宜秋門
京都御所及び仙洞御所は平成28年(2016)7月26日から月曜日と年末年始を除き、
通年一般公開されていますが、現在は新型コロナによる緊急事態宣言が発令中のため
拝観は休止され、10月1日から再開されるそうです。
記事は平成30年(2018)11月1日から11月5日まで開催されていた
「京都御所 宮廷文化の紹介」で、拝観が再開され次第、記事を更新する予定です。
京都御所西側の皇后門から少し南へ進んだ所に清所門がありますが、
画像を撮り忘れました。
かっては、御台所御門と呼ばれ御所の勝手口として使用されていましたが、
現在は一般拝観の出口として使用されています。
その南側に「宜秋門(ぎしゅうもん)」があり、一般拝観の入口となっています。
門を入る前に、手荷物のチェックが行われます。
宜秋門は、平安京では内裏外郭の西正面にありました。
門を入って南へ曲がった所に「御車寄」があります。
儀式や天皇に参内した者を迎える玄関で、公卿や殿上人(てんじょうびと)など
限られた者だけに使用が許されていました。
殿上人とは、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を
許された者で、公卿を除いた四位以下の者を指します。
御車寄から南へ進んだ所に「諸大夫の間(しょだいぶのま)」があります。
参内した者の控えの間がある建物で、襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」、
「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる三室が東から並びます。
格屋の違いは畳縁の色の違いなどにも反映されています。
「虎の間」や「鶴の間」が使用できる者は御車寄から参入しますが、
「桜の間」を使用する者は、左の沓脱石から参入しました。
諸大夫の間は本来桜の間を指しますが、
普通にはこの一棟三間の総称として用いられています。
諸大夫の間の南側に「新御車寄」があります。
大正4年(1915)に第123代・大正天皇の即位礼が紫宸殿で行われるのに際し、
馬車による行幸に対応する玄関として新設されました。
天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえ、南向きに建てられています。
また、天皇の御座である「高御座(たかみくら)」と皇后の御座の
「御帳台(みちょうだい)」の写真が展示されています。
高御座と御帳台の造りはほぼ同じですが、高御座と比べ
御帳台は1割程度小さく造られています。
現物は令和元年(2019)10月22日に新天皇の即位を国内外に宣言する
「即位礼正殿の儀」で使われるために、平成30年(2018)9月25日の深夜に
東京の皇居へと運び出されました。
現在の高御座と御帳台は、大正2年(1913)に制作され、大正、昭和、平成の
即位礼で使用されました。
「承明門(じょうめいもん)」は、平成30年7月4日から回廊及び春興殿の
修復工事が行われているため、門や回廊はシートで覆われています。
写真のみが掲載されていました。
「春興殿」もシートで覆われていますが、京都御所で行われた大正天皇の即位礼に
合わせて大正4年(1915)に造営され、「賢所大前の儀」が行われました。
賢所大前の儀とは、即位礼の時、天皇が即位したことを自ら賢所(かしこどころ)に
告げる儀式のことで、賢所は天照大神 (あまてらすおおみかみ) の御霊代 (みたましろ)
として神鏡を奉安してある所です。
大正天皇の即位礼では、皇居から神鏡が遷され奉安されました。
門を入った北側に「紫宸殿」があります。
平安京の紫宸殿は鎌倉時代の安貞(あんてい)元年(1227)に焼失してからは
再建されることは無く、跡地は一時荒野して、「内野」と呼ばれました。
南北朝時代に現在地に皇居が遷されてからも、度々焼失と再建が繰り返され、
現在の建物は嘉永7年(1854)の大火後、
安政2年(1855)に平安時代の復古様式で建てられました。
慶応4年(1868)には「五箇条の御誓文」の舞台となり、
明治、大正、昭和の天皇の即位礼はこの建物内で行われました。
右近の橘
紫宸殿の前は「南庭(だんてい)」と呼ばれ、
儀式の場として重要な役割を持っています。
紫宸殿に向かって右に左近の桜、左に右近の橘が植えられています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、左近は紫宸殿の東方に、
賢聖障子-西
賢聖障子-東
賢聖障子の左右(東西)には古代中国の賢人が一間に4名ずつ、
合計32名の像が描かれています。
賢聖障子は平安時代から紫宸殿で儀式などの際に立てられていたとされ、
現在の賢聖障子は寛政元年(1789)の内裏造営の時に、
狩野典信(かのうみちのぶ)が下絵を描きました。
狩野典信は内裏完成前に亡くなったため、住吉廣行が後を引き継ぎ完成させました。
嘉永7年(1854)の大火では、賢聖障子は持ち出されて焼失は免れましたが、
破損したものもあり、廣行の息子・住吉弘貫(ひろつら)が一部を修理、制作しました。
昭和41年(1966)から45年(1970)にかけて摸写され、
現在は複製されたものが立てられています。
紫宸殿の西側を北へ進んだ所に清涼殿があります。
清涼殿は平安時代中期(10世紀中ごろ)からは天皇の日常生活の居所として
皇居が現在地に遷った後、天正17年(1589)に豊臣秀吉により天皇の日常の御座所として
「御常御殿」が建立されてからは、主に儀式の際に使用されるようになりました。
現在の建物は安政2年(1855)に平安時代の復古様式で建てられました。
呉竹
漢竹
清涼殿の前庭には向かって右側に呉竹、左側に漢竹(かわたけ)が植えられています。
建物内には天皇の寝室である「御帳台(みちょうだい)」が再現されています。
御帳台の前に獅子と狛犬が置かれています。
台座の裏側には「宝永5年(1708)8月調進」と記されていますが、
獅子・狛犬はそれ以前の作と伝わります。
画像はありませんが、清涼殿の北東の隅には「荒海障子」が置かれています。
清少納言が『枕草子』で「清涼殿の丑寅の隅の、北のへだてなる御障子は、荒海のかた、
生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる。」と記し、
生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる。」と記し、
これに因み「荒海障子」と称されるようになりました。
図柄は中国の『山海経(さんがいきょう)』から題材としてとられ、
手足の長い人間が協力して漁をしている姿には教訓的な意味があるとも伝わります。
現在のものは安政2年(1855)に御用絵師の土佐光清が伝統的な図柄に基づき、
描かれたものの摸写ですが、襖障子の工法や素材は安政当時のものが復元されています。
表面は劣化を避け、ガラスで覆われています。
清涼殿の北側には「滝口」が復元されています。
「滝口」は清涼殿を警護する滝口武者(たきぐちのむしゃ)が詰所としていました。
内裏の御殿、塀などに沿って、その周囲の庭を流れる溝の水は
「御溝水(みかわみず)」と呼ばれ、清涼殿の東は古くは石を立て、
風流に仕立てられていました。
その水の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、
清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶ様になりました。
「滝口」から東側に小御所(こごしょ)及びその北側の御学問所へと続く
廊下の建物があります。
清涼殿から小御所へと出た所に承明門(じょうめいもん)の扁額が展示されています。
承明門は中世に一度廃絶しましたが、寛政2年(1790)の造営時に再建され、
嘉永7年(1854)の大火後、安政2年(1855)に再建されました。
承明門は儀式では公卿が参入する重要な門となっています。
この扁額は享和3年(1803)に掲げられ、嘉永7年(1854)の大火でも焼失を免れました。
また、地球儀の写真が展示されていました。
明治天皇の即位礼では地球儀が用いられました。
当日は前日までの雨で南庭(だんてい)がぬかるんでいたため、
地球儀は承明門の下に設置されました。
明治天皇の即位礼は、従来行われてきた唐風を廃して我が国古来の装束を用い、
古式を重んじる一方で、地球儀を取り入れて新しさの象徴とされました。
地球儀は嘉永5年(1852)に水戸藩氏の蘭学者・鱸半兵衛重時(すずきはんべえしげとき)
によって製作され、直径約109cm、高さ約150cmあり、
によって製作され、直径約109cm、高さ約150cmあり、
江戸時代に国内で製作された最大の地球儀でした。
小御所には慶応3年正月9日(1867年2月13日)に行われた践祚(せんそ)の図が
展示されています。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)に第121代・孝明天皇が崩御され、
清涼殿は葬儀の場として使用されることになりました。
践祚の儀式は清涼殿に代わって小御所が用いられ、
内部には清涼殿の調度が移設されました。
この席で関白左大臣・二条斉敬(にじょう なりゆき)は摂政とする勅命が
下されましたが、約1年後に大政奉還と明治政府の発足により、
関白・摂政等の職制は廃止されました。
小御所前に御池庭(おいけにわ)があり、池を中心とした回遊式庭園が築かれています。
平安京時代にはこのような庭園は築かれておらず、
江戸時代の元和5年(1619)に作庭され、小堀遠州が関わったと伝わります。
その後6度の火災に見舞われて改修が繰り返され、
延宝年間(1673~1681)に現在の庭が完成しました。
前面は海辺を表し小石が並べられた洲浜(すはま)で、
その中に舟着への飛び石を置いています。
御学問所(おがくもんじょ)は室町時代から清涼殿の一画に建てられていましたが、
慶長18年(1613)の造営の際から別棟で建てられるようになりました。
当初は学問と芸術を推奨する場として使われ、後に臣下との対面や和歌の会、
読書始(とくしょはじめ)などの学芸に関する行事でも用いられました。
御学問所の北側に京都御所で最大の建物である「御常御殿」があります。
建物の画像を撮り忘れ、平面図を掲載します。
天正17年(1589)に豊臣秀吉により御常御殿が建立されて以降、
天皇の日常の御座所は清涼殿から御常御殿になりました。
全15室から成り、南面に上段、中段、下段を備え、
儀式や対面の場としても使われました。
内部には神器を納める剣璽(けんじ)の間や御寝(ぎょしん)の間などがあります。
御池庭から北側に迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、
御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がありますが、
御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がありますが、
一般には公開されていません。
迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせ、御涼所は京都の暑い夏を
快適に過ごすことを目的に窓を多く設けた建物で、
聴雪は安政4年(1857)に孝明天皇の好みで建てられました。
御内庭は迎春、御涼所、聴雪及び御常御殿の前庭の総称です。
御三間-内部
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、
七夕などの内向きの行事に使用され、万延元年(1860)には
祐宮(さちのみや=後の明治天皇)が8歳の時に、成長を願う儀式
「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われました。
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