長圓寺から西へ進み、壬生川通を通り過ぎた次の丁字路を右折して北へ進んだ西側に
壬生寺があります。
京都では珍しい律宗の別格本山で、京都十二薬師霊場の第4番札所、
塔頭の中院は洛陽三十三所観音霊場の第28番札所です。
壬生寺は平安時代の正暦2年(991)に園城寺(三井寺)の
快賢僧都(生没年不詳)によって創建され、「小三井寺」と称しました。
快賢僧都は母の菩提を弔うために、五条坊門壬生に堂宇を建て、
仏師・定朝(?~1057)が造立した像高約90cmの地蔵菩薩像を安置し本尊としました。
承歴(じょうりゃく)元年(1077)、第72代・白河天皇(在位:1073~1087)の勅命により
地蔵院が建立され、「地蔵院」の勅額と寺号を賜り、勅願寺となりました。
また、壬生寺が京都の裏鬼門にあたることから、天皇の発願により、
毎年2月に節分厄除大法会が始められました。
鎌倉時代の建保元年(1213)、平宗平(たいら の むねひら:生没年不詳)により、
現在地に移されて伽藍が建立され、寺領が寄進されました。
正嘉元年(1257)に焼失した翌年、平宗平の子・政平(生没年不詳)に再興され、
本堂・阿弥陀堂・釈迦堂・別殿・宝塔・大門が建立され、
「宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)」と改称されました。
平政平の再興に際し、円覚(えんがく:1223~1311)上人は勧進を行って
中興の祖とされました。
正安2年(1300)、円覚上人は「大念佛会」を修し、仏教を大げさな
身ぶり手ぶりで、群衆にわかりやすく説こうとしました。
これが壬生狂言の始まりと伝わり、円覚上人が考え出した無言劇の形態は
「持斎融通(じさいゆうづう)念仏」と呼ばれました。
また、上人により「心浄光院」と改称されました。
戦国時代の享禄元年(1528)、細川高国(1484~1531)と丹波勢に阿波勢が加わった
連合軍の戦いで、壬生寺は焼失し、本堂と南門を除いて破壊されました。
江戸時代の天明8年(1788)には京都で発生した史上最大規模の火災
(天明の大火)で焼失しました。
この火災では当時の京都市街の8割以上が焼失し、宝永5年(1708)の宝永の大火、
元治元年(1864)の元治のどんどん焼けと共に
「京都の三大大火」とも呼ばれています。
幕末の文久3年(1863)には壬生浪士組が壬生村で結成され、
後の新撰組の前身となりました。
明治元年(1868)に出された神仏分離令により、11あった塔頭は中院のみを
残して廃されました。
昭和37年(1962)には不審火(放火)により本堂が焼失しました。
本尊であった鎌倉時代作の木造地蔵菩薩半跏像や同時代作の木造四天王立像
及び正嘉元年(1257)銘があった金鼓(鰐口)も焼失しました。
門を入った右側に一夜天神堂があり、中央に一夜天神、向かって右に
金毘羅大権現、左には壬生寺の鎮守である六所明神が祀られています。
一夜天神とは大宰府に左遷されることになった菅原道真(845~903)が、
壬生にある親戚を訪ね一夜を明かしたという故事に由来しています。
江戸時代の寛文12年(1672)に支院・静寂庵の開祖・託願上人の夢枕に
道真が立ち、祀るように告げました。
託願上人が神像を刻んで祀ると「一夜で智慧が授かる」として、
「一夜天神」と呼ばれるようになりました。
阿弥陀堂は鎌倉時代の建保元年(1213)に平宗平(たいら の むねひら:生没年不詳)
により創建されました。
その後、度々の災禍を被り、江戸時代の天保14年(1843)に前川五郎左衛門の
尽力により復興されました。
前川家は文久3年(1863)から約2年間、壬生浪士組の屯所となりました。
文久3年(1863)3月3月、浪士組が会津藩御預となった頃から、
前川邸は本格的に屯所として使われ始め、一家は油小路六角にあった
前川本家へと避難しました。
本尊の阿弥陀三尊像は復興時の造立と見られています。
堂内には売店もあり、階下には歴史資料館があります。
また背後にある壬生塚(新選組隊士の墓所)への入口となり、
歴史資料館と壬生塚へは有料(200円)となります。
寺宝や新選組の関連資料が展示されていますが館内の撮影は禁止されています。
総検校 吉川湊一(よしかわ そういち1748~1829)の墓塔があります。
紀伊国熊野の生まれで、平家琵琶の奥義を極めた人物とされ、
文政9年(1826)に当道座を統括する総検校となりました。
文政11年(1828)に江戸へ隠居した翌年に亡くなり、東京都の多聞院にも墓があります。
手前の新選組隊士慰霊塔は、京都で活動している新選組同好会が、
結成三十周年を記念し、平成17年(2005)に建立しました。
奥の新選組顕彰碑は、新選組同好会が、結成二十周年を記念し、
平成7年(1995)に建立しました。
奥には近藤勇(こんどう いさみ:1834~1868)の胸像とその左側に
近藤勇の遺髪を納めた遺髪塔があります。
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸へ戻り、
江戸鍛冶橋門外(現・東京都千代田区)に屯所を置きました。
同年2月28日に幕府から「甲陽鎮撫(こうようちんぶ)」を命じられ、
新選組は「甲陽鎮撫隊」と改称して甲府へ向かいました。
甲州勝沼で新政府軍と戦いましたが、江戸へ敗走し、
同年4月に下総国流山(現・千葉県流山市)へ集結したところを
新政府軍に捕縛されました。
近藤勇は同年4月25日に中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首刑に処されました。
胸像は昭和46年(1971)に俳優の故・上田吉二郎(1904~1972)が
芸歴53周年を記念して建てられました。
人丸塚は、万葉の歌人・柿本人麻呂(660頃~724)の灰塚と伝わり、
現在の碑は大正時代(1912~1926)に建立されました。
「人麻呂」が「人丸」となり、「火止まる」に通じることから、
火除けの御利益があるとされています。
新選組隊士で勘定方・河合耆三郎(かわい きさぶろう:1838~1866)の墓。
河合耆三郎は播磨国の高砂出身で、実家は富裕な蔵元(米問屋)でした。
勘定方として主に隊費の経理面で活躍していましたが、資金に不足が生じ、
慶応2年(1866)2月に切腹の刑に処せられました。
不足が生じた理由は諸説ありますが、耆三郎が足りなくなった資金を
親元へ借り入れるための使いを出したのですが、
たまたま実家で騒動が起きていて資金を送るのが遅れて刑に処せられました。
切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を
壬生寺に建てたとされ、この墓が親の立てたものと思われます。
両者は、文久3年(1863)に島原の角屋での宴会後に屯所の八木家に帰り、
泥酔して寝入っていた深夜に刺客によって暗殺されました。
長州藩の仕業として処理されたましが、芹沢鴨が数々の乱暴狼藉を働いたことから
朝廷から召捕りの命が下され、
会津藩から近藤らに芹沢の処理の密命が下っていたとされています。
両者の墓塔は、昭和42年(1967)頃に現在地へ移され、初代の墓塔が大きく破損したため、
その後御影石で再建されましたが、以前と趣が異なってしまったために、
両名の150回忌となった平成24年(2012)に和泉石を用いて復元されました。
阿弥陀堂の左側に弁天堂があります。
創建されたのは不明ですが、現在の建物は明治27年(1894)に再建されました。
正面にある「弁財天」と刻まれた線香立ての裏側には、
弘化4年(1847)の銘があります。
かっては、境内の西北にある池の畔にありましたが、戦後に現在地に遷されました。
本尊の辧財天は、清水寺の延命院より遷された塑像で、
厨子に納められ、秘仏とされています。
堂内の左側に荼枳尼天(だきにてん)、右側に稲荷明神が祀られています。
向かい側に塔頭の中院があります。
中院は江戸時代の寛永年間(1624~1643)に創建され、
かっては中之坊と呼ばれていました。
明治年間(1868~1917)に律宗の修行道場となり、「中院」と呼ばれるようになりました。
現在の建物は、文政12年(1829)に再建されたものです。
堂内には本尊である鎌倉時代作の十一面観音菩薩像が安置され、
洛陽三十三観音霊場・第28番札所の本尊ともなっています。
また、向かって右側には京都十二薬師霊場の第4番札所の本尊である、
平安時代作の歯薬師如来像が安置されています。
左脇侍(向かって右側)に日光菩薩像、右脇侍に月光菩薩像が安置されています。
脇侍は共に鎌倉時代の作です。
参道の正面に本堂があります。
現在の本堂は昭和37年(1962)に焼失後、昭和45年(1970)に
コンクリート造りで再建され落慶法要が行われました。
本尊の延命地蔵菩薩立像は、律宗本山の唐招提寺から遷されました。
平安時代作で現存する日本最古級とされ、国の重要文化財に指定されています。
脇侍には掌善童子像(しょうぜんどうじぞう)と
掌悪童子像(しょうあくどうじぞう)が安置されています。
壬生寺は中国の揚州にある文峰寺と姉妹寺院の関係にあり、
鑑真和上坐像二躯が造られ、一躯が平成28年(2016)に日本に運ばれ、
壬生寺に安置されました。
左側に平成元年(1988)に建立され、ミャンマーのパゴダを
模した千体仏塔があります。
明治時代に京都市の区画整理の際に各地から集められた、
室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など千躯が安置されています。
地蔵盆には地蔵菩薩像が各地に貸し出されます。
本堂の右側に寺務所があり、納経所ともなっています。
画像はありませんが、境内の北東側に大念佛堂(狂言堂)があり、春・秋・節分の3回に
「壬生大念佛狂言」が演じられています。
「壬生大念佛狂言」は、鎌倉時代に壬生寺を中興した円覚上人によって創始されました。
数十万人に及んだとも伝わる大衆が、上人の教えを来聴するために寺に押し寄せ、
上人がその群衆の前で最もわかりやすい方法で仏の教えを説こうと考案したのが
「壬生大念佛狂言」で、正安2年(1300)に上人が身振り手振りの無言劇で
仏の教えを説いたのが始まりとされています。
「持斎融通(じさいゆうづう)念佛」と称され、
その後は曲目やその数も変遷しましたが、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、
すべての演者が仮面をつけ、一切「せりふ」を用いず無言で演じられる
壬生狂言の形は変化せずに踏襲されています。
「壬生大念佛狂言」は国の重要無形民俗文化財に指定され、
安政3年(1856)に再建された大念佛堂も国の重要文化財に指定されています。
文久2年(1862)、第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち/在職:1859~1866)の
上洛に際し、将軍警護のため浪士隊が結成されました。
上洛した浪士隊は前川邸、八木邸などに分宿し、翌年には江戸へ戻りましたが
その一部の13名が京へ残り、京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり:
1836~1893)の下で新選組を結成し、芹沢鴨が初代局長となりました。
しかし、芹沢鴨は粗暴な行動から八木邸で粛清され、近藤勇が局長となって
京都の治安を守りました。
その先の綾小路通の角に旧前川邸があり、文久2年(1862)から2年間、
新選組の屯所となりました。
芹沢鴨一派の粛清の際は当家から八木邸を監視し、
部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったとされています。
芹沢鴨一派で生き残った野口健司(1843~1864)は、文久3年(1864)12月27日に
突然切腹を命じられ、当家で切腹しました。
元治元年(1864)6月5日に古高俊太郎(1829~1864)が捕縛され、
当家の土蔵で拷問を受けました。
新選組の結成当時からの隊員で、総長をも務めた山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ
:1836~1865)は、近藤勇らと対立して脱走し、当家で切腹しました。
現在は製袋の工場となり、一般公開はされていません。
坊城通を北上して元祇園 梛神社(なぎじんじゃ)へ向かいます。
続く
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