タグ:京都文殊霊場

山門
銀閣寺の北隣に浄土院があります。
浄土院は山号を「清泰山」と号する浄土宗の寺院で、京都文殊霊場の第3番札所です。
五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称されています。

かって、この地には創建年代については不詳ですが、「浄土寺」と号する
天台宗の寺院がありました。
広大な寺地を有し、現在の銀閣寺や白沙村荘も浄土寺の境内であったと伝わります。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文明14年(1482)には足利義政が
東山殿(後の銀閣寺)を造営するのに伴い、浄土寺は相国寺の西へ移され、
後に廃絶しました。
僅かに残された草堂に浄土宗の泰誉浄久(たいよ じょうきゅう)が入って
復興され、「浄土院」と改められました。
江戸時代の享保17年(1732)には随誉(ずいよ)によって堂宇が再建されています。
寺号標
寺号標には「大文字本尊安置所」と刻まれています。
毎年8月16日の五山送り火で最初に点火される大文字は、
平安時代に弘法大師が始めたとする説があります。
浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊の阿弥陀如来が山上に飛翔して
光明を放ち、その光景を真似て実施した火を用いる儀式を、
弘法大師が大の字に改めたと伝わります。
以来、本尊はその後の火災からも被災を免れていると伝わります。
現在も浄土院が大文字山を管理し、「大文字寺」とも呼ばれています。
庫裡
門をくぐると左側に庫裡があります。
本堂
庫裡から短い石段を登った上に本堂があります。
本尊の阿弥陀如来坐像は等身大のもので、浄土寺にあった遺仏とされています。
また、脇檀に安置されている像高80cmの文殊菩薩像は獅子に乗る渡海文殊で、
二人の童子を従えています。
仏足石
本堂前には仏足石が祀られています。
観音像
本堂の向かいには観音菩薩像が祀られ、その背後に多数の観音像が奉納されています。
如意水
右側には如意水が汲み上げられています。
丹後局像-1
その右側には丹後局(高階栄子)の像が祀られています。
丹後局像-2
高階栄子(たかしな の えいし/よしこ:1151?~1216)は、「日本の楊貴妃
(ようきひ)」と例えられるほどの美貌の持ち主であったと伝わります。
後白河法皇の側近であった平業房(たいら の なりふさ:?~1180)の妻
となりますが、治承3年(1179)の治承三年の政変で伊豆に流される途中に逃亡し、
その後捕えられて平清盛により殺害されました。

後白河法皇は鳥羽殿に幽閉され、丹後局が近侍して
法皇の寵愛を受けるようになりました。
養和元年(1181)10月には法皇の皇女・覲子内親王(きんしないしんのう)を
出産しました。
同年、平清盛が没すると後白河法皇は院政を再開し、
丹後局は政治にも介入するようになりました。
平家滅亡後の文治2年(1186)からは鎌倉幕府との折衝を担い、
建久2年(1191)に覲子内親王に「宣陽門院」の院号宣下があると、
丹後局は従二位に叙されました。

建久3年(1192)に法皇が崩御され、丹後局は出家しました。
平業房の所領があった浄土寺に移り住み、「浄土寺二位」と称されました。
浄土寺には丹後局の山荘と持仏堂があったと伝わります。
童像
また、足元には童像が祀られています。

8:30になり銀閣寺が開門しました。
続く
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西塔橋から下流方向

西塔橋からの下流方向。
高野川沿いの大原街道を川の上流方向へ進むと町名は上高野から八瀬に変わります。
高野川に西塔橋が架かる辺りは、川を挟んで両側から山が迫り、
現在は右側の山の麓が削られて街道が通されていますが、
平安時代は難所であったと思われます。
現在は市内から大原への最短ルートですが、文治年(1186)4月下旬、
後白河法皇は忍びの御幸で建礼門院の閑居を訪ねた際は、
鞍馬街道から江文峠を越えて大原へ向かっています。
若狭へも鞍馬街道が使われていました。
川は急流となって八つの瀬があったことから川は
「八瀬川」と呼ばれ、町の名の由来となった説があります。
子供の頃、西塔橋の下は、橋から飛び込めるほど深かったのですが、
現在は少し浅くなったように見えます。

養福寺会館
西塔橋の先を斜め左へ登った所に研修施設である養福寺会館があります。
大・小会議室の他、宿泊施設もあるようです。

養福寺-南山亭
手前には休憩所の南山亭があります。

養福寺-山門
石段を登ると養福寺の山門があります。
養福寺は山号を「告験山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の第4番札所です。
かっては三条縄手にあり、四軒寺(他に西願寺三縁寺・高樹院)の一寺でした。
昭和49年(1974)に京阪電車の三条駅周辺が再開発されることになり、
昭和51年(1976)に現在地に移転しました。
他の三寺は岩倉へ移転しましたが、養福寺のみこの地へ移りました。

養福寺-鐘楼
山門をくぐった右側に鐘楼があります。

養福寺-水子地蔵
正面に本堂への石段があり、その脇に水子地蔵尊が祀られています。

養福寺-本堂
本堂
本尊として阿弥陀如来像が安置されています。
養福寺は慶長16年(1611)に、現在の京阪電車三条駅付近の大国町で創建されました。
江戸時代の明和2年(1765)には有栖川家の祈願所となり、
職仁親王(よりひとしんのう:1713~1769)から山号・寺号を賜りました。
文久年間(1861~1864)には長州の清末藩(きよすえはん)主・毛利氏の
本陣となりました。
天明8年1月30日(1788年3月7日)に発生した天明の大火では、
当時の京都市街の8割以上が焼失しましたが、養福寺は焼失を免れました。
養福寺には池大雅筆の「火の用心」の額があり、これが功を奏したとして
現在も残されています。

養福寺-薬師堂
本堂前の右側に薬師堂があります。

養福寺-石薬師
堂内には石薬師が祀られています。

養福寺-慈光
左側には阿弥陀如来に子供が寄り添う像が祀られ、「慈光」と記されています。

かけ観音寺への石段

養福寺から更に街道を北上し、街道と旧道とが分れる角に
𥒎観音寺(かけかんのんじ)への参道があります。

かけ観音寺-寺号標
歩道から石段を登った所に、山門はありませんが寺号標が建っています。
𥒎観音寺は、山号を「真山」と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、
源頼朝が本尊の観音菩薩に源氏再興の祈願を行ったと伝わります。

かけ観音寺-本堂
寺号標から進んだ正面に本堂がありますが、現在地に寺が再建されたのは
昭和8年(1933)で、かっては背後の山の崖に寺があったそうです。
平治元年(1159)の平治の乱で平清盛軍に敗れた源頼朝は、
東国への逃亡を図ったのですが、当地で延暦寺の僧兵から襲撃されました。
頼朝は馬ごと高野川へ転落しましたが命に別状は無く、
これは観音菩薩の加護があったとして崖の大きな岩に矢じりで
観音菩薩を刻んだのが𥒎観音寺の始まりとされています。
現在でもその観音像を刻んだ岩が残されているそうですが、
そこへ行くのは困難なため、それを揺拝する現在地に本堂が建立されました。

かけ観音寺-かけ大龍王
本堂前には鎮守社として𥒎大龍王が祀られています。

かけ観音寺-弁財天
その左側に弁財天女が祀られています。

北上して九頭龍大社へ向かいます。
続く
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厳島神社-鳥居
二ノ瀬から鞍馬街道を下り、バイパスの信号を通り過ぎた先の右側に
厳島神社があります。
『山州名跡志』によると、室町時代の永享2年(1430)に創祀されたとあり、
伝承が残されています。
「村の老人の夢の中にお告げがあった。
美女が忽然と枕元に現れ、吾は河上に住む弁財天である。
家は西方にあって心は東南に通う。
鞍馬寺の毘沙門天との誓約があり、毘沙門天の近隣に居を移し、
王城を鎮護したい。
ここは福地であり、吾ここに住める。
吾を留めるならば福栄する、と言った。
老人は目覚めて奇妙だと思い、暁に河に出てみると六寸の白蛇が
粟の穂の上に座していた。
村中で協議し、これを祀って粟穂御前とし、先に仮殿に移し、
その後、社壇を造った」と伝わります。
厳島神社-本殿
本殿
明治までは粟穂弁財天、厳島弁財天と称し、
現在は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神としています。
市杵島姫命は天照大神の子で、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨に際し、
養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、
子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されています。
本殿覆屋内には、空海作と伝わる天女像が安置されているそうです。
厳島神社-絵馬
拝所には、明治時代の絵馬が奉納されています。
大神宮社-社号標
厳島神社の向かいに、「大神宮社」の石碑があり、背後の参道の両側には
石灯篭が建っています。
大神宮社-参道
参道を進むと、叡山電鉄の低い鉄橋が架かり、その先に社殿が見えます。
叡山電車
現在は二ノ瀬駅~貴船口駅間の土砂崩れにより、
この電車も市原駅止まりで、鞍馬駅までの運転再開は未定です。
大神宮社-石段
本殿への石段の脇に水車が回っています。
大神宮社-境内社
石段を登って行くと右から、片岡大明神・神明大明神・貴船大明神・
八幡宮が祀られています。
大神宮社-手水舎
右に折れると手水舎があります。
大神宮社-本殿
更に短い石段を登った左側に本殿がありますが、扁額や駒札などは無く、
創建や由緒などの詳細は不明です。
祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で、『日本書紀』では
天照大神(あまてらすおおかみ)などと表記されています。
伊弉諾(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の子で、太陽を神格化した神であり、
皇室の祖神の一柱とされています。
大神宮社-稲荷社
本殿の後方にある小さな祠には、狐の像がたくさん置かれていますので、
多分稲荷神が祀られているものと思われます。
篠坂の切通し
鞍馬街道に戻り、市内方向へと進むと、山が削られ、両側には石垣が積まれて
街道が通されています。
画像は市内から市原へ向かうもので、向かって右側(東側)の高台に
補陀落寺(ふだらくじ)、左側(西側)に恵光寺(えこうじ)があります。
江戸時代に拓かれ「篠坂の切通し」と呼ばれています。
補陀洛寺-寺号標
東側の補陀落寺の方へ向かいます。
補陀落寺は山号を如意山と号する天台宗延暦寺派の尼寺で、京の通称寺霊場・第34番
及び京都文殊霊場の第5番札所です。
補陀洛寺-石段
車道より高くなった歩道から石段があります。
補陀洛寺-公共墓地
補陀落寺の南側には公共墓地が広がります。
叡電市原駅の手前で静原川と合流した鞍馬川はこの高台に遮られて、
流路を西にとり鴨川に合流します。
鞍馬川や静原川沿いに住む人々は、古くから御所の上流に当たる鴨川に穢れた水を
流すのを防ぐため、この高台を越えた所に死者が埋葬されました。
市原はかって「市原野」と呼ばれ、鳥辺野蓮台野などと規模では及びませんが、
同じ葬送地でした。
この地にはこれらの墓を管理する常涛院(じょうとういん)があったと
伝わります。
常涛院は、第70代・後冷泉天皇の皇后(藤原歓子・ふじわら の かんし)によって、
平安時代後期の承保元年(1074)に建立されました。
市原はかって、小野一族の所領地で、後冷泉天皇皇后は、
通称で小野皇太后とも呼ばれました。
補陀洛寺-小野皇太后
境内の南西側に小野皇太后の供養塔が残されています。
この宝篋印塔は、高さ2.4mで鎌倉時代後期の作と伝わります。
補陀洛寺-穴芽のすすき
東側には「小野小町 穴芽のすすき」の碑が建っています。
かって、この地に小野小町の生家があったと伝わり、年老いた小町が
荒れ果てた生家を訪れ、そこで一生を終えました。
しかし、誰も葬る人が無く、風雨にさらされ、やがて白骨化しました。
その髑髏からススキが生えていたと伝わり、「穴芽のすすき」と名付けられました。
恵心僧都源信がその亡骸を葬ったとされ、
補陀落寺は「小町寺」とも呼ばれています。
補陀洛寺-姿見の井戸
東横には「小町、姿見の井戸」があります。
現在、水は枯れてしまっていますが、伝説では小町が「井戸の水に映った
自分の姿を見て愕然とした」とされています。
一世の美貌を風靡した小町も、寄る年波には勝てず、
やっとたどり着いた生家の井戸で、水に映ったのは変わり果てた老婆の姿でした。
その姿とされる像が本堂内に安置されています。
補陀洛寺-本堂
現在の本堂は、平成11年(1999)に鞍馬寺の護摩堂を移して再建されました。
本尊は平安時代末期作の半丈六の阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代作の
観世音菩薩立像と勢至菩薩立像を脇侍としています。
右側の厨子内には鎌倉時代作で、小野小町80歳の姿とされる
「小野小町老婆像」が安置されています。

補陀落寺は天慶8年(945)に15代天台座主の延昌の発願により、
静原にあった清原深養父(きよはらのふかやぶ:生死不詳)の山荘を寺にしたのが
始まりとされています。
応和2年(962)には第62代・村上天皇の御願寺となり、文治年(1186)に
後白河法皇が建礼門院の閑居を訪ねた忍びの御幸で、
補陀落寺に立ち寄ったと伝わります。
その後、焼失して廃寺となり、鎌倉時代から室町時代に
現在地で再興されたと伝わります。
常涛院の跡地であったとする説もあります。
補陀洛寺-山号の塔
本堂の右側には山号「如意山」と刻まれた石塔が建っています。
補陀洛寺-13本檜
その向かいには銘木「13本檜」が植栽されています。
13には初七日~三十三回忌まで十三回の追善供養の意味があり、
それぞれを司る仏が、この木で表されているように思えます。
補陀洛寺-深草少将供養塔
本堂前の左側の宝篋印塔は深草少将の供養塔で、江戸時代に造立されました。
深草少将は小野小町に求婚し、
小町は「私の元へ百日間通い続けたら応じる」と答えました。
少将は九十九日まで通い続けたのですが、最後の一日は雪の降る日で、
雪に埋まり凍死したとも伝わります。
能楽『通小町(かよいこまち)』では、少将がその恨みで、
小町の成仏を阻むとされています。
補陀洛寺-一人一切の灯籠
その脇の石段を登った所に「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行」と
刻まれた灯籠が建っています。
天仁2年(1109)に来迎院を再興した聖応大師良忍が、修行中に阿弥陀如来が顕れ、
授けられた言葉とされています。
「自分(一人)は世の中の人(一切人)と共に生きている。
世の中の人も、自分と共に生きている。
 自分が称える念仏(一行)は世の人の為の念仏(一切行)でもあり、
世の人の念仏も自分の為の念仏である。」との意味になります。
補陀洛寺-小町供養塔
石段を登った最上段に小野小町供養塔が建っています。
高さ3mの五重石塔で、鎌倉時代後期の作と伝わります。
補陀洛寺-小町歌碑
小野小町の歌碑
「花の色は 移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
花の色は、むなしくも色があせて変わってしまいました。
物思いにふけって長雨を眺めているうちに...

小野小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、
六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人です。
しかし、生誕地は秋田県など諸説あり、墓所についても日本各地に残されています。
小野一族であったことは確かとされ、八瀬から以北、
この付近も小野一族の領地でした。
小町の生家があったとしても納得できます。
補陀洛寺-鞍馬寺
供養塔から東へ進むと鞍馬寺管主の墓があります。
また、貴船の人々の墓には花では無く、シキミが供えられています。
鞍馬や貴船に在住する方々の墓もこの辺りにあり、補陀落寺以北、
花脊峠を超えるまで墓地は一切ありません。
補陀洛寺-仏舎利塔
更に東へ進むと、江戸時代の高さ10mの仏舎利塔(文殊塔)が建ち、
内部には釈迦三尊の掛け軸が納められています。

その奥に墓地が造成されました。
補陀洛寺-石仏-1
その際に多くの石仏が発掘され、人々が石仏を奉じて永遠の別離を悲んだと
思われ、化野念仏寺が連想されます。
補陀洛寺-石仏-2
この内の一体の石仏が、小町が葬られた上に祀られていたのかもしれません。
補陀洛寺-石仏-3
右側の石仏
補陀洛寺-石塔
発掘された石塔
補陀落とは南海にある観音菩薩のが降臨する聖地であり、
補陀落浄土を願い「補陀落寺」と名付けられたと想像できます。
恵光寺-寺号
小町寺から鞍馬街道を横断した向かい側に恵光寺(えこうじ)があります。
恵光寺からの補陀落寺
本堂へと登る坂道から補陀落寺を撮影しました。
恵光寺-本堂
恵光寺の本堂
恵光寺は山号を慈雲山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
恵光寺は、平安時代の天暦2年(948)に尼僧の智空慶寿法尼(ちくうけいじゅほうに)が
慶寿庵と名付けられた草庵を開いたのがはじまりとされています。
草庵は現在地付近に結ばれたと伝わりますが、その後無住となりました。
慶寿庵は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に、
光空明道(こうくうみょうどう)上人によって中興されました。

一方、江戸時代の元禄年間(1688~1703)に京極・西林寺の
第四世・学僧の空覚上人(くうかくしょうにん)が恵光寺を建立して隠居しました。
恵光寺は、鞍馬川の北側にある向山(むかいやま)の山麓にあったと伝わります。
向山は、戦国時代から江戸時代前期にかけての
儒学者・藤原惺窩(ふじわら せいか)が背向山(そがいのやま)と名付けた
ことから、村人からは向山と呼ばれるようになりました。
向山には、文人や宗教家が隠棲するようになりました。
恵光寺はその後、明治初期まで無住となりましたが、明治12年(1879)に
慶寿庵と恵光寺とが合併して、現在地に恵光寺が建立されました。
現在の本堂は、昭和58年(1983)に再建され、
阿弥陀如来像が本尊として安置されています。
恵光寺-地蔵堂
本堂の北西角に地蔵堂があります。
恵光寺-地蔵堂-堂内
地蔵堂の本尊は、安産地蔵尊で、両脇には千体地蔵が安置されています。
恵光寺-五智如来
地蔵堂から北に進んだ奥に、鎌倉時代の大日如来を中心とした
五智如来の石像が祀られています。
また、浄土宗の寺院であることから中央の三体を阿弥陀三尊としています。
恵光寺-石仏
その東側には補陀落寺と同様に発掘されたと思われる石仏が祀られています。
恵光寺-鐘楼
上部にある鐘楼は、大正9年(1920)に建立されたのですが、梵鐘は戦時供出され、
昭和30年(1955)に再鋳されました。
その後、鐘楼の老朽化により、平成21年(2009)に
法然上人800年大遠忌(だいおんき)の際に改築されました。

バイパスの信号まで戻り、西へ進んで雲ケ畑へ向かいます。

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