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角倉了以水利紀功碑~寺田屋
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真名井神社から国道178号線に出て、その先国道176号線を南進した先に、
国道に面して加悦SL広場があります。
入口のゲートは鉄橋になっていてその上には蒸気機関車が見えます。
加悦SL広場の定休日は火・水・木曜日で、
営業時間は午前10時~午後5時ですが4:30頃に到着しました。
駐車場には日本最古の路面電車が展示されています。
明治28年(1895)に京都の七条駅と伏見駅間、6.7kmに開通した
京都電気鉄道(後の京都市電)の5号車で、宝塚ファミリーランド電車館に展示されていました。
平成15年(2003)にファミリーランドが閉園したのに伴い、加悦SL広場に譲渡されました。
駐車場の奥には、列車を利用したカフェが営業されていたようですが、
現在は屋根にシートが掛けられ、痛々しい姿で残されています。
入場券は切符になっています。
加悦SL広場は、昭和52年(1977)9月に加悦鉄道で活躍した車両を中心に開設されました。
加悦鉄道は大正15年(1926)の開業で、丹後山田駅(現・京都丹後鉄道宮豊線与謝野駅)から
加悦駅を結び、沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に
輸送することを主目的としていました。
営業距離は5.7kmで中間駅4、全線単線で非電化でした。
大江山でニッケルの採掘が開始されたのに伴い、昭和17年(1942)には丹後山田駅から
北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金工業大江山製造所)への専用線が開通しました。
しかし、昭和60年(1985)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止されると、
鉄道収入の6割を占めていたニッケル鉱輸送が不可能となり、同年5月1日に全線が廃止されました。
加悦駅構内でSL広場が開設されたのですが、平成5年(1993)に当時の加悦町へ
加悦駅用地を譲渡することになり、平成8年(1996)11月に
現在の大江山鉱山駅跡に移転・再開しました。
場内には子供の頃、HOゲージの模型で親しんだCタンクや
B形のディーゼル機関車などが多数展示されています。
ホームの左側には1261号機が停車しています。
大正12年(1923)に日本車輌製造で造られた、
島根県の旧簸上鉄道(ひのかみてつどう=現在の木次線)の5号機です。
昭和9年(1934)に旧鉄道省に簸上鉄道が買収されたのに伴い、
1261号機に改められました。
昭和18年(1943)2月に同型の1260号とともに日本冶金工業が譲り受け、
昭和20年(1945)まではニッケル鉱石の輸送に使われました。
太平洋戦争の終戦により鉱山は閉鎖され、旅客輸送に使われるようになりましたが、
昭和27年(1952)になって鉱石を輸入して製錬所が再開し、
岩滝工場での入換などにも活躍しました。
1260号機は昭和22年(1947)に昭和電工富山工場へ売却されました。
右側に停車している2号機は、明治6年(1873)に世界で最初の機関車製造会社である
イギリスのRobert Stephenson(ロバート・スチーブンソン)社で造られた
、軸配置1-Bのタンク機関車です。
旧鉄道省が輸入し、大阪~神戸間建設に使用され、翌明治7年(1874)から
その区間の旅客列車に使われました。
大正4年(1915)に簸上鉄道に払い下げられ、
大正15年(1926)に加悦鉄道の創業に伴い譲り受けました。
昭和31年(1956)にボイラーの水漏れがひどくなり休車となって静態保存され、
平成17年(2005)に車歴簿と共に国の重要文化財に指定されました。
2号機に連結されている2軸の3等客車です。
短い車両に片側に4枚の片開きの扉があり、横に座席が配置されています。
座席も3等並みと思われます。
帽子はわざと置かれているのか、忘れ物かは不明です。
ホーム横の留置線(と言っても線路は途切れていますが)にはキハ10形が停車しています。
お気に入りの車両でしたが、この姿は悲しく思えます。
昭和31年(1956)に旧国鉄により帝国車輌で造られ、
当初はキハ48117として福知山機関区に配属されました。
昭和32年(1957)に形式称号の改正があり、キハ10 18に改められました。
このキハ10形は軽量化のため狭幅車体とされたのが大きな特徴で、同系で確立された
新技術は後のキハ20形、急行形キハ58形、特急形キハ80形へと引き継がれていきました。
キハ10形は両運転台、トイレなしの形式で、
昭和28年(1953)から昭和31年(1956)までに70両が製造されました。
昭和55年(1980)に豊岡機関区で廃車となったキハ10 18を、加悦鉄道が譲り受け、
昭和60年(1985)の廃線まで活躍し、さよなら列車として運行されました。
キハ10形の後方にはキハ08形が停車しています。
旧国鉄が昭和35年(1960)から鋼体化客車を改造して製作した気動車で、
昭和38年(1963)までに計14両が改造されました。
キハ08 3は昭和36年(1959)に木造客車オハ621 130を盛岡工場で鋼体化改造され、
翌昭和37年に北海道の苗穂工場でキハ40 3に改造されました。
その後、改番されてキハ08 3に形式変更され、自重の重い鋼体化客車を改造したため、
特に登坂時の非力が問題となり、昭和46年(1971)までに全車が廃車されました。
同年に加悦鉄道が譲り受け、昭和60年(1985)の廃線まで活躍しました。
SL広場ではイートインスペースとして、一部の座席を撤去するなど改造されています。
ホームの先、国道側には右側にC57 189、その左側にC58 390が展示されています。
C57形及びC58形の詳細は「京都鉄道博物館-その4(蒸気機関車館)」をご覧ください。
C57 189は、昭和21年(1946)に三菱重工三原製作所で造られ、
新潟県の新津機関区に配属されました。
直江津、豊岡を経て昭和46年(1971)に新津機関区で廃車となり、
昭和48年(1973)に加悦町に展示用として貸し出されています。
C58 390は、昭和21年(1946)に汽車製造で造られた後、北海道の
小樽築港機関区に配属され、昭和50年(1975)に北見機関区で廃車となった後、
加悦町に展示用として貸し出されています。
103号機は、大正4年(1915)にアメリカのH.K.PORTER COMPANY(ポーター社)で
造られた動軸3軸(Cタイプ)の蒸気機関車で、山口県の長門鉄道で使われていました。
昭和22年(1947)に東洋レーヨンが譲り受け滋賀工場の入換で活躍した後、
昭和39年(1964)に宝塚ファミリーランドに寄贈されました。
平成15年(2003)にファミリーランドが閉園したため、加悦SL広場に譲渡されました。
蒸気機関車が展示されている左側にはキハユニ51が停車しています。
広島県の芸備鉄道(現在の芸備線)が、昭和11年(1936)に
日本車輌製造にて製造されたガソリンカーです。
登場当初のガソリンカーは、エンジンをかけても前に進まず、
後ろから駅員に押してもらってようやく動き出したり、
線路の途中でエンストして立ち往生したそうです。
昭和12年(1937)に芸備鉄道は鉄道省により買収されましたが、
芸備鉄道はその前年までガソリンカーの増備を続け、
最終的には19両のガソリンカーを保有していました。
キハユニ51は、昭和11年(1936)に芸備鉄道18番目のガソリンカー
「キハユニ18」として製造され、国有化後の芸備線では
キハニ40921(キハユニ40921の説もあり)として活躍しました。
しかし、燃料統制により昭和16年(1941)に芸備線でのガソリンカーの運転は廃止されました。
戦後、キハユニ18は山口県の船木鉄道に移され、ディーゼルカーへ改造されました。
船木鉄道では、郵便荷物室の仕切り壁が撤去され、キハ51として
運用されていましたが、昭和36年(1961)に船木鉄道が廃線となり、
翌年に加悦鉄道に譲渡されました。
車内
平成5年(1993)の大修理の際、メーカーの日本車輌より図面を取り寄せ、
郵便荷物室を製造当初の状態に復元されました。
運転席
昭和45年(1970)に滋賀県の江若鉄道からエンジンと液体式変速機を、
昭和47年(1972)には福知山の北丹鉄道から暖房機を、
それぞれ譲り受けて取り付けられました。
キハユニ51の左側に停車しているDC351は、昭和31年(1956)に青森県八戸市の
南部鉄道により、汽車製造で造られました。
昭和42年(1967)に日本冶金工業が譲り受け、
加悦鉄道が借り入れて岩滝線の主力として活躍しました。
しかし、故障が多く昭和49年(1974)に日本冶金工業が凸型ディーゼル機関車DD352を
新車で調達すると、予備車となりました。
ダブルルーフの客車ハ10は、伊賀鉄道の発注により、大正15年(1926)に
梅鉢鉄工所(後の帝国車輌工業)で造られたボギー客車です。
同年5月25日に伊賀上野駅~名張駅間が電化され、伊賀鉄道では使用されず、
加悦鉄道の創業に際し譲渡されました。
全長は12m993で座席は二等、三等に分かれていますが、共にロングシートで、
背もたれは二等はモケット、三等は木と差がついています。
加悦鉄道では昭和39年(1964)に仕切りの取り外しが認可され、
創業時から昭和43年(1968)まで旅客輸送に活躍しました。
ハ10の左側に停車しているヨ2000車掌車は、初の車掌車として新造された鋼製の車両で、
昭和12年(1937)から昭和13年(1938)までに100両が製造されました。
それ以前は「マッチ箱」と呼ばれた2軸の客車を改造したものが、
ヨ1形やヨ1500形として使われていました。
ヨ2047は昭和12年(1937)に汽車製造で製造されたものですが、
広場に展示されるようになった変遷は不明です。
KD-4ディーゼル機関車は、昭和31年(1956)に日本通運が加藤製作所から
購入したもので、山陽本線万富駅(岡山県)のキリンビール専用線で使われました。
昭和46年(1971)に岡山駅の日本専売公社専用線に転属したのですが、
昭和51年(1976)に廃車となりました。
その後、岡山県のジーンズ工場で看板代わりに展示されていましたが、
荒廃が進み平成11年(1999)に加悦鐵道保存会が譲り受けました。
「カトー君」の愛称が与えられ広場に展示されるようになりましたが、
平成20年(2008)に保存会員の手により動態化復元されました。
しかし、動力ブレーキを備えていないため、
再現列車の運転に使用することはできないそうです。
ターンテーブルの向こうには、右側からラッセル車、
4号蒸気機関車、キハ101が停車しています。
キ100形は国鉄初の単線用鋼製ラッセル除雪車として、昭和3年(1928)12月28日から
昭和31年(1956)までの間に176両が製造されました。
機関車に押されないと走行・除雪ができないため、国鉄が分割民営化された
昭和62年(1987)以前に大半の車両が廃車されました。
4号機関車は、千曲川の東岸を須坂~屋代間を結んでいた河東鉄道(かとうてつどう)により、
大正10年(1921)に川崎造船所兵庫工場で製造されました。
C形のタンク機関車で、河東鉄道の3号機として活躍し、
河東鉄道は大正14年(1925)には木島駅まで延伸しました。
大正15年(1926)1月29日に全線電化が完了し、同年9月30日には長野電気鉄道を合併し
長野電鉄に社名変更しました。
長野電鉄の3号機は昭和9年(1934)に加悦鉄道に譲渡され、4号機として活躍の場を移し、
昭和15年(1940)にはニッケル鉱石輸送に備えて空気ブレーキ取付工事が行われました。
昭和43年(1968)に休車となり、翌年廃車されました。
キハ101は、昭和11年(1936)に加悦鉄道10周年を記念して日本車輌製造で
造られた気動車で、当初はガソリンカーでしたが、昭和43年(1968)に
ディーゼルエンジンに取り換えられました。
戦時中は燃料統制から木炭ガス発生装置を取り付けたり、客車代用として使用されたりしました。
全長は12m足らずの片ボギー車で、日本で現存する唯一の車両で、
平成16年(2004)4月には動態復元されています。
DB202は、昭和38年(1968)に日立製作所で造られた、動軸2軸の
ロッド式ディーゼル機関車で、日本冶金工業川崎製造所で
昭和59年(1984)まで使われていました。
平成3年(1991)に加悦鉄道の後身に当たる旧カヤ興産(現宮津海陸運輸)が、
加悦駅跡地の「加悦SLの広場」入換用に譲り受けました。
DB202は、加悦SL広場の動態車輌では唯一の液体変速式(トルコン)車輌で、
広場内での入換や、時には再現列車の牽引にも活躍しています。
DB201は加悦鉄道が発注し、昭和28年(1953)に森製作所で造られた、
動軸2軸のロッド式ディーゼル機関車です。
日本のディーゼル機関車では最初期の車輌で、エンジンはバス・トラック用のものを
使用し、変速機は機械式です。
DB201の導入には、当時の石炭価格の高騰がありましたが、
昭和50年(1975)には休車となりました。
平成11年(1999)に加悦鉄道の後身であるカヤ興産(現宮津海陸運輸)の手により
動態化復元されています。
次回の巡礼地はまだ定まっていません。