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宜秋門
宜秋門
京都御所及び仙洞御所は平成28年(2016)7月26日から月曜日と年末年始を除き、
通年一般公開されていますが、現在は新型コロナによる緊急事態宣言が発令中のため
拝観は休止され、10月1日から再開されるそうです。
記事は平成30年(2018)11月1日から11月5日まで開催されていた
「京都御所 宮廷文化の紹介」で、拝観が再開され次第、記事を更新する予定です。

京都御所西側の皇后門から少し南へ進んだ所に清所門がありますが、
画像を撮り忘れました。
かっては、御台所御門と呼ばれ御所の勝手口として使用されていましたが、
現在は一般拝観の出口として使用されています。

その南側に「宜秋門(ぎしゅうもん)」があり、一般拝観の入口となっています。
門を入る前に、手荷物のチェックが行われます。
宜秋門は、平安京では内裏外郭の西正面にありました。
御車寄
門を入って南へ曲がった所に「御車寄」があります。
儀式や天皇に参内した者を迎える玄関で、公卿や殿上人(てんじょうびと)など
限られた者だけに使用が許されていました。
殿上人とは、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を
許された者で、公卿を除いた四位以下の者を指します。
諸大夫の間-西側
諸大夫の間-西側
諸大夫の間-東側
諸大夫の間-東側
諸大夫の間-間と畳
諸大夫の間-畳縁の色
諸大夫の間-間図
諸大夫の間-襖の図
御車寄から南へ進んだ所に「諸大夫の間(しょだいぶのま)」があります。
参内した者の控えの間がある建物で、襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」、
「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる三室が東から並びます。
格屋の違いは畳縁の色の違いなどにも反映されています。
「虎の間」や「鶴の間」が使用できる者は御車寄から参入しますが、
「桜の間」を使用する者は、左の沓脱石から参入しました。
諸大夫の間は本来桜の間を指しますが、
普通にはこの一棟三間の総称として用いられています。
新御車寄
諸大夫の間の南側に「新御車寄」があります。
大正4年(1915)に第123代・大正天皇の即位礼が紫宸殿で行われるのに際し、
馬車による行幸に対応する玄関として新設されました。
天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえ、南向きに建てられています。
月華門
新御車寄から東へ進んだ所に「月華門」があります。
内裏を構成する内閤門のうちの一つで、東の「日華門」と相対し、
月華門は紫宸殿南庭(なんてい/だんてい)の西側の門です。
生け花-1
生け花-2
生け花-3
月華門には生け花の展示が行われています。
高御座の写真-1
高御座の写真-2
また、天皇の御座である「高御座(たかみくら)」と皇后の御座の
「御帳台(みちょうだい)」の写真が展示されています。
高御座と御帳台の造りはほぼ同じですが、高御座と比べ
御帳台は1割程度小さく造られています。
現物は令和元年(2019)10月22日に新天皇の即位を国内外に宣言する
「即位礼正殿の儀」で使われるために、平成30年(2018)9月25日の深夜に
東京の皇居へと運び出されました。
現在の高御座と御帳台は、大正2年(1913)に制作され、大正、昭和、平成の
即位礼で使用されました。
建礼門-内側
月華門を入った南側に「建礼門」があり、その内側です。
京都御所の正門で、天皇・皇后及び外国元首級のみが通ることのできる、
最も格式の高い門です。
承明門の写真
「承明門(じょうめいもん)」は、平成30年7月4日から回廊及び春興殿の
修復工事が行われているため、門や回廊はシートで覆われています。
写真のみが掲載されていました。
春興殿
「春興殿」もシートで覆われていますが、京都御所で行われた大正天皇の即位礼に
合わせて大正4年(1915)に造営され、「賢所大前の儀」が行われました。
賢所大前の儀とは、即位礼の時、天皇が即位したことを自ら賢所(かしこどころ)に
告げる儀式のことで、賢所は天照大神 (あまてらすおおみかみ) の御霊代 (みたましろ) 
として神鏡を奉安してある所です。
大正天皇の即位礼では、皇居から神鏡が遷され奉安されました。
建春門-内側
東にある「建春門」の内側です。
日華門
「建春門」の西、やや北寄りにある「日華門」を入ります。
紫宸殿
門を入った北側に「紫宸殿」があります。
平安京の紫宸殿は鎌倉時代の安貞(あんてい)元年(1227)に焼失してからは
再建されることは無く、跡地は一時荒野して、「内野」と呼ばれました。
南北朝時代に現在地に皇居が遷されてからも、度々焼失と再建が繰り返され、
現在の建物は嘉永7年(1854)の大火後、
安政2年(1855)に平安時代の復古様式で建てられました。
慶応4年(1868)には「五箇条の御誓文」の舞台となり、
明治、大正、昭和の天皇の即位礼はこの建物内で行われました。
左近の桜
左近の桜
右近の橘
右近の橘
紫宸殿の前は「南庭(だんてい)」と呼ばれ、
儀式の場として重要な役割を持っています。
紫宸殿に向かって右に左近の桜、左に右近の橘が植えられています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、左近は紫宸殿の東方に、
右近は西方に陣を敷き、その陣頭の辺に植えられていたのでこの名があります。
紫宸殿-内部
紫宸殿の母屋(もや)と北廂(きたひさし)の間に賢聖障子(けんじょうのしょうじ)が
立てられています。

中央には獅子・狛犬と負文亀(ふぶんき)が描かれています。
賢聖障子-西
賢聖障子-西
賢聖障子-中央
賢聖障子-中央
賢聖障子-東
賢聖障子-東
賢聖障子の左右(東西)には古代中国の賢人が一間に4名ずつ、
合計32名の像が描かれています。
賢聖障子は平安時代から紫宸殿で儀式などの際に立てられていたとされ、
現在の賢聖障子は寛政元年(1789)の内裏造営の時に、
狩野典信(かのうみちのぶ)が下絵を描きました。
狩野典信は内裏完成前に亡くなったため、住吉廣行が後を引き継ぎ完成させました。
嘉永7年(1854)の大火では、賢聖障子は持ち出されて焼失は免れましたが、
破損したものもあり、廣行の息子・住吉弘貫(ひろつら)が一部を修理、制作しました。
昭和41年(1966)から45年(1970)にかけて摸写され、
現在は複製されたものが立てられています。
清涼殿
紫宸殿の西側を北へ進んだ所に清涼殿があります。
清涼殿は平安時代中期(10世紀中ごろ)からは天皇の日常生活の居所として
定着するようになり、日常の政務の他四方拝叙位除目などの行事も行われました。
皇居が現在地に遷った後、天正17年(1589)に豊臣秀吉により天皇の日常の御座所として
「御常御殿」が建立されてからは、主に儀式の際に使用されるようになりました。
現在の建物は安政2年(1855)に平安時代の復古様式で建てられました。
呉竹
呉竹
漢竹
漢竹
清涼殿の前庭には向かって右側に呉竹、左側に漢竹(かわたけ)が植えられています。
御帳台
建物内には天皇の寝室である「御帳台(みちょうだい)」が再現されています。
御帳台の前に獅子と狛犬が置かれています。
台座の裏側には「宝永5年(1708)8月調進」と記されていますが、
獅子・狛犬はそれ以前の作と伝わります。

画像はありませんが、清涼殿の北東の隅には「荒海障子」が置かれています。
清少納言が『枕草子』で「清涼殿の丑寅の隅の、北のへだてなる御障子は、荒海のかた、
生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる。」と記し、
これに因み「荒海障子」と称されるようになりました。
図柄は中国の『山海経(さんがいきょう)』から題材としてとられ、
手足の長い人間が協力して漁をしている姿には教訓的な意味があるとも伝わります。
現在のものは安政2年(1855)に御用絵師の土佐光清が伝統的な図柄に基づき、
描かれたものの摸写ですが、襖障子の工法や素材は安政当時のものが復元されています。
表面は劣化を避け、ガラスで覆われています。
滝口
清涼殿の北側には「滝口」が復元されています。
「滝口」は清涼殿を警護する滝口武者(たきぐちのむしゃ)が詰所としていました。
内裏の御殿、塀などに沿って、その周囲の庭を流れる溝の水は
「御溝水(みかわみず)」と呼ばれ、清涼殿の東は古くは石を立て、
風流に仕立てられていました。
その水の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、
清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶ様になりました。
北の廊下
「滝口」から東側に小御所(こごしょ)及びその北側の御学問所へと続く
廊下の建物があります。
小御所
廊下の先にある小御所
承明門の扁額
清涼殿から小御所へと出た所に承明門(じょうめいもん)の扁額が展示されています。
承明門は中世に一度廃絶しましたが、寛政2年(1790)の造営時に再建され、
嘉永7年(1854)の大火後、安政2年(1855)に再建されました。
承明門は儀式では公卿が参入する重要な門となっています。
この扁額は享和3年(1803)に掲げられ、嘉永7年(1854)の大火でも焼失を免れました。
地球儀
また、地球儀の写真が展示されていました。
明治天皇の即位礼では地球儀が用いられました。
当日は前日までの雨で南庭(だんてい)がぬかるんでいたため、
地球儀は承明門の下に設置されました。
明治天皇の即位礼は、従来行われてきた唐風を廃して我が国古来の装束を用い、
古式を重んじる一方で、地球儀を取り入れて新しさの象徴とされました。
地球儀は嘉永5年(1852)に水戸藩氏の蘭学者・鱸半兵衛重時(すずきはんべえしげとき)
によって製作され、直径約109cm、高さ約150cmあり、
江戸時代に国内で製作された最大の地球儀でした。
即位礼の図
即位礼の図のように晴天の場合は、地球儀は南庭に置かれる予定でした。
小御所-正面
小御所は鎌倉時代以降に建てられた御殿で、江戸時代は武家との対面や
儀式の場として使用されました。
明治維新の際には、将軍の処置に対する「小御所」の舞台となりました。
小御所-内部
小御所の内部
践祚の図
小御所には慶応3年正月9日(1867年2月13日)に行われた践祚(せんそ)の図が
展示されています。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)に第121代・孝明天皇が崩御され、
清涼殿は葬儀の場として使用されることになりました。
践祚の儀式は清涼殿に代わって小御所が用いられ、
内部には清涼殿の調度が移設されました。
この席で関白左大臣・二条斉敬(にじょう なりゆき)は摂政とする勅命が
下されましたが、約1年後に大政奉還と明治政府の発足により、
関白・摂政等の職制は廃止されました。
御池庭-2
小御所前に御池庭(おいけにわ)があり、池を中心とした回遊式庭園が築かれています。
平安京時代にはこのような庭園は築かれておらず、
江戸時代の元和5年(1619)に作庭され、小堀遠州が関わったと伝わります。
その後6度の火災に見舞われて改修が繰り返され、
延宝年間(1673~1681)に現在の庭が完成しました。
前面は海辺を表し小石が並べられた洲浜(すはま)で、
その中に舟着への飛び石を置いています。
欅橋
池の南側には欅橋(けやきばし)が、
「蓬莱島」と呼ばれる最も大きな中島へと架けられています。
蹴鞠の庭
小御所の北側、御学問所との間に「蹴鞠の庭」があります。
明治天皇は自身も蹴鞠をされ、蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い
「蹴鞠を保存せよ」との勅命を下しました。
御学問所
御学問所(おがくもんじょ)は室町時代から清涼殿の一画に建てられていましたが、
慶長18年(1613)の造営の際から別棟で建てられるようになりました。
当初は学問と芸術を推奨する場として使われ、後に臣下との対面や和歌の会、
読書始(とくしょはじめ)などの学芸に関する行事でも用いられました。
御学問所-写真
御学問所-上段の間
上段の間
御学問所-中段の間
中段の間
御学問所-下段の間
下段の間
御学問所には上段の間、中段の間、下段の間があります。
御常御殿-平面図
御学問所の北側に京都御所で最大の建物である「御常御殿」があります。
建物の画像を撮り忘れ、平面図を掲載します。
天正17年(1589)に豊臣秀吉により御常御殿が建立されて以降、
天皇の日常の御座所は清涼殿から御常御殿になりました。
全15室から成り、南面に上段、中段、下段を備え、
儀式や対面の場としても使われました。
内部には神器を納める剣璽(けんじ)の間や御寝(ぎょしん)の間などがあります。
御常御殿-東の間写真
御常御殿の「東の間」の写真
御常御殿-東の間
御常御殿の「東の間」-その1
御常御殿-東の間-2
御常御殿の「東の間」-その2
御常御殿-東の間-3
御常御殿の「東の間」-その3
御常御殿-東の間-4
御常御殿の「東の間」-その4
東向きににある「一の間」が天皇の日中の御居所として使われました。
御内庭-1-1
御内庭-1
御内庭-3
御常御殿の東前には御内庭(ごないてい)があり、
遣水(やりみず)は小御所前の御池庭(おいけにわ)へと注がれています。
御内庭-茶室
御内庭の奥には茶室「錦台」があります。
御常御殿の北
御池庭から北側に迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、
御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がありますが、
一般には公開されていません。
迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせ、御涼所は京都の暑い夏を
快適に過ごすことを目的に窓を多く設けた建物で、
聴雪は安政4年(1857)に孝明天皇の好みで建てられました。
御内庭は迎春、御涼所、聴雪及び御常御殿の前庭の総称です。
御常御殿-南の間写真
御常御殿-上段の間
上段の間
御常御殿-中段の間
中段の間
御常御殿-下段の間
下段の間
御常御殿の南側には東から上段の間、中段の間、下段の間があります。
御三間
御常御殿の南西側に「御三間(おみま)」があります。
御三間-内部
御三間-内部
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、
七夕などの内向きの行事に使用され、万延元年(1860)には
祐宮(さちのみや=後の明治天皇)が8歳の時に、成長を願う儀式
「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われました。
深曽木の図
深曽木とは長く伸びた髪の裾を削ぎ揃える儀式で、当日は御三間中段の間に厚畳を敷き、
その上に吉方(東南)に向けて碁盤を置き、深曽木を行う所とされました。
盤上には下賀茂神社の御手洗川から採取された禊のための青石が置かれ、
碁盤に昇った祐宮はこれを両足で踏み、右手に末広の扇、
左手に松と橘の枝を持ちました。
松と橘は神楽岡で採取され、長寿や子孫繁栄の象徴とされています。
左大臣・一条忠香(いちじょうただか)が祐宮の髪を削ぎ、
理髪を終えると祐宮は吉方に向かって碁盤から飛び降りました。
上段の間には孝明天皇が儀式を見守られているのが描かれています。
建礼門
清所門から御所を出て、塀沿いに南から北へと進むと、
先ほど内側から見た建礼門があります。
建礼門から南へ延びる大通りは「建礼門前大通」と呼ばれ、毎年5月15日に行われる
賀茂祭(葵祭)や10月22日に行われる時代祭はここから出発します。

更に西へ進み、仙洞御所・大宮御所へ向かいます。
続く
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堺町御門
京都御苑は東を寺町通、南は丸太町通、西は烏丸通、北は今出川通に囲まれた
東西約700m、南北約1300mの敷地の内、宮内庁が管理する京都御所、京都大宮御所及び
仙洞御所以外は環境省の管轄で、「京都御苑」と呼ばれる国民公園となります。
しかし、京都市民の多くはこれらを総称して「御所」と呼んでいます。
延暦13年(794)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)は長岡京から平安京へと遷都し、
南北は現在の二条通から一条通、東西は大宮通から御前通にわたって
内裏が造営されました。
現在の京都御所は、内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏である
「里内裏」の一つ、土御門東洞院殿の地でした。
土御門東洞院殿は、南北朝時代に北朝の光厳上皇の意向によって、
ここが皇居として定められ、以後定制とされました。
江戸時代には京都御苑内に140以上の宮家や公家の邸宅が建ち並んでいましたが、
明治で都が東京へ遷されると、これら邸宅が取り除かれ、公園として整備ました。
周囲には「外郭九門」と呼ばれる門が築かれ、現在も残されています。
その一つ、堺町御門は行願寺から北上し、丸太町通を西へ進んだ所にあります。

江戸時代末期は長州藩が護衛していましたが、文久3年8月18日(1863年9月30日)に
起こった八月十八日の政変でその任を解かれ、
長州藩に近い三条実美(さねとみ:1837~1891)ら
公卿7人とともに京を追放されました。
その翌年の元治元年7月19日(1864年8月20日)に長州藩勢力が挙兵して
禁門の変が起こりました。
真木和泉(1813~1864)・久坂玄瑞(1840~1864)隊は開戦に遅れ、到着した時には
既に壊滅状態にありましたが、越前藩兵が護衛する堺町御門を攻撃しました。
久坂玄瑞と寺島忠三郎(1843~1864)らは朝廷への嘆願を要請するため、
鷹司邸へ侵入し、互いに刺し違え、自害して果てました。
遺命を託された入江九一(1837~1864)も鷹司邸を脱出した時に越前藩士に発見され、
槍で突かれて死亡しました。
長州勢は長州藩屋敷に火を放って逃走し、真木和泉は敗残兵と共に天王山
辿り着きましたが、他の勢力との合流に失敗しました。
真木和泉は敗残兵を逃がし、宮部春蔵(1839~1864)ら17名で天王山に立て籠もりました。
21日に会津藩と新撰組に攻め込まれると、小屋に立て籠り火薬に火を放って自爆し、
宝積寺に葬られました。
現在は天王山の中腹に十七烈士の墓があります。

門を入った正面に鷹司邸跡があります。
藤原北家嫡流の近衛家実の四男・兼平(1228~1294)を祖とし、兼平の邸宅が平安京の
鷹司室町にあったことが家名の由来となりました。
鷹司家第23代当主・輔煕(すけひろ:1807~1878)は、安政5年(1858)の
日米修好通商条約締結への勅許に不同意、将軍継嗣問題では
一橋派の意見に同意したため、大老・井伊直弼(1815~1860)による安政の大獄により、
右大臣を辞任し、出家しました。
安政7年3月3日(1860年3月24日)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺後に赦免され、
謹慎を解かれて還俗しました。
文久3年(1863)に関白職に就きましたが、八月十八日の政変ではこれに関与せず、
逆に三条実美らの帰京を運動したため、関白を罷免されました。
禁門の変では久坂玄瑞らが邸内に立て篭もったために邸宅は焼失し、
輔煕は謹慎処分となりました。
黒木の梅
少し西へ進むと北へ延びる建礼門前大通があり、その北東側の角に
「黒木の梅」が植栽されています。
原株は第121代・孝明天皇の英照皇后(えいしょうこうごう:1835~1897)が
幼少のころに愛でられていたものとされ、九条家跡にあったものを
大正天皇即位大礼の時に現在地に移植されました。
その後枯れてしまい、現在は接ぎ木により植継ぎされています。
高倉橋
建礼門前大通の南側には九条池があります。
かって、この地には九条家の屋敷があり、九条池はその屋敷内に設けられた
庭園の遺構で、安永7年(1778)頃に造られました。
九条家は藤原北家嫡流の藤原忠通の六男・九条兼実(1149~1207)を祖とし、
藤原基経(836~891)が創建したとされる京都九条にあった九条殿に
住んだことが家名の由来となりました。
兼実の孫・道家の子である教実(のりざね:1211~1235)・良実(1216~1271)・
実経(1223~1284)が摂関となり、それぞれが九条家二条家一条家の祖となりました。
この三家に近衛家鷹司家を加えた五家は「五摂家」と呼ばれ、
藤原氏嫡流(ちゃくりゅう)で公家の家格(かかく)の頂点に立ち、
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できました。
江戸時代の九条家は広大な屋敷を構えていましたが、明治時代初期の
東京移住命令に伴い、母屋などの主要な建物は東京の九条邸に移築されました。
近年になってこれが東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名されました。

九条池に架かる橋は「高倉橋」と名付けられ、明治15年(1882)に
建礼門から丸太町通へと出る御幸道の計画に基づき橋が架けられましたが、
その後計画は中止となりました。
橋には旧三条大橋と五条大橋の橋脚を再利用し、
かつては三条小橋の擬宝珠を載せていました。
現在の擬宝珠は新調されたものです。
九条池-東側
橋から池の東側を覗くと、石の上に乗っていた亀があわてて池の中に飛び込みました。
それに驚いた二匹の鯉により、波紋が生まれ、水面がざわつきました。
しかし、それに動じない亀や水鳥もいて、小さな池の中にも面白い光景が見られます。
九条池-西側
池の西側には九條家の別邸として使用されていた
「拾翠亭(しゅうすいてい)」があり、現在は茶室として使われています。
間ノ町口から入った所に拝観入口があり、木・金・土に営業されていて、
拝観料は100円です。
厳島神社-鳥居
池の北西側には島があり、島には厳島神社が祀られています。
安芸の国にある厳島大神を崇敬した平清盛が、摂津の国・兵庫築島(大輪田泊)に、
厳島大神を勧請し社殿を建立しました。
宗像三女神が祀られ、後に清盛の母・祇園女御が合祀され、
後世当地に遷座されて九条家の鎮守社となりました。
鳥居は清盛が建立したとされる唐破風鳥居で、重要美術品に指定されています。
閑院宮邸跡-門
更に西へ進んだ京都御苑の南西角に閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと)があります。
閑院宮は江戸時代中期の宝永7年(1710)に第113代・東山天皇の皇子・直仁親王
創設した宮家で、昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に断絶しました。
旧閑院宮邸は、近年整備され、場所を変えずに江戸時代の遺構を残す
唯一の宮家屋敷です。
かっての敷地は広大で、東は九条池のすぐ隣まであったとされています。
旧閑院宮邸は、無料で見学することができます。
閑院宮邸跡-建物
門を入るとL字形に配された建物があり、内部は展示室となっています。
閑院宮邸跡-書院
南の庭園に面して書院のような建物があります。
閑院宮邸跡-池-1
現在の池は平成15~17年(2003~2005)に行われた閑院宮邸跡の
全面的な整備で復元されたものです。
発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋戻し、その上に京都御所の
御池庭で見られるような小石を並べた州浜(すはま)を設け、
当時の池の意匠を再現したものが新たに造られました。
宗像神社-鳥居
閑院宮邸跡を出て少し東へ進み、その先を北上した所に宗像神社の鳥居が建っています。
花山邸跡石碑
鳥居をくぐると「花山院邸跡」の碑が建っています。
かって、この地には藤原冬嗣(775~826)の邸宅「小一条殿(こいちじょうでん)」
がありました。
平安京遷都の翌年の延暦4年(795)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の命により、
冬嗣が筑紫(現在の福岡県)から勧請して自らの邸内に祀ったのが
宗像神社の始まりとされています。
冬嗣の孫である藤原明子(ふじわら の あきらけいこ)は、第54代・仁明天皇の
第一皇子・道康親王に入内して東宮御息所となり、嘉祥3年(850)3月19日に道康親王が
第55代・文徳天皇(在位:850~858)として即位した直後の3月25日に
第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう=後の第56代・清和天皇)を出産しました。
藤原伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)の娘・藤原懐子
(ふじわら の かいし/ちかこ:945~975)は、応和3年(963)頃、皇太子・憲平親王に
入内し、康保4年(967)に親王が第63代・冷泉天皇(在位:967~969)として即位した
翌年の安和元年(968年)に第一皇子・師貞(もろさだ)親王(後の第65代・花山天皇)を
出産しました。
花山法皇はこの地を御所とし、以来「花山院」と呼ばれるようになりました。
藤原家忠(1062~1136)は天承元年(1131)に従一位左大臣に任ぜられ、
「花山院左大臣」と呼ばれ、花山院家の祖となりました。
以降、明治維新まで花山院家の邸宅がありました。
花山稲荷神社
東側には花山稲荷大明神が祀られています。
社伝によれば関白・藤原忠平(880~949)の時代に伏見稲荷を勧請したとされています。
社殿は宝永5年(1708)や天明8年(1788)の大火でも類焼を免れ、
火伏の神としても信仰を集めました。
佐賀県の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、花山院萬子媛(まんこひめ)が
寛文2年(1662)に大名・鍋島家へ嫁いだ際に祀った花山院邸内の分霊で、
「祐徳」は姫君の諡(おくりな)です。
祐徳稲荷神社は「西の日光」とも呼ばれ、日本三大稲荷の一つとされていますが、
三大稲荷には伏見稲荷大社と愛知県の豊川稲荷の他に茨城県の笠間稲荷神社
岡山市の最上稲荷なども候補に挙がり、諸説あって定かではありません。
花山稲荷神社-楠木
社殿の右側にに聳える楠は樹齢600年ともいわれ、
御苑内では最長老の楠とされています。
京都観光神社
参道の左側(西側)に京都観光神社があります。
昭和44年(1969)11月1日に観光業者の発案で観光客の安全息災と業界の発展を祈念して、
道案内の神として猿田彦大神を勧請し創祀されました。
豊栄の庭-1
豊栄の庭-2
豊栄の庭-3
参道を進んだ右側の「豊栄(とよさか)の庭」は、
平成28年(2016)9月11日に築庭されました。
花山邸跡-釣殿
「豊栄の庭」の背後にあるのは旧花山院邸の釣殿でしょうか?
宗像神社-拝殿
参道の正面に宗像神社があります。
宗像神社は応仁の乱で焼失した後、再建されました。 
現在の本殿は江戸時代の安政年間(1855~1860)に再建されたもので、
宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命)を主祭神としています。
宗像三女神は天照大神の「歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを
受けられよ」との神勅を受け、宗像より朝鮮半島に向かう古代海路であった
海北道中の島々に降臨したとされています。
配祀神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は藤原時平(871~909)が合祀し、
天石戸開神(あまのいわとわけのかみ)は藤原家忠によって合祀されました。
少将井神社
宗像神社の左前にある少将井神社は、かつて中京区の少将井・少将井御旅両町の
間にあった八坂神社の御旅所を遷祀したものとされています。
現在も祇園祭の後祭である7月24日には八坂神社から神職が参向し、神饌を供進、
祇園祭斎行の報告が行われます。
繁栄稲荷社
その左側にある繁栄稲荷社には命婦(みょうぶ)稲荷神が祀られています。
藤原基経(836~891)の身分がまだ低かった時、数人の童に捕まり杖で打たれている
狐を見かけました。
基経がそれを乞い受けて解放すると、夢中にその狐が現れて、
「住む場所を賜れば火難などの災害を除く力になる」と誓ったので、
現鎮座地をあてがって宗像神の眷属としたとされています。

宗像神社を出て下立売(しもだちうり)御門へ向かいます。
続く
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