別人であることから区別するために「肥後別当定慶」と呼ばれています。
阿形
仁王門-吽形
吽形
町石
門の手前には町石が残されています。
町石は、「町石卒塔婆(そろうば)」とも呼ばれ、寺社への道しるべとして
一丁(約110m)毎に立てられ、石龕寺の町石は全て五輪卒塔婆です。
岩屋道、寺坂道の参道に立てられ、現在では25基が残されています。
江戸時代中期に本堂が現在地へ移されたのに伴い、岩屋道の町石が全て
並べ替えられたことにより、これが二丁目になり、ここから約600m下った所にある
八丁目の町石には応永6年(1399)に造立されたとの銘が残されています。
これだけの数の町石が残されているのは珍しく、高野山の町石と共に有名で、
兵庫県の文化財に指定されています。
仁王門からの参道
仁王門からの参道
石龕寺は紅葉の寺としても有名で、参拝したのは11月の初めでしたが、
中旬から下旬にかけて、境内は深紅に染まるそうです。
毎年11月第3日曜日には「足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭り」が催され、
護摩供養、武者行列などが行われています。
本堂
本堂(毘沙門堂)
かって、ここから約20分登った山上に奥の院があり、本堂が建立されていましたが、
宝暦13年(1763)に焼失し、安永7年(1788)に現在地で再建されました。
南北朝時代(1337~1392)に足利尊氏(1305~1358)が
弟の直義(ただよし:1307~1352)と争い(観応の擾乱)に敗れ、
尊氏が三男の義詮(よしあきら:1330~1367)や仁木頼章(にき よりあき:
1299~1359)及びその弟・義長(1300?~1376)を従え、播磨へ逃れる時に
当山へ立ち寄りました。
この時、僧が足利氏に名物の丹波栗を献上した際、
義詮はその一つの栗に爪痕を付け、
「都をば 出て落ち栗の 芽もあらば 世に勝ち栗と ならぬものかは」
と歌を添え、「もしこの栗が芽を出せば、都へ出て天下を取ったものと思ってくれ」
と言ってその栗を植えて去りました。
その通りとなったことから「爪あと栗」、「ててうち栗」と呼ばれて
伝えられています。

その後、織田信長(1534~1582)の命を受けた明智光秀(1516~1582)による
丹波平定の兵火で全山焼失し、山門を残すのみとなりました。
本堂は奥の院で再建されましたが、宝暦13年(1763)に焼失し、
現在地で再建されました。
薬師堂
左側に薬師堂があります。
焼尾神社
更に左へ進むと焼尾神社があります。
仁治2年(1241)に創祀され、石龕寺の鎮守として弁財天が祀られていましたが、
明治の神仏分離令により市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られるようになりました。
三社
北側の社殿、中央は五霊神社で、右側は八幡大神・太神社・八坂大神の相殿、
左側は天満宮・愛宕神社・稲荷大明神などの相殿です。
水掛不動明王
本堂から右側へ進むと水掛不動明王が祀られています。
水子地蔵
水子地蔵が祀られている本堂への石段下まで下ります。
奥の院橋
奥の院橋があり、それを渡って登ると奥の院への参道入口があります。
奥の院への参道入口
奥の院へは片道約20分を要しますので、参拝は断念しました。
石龕寺の「龕」とは、仏像などを安置する厨子や壁面の窪みを意味し、
奥の院にある石窟が石龕寺の寺号の由来となりました。
平成6年(1994)に奥の院の整備が行われました。

伊尼神社(いちじんじゃ)へ向かいます。
続く
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外鳥居
丹生酒殿神社から少し東へ進み、その先で右折して県道109号線を
約15分進んだ先に丹生都比売神社があります。
外鳥居は神仏習合の名残である両部鳥居で、
両部とは密教の金剛界・胎蔵界を指します。
空海は唐で習得した真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求め、
まず守護神として丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と
高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を祀る社を建てました。
これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりとされています。
境内の古絵図には多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の
仏教建物が描かれ、その一部の遺構も残されていることから、
境内は国の史跡に指定されています。
輪橋
外鳥居をくぐった先に鏡池があり、輪橋が架けられています。
日本で数少ない木造で大型の反り橋で、平成27年(2015)6月から
平成28年3月までの10ヵ月にわたり、塗装の塗り直しや、
腐朽した木部の補修が行われました。
弁財天
橋の右側には島が見え、島には弁財天を祀ると思われる小さな祠があります。
中鳥居
橋を渡った先に禊橋があり、その先に中鳥居の両部鳥居が建っています。
楼門
中鳥居をくぐった正面にある楼門は室町時代中期に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本殿
本殿は四殿から成り、第四殿の左側に若宮があり、本殿の四殿はいずれも
同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺で日本一を誇り、
国の重要文化財に指定されています。
また、本殿、楼門及び境内はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されています。
向かって右側の第一殿は江戸時代の正徳5年(1715)の造営で、
丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が祀られています。
第二殿は室町時代の文明年間(1469~1486)の造営で、
高野御子大神(たかののみこのおおかみ)が祀られています。
第三殿は明治34年(1901)の造営で、
大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)が祀られています。
第四殿は室町時代の文明元年(1469)の造営で、市杵島比売大神が祀られています。
若宮には真言宗の木食僧・行勝上人が祀られています。
行勝上人は、鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から
市杵島比売大神を勧請し、神社の発展に尽力しました。
丹生都比売神社は、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列っせられ、
明治6年(1873)の近代社格制度では県社に列し、大正13年(1924)に官幣大社に昇格しました。
現在は神社本庁の別表神社で、神仏霊場の第12番札所となっています。

丹生都比売神社が創建された詳細は不明ですが、『丹生大明神告門(のりと)』では、
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が、
その第一御子・高野明神と120の眷属を従え、
七尋滝(ななひろのたき=丹生酒殿神社の裏手)に降臨されたと伝わります。
丹生都比売大神は、天照大御神の妹神であり、高野御子と共に大和・伊勢地方を巡歴し、
農耕、糸紡ぎ、機織り、煮炊きなどを人々に教えられました。
その後、現在地である天野の地に鎮まったとされています。
丹生都比売神社は「天野大社」、「天野四所明神」とも呼ばれます。
弘仁7年(816)、空海が金剛峰寺を開いた際、丹生都比売神社から神領を譲られたと伝わります。
佐波神社-1
佐波神社-2
楼門前を左に進んだ所にある佐波神社は、明治時代に上天野地区の諸社が合祀されました。
多宝塔跡
佐波神社の左側には小川が流れ、小川を渡って右側(東側)へ進んだ先に
多宝塔跡と御影堂跡があります。
多宝塔は雅真(がしん)僧都によって建立され、胎蔵界大日如来を安置し、
神社周辺に建立された仏教建物の中心的な存在でした。
雅真僧都は天暦6年(952)に金剛峰寺座主・寛空に招かれ、落雷で焼失した
高野山奥之院の弘法大師廟塔を再建し、この時期に多宝塔も建立されたと推定されています。
雅真僧都は永観元年(983)に検校となり、正暦5年(994)に再び落雷で炎上した
大塔や講堂などの修復に、天野に居を移して尽力しました。

御影堂は源頼朝の正室・尼御台(北条政子)により、建暦元年(1211)に建立されました。
尼御台は熊野詣での帰りに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立を寄進しました。
更に女人禁制で高野山に登れない女人のためと、
夫・頼朝の菩提を弔うために御影堂を建立したと伝わります。
五輪卒塔婆
御影堂跡から東へ進んだ所に鎌倉時代から室町時代に建てられた
石造の五輪卒塔婆4基があります。
高さは2.1mから3.6mあり、向かって右側の4号塔に延元元年(1336)、
2号塔に正安4年(1302)、1号塔に正応6年(1293)、3号塔に文保3年(1319)の刻銘があります。
大峯修験者が大峯入峯に際し建てた碑で、和歌山県の有形文化財に指定されています。
光明真言曼荼羅碑
五輪卒塔婆の左側にある光明真言曼荼羅碑は、寛文2年(1662)に建立され、
正面の円形の部分に中央下より、時計回りに梵字で光明真言が、
背面には多くの僧名が刻まれています。
この頃より光明真言講が形成され、この形の碑が建立されるようになりました。
光明真言は、正式には不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)と云い、
23の梵字と最後の休止符「ウン」を加え、合計24の梵字から成ります。
金剛界五仏(五智如来)に対して光明を放つように祈願している真言とされています。
石龕
また、付近には石龕(せきがん)もありますが、詳細は不明です。

高野山へ向かいます。
続く

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