タグ:京都十二薬師霊場

山門
長圓寺から西へ進み、壬生川通を通り過ぎた次の丁字路を右折して北へ進んだ西側に
壬生寺があります。
京都では珍しい律宗の別格本山で、京都十二薬師霊場の第4番札所、
塔頭の中院は洛陽三十三所観音霊場の第28番札所です。

壬生寺は平安時代の正暦2年(991)に園城寺(三井寺)の
快賢僧都(生没年不詳)によって創建され、「小三井寺」と称しました。
快賢僧都は母の菩提を弔うために、五条坊門壬生に堂宇を建て、
仏師・定朝(?~1057)が造立した像高約90cmの地蔵菩薩像を安置し本尊としました。
承歴(じょうりゃく)元年(1077)、第72代・白河天皇(在位:1073~1087)の勅命により
地蔵院が建立され、「地蔵院」の勅額と寺号を賜り、勅願寺となりました。
また、壬生寺が京都の裏鬼門にあたることから、天皇の発願により、
毎年2月に節分厄除大法会が始められました。

鎌倉時代の建保元年(1213)、平宗平(たいら の むねひら:生没年不詳)により、
現在地に移されて伽藍が建立され、寺領が寄進されました。
正嘉元年(1257)に焼失した翌年、平宗平の子・政平(生没年不詳)に再興され、
本堂・阿弥陀堂・釈迦堂・別殿・宝塔・大門が建立され、
「宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)」と改称されました。
平政平の再興に際し、円覚(えんがく:1223~1311)上人は勧進を行って
中興の祖とされました。
正安2年(1300)、円覚上人は「大念佛会」を修し、仏教を大げさな
身ぶり手ぶりで、群衆にわかりやすく説こうとしました。
これが壬生狂言の始まりと伝わり、円覚上人が考え出した無言劇の形態は
「持斎融通(じさいゆうづう)念仏」と呼ばれました。
また、上人により「心浄光院」と改称されました。

戦国時代の享禄元年(1528)、細川高国(1484~1531)と丹波勢に阿波勢が加わった
連合軍の戦いで、壬生寺は焼失し、本堂と南門を除いて破壊されました。

江戸時代の天明8年(1788)には京都で発生した史上最大規模の火災
(天明の大火)で焼失しました。
この火災では当時の京都市街の8割以上が焼失し、宝永5年(1708)の宝永の大火、
元治元年(1864)の元治のどんどん焼けと共に
「京都の三大大火」とも呼ばれています。
幕末の文久3年(1863)には壬生浪士組が壬生村で結成され、
後の新撰組の前身となりました。
明治元年(1868)に出された神仏分離令により、11あった塔頭は中院のみを
残して廃されました。
昭和37年(1962)には不審火(放火)により本堂が焼失しました。
本尊であった鎌倉時代作の木造地蔵菩薩半跏像や同時代作の木造四天王立像
及び正嘉元年(1257)銘があった金鼓(鰐口)も焼失しました。
一夜天神堂
門を入った右側に一夜天神堂があり、中央に一夜天神、向かって右に
金毘羅大権現、左には壬生寺の鎮守である六所明神が祀られています。
一夜天神とは大宰府に左遷されることになった菅原道真(845~903)が、
壬生にある親戚を訪ね一夜を明かしたという故事に由来しています。
江戸時代の寛文12年(1672)に支院・静寂庵の開祖・託願上人の夢枕に
道真が立ち、祀るように告げました。
託願上人が神像を刻んで祀ると「一夜で智慧が授かる」として、
「一夜天神」と呼ばれるようになりました。
夜泣き地蔵
その先に阿弥陀堂があり、その右端に「夜泣き地蔵」が祀られています。
元は塔頭の中院に祀られていたもので、「おせき地蔵」とも呼ばれ、
病気平癒や幼児の夜泣き止めにご利益があるとされています。
阿弥陀堂
阿弥陀堂は鎌倉時代の建保元年(1213)に平宗平(たいら の むねひら:生没年不詳)
により創建されました。
その後、度々の災禍を被り、江戸時代の天保14年(1843)に前川五郎左衛門の
尽力により復興されました。
前川家は文久3年(1863)から約2年間、壬生浪士組の屯所となりました。
文久3年(1863)3月3月、浪士組が会津藩御預となった頃から、
前川邸は本格的に屯所として使われ始め、一家は油小路六角にあった
前川本家へと避難しました。
本尊の阿弥陀三尊像は復興時の造立と見られています。
堂内には売店もあり、階下には歴史資料館があります。
また背後にある壬生塚(新選組隊士の墓所)への入口となり、
歴史資料館と壬生塚へは有料(200円)となります。
寺宝や新選組の関連資料が展示されていますが館内の撮影は禁止されています。
龍神像
阿弥陀堂の裏側には弁天池があり、池を守る神として龍神像が祀られています。
壬生官務家の墓
池に架かる朱に塗られた橋を渡った所が壬生塚で、
正面には平安時代から先祖代々書記官を務めた壬生官務家の墓塔があります。
大小二基の五輪塔は江戸時代初期のものです。
あゝ新選組歌碑
その東側に「あゝ 新選組」の歌碑が建っています。
吉川湊一の墓
総検校 吉川湊一(よしかわ そういち1748~1829)の墓塔があります。
紀伊国熊野の生まれで、平家琵琶の奥義を極めた人物とされ、
文政9年(1826)に当道座を統括する総検校となりました。
文政11年(1828)に江戸へ隠居した翌年に亡くなり、東京都の多聞院にも墓があります。
歴代住職の供養塔
壬生寺歴代住職の供養塔は、鎌倉時代に建立された
当寺で最も古い宝篋印塔です。
百度石
正徳3年(1713)に信者により壬生寺の参道に建てられていた百度石です。
側面に「車通るべからず」と刻まれ、境内への馬車の進入が禁止されていましたが、
新選組はこれを無視して馬を乗り入れていました。
六地蔵
六躯の地蔵像の前にユニークな地蔵尊が祀られています。
アメリカの地蔵像
この地蔵像は、アメリカのオレゴン州にある地蔵山・大願寺から
当寺で祀ってほしいと贈られたものです。
新選組隊士慰霊塔
手前の新選組隊士慰霊塔は、京都で活動している新選組同好会が、
結成三十周年を記念し、平成17年(2005)に建立しました。

奥の新選組顕彰碑は、新選組同好会が、結成二十周年を記念し、
平成7年(1995)に建立しました。
近藤勇像
奥には近藤勇(こんどう いさみ:1834~1868)の胸像とその左側に
近藤勇の遺髪を納めた遺髪塔があります。
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸へ戻り、
江戸鍛冶橋門外(現・東京都千代田区)に屯所を置きました。
同年2月28日に幕府から「甲陽鎮撫(こうようちんぶ)」を命じられ、
新選組は「甲陽鎮撫隊」と改称して甲府へ向かいました。
甲州勝沼で新政府軍と戦いましたが、江戸へ敗走し、
同年4月に下総国流山(現・千葉県流山市)へ集結したところを
新政府軍に捕縛されました。
近藤勇は同年4月25日に中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首刑に処されました。
胸像は昭和46年(1971)に俳優の故・上田吉二郎(1904~1972)が
芸歴53周年を記念して建てられました。
人丸塚
人丸塚は、万葉の歌人・柿本人麻呂(660頃~724)の灰塚と伝わり、
現在の碑は大正時代(1912~1926)に建立されました。
「人麻呂」が「人丸」となり、「火止まる」に通じることから、
火除けの御利益があるとされています。
河合耆三郎の墓
新選組隊士で勘定方・河合耆三郎(かわい きさぶろう:1838~1866)の墓。
河合耆三郎は播磨国の高砂出身で、実家は富裕な蔵元(米問屋)でした。
勘定方として主に隊費の経理面で活躍していましたが、資金に不足が生じ、
慶応2年(1866)2月に切腹の刑に処せられました。
不足が生じた理由は諸説ありますが、耆三郎が足りなくなった資金を
親元へ借り入れるための使いを出したのですが、
たまたま実家で騒動が起きていて資金を送るのが遅れて刑に処せられました。
切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を
壬生寺に建てたとされ、この墓が親の立てたものと思われます。
芹沢鴨の墓
左、新選組初代局長・芹沢鴨(?~1863)と副長助勤・平山五郎(1829~1863)の墓。
両者は、文久3年(1863)に島原の角屋での宴会後に屯所の八木家に帰り、
泥酔して寝入っていた深夜に刺客によって暗殺されました。
長州藩の仕業として処理されたましが、芹沢鴨が数々の乱暴狼藉を働いたことから
朝廷から召捕りの命が下され、
会津藩から近藤らに芹沢の処理の密命が下っていたとされています。
両者の墓塔は、昭和42年(1967)頃に現在地へ移され、初代の墓塔が大きく破損したため、
その後御影石で再建されましたが、以前と趣が異なってしまったために、
両名の150回忌となった平成24年(2012)に和泉石を用いて復元されました。

右は隊士7名の合祀墓で、池田屋騒動で亡くなった隊士・奥沢栄助(?~1864)、
安藤早太郎(1816頃~1864)、新田革左衛門(にった かくざえもん:?~1864)
らも葬られています。
弁天堂
阿弥陀堂の左側に弁天堂があります。
創建されたのは不明ですが、現在の建物は明治27年(1894)に再建されました。
正面にある「弁財天」と刻まれた線香立ての裏側には、
弘化4年(1847)の銘があります。
かっては、境内の西北にある池の畔にありましたが、戦後に現在地に遷されました。
本尊の辧財天は、清水寺の延命院より遷された塑像で、
厨子に納められ、秘仏とされています。
堂内の左側に荼枳尼天(だきにてん)、右側に稲荷明神が祀られています。
水掛地蔵堂
左側の地蔵堂には「水掛地蔵」が祀られています。
水掛地蔵堂-堂内
水掛地蔵尊は像高152cmで、江戸時代の慶安2年(1649)に造立され、
一つの願いを水を掛けて祈ると成就するとされています。
地蔵像のひびの跡は、江戸時代に地震で倒壊した際に補修されたものです。
中院
向かい側に塔頭の中院があります。
中院は江戸時代の寛永年間(1624~1643)に創建され、
かっては中之坊と呼ばれていました。
明治年間(1868~1917)に律宗の修行道場となり、「中院」と呼ばれるようになりました。
現在の建物は、文政12年(1829)に再建されたものです。
堂内には本尊である鎌倉時代作の十一面観音菩薩像が安置され、
洛陽三十三観音霊場・第28番札所の本尊ともなっています。
また、向かって右側には京都十二薬師霊場の第4番札所の本尊である、
平安時代作の歯薬師如来像が安置されています。
左脇侍(向かって右側)に日光菩薩像、右脇侍に月光菩薩像が安置されています。
脇侍は共に鎌倉時代の作です。
観音像
弁天池の畔には観音像などが祀られています。
鐘楼
西側に嘉永4年(1851)に再建された鐘楼があります。
梵鐘は嘉永元年(1848)に鋳造されました。
本堂
参道の正面に本堂があります。
現在の本堂は昭和37年(1962)に焼失後、昭和45年(1970)に
コンクリート造りで再建され落慶法要が行われました。
本尊の延命地蔵菩薩立像は、律宗本山の唐招提寺から遷されました。
平安時代作で現存する日本最古級とされ、国の重要文化財に指定されています。
脇侍には掌善童子像(しょうぜんどうじぞう)と
掌悪童子像(しょうあくどうじぞう)が安置されています。

壬生寺は中国の揚州にある文峰寺と姉妹寺院の関係にあり、
鑑真和上坐像二躯が造られ、一躯が平成28年(2016)に日本に運ばれ、
壬生寺に安置されました。
千体仏塔
左側に平成元年(1988)に建立され、ミャンマーのパゴダを
模した千体仏塔があります。
明治時代に京都市の区画整理の際に各地から集められた、
室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など千躯が安置されています。
地蔵盆には地蔵菩薩像が各地に貸し出されます。
寺務所
本堂の右側に寺務所があり、納経所ともなっています。
画像はありませんが、境内の北東側に大念佛堂(狂言堂)があり、春・秋・節分の3回に
「壬生大念佛狂言」が演じられています。
「壬生大念佛狂言」は、鎌倉時代に壬生寺を中興した円覚上人によって創始されました。
数十万人に及んだとも伝わる大衆が、上人の教えを来聴するために寺に押し寄せ、
上人がその群衆の前で最もわかりやすい方法で仏の教えを説こうと考案したのが
「壬生大念佛狂言」で、正安2年(1300)に上人が身振り手振りの無言劇で
仏の教えを説いたのが始まりとされています。
「持斎融通(じさいゆうづう)念佛」と称され、
その後は曲目やその数も変遷しましたが、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、
すべての演者が仮面をつけ、一切「せりふ」を用いず無言で演じられる
壬生狂言の形は変化せずに踏襲されています。
「壬生大念佛狂言」は国の重要無形民俗文化財に指定され、
安政3年(1856)に再建された大念佛堂も国の重要文化財に指定されています。
和菓子店
壬生寺を出て北へ進んだ西側の和菓子店は、八木家の子孫が経営されています。
八木家は、天正年間(1573~1592)に当地に居を構え、
幕末には新選組の屯所となりました。
和菓子店-2
文久2年(1862)、第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち/在職:1859~1866)の
上洛に際し、将軍警護のため浪士隊が結成されました。
上洛した浪士隊は前川邸、八木邸などに分宿し、翌年には江戸へ戻りましたが
その一部の13名が京へ残り、京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり:
1836~1893)の下で新選組を結成し、芹沢鴨が初代局長となりました。
しかし、芹沢鴨は粗暴な行動から八木邸で粛清され、近藤勇が局長となって
京都の治安を守りました。
前川邸
その先の綾小路通の角に旧前川邸があり、文久2年(1862)から2年間、
新選組の屯所となりました。
芹沢鴨一派の粛清の際は当家から八木邸を監視し、
部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったとされています。
芹沢鴨一派で生き残った野口健司(1843~1864)は、文久3年(1864)12月27日に
突然切腹を命じられ、当家で切腹しました。
元治元年(1864)6月5日に古高俊太郎(1829~1864)が捕縛され、
当家の土蔵で拷問を受けました。
新選組の結成当時からの隊員で、総長をも務めた山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ
:1836~1865)は、近藤勇らと対立して脱走し、当家で切腹しました。
現在は製袋の工場となり、一般公開はされていません。

坊城通を北上して元祇園 梛神社(なぎじんじゃ)へ向かいます。
続く
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慶賀門
伏見稲荷大社の御旅所から西へ進んだ正面に東寺の慶賀門があります。
鎌倉時代前期(1185~1274)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
伏見稲荷大社の還幸祭では神輿がこの門の前に並び、僧から御供と読経を受けます。
東大門-2
大宮通を南へ進むと東大門があります。
鎌倉時代の建久9年(1198)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
平成22年(2010)から門と築地塀の修復工事が行われ、ほぼ完成したように見られます。
東大門-1
南北朝時代の延元元年/建武3年(1336)、東寺に本陣を敷いた足利尊氏(1305~1358)を
新田義貞(1301~1338)が攻撃し、尊氏は門を閉めて難を逃れ、
以来寺では開けてはならない門とされたと伝わり、
「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれています。
新田軍が放った矢の跡が残っていると伝わり、室町時代の応永30年(1423)では大風で、
江戸時代の慶長10年(1605)には地震で損傷しましたが、
同年豊臣秀頼(1593~1615)によって大修理が施されました。
紅葉と五重塔
塀越しの五重塔で、残りの紅葉が色を添えています。
南大門-1
九条通へ右折して西へ進んだ北側に東寺の正門である
南大門があります。
明治元年(1868)に焼失したため、明治28年(1895)に慶長6年(1601)に建立された
三十三間堂の西大門が移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
南大門-2
東寺は山号を「弥勒八幡山」と号する真言宗の総本山で、
洛陽三十三所観音霊場・第23番、京都十三仏霊場・第12番、京都十二薬師霊場・第2番、
都七福神めぐり(毘沙門天)、神仏霊場・第84番、真言宗十八本山・第9番、
西国愛染十七霊場・第8番などの札所です。
正式には「金光明(こんごうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院」ですが、
宗教法人としての登録名は「教王護国寺」で、
「東寺」は創建当時から使用されてきた歴史的名称です。
昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産として登録されました。
南大門からの五重塔
こちらは南大門の横からの五重塔です。
八嶋神社-鳥居
門を入った正面には金堂、その北側には講堂と建ち並びますが、堂内参拝の受付は
講堂の北側ですので、南から順を追って北へと進みます。
門を入った右側(東側)に八嶋神社があり、祭神として地主神が祀られているとも、
大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)であるとも伝わります。
八嶋神社
八嶋とは、伊邪那岐命と伊邪那美命が生み出した日本列島のことで、
東寺が造営される以前からこの地に祀られていました。
空海は、東寺の伽藍建立に先立ち、この神に造立成就を祈願し、
地主神として崇められたと伝わります。

明治元年(1868)に南大門が焼失した際に、八島神社も焼失し、
現在の社殿は平成4年(1992)に再建されました。
弘法大師像
南大門の左側には弘法大師像が祀られています。
弘仁7年(816)に修禅の道場として高野山の開創に着手した空海(774~835)は、
弘仁14年(823)に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。
この季節、黄色に染まった背後のイチョウが光背のように見えます。
鎮守八幡宮-鳥居
右側に鎮守八幡宮があります。
鎮守八幡宮は弘仁元年(810)の薬子の変に際し、空海が王城鎮護を祈願して
宇佐八幡宮を勧請して創建されました。
伏見稲荷大社の稲荷祭の際、還幸祭で南大門から入った5基の神輿が社前に並び、
東寺側から神輿に御供をした後に神輿は大社へと帰ります。
鎮守八幡宮-本殿
本殿には空海が一本の霊木から、自ら八幡三神を刻んだと伝わる日本最古の神像が
祀られていますが、秘仏とされています。
南北朝時代、東寺の内外で戦闘が行われた時、鎮守八幡宮から神矢が飛んで、
東寺に陣を置いた足利尊氏(1305~1358)が勝利しました。
この戦勝により、足利幕府は東寺を保護し、鎮守八幡宮も栄えたのですが、
南大門の焼失の際に類焼し、平成4年(1992)に再建されました。
穴門
鳥居前の奥には穴門があります。
「穴門」とは築地塀などを切り取って造られた低く小さな門のことで、
埋門(うずみもん)とも称されています。
灌頂院-東門
鎮守八幡宮の向かい、境内の南西角には灌頂院(かんじょういん)があり、
灌頂院への東門があります。
灌頂院は東寺にしか現存せず、「真言堂」とも呼ばれ、真言宗寺院では
最も重要な堂宇で、国の重要文化財に指定されています。
空海が修行した唐の青龍寺にならい、密教修行の道場として建立され、
灌頂道場としては最大規模になります。
承和10年(843)に建立されたのですが、承和2年(835)に弘法大師が入定されたため、
東寺二祖の実恵大徳(じつえだいとく:786?~847)によって完成されました。
承和10年(843)に太政官符で実恵大徳に対し東寺で最初の伝法灌頂が許可されました。
天正13年(1586)に発生した天正地震で損壊し、弘法大師八百年御遠忌の
寛永11年(1634)に第3代将軍・徳川家光(在職:1623~1651)により再建されました。
天正地震は、中部地方を震源とした巨大地震で、被害の範囲は
明治24年(1891)の濃尾地震(M8.0~8.4)をも上回る広大なものでした。
灌頂院-北門
灌頂院北門
灌頂院の四方は築地塀で囲われ、通常非公開です。
東門と北門はともに国の重要文化財に指定されています。
勅使門
鎮守八幡宮から北上すると勅使門があり、築地塀で囲われた内部には書院、
客殿、小子坊などがありますが、通常非公開です。
勅使門と小子坊
小子坊は、元は境内の西北隅に位置する西院大師堂の一画にあり、
南北朝時代に九州に下った足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう:1313~1364)の
院宣を掲げて京都に入った際に、建武3年/延元元年(1336)から約半年間、
洛中の戦乱が治まるまで御所とされました。
現在の建物は、昭和9年(1934)に弘法大師千百年御遠忌の記念事業として、
木曽檜材を用いて新築され、堂本印象(1891~1975)により襖絵が描かれました。
本坊表門
北側の本坊表門には「真言宗総本山 教王護国寺 事務所」と掲げられています。
観音像
北へ進むと聖観音像とその右側に地蔵菩薩像が祀られています。
御影堂門
西側の築地塀で囲われた境内は「西院」と称されています。
御影堂-斜め
門を入った左側に御影堂があります。
御影堂-南側
南側
御影堂(西院御影堂)は大師堂とも呼ばれ、かって空海が居住していましたが
当初の堂は天授5年/康暦元年(1379)に焼失し、
その翌年に後堂(うしろどう=南側)部分が再建されました。
10年後の元中7年/明徳元年(1390)に弘法大師像を安置するために北側に前堂、
その西側に中門が増築されました。
後堂には空海の念持仏とされる不動明王坐像が安置されています。
厳重な秘仏で非公開とされていますが、平安時代の作で日本の不動明王像としては
最古の作例の一つであり、国宝に指定されています。
御影堂-北側
北側の前堂に安置されている弘法大師坐像は、
天福元年(1233)に運慶(?~1224)の4男・康勝(こうしょう:生没年不詳)により
造立されたもので、国宝に指定されています。
空海の弟子・真如(799~865?)が描いた空海の肖像画とほぼ同じと伝わります。
この像の前では毎朝6時に弘法大師に朝食を捧げる
「生身供(しょうじんく)」が執り行われています。

また、「御影供(みえく)」が空海の命日である21日に毎月行われています。
「生身供」と「御影供」は空海に深く帰依した
後白河法皇の皇女・宣陽門院(1181~1252)が創始しました。
平安時代後期に東寺は一時衰退しましたが、宣陽門院が霊夢のお告げに従い、
莫大な荘園を東寺へ寄進したことにより復興されました。
毘沙門堂
境内の南東側に毘沙門堂があります。
文政5年(1822)に建立され、平成6年(1994)の創建1200年記念事業で
修復が行われ、毘沙門天像も新造されました。
かっては羅城門の楼上に安置されていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像を
本尊としていました。
羅城門は弘仁7年(816)に大風で倒壊し、その後再建されましたが
天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊し、以降再建されることはありませんでした。
羅城門が倒壊した後、毘沙門天像は東寺に遷され、
当初は食堂(じきどう)に安置され、毘沙門堂の建立後は毘沙門堂に遷され、
現在は国宝に指定されて宝物館に安置されています。
尊勝陀羅尼の碑-並び
西側に宝篋印塔、尊勝陀羅尼の碑、宝塔などが並んでいます。
尊勝陀羅尼の碑
尊勝陀羅尼とは、仏頂尊勝の功徳を説いた陀羅尼で八七句から成り、
これを唱え、または書写すれば、悪を清め長寿快楽を得、
自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされています。
陀羅尼とは、サンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える
もので、本来の意味は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指します。
やがて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を
特に「陀羅尼」と呼ぶ様になりました。
本来、陀羅尼は暗記して繰り返し唱える事で雑念を払い、
無念無想の境地に至る事を目的としたものです。

亀のように見えるのは、中国の伝説上の動物・贔屓(ひいき)で、
竜の子とされ、重いものを背負うのを好むとされています。
甲羅に建つ石塔は永遠不滅とされ、古来より石碑や墓石の土台に用いられてきました。

贔屓は、自分の気に入った者に対して肩入れし、
援助する意味で使われる語源になっています。
この碑はかって、北野天満宮の宗像社の傍らに嘉永6年(1853)、
比叡山の僧・願海(1822~1873)によって建てられたのですが、
慶応4年(1868)の神仏分離令により現在地に移されました。
願海は、文政6年(1823)に群馬県高崎市で生まれ、21歳の時に比叡山へ上って
千日回峰を発願し、嘉永6年(1853)31歳で千日回峰行を満行しました。
万病ぬぐいの布
贔屓には万病平癒の御利益があるとされ、万病ぬぐいの布で贔屓を擦り、
自分の患部を擦って、治癒した方々が、後方の布納め棒に結ばれています。
また、石碑の周囲を回りながら贔屓の頭や手足などを撫でて、
自分の患部をさすると万病に効果があると信仰されいます。
天降石
「天降石」は天から降りてきて、古くからこの地にあったと伝わります。
江戸時代には「護法石(五宝石)」或いは「不動石」と呼ばれていたのが、
いつの頃からか「天降石」と呼ばれるようになりました。
石を撫でた手で体の悪い箇所をさすると治ると信仰され、
「撫石(なでいし)」とも呼ばれます。
宝塔
並びの右端に宝塔があります。
宝塔-弘法大師像
宝塔内には小さな弘法大師像が安置されています。
高野山揺拝所
門の右側に高野山奥之院遥拝所があります。
弘法大師は、東寺を真言宗の根本道場、高野山を修禅道場と定められました。
不明な建物
西側正面の建物には駒札等が無く、詳細は不明です。
加行道場
その横の建物には「加行道場」の表札があります。
大黒堂
右前方に大黒堂があります。
大黒堂では、かって御影堂での生身供(しょうじんく)の調理が行われていました。
生身供は現在も行われていて、朝の6時前に10回の鐘の音を合図に
御影堂への唐門が開けられ、6時から一の膳、二の膳、お茶が供えられます。
6:20と7:20には弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利を
頭と両手に授ける「お舎利さん」が行われます。

大黒堂には、弘法大師作と伝わる大黒天・毘沙門天・弁財天が合体した
三面大黒天像が安置されていますが、厨子内に納められ、扉は閉じられています。
大黒堂-不動堂
大黒堂の北端には不動明王が祀られています。
鐘楼
北へ進むと鐘楼があります。
最初の鐘楼は、南北朝時代の正平3年/貞和4年(1348)に建立され、
梵鐘は足利尊氏によって寄進されました。
鐘楼-梵鐘
現在の梵鐘はその複製です。
一切経蔵
鐘楼の左奥には一切経蔵があります。
蓮華門
その奥には門があり、それを出て南へ進むと蓮華門があります。
鎌倉時代に再建された八脚門で、国宝に指定されています。
小子房の西の門であり、空海が高野山へ向かう際に使用していた門で、
最後の旅立ちの時、空海の足元に蓮の花が咲き、足跡にも蓮の花が咲いていた
という伝説から門の名称となりました。
大日堂
再び先ほどの門から境内へ戻り、東へ進むと北側に大日堂があります。
元は、江戸時代の元禄10年(1697)に御影堂の礼拝堂として建立され、
その後平安京を造営した第50代・桓武天皇(在位:781~806)の尊牌所となりました。
現在の大日堂は、平成12年(2000)に再建され、
役小角(えんの おづの:634?~701?=役行者)作と伝わる
胎蔵界大日如来像が安置されています。

御影堂門を出て金堂や五重塔などを巡ります。
続く
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本堂-1
京阪「神宮丸太町」駅を下車して西へ進み、京都御苑の南西角の寺町通から
西へ二筋目の麩屋町通を南下した先に大福寺があります。
山号を「瑠璃光山」院号を「利生院」、正式には「瑠璃光山 利生院 大福寺」と号する
天台宗の寺院で、京都十二薬師霊場の第10番札所です。
大福寺は推古天皇の御代(593~628)に大和国の宮田郷で、
聖徳太子(574~622)により創建されたと伝わります。
平安時代の初め、勅旨により現在地に移転しました。
かっては皇室からの崇敬もあり、最盛期には北は夷川通、南は二条通、
東は麩屋町通、西は富小路通に囲まれた境内に七堂伽藍が建立されていました。
しかし、江戸時代の天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、寺域の殆どを失い、
現在は民家のようなお堂を残すのみとなりました。
本堂-2
堂内に安置されている本尊の薬師如来像は、聖徳太子が自ら刻んだと伝わり、
「菩提薬師(ほていやくし)」とも呼ばれ、洛中の名薬師と謳われました。
菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生が菩薩と言われています。
菩提を古くは「ほてい」と読まれていたようで、「布袋」の字が当てられ、
それを細工人が屋号として「ほてい屋」を掲げたことから
大福寺が立地する町名が「布袋屋町」となったと伝わります。
他に千手観音像、安産腹帯地蔵尊像、延命地蔵像、准胝観音像、元三大師像、
布袋尊像などが安置されています。
布袋尊はかっては京都七福神の札所本尊でもありましたが、
現在では長楽寺に変更されています。
大黒天
また、江戸時代では商家は正月(節分とも...)に大福寺の
「大福」の縁起に因み、金銭出納帳に寺の宝印を貰うことが慣例となりました。
出納帳が「大福帳」と呼ばれるようになった起源とされています。
屋根には福を招くとされる大黒天の瓦が載せられています。

幕末には儒学者である梅田雲浜(うめだ うんぴん:1815~1859)が境内に
仮住まいをしていました。
梅田雲浜は文化12年6月7日(1815年7月13日)に小浜藩士・
矢部義比(やべ よしちか)の次男として誕生しました。
その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、天保14年(1843)には京都へ移り、
藩の塾である望楠軒(ぼうなんけん)の講師となりました。
しかし、嘉永5年(1852)に藩主・酒井忠義(さかい ただあき:1813~1873)に
意見を申し立てたことが怒りに触れて藩籍を剥奪されました。
翌嘉永6年(1853)、ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による
攘夷運動を訴え、幕政を激しく批判しました。
これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者と
なりました。
捕縛後は京都から江戸に送られ、安政6年9月14日(1859年10月9日)、
45歳で獄中で病死しました。

また、安政2年(1855)に千代と結婚しています。
梅田千代は明治5年(1872)、京都に女子の教育機関である
女紅場(にょこうば)が設立されると、教師として採用され、
新島八重子らと協力して教育に携わりました。
千代は維新後も大福寺に住み続けたと伝わります。

次回は二条城や平安京跡などを巡ります。
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寺号標
釜座通を北上し、二条通を横断した先の西側に薬師院があります。
山号を「醫(医)徳山」と号する黄檗宗の寺院で、京都十二薬師霊場・第9番札所と
京都通称寺霊場の札所です。
本堂
奈良時代の延暦元年(782)、16歳だった最澄(766?~822)は一刀三礼して七躯の
薬師如来像を刻み、その後、美濃国横倉に医徳堂を建立し、
その内の一躯を安置しました。
最澄は天平神護2年(766)に大津市坂本の生源寺で誕生し、
7歳の頃に仏道を志し、宝亀11年(780)に近江国分寺で得度を受けました。
延暦4年(785)4月に東大寺戒壇院で具足戒を受け、同年7月中旬に比叡山に籠り、
延暦7年(788)に現在の根本中堂の地に南に経蔵、中央に薬師堂、
北に文殊堂の三堂を建立し、「一乗止観院」と称して寺号を「比叡山寺」
と号したのが延暦寺の始まりとされています。
この時、薬師堂に七躯の内の一躯が安置されたと伝わりますが、
現在の根本中堂に安置されている薬師如来像は寛永19年(1642)に造立されました。

鎌倉時代の寛喜2年(1230)、疫病が全土に流行して、貴族や民衆の区別なく
死者が相次いだある日のこと、医徳堂の住職の夢に本尊の薬師如来が現れ、
次のように告げました。
「わたしの前に来れば一切の病苦を取り除こう。来也(こぬか)、来也」
感激した住職はお告げをふれ回ると、遠国からも病人が集まり薬師如来に祈ると、
諸病は平癒し、以後「こぬか薬師」と呼ばれるようになったと伝わります。
斎藤道三(1494~1556)により伝来されていましたが、
安土・桃山時代に上洛を果たした織田信長(1534~1582)が、
御利益を聞いて美濃から現在地に遷しました。

江戸時代の元禄元年(1688)に黄檗宗の鉄面寂錬禅師(生没年不詳)によって
再興され、黄檗宗の寺院となりました。
当時は大黒町一帯にまたがる広大な境内を持ち、「こぬか薬師」は
京都七薬師の一つに数えられ栄えました。
しかし、幕末の元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった
蛤御門の変で焼失しました。
明治22年(1889)になって緑樹院竺丈禅師(生没年不詳)が三井家・近衛家の外護によって
裏門を正面にして縮小再建されました。
その際、井戸から大黒天像が発見され、
この地は「大国町」と称されるようになりました。
以前の表門は「薬師町」として名を留め、盛時境内域の二条通一帯に
薬師夜店が並び、現在でもこの付近に薬問屋や漢方薬店が多く残されています。
戦後は再び荒廃し、平成12年(2000)にようやく庫裏が再建されました。
本尊
本尊の「こぬか薬師」は秘仏とされ、毎年10月8日のみ開帳されています。

大福寺へ向かいます。
続く
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山門
西光寺(寅薬師)から新京極通を南下して直ぐ東側に永福寺があります。
山号を「浄瑠璃山」、院号は「林秀院」で、正式には「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」と
号する浄土宗西山深草派の寺院です。
本尊は薬師如来で通称で「蛸薬師」、安置する本堂は「蛸薬師堂」、
東西の参道は「蛸薬師通」と呼ばれています。
京都十二薬師霊場・第12番、京の通称寺霊場・第18番などの札所です。

室町に住んでいた富者が養和元年(1181)に剃髪して林秀(生没年不詳)と号していました。
延暦寺・根本中堂の薬師如来を信仰し、長年にわたって月参りを行っていましたが、
年老いてそれもできなくなった或夜、夢枕にその薬師如来が現れました。
「昔、伝教大師最澄(766/767~822)が彫った自分の石仏が比叡山にあるので
掘り起こすように」と告げられ、翌日、それを掘り起こして二条室町の地に
六間四面の堂を建立して安置し、「永福寺」と名付けたのが始まりとされています。
現在の室町通の二条通と押小路通の間に「蛸薬師町」の町名が残され、
かってこの付近に池があったとされています。
永福寺は「水上(みなかみ)薬師」や「澤(たく=沢)薬師」と呼ばれ、
澤薬師や転訛して「蛸(たこ)薬師」になったとする説があります。

一方で、建長年間(1249~1256)の初め頃、僧・善光の病の母が、
「タコが食べたいと」と願い、善光は悩みながらも市場でタコを買いました。
それを町の人たちに見られ、僧がタコを食うのかと咎められ、
タコが入っている箱の中身を見せるようにと責められました。
そこで善光は一心に薬師如来に「この蛸は、私の母の病気が良くなるようにと
買ったものです。どうぞ、この難をお助け下さい」と祈りました。
すると、八本足のタコが光を放ちながら法華経八巻へ変化し、
この光景を見た人たちは皆合掌して南無薬師如来と称えました。
そのタコが放った瑠璃光を善光の母が浴びたところ、病気はたちまち回復し、
それ以来、永福寺は霊験あらたかな蛸薬師堂と呼ばれ、その本尊は蛸薬師如来、
親しみを込めて「蛸薬師さん」と呼ばれるようになったとする説もあります。
本尊
嘉吉元年(1441)には第102代・後花園天皇(在位:1428~1464)の勅願寺となりましたが、
天正18年(1590)の豊臣秀吉(1537~1598)による寺町政策により、
現在地へ移転しました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈や、明治5年(1872)に行われた
新京極通の新設などにより、境内が縮小されました。
風車
本堂には「お花にかえて風車を」と記され、多数の風車が奉納されています。
なで薬師
また、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)ならぬ、賓頭盧蛸像が祀られています。
「なで薬師」と称され「左手で触れるだけで全ての病が癒されると云われている」
と記されています。

錦天満宮へ向かいます。
続く
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