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石龕寺
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丹生酒殿神社から少し東へ進み、その先で右折して県道109号線を
約15分進んだ先に丹生都比売神社があります。
外鳥居は神仏習合の名残である両部鳥居で、
両部とは密教の金剛界・胎蔵界を指します。
空海は唐で習得した真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求め、
まず守護神として丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と
高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を祀る社を建てました。
これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりとされています。
境内の古絵図には多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の
仏教建物が描かれ、その一部の遺構も残されていることから、
境内は国の史跡に指定されています。
外鳥居をくぐった先に鏡池があり、輪橋が架けられています。
日本で数少ない木造で大型の反り橋で、平成27年(2015)6月から
平成28年3月までの10ヵ月にわたり、塗装の塗り直しや、
腐朽した木部の補修が行われました。
橋の右側には島が見え、島には弁財天を祀ると思われる小さな祠があります。
橋を渡った先に禊橋があり、その先に中鳥居の両部鳥居が建っています。
中鳥居をくぐった正面にある楼門は室町時代中期に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本殿は四殿から成り、第四殿の左側に若宮があり、本殿の四殿はいずれも
同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺で日本一を誇り、
国の重要文化財に指定されています。
また、本殿、楼門及び境内はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
一部として登録されています。
向かって右側の第一殿は江戸時代の正徳5年(1715)の造営で、
丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が祀られています。
第二殿は室町時代の文明年間(1469~1486)の造営で、
高野御子大神(たかののみこのおおかみ)が祀られています。
第三殿は明治34年(1901)の造営で、
大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)が祀られています。
第四殿は室町時代の文明元年(1469)の造営で、市杵島比売大神が祀られています。
若宮には真言宗の木食僧・行勝上人が祀られています。
行勝上人は、鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から
市杵島比売大神を勧請し、神社の発展に尽力しました。
丹生都比売神社は、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列っせられ、
明治6年(1873)の近代社格制度では県社に列し、大正13年(1924)に官幣大社に昇格しました。
現在は神社本庁の別表神社で、神仏霊場の第12番札所となっています。
丹生都比売神社が創建された詳細は不明ですが、『丹生大明神告門(のりと)』では、
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が、
その第一御子・高野明神と120の眷属を従え、
七尋滝(ななひろのたき=丹生酒殿神社の裏手)に降臨されたと伝わります。
丹生都比売大神は、天照大御神の妹神であり、高野御子と共に大和・伊勢地方を巡歴し、
農耕、糸紡ぎ、機織り、煮炊きなどを人々に教えられました。
その後、現在地である天野の地に鎮まったとされています。
丹生都比売神社は「天野大社」、「天野四所明神」とも呼ばれます。
弘仁7年(816)、空海が金剛峰寺を開いた際、丹生都比売神社から神領を譲られたと伝わります。
楼門前を左に進んだ所にある佐波神社は、明治時代に上天野地区の諸社が合祀されました。
佐波神社の左側には小川が流れ、小川を渡って右側(東側)へ進んだ先に
多宝塔跡と御影堂跡があります。
多宝塔は雅真(がしん)僧都によって建立され、胎蔵界大日如来を安置し、
神社周辺に建立された仏教建物の中心的な存在でした。
雅真僧都は天暦6年(952)に金剛峰寺座主・寛空に招かれ、落雷で焼失した
高野山奥之院の弘法大師廟塔を再建し、この時期に多宝塔も建立されたと推定されています。
雅真僧都は永観元年(983)に検校となり、正暦5年(994)に再び落雷で炎上した
大塔や講堂などの修復に、天野に居を移して尽力しました。
御影堂は源頼朝の正室・尼御台(北条政子)により、建暦元年(1211)に建立されました。
尼御台は熊野詣での帰りに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立を寄進しました。
更に女人禁制で高野山に登れない女人のためと、
夫・頼朝の菩提を弔うために御影堂を建立したと伝わります。
御影堂跡から東へ進んだ所に鎌倉時代から室町時代に建てられた
石造の五輪卒塔婆4基があります。
高さは2.1mから3.6mあり、向かって右側の4号塔に延元元年(1336)、
2号塔に正安4年(1302)、1号塔に正応6年(1293)、3号塔に文保3年(1319)の刻銘があります。
大峯修験者が大峯入峯に際し建てた碑で、和歌山県の有形文化財に指定されています。
五輪卒塔婆の左側にある光明真言曼荼羅碑は、寛文2年(1662)に建立され、
正面の円形の部分に中央下より、時計回りに梵字で光明真言が、
背面には多くの僧名が刻まれています。
この頃より光明真言講が形成され、この形の碑が建立されるようになりました。
光明真言は、正式には不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)と云い、
23の梵字と最後の休止符「ウン」を加え、合計24の梵字から成ります。
金剛界五仏(五智如来)に対して光明を放つように祈願している真言とされています。
また、付近には石龕(せきがん)もありますが、詳細は不明です。
高野山へ向かいます。
続く