竜沢池
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)から下り、鳥居をくぐった左側に
竜沢池(たつさわのいけ)があります。
猿沢池を模したとされていますが、大きさは猿沢池には遠く及びません。
日照りでも水が枯れず、大正時代(1912~1926)の末まで
雨乞い神事が行われていました。
神龍社への石段
池の東側にある石段を登ると末社の神龍社があります。
右側の建物は境内の監守詰所です。
神鹿像
神鹿像
平城京遷都の和銅3年(710)、藤原不比等(659~720)は鹿島の武甕槌命を勧請し、
御蓋山の麓に祀って春日神と称しました。
武甕槌命は白い鹿に乗り、山頂の浮雲峰に降り立ったとの伝承が残され、
鹿は春日神の神使いとされています。

貞観元年(859)に藤原山蔭が奈良の春日神を勧請した時も、
白鹿に召されて吉田山西麓に鎮座したと伝わります。
さだれ石
さだれ石は、岐阜県春日村から奉納されました。
若宮社-石段
その横の石段を登ると摂社の若宮社があります。
当初は本宮の第二殿と第三殿の間に無社殿で祀られていましたが、
慶安元年(1648)に現在地で社殿が造営され、遷座されました。
若宮社-拝殿
石段を登った所に拝殿があります。
若宮社
本殿
祭神は天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、第三殿の
天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第四殿の比売神(ひめのかみ)の
御子神とされています。
高天原より天津水を持って降臨し、この水を皇孫に奉(たてまつ)ったとされています。
神楽岡社
左側には摂社の神楽岡社があります。
吉田神社本宮創建の頃には既に鎮座していたと伝わり、
神楽岡社の創建に関する詳細は不明です。

本殿には大雷神(おおいかづちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
大山祇神には、「大いなる山の神」という意味があり、高龗神は貴船神社の祭神であり、
水を司る神とされ、雷除の神とされる大雷神とともに神楽岡の地主神とされています。
神楽岡社前の石段
神楽岡社前の石段を下ります。
火炉
境内中央の火炉は、毎年2月2日~4日に行われる節分祭で、節分当時の2月3日の
午後11時から行われる火炉祭(かろさい)で使用されます。
火炉祭では参拝者が持参した古い神札に宿る神霊が、
元の御座にお還りになられる様、浄火を点じ焼き納めます。
三の鳥居-扁額
三の鳥居には「吉田社 本宮」の扁額が掲げられています。
着倒殿
鳥居の手前、右側に着倒殿があります。
舞殿
鳥居をくぐった先に舞殿があります。
吉田神社は、貞観元年(859)に藤原山蔭が一門の氏神として、
奈良の春日大社四座の神を勧請したのが始まりです。
当初は平安京での藤原一族の氏神でしたが、永延元年(987)から
朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991)には二十二社の前身である
十九社奉幣に加列されました。
鎌倉時代以降は、卜部氏(うらべし=後の吉田家)が神職を相伝するようになり、
文明年間(1469~1487)に吉田兼倶(よしだかねとも)が吉田神道(唯一神道)を
創始すると、寛永5年(1665)には江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、
吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、
明治になるまで神道界に大きな権威を持っていました。
現在は神社本庁の別表神社に列せられ、神仏霊場の第110番札所です。
直会殿
その右側には直会殿があります。
本殿-1
本宮には春日大社と同様に四社の社殿が横一列に並んでいます。
第一殿に健御賀豆知命(たけみかづちのみこと=武甕槌命)
第二殿に伊波比主命(いはいぬしのみこと=経津主命/ふつぬし の みこと)
第三殿に天之子八根命(あめのこやねのみこと=天児屋根命)
第四殿に比売神(ひめのかみ)が祀られています。
本殿-2
武甕槌命と経津主命は葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)の際に、
天下って大己貴命(おおあなむち の みこと=大国主)を説得し、
国譲りを平和裡に成功させた神です。
天児屋根命は天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ の みこと)に随伴し、
後に中臣連(なかとみうじ)の祖となりました。
比売神は天児屋根命の妻です。
ついなの矢受付所
本宮の左の建物は「追儺(ついな)の矢」の受付所ですが、
大晦日や節分の日に開所されるようです。
社務所
境内の西側に社務所があります。
二の鳥居
社務所の南側に参集殿があり、その南側から石段を下ると二の鳥居が建っています。
今宮社-鳥居
鳥居の手前、北側に末社の今宮社があります。
今宮社-拝殿
拝殿
創建に関する詳細は不明ですが、古くから「木瓜(こうり)大明神」ともよばれ、
吉田村の産土神(うぶすながみ)として信仰されていました。
建保3年(1215)の吉田小社の註進状(ちゅうしんじょう)の中に社名があり、
それよりも以前に創建されていたことが判明しました。
文化13年(1816)に旧地から移転して現在地で社殿が造営されました。
今宮社-本殿
本殿
大己貴神(おおなむちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・
健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
大己貴神は、健速須佐之男命の御子神であり、別名で「大国主神」と称され、
出雲大社の祭神でもあります。
また、旧地も吉田神社の境内にあったことから山の守護神である
大山祇神が祀られていると思われます。
青龍石
本殿の周囲には四神石が祀られています。
四神(ししん/しじん)とは、古代中国で信じられていた天の四方の方角を司る
空想的霊獣で、東は青竜、西は白虎、南は朱雀(すざく)、
北は玄武が守護するとされています。
本殿の東南角に「青龍石」が配されています。
青龍は「蒼竜(そうりゅう)」とも称され、本来は青では無く緑色とされています。
白虎石
西南の角に「白虎石」が配されています。
白虎は四神の中では最も高齢の存在とされ、細長くて白い虎の姿で表されています。
玄武石
西北の角には「玄武石」が配されています。
玄武は脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿とされていますが、
石は普通の亀のように見えます。

東北の朱雀石は内陣に納められているため、見ることができません。
朱雀は翼を広げた鳳凰様の鳥形で表されています。
祖霊社
鳥居から下った北側に祖霊社があります。
明治16年(1883)に現在地で創建され、吉田神社太元講社員の御霊が祀られています。
一の鳥居
一の鳥居まで長い参道が続きます。
2月の節分祭には、この参道に約800店の露店が立ち並びます。
京大
一の鳥居を通り過ぎると、京都大学の時計台があります。
京都大学の起源は、文久元年8月16日(1861年9月20日)に長崎に設立された長崎養生所で、
後に「長崎精得館」と改称され、その理化学部門は、当初は江戸にあった
開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていました。
しかし、明治維新の混乱で、明治政府は慶応4年(1868)に
舎密局(せいみきょく=後の理学校)として大阪に開設することを決定しました。
明治2年(1869)に開校し、明治3年(1870)には洋学校と合併して
「開成所」と改称されました。
その後、明治19年(1886)に公布された中学校令によって「第三高等中学校」と改称され、
明治22年(1889)に現在地へ移転しました。
明治27年(1894)に公布された高等学校令により旧制の「第三高等学校」となり、
明治19年(1886)に交付された帝国大学令に基づき、明治30年(1897)に
京都帝国大学設置に関する勅令が制定され、
日本で2番目の帝国大学として発足しました。
創立五十周年に当たる昭和22年(1947)には大学名から「帝国」が削られて
「京都大学」と改称され、昭和24年(1949)には第三高等学校を統合して、
新制大学となり、同年に理学部の湯川秀樹教授が日本人初のノーベル賞を
受賞しました。

京阪出町柳駅まで戻り、次回は同駅から下鴨神社、出雲路橋を経て御陵神社、妙顕寺を
巡って堀川通りへ至り、晴明神社から一条戻り橋を経て今出川通りを戻り、
相国寺などを参拝して京阪出町柳駅まで戻るルートを計画しています。
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