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知恩寺・銀閣寺~南禅寺-その3(浄土院)
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二ノ瀬から鞍馬街道を下り、バイパスの信号を通り過ぎた先の右側に
厳島神社があります。
『山州名跡志』によると、室町時代の永享2年(1430)に創祀されたとあり、
伝承が残されています。
「村の老人の夢の中にお告げがあった。
美女が忽然と枕元に現れ、吾は河上に住む弁財天である。
家は西方にあって心は東南に通う。
鞍馬寺の毘沙門天との誓約があり、毘沙門天の近隣に居を移し、
王城を鎮護したい。
ここは福地であり、吾ここに住める。
吾を留めるならば福栄する、と言った。
老人は目覚めて奇妙だと思い、暁に河に出てみると六寸の白蛇が
粟の穂の上に座していた。
村中で協議し、これを祀って粟穂御前とし、先に仮殿に移し、
その後、社壇を造った」と伝わります。
本殿
明治までは粟穂弁財天、厳島弁財天と称し、
現在は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神としています。
市杵島姫命は天照大神の子で、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨に際し、
養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、
子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されています。
本殿覆屋内には、空海作と伝わる天女像が安置されているそうです。
拝所には、明治時代の絵馬が奉納されています。
厳島神社の向かいに、「大神宮社」の石碑があり、背後の参道の両側には
石灯篭が建っています。
参道を進むと、叡山電鉄の低い鉄橋が架かり、その先に社殿が見えます。
現在は二ノ瀬駅~貴船口駅間の土砂崩れにより、
この電車も市原駅止まりで、鞍馬駅までの運転再開は未定です。
本殿への石段の脇に水車が回っています。
石段を登って行くと右から、片岡大明神・神明大明神・貴船大明神・
八幡宮が祀られています。
右に折れると手水舎があります。
更に短い石段を登った左側に本殿がありますが、扁額や駒札などは無く、
創建や由緒などの詳細は不明です。
祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で、『日本書紀』では
天照大神(あまてらすおおかみ)などと表記されています。
伊弉諾(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の子で、太陽を神格化した神であり、
皇室の祖神の一柱とされています。
本殿の後方にある小さな祠には、狐の像がたくさん置かれていますので、
多分稲荷神が祀られているものと思われます。
鞍馬街道に戻り、市内方向へと進むと、山が削られ、両側には石垣が積まれて
街道が通されています。
画像は市内から市原へ向かうもので、向かって右側(東側)の高台に
補陀落寺(ふだらくじ)、左側(西側)に恵光寺(えこうじ)があります。
江戸時代に拓かれ「篠坂の切通し」と呼ばれています。
東側の補陀落寺の方へ向かいます。
補陀落寺は山号を如意山と号する天台宗延暦寺派の尼寺で、京の通称寺霊場・第34番
及び京都文殊霊場の第5番札所です。
車道より高くなった歩道から石段があります。
補陀落寺の南側には公共墓地が広がります。
叡電市原駅の手前で静原川と合流した鞍馬川はこの高台に遮られて、
流路を西にとり鴨川に合流します。
鞍馬川や静原川沿いに住む人々は、古くから御所の上流に当たる鴨川に穢れた水を
流すのを防ぐため、この高台を越えた所に死者が埋葬されました。
市原はかって「市原野」と呼ばれ、鳥辺野や蓮台野などと規模では及びませんが、
同じ葬送地でした。
この地にはこれらの墓を管理する常涛院(じょうとういん)があったと
伝わります。
常涛院は、第70代・後冷泉天皇の皇后(藤原歓子・ふじわら の かんし)によって、
平安時代後期の承保元年(1074)に建立されました。
市原はかって、小野一族の所領地で、後冷泉天皇皇后は、
通称で小野皇太后とも呼ばれました。
境内の南西側に小野皇太后の供養塔が残されています。
この宝篋印塔は、高さ2.4mで鎌倉時代後期の作と伝わります。
東側には「小野小町 穴芽のすすき」の碑が建っています。
かって、この地に小野小町の生家があったと伝わり、年老いた小町が
荒れ果てた生家を訪れ、そこで一生を終えました。
しかし、誰も葬る人が無く、風雨にさらされ、やがて白骨化しました。
その髑髏からススキが生えていたと伝わり、「穴芽のすすき」と名付けられました。
恵心僧都源信がその亡骸を葬ったとされ、
補陀落寺は「小町寺」とも呼ばれています。
東横には「小町、姿見の井戸」があります。
現在、水は枯れてしまっていますが、伝説では小町が「井戸の水に映った
自分の姿を見て愕然とした」とされています。
一世の美貌を風靡した小町も、寄る年波には勝てず、
やっとたどり着いた生家の井戸で、水に映ったのは変わり果てた老婆の姿でした。
その姿とされる像が本堂内に安置されています。
現在の本堂は、平成11年(1999)に鞍馬寺の護摩堂を移して再建されました。
本尊は平安時代末期作の半丈六の阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代作の
観世音菩薩立像と勢至菩薩立像を脇侍としています。
右側の厨子内には鎌倉時代作で、小野小町80歳の姿とされる
「小野小町老婆像」が安置されています。
補陀落寺は天慶8年(945)に15代天台座主の延昌の発願により、
静原にあった清原深養父(きよはらのふかやぶ:生死不詳)の山荘を寺にしたのが
始まりとされています。
応和2年(962)には第62代・村上天皇の御願寺となり、文治年(1186)に
後白河法皇が建礼門院の閑居を訪ねた忍びの御幸で、
補陀落寺に立ち寄ったと伝わります。
その後、焼失して廃寺となり、鎌倉時代から室町時代に
現在地で再興されたと伝わります。
常涛院の跡地であったとする説もあります。
本堂の右側には山号「如意山」と刻まれた石塔が建っています。
その向かいには銘木「13本檜」が植栽されています。
13には初七日~三十三回忌まで十三回の追善供養の意味があり、
それぞれを司る仏が、この木で表されているように思えます。
本堂前の左側の宝篋印塔は深草少将の供養塔で、江戸時代に造立されました。
深草少将は小野小町に求婚し、
小町は「私の元へ百日間通い続けたら応じる」と答えました。
少将は九十九日まで通い続けたのですが、最後の一日は雪の降る日で、
雪に埋まり凍死したとも伝わります。
能楽『通小町(かよいこまち)』では、少将がその恨みで、
小町の成仏を阻むとされています。
その脇の石段を登った所に「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行」と
刻まれた灯籠が建っています。
天仁2年(1109)に来迎院を再興した聖応大師良忍が、修行中に阿弥陀如来が顕れ、
授けられた言葉とされています。
「自分(一人)は世の中の人(一切人)と共に生きている。
世の中の人も、自分と共に生きている。
自分が称える念仏(一行)は世の人の為の念仏(一切行)でもあり、
世の人の念仏も自分の為の念仏である。」との意味になります。
石段を登った最上段に小野小町供養塔が建っています。
高さ3mの五重石塔で、鎌倉時代後期の作と伝わります。
小野小町の歌碑
「花の色は 移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
花の色は、むなしくも色があせて変わってしまいました。
物思いにふけって長雨を眺めているうちに...
小野小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、
六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人です。
しかし、生誕地は秋田県など諸説あり、墓所についても日本各地に残されています。
小野一族であったことは確かとされ、八瀬から以北、
この付近も小野一族の領地でした。
小町の生家があったとしても納得できます。
供養塔から東へ進むと鞍馬寺管主の墓があります。
また、貴船の人々の墓には花では無く、シキミが供えられています。
鞍馬や貴船に在住する方々の墓もこの辺りにあり、補陀落寺以北、
花脊峠を超えるまで墓地は一切ありません。
更に東へ進むと、江戸時代の高さ10mの仏舎利塔(文殊塔)が建ち、
内部には釈迦三尊の掛け軸が納められています。
その奥に墓地が造成されました。
その際に多くの石仏が発掘され、人々が石仏を奉じて永遠の別離を悲んだと
思われ、化野念仏寺が連想されます。
この内の一体の石仏が、小町が葬られた上に祀られていたのかもしれません。
右側の石仏
発掘された石塔
補陀落とは南海にある観音菩薩のが降臨する聖地であり、
補陀落浄土を願い「補陀落寺」と名付けられたと想像できます。
小町寺から鞍馬街道を横断した向かい側に恵光寺(えこうじ)があります。
本堂へと登る坂道から補陀落寺を撮影しました。
恵光寺の本堂
恵光寺は山号を慈雲山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
恵光寺は、平安時代の天暦2年(948)に尼僧の智空慶寿法尼(ちくうけいじゅほうに)が
慶寿庵と名付けられた草庵を開いたのがはじまりとされています。
草庵は現在地付近に結ばれたと伝わりますが、その後無住となりました。
慶寿庵は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に、
光空明道(こうくうみょうどう)上人によって中興されました。
一方、江戸時代の元禄年間(1688~1703)に京極・西林寺の
第四世・学僧の空覚上人(くうかくしょうにん)が恵光寺を建立して隠居しました。
恵光寺は、鞍馬川の北側にある向山(むかいやま)の山麓にあったと伝わります。
向山は、戦国時代から江戸時代前期にかけての
儒学者・藤原惺窩(ふじわら せいか)が背向山(そがいのやま)と名付けた
ことから、村人からは向山と呼ばれるようになりました。
向山には、文人や宗教家が隠棲するようになりました。
恵光寺はその後、明治初期まで無住となりましたが、明治12年(1879)に
慶寿庵と恵光寺とが合併して、現在地に恵光寺が建立されました。
現在の本堂は、昭和58年(1983)に再建され、
阿弥陀如来像が本尊として安置されています。
本堂の北西角に地蔵堂があります。
地蔵堂の本尊は、安産地蔵尊で、両脇には千体地蔵が安置されています。
地蔵堂から北に進んだ奥に、鎌倉時代の大日如来を中心とした
五智如来の石像が祀られています。
また、浄土宗の寺院であることから中央の三体を阿弥陀三尊としています。
その東側には補陀落寺と同様に発掘されたと思われる石仏が祀られています。
上部にある鐘楼は、大正9年(1920)に建立されたのですが、梵鐘は戦時供出され、
昭和30年(1955)に再鋳されました。
その後、鐘楼の老朽化により、平成21年(2009)に
法然上人800年大遠忌(だいおんき)の際に改築されました。
バイパスの信号まで戻り、西へ進んで雲ケ畑へ向かいます。