浄瑠璃寺から岩船寺へと向かう府道752を進むと、「穴ヤクシ」の道標があり、
その示す方向へと進路を変えました。
室町時代の石仏に囲まれた石龕(せきがん)の中に薬壺を持った薬師如来の石仏が安置されています。
更に北へ進むと当尾(とうの)地区で最も古い千日墓地があり、六地蔵が祀られています。
墓地の入口には鳥居が建ち、背後の十三重石塔には永仁6年(1298)の銘があり、
国の重要文化財に指定されています。
基壇には西側にに阿弥陀如来、東側に薬師如来、南側に弥勒菩薩、
北側に釈迦如来の像が彫られています。
しかし、双仏石や阿弥陀三尊石仏は見落としてしまいました。
当尾では最大の双仏石で、右に阿弥陀如来、左には地蔵菩薩が彫られた石龕仏(せきがんぶつ)で、
屋根石、宝珠が揃っており、当初は扉が付属していたと思われる形跡があります。
阿弥陀三尊石仏は、善光寺型といわれる1つの光背に阿弥陀三尊が彫られている石仏で、
前には「南無阿弥陀仏」と彫られた六字名号板碑が建ち、左右に三体ずつ、
六体のお地蔵さまが並んでいます。
少し離れた竹藪の中には地蔵菩薩像が祀られています。
墓地南西側の六地蔵
千日墓地から下って行くと辻堂があり、辻地蔵・不動明王磨崖仏が祀られていますが、
見落としました。
地蔵像は舟形光背、錫杖、宝珠をもつ室町時代のものです。
不動明王像は岩に彫られた小型の磨崖仏です。
岩船寺に到着して有料駐車場にバイクを置くと、駐車場の先に鎌倉時代の作で、
修行僧が身を清めたとされる石風呂があります。
山門前の西側にある石段を上った上に白山神社があります。
石段を上った所に社務所があります。
社務所横の通路には京都府登録無形民族文化財に指定されている
「おかげ踊り」の絵馬が奉納されています。
白山神社は、岩船寺の鎮守社として歌人・柿本人麻呂により創建され、
僧・行基により遷宮されたと伝わります。
白山神社は奈良時代の天平勝宝元年(749)に創建され、
現在の社殿は室町時代の嘉吉2年(1442)頃に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
右側にある摂社・春日神社は江戸時代に勧請され、京都府の文化財に指定されています。
白山神社から下り、岩船寺への石段を上った所に山門があり、入山料500円を納め山門をくぐります。
山門を入った先の左側に応長2年(1312)の銘がある石室不動明王立像が祀られ、
国の重要文化財に指定されています。
地蔵堂には鎌倉時代後期の石造り地蔵尊が安置され、「厄除け地蔵」と呼ばれています。
五輪塔は鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
東大寺別当・平智僧都の墓と伝わり、昭和初期に岩船の北谷墓地から移されました。
石室不動明王の先に建つ高さ5.5mの十三重石塔は、正和3年(1314)に妙空僧正による建立と伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
初重の軸石の四面には金剛界四仏の梵字が薬研彫りで刻まれています。
昭和18年(1943)に軸石のくぼみの中から水晶五輪舎利塔が発見されました。
十三重石塔の右側に阿字池があり、池の向かいに本堂があります。
岩船寺は山号を高雄山(こうゆうざん)、院号を報恩院と号する真言律宗の寺院です。
神仏霊場・第129番、仏塔古寺十八尊・第4番、関西花の寺二十五霊場・第15番札所となっています。
岩船寺は天平元年(729)に第45代・聖武天皇が出雲国に行幸の際に霊夢があり、
大和国鳴川(現在の奈良市東鳴川町)の善根寺に籠居していた僧・行基に命じて
阿弥陀堂を建立したのが始まりとされています。
大同元年(806)、空海と姉の子・智泉大徳(ちせんだいとく)は伝法灌頂を修し、
新たに灌頂堂として報恩院を建立しました。
智泉大徳は第52代・嵯峨天皇の勅命を受け、皇子誕生の祈願を行ったところ、
弘仁元年(810)に正良(まさら)親王(後の仁明天皇)が誕生しました。
弘仁4年(813)皇后・橘 嘉智子(たちばな の かちこ)の寄進により堂塔伽藍が整備され、
寺号を岩船寺と称されるようになりました。
鎌倉時代以降、法相宗大本山・興福寺塔頭の一乗院の末寺となりました。
鎌倉時代の中後期には寺運隆盛となり、最盛期には東西及び南北十六町の
広大な境内に三十九坊の坊舎を有しました。
しかし、承久3年(1221)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた
承久の乱で兵火を受け、堂塔の大半を焼失しました。
弘安2年(1279)に現在地に移転し、同8年(1285)には落慶法要が行われました。
弘安年間(1278~1288)には東小田原の随願寺が荒廃し、建物や仏像が岩船寺に遷されましたが、
応長元年(1311)にも兵火を受け焼失しました。
室町時代の嘉吉2年(1442)に、現在の三重塔が再建され、江戸時代の寛永年間(1624~1643)には
本堂、三重塔、坊舎、鎮守社など残された10棟の堂宇を、徳川家康、秀忠親子らの
寄進により修復されました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で混乱し、一時無住となりましたが、
明治14年(1881)に西大寺の末寺となり、真言律宗に改宗されました。
昭和63年(1988)に現在の本堂が建立されました。
本尊は平安時代作で丈六(284.5cm)の阿弥陀如来坐像で、国の重要文化財に指定されています。
行基作と伝わりましたが、胎内の墨書きから天慶9年(946)の造立と判明され、
行基の没年(天平21年/749)以降に造立となります。
本尊脇の厨子内には、平安時代作で像高39.5cmの普賢菩薩騎象像が安置され、
国の重要文化財に指定されています。
智泉大徳の作と伝わり、元は三重塔内に安置されていました。
厨子は宝形造りで、内部には法華曼荼羅が描かれています。
須弥壇の四隅には鎌倉時代作の四天王像が安置され、京都府の文化財に指定されています。
多聞天像の台座裏に正応6年(1293)の銘があります。
堂内には鎌倉時代作で像高55.5cmの十一面観音菩薩立像、以下室町時代作の薬師如来像、
十二神将像、釈迦如来像、不動明王像、菅原道真像が安置されています。
阿字池先の石段を上った所に三重塔があり、国の重要文化財に指定されています。
承和年間(834~847)に仁明天皇が智泉の遺徳を偲んで宝塔を建立したと伝わりますが、
承久3年(1221)の承久の乱で兵火を被り、焼失しました。
現在の塔は、昭和18年(1943)の解体修理で「嘉吉二年(1442)五月廿日」の銘文が発見され、
室町時代に再建されたことが判明しました。
三重塔の四隅の垂木を支える隅鬼(天邪鬼)は、解体修理の際に本堂で祀られ、
国の重要文化財に指定されています。
初重の内部には来迎柱が立てられ、須弥壇と来迎壁があります。
来迎柱には昇龍、降龍、来迎壁の正面に十六羅漢図、背面に五大明王像、
四周の扉両脇の板壁には真言八祖像、板戸の内面には八方天が描かれ、
平成15年(2003)に復元されています。
付近には五輪塔もありますが、詳細は不明です。
三重塔の左奥に鐘楼があります。
三重塔から西方向へ進んだ所に、智泉大徳により祀られたとされる歓喜天堂があります。
歓喜天堂から更に西方向へと進むと貝吹岩があります。
標高290mの地にあり、かって、三十九の坊舎を有していた際、一山の僧を集めるために
この岩の上に立って、法螺貝を吹いたと伝わります。
当尾地区で最も高い場所であり、西には遠くに生駒の山々が望めます。
来た道を戻り、歓喜天堂前から左に折れて進んだ所に開山堂があります。
開山堂の付近には宝篋印塔が建ち、その周辺には仏頭や身代り地蔵尊、
双体仏の石像などが安置されています。
岩船寺からの帰途、府道752号線から少しそれた所に三角形をした愛宕燈籠があります。
江戸時代のもので、当尾では正月、ここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。
更に浄瑠璃寺の前を通り下って行くと、鎌倉時代中期の「たかの坊地蔵」が祀られています。
横に並ぶ小さな石仏は室町時代のものとされ、背後には宝篋印塔も建っています。
今回は時間が限られているため帰宅します。
次回は清荒神清澄寺、中山寺、花山院、播州清水寺を巡ります。
タグ:仏塔古寺十八尊
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺は京都府最南端、木津川市の「当尾(とうの)の里」と呼ばれる地区にあり、
浄瑠璃寺(じょうるりじ)から岩船寺(がんせんじ)に至る約1.5kmの山道を中心に、
平安時代から室町時代の石仏や石塔が点在しています。
当尾磨崖仏文化財環境保全地区として、京都府の保全地区に指定されています。
当尾の里は、古くは「小田原」と呼ばれ、平安時代後期の頃から俗化を嫌った興福寺の僧などが
この地に隠棲して修行を行い、興福寺の「小田原別所」と呼ばれていました。
やがて、草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、
いつしか「当尾」と呼ばれるようになったと伝わります。
加茂青少年山の家から南へ約600m進んだ所に大門仏谷の阿弥陀如来磨崖仏があります。
丈六(約2.5m)の如来形坐像で、この磨崖仏には銘文がありませんが、
像容から鎌倉時代初期の作と推定されています。
更に山道を進んで行くと大門石仏群があります。
山内に散在していた石仏や石塔を集めて祀られています。
向かい側には小さな祠もあります。
木津川市観光ガイド「当尾マップ」によると、春日神社だと思われます。
大門石仏群の先に釈迦寺跡があり、その地に首切地蔵が祀られています。
弘長2年(1262)の銘があり、藪の中三尊と共に在銘石仏では最古のものです。
首のくびれが深く、切れて見えるからとも、また、処刑場にあったことから
「首切地蔵」と呼ばれたとも伝わります。
首切地蔵から先へ進み、府道752号線に入った所に「藪の中の三尊磨崖仏」があります。
右側の岩に右・十一面観音、左・地蔵菩薩が、左側の岩には阿弥陀如来が刻まれています。
「東小田原西谷浄土院 弘長2年 大工 橘安縄」と銘文が刻まれ、
塔頭の浄土院で祀られていたようです。
「藪の中の三尊磨崖仏」から府道を南西方向に進んだ所に浄瑠璃寺があります。
山門
浄瑠璃寺は山号を小田原山と号する真言律宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第37番、
仏塔古寺十八尊・第10番及び関西花の寺二十五霊場・第16番の札所となっています。
山門の前には石仏が祀られています。
山門を入った左側に鐘楼があります。
右側に灌頂堂があります。
正面に梵字の阿字をかたどったとされる苑池があり、中島には弁財天を祀る祠があります。
本堂は西向きに建立されています。
浄瑠璃寺は『浄瑠璃寺流記事(じょうるりじ るきのこと)』によると、永承2年(1047)に当麻(とうま)出身の
義明(ぎみょう)上人が、薬師如来を祀る小堂を建立したのが始まりとされています。
その後、浄瑠璃寺と称されるようになりましたが、嘉承2年(1107)には本堂が取り壊され、
新たに九躯の阿弥陀如来を本尊とする本堂が建立され、薬師如来は西堂に遷されました。
久安6年(1150)に興福寺の僧・恵心が入寺して池を掘り、極楽浄土の宝池になぞらえた苑池を中心とした
現在の伽藍配置となったとされています。
現在の本堂は嘉承2年(1107)に建立されたもので、国宝に指定されています。
堂内には横一列に九躯の阿弥陀如来坐像が安置されていますが、平成30年(2018)7月から
5ヵ年計画で二躯ずつ修理中です。
『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づき、九躯の阿弥陀如来像を安置したのは、記録には
多数残されていますが、平安時代の阿弥陀如来像が残されているのは浄瑠璃寺のみで、
国宝に指定されています。
中央に安置されている像は一際大きく、像高が224cmあり、左右に像高139cmから145cmの像が
並んで安置されています。
中央の阿弥陀如来像は、右手を挙げ、左手を下げる来迎印で、残りの八躯は腹前で両手を組む、
「弥陀の定印(じょういん)」を組んでいます。
造立された年代は定かではありませんが、平等院鳳凰堂に安置されている定朝による天喜元年(1053)作の
阿弥陀如来像と様式的類似を認められています。
また、厨子に納められた像高90.0cmの吉祥天立像は、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の建暦2年(1212)に本堂に安置され、現在は中尊の左側にある厨子内に納められています。
厨子は正月(1/1~1/15)、春季(3/21~5/20)、秋季(10/1~11/30)の期間のみ開扉されます。
中尊の右側に安置されている、平安時代作で像高像高157.6cmの地蔵菩薩立像は、
「子安地蔵」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
堂内右側に安置されている像高99.5cmの不動明王と制多迦(せいたか)・矜羯羅(こんがら)の
二童子像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
平安時代後期の作で国宝に指定されている四天王像ですが、広目天は東京国立博物館、
多聞天は京都国立博物館に寄託され、増長天と持国天のみが本堂の両端に安置されています。
本堂前の石灯籠は南北朝時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
本堂の左側に建つ「六字名号碑」は寛永2年(1625)に建立されました。
本堂と苑池をはさんで対面して建つ三重塔は、『浄瑠璃寺流記事』では治承2年(1178)に
京都の一条大宮から移築したと記され、国宝に指定されています。
彼岸の中日には三重塔背後から太陽が昇り、本堂の中央に沈みます。
初層内部に薬師如来像が安置され、壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれています。
薬師如来坐像は、平安時代の作で像高85.7cm、重要文化財に指定されていますが秘仏とされ、
毎月8日、彼岸中日、正月三が日のみ開扉されます。
薬師如来は、仏塔古寺十八尊・第10番及び西国薬師四十九霊場・第37番の札所本尊となっています。
壁画は平安時代から鎌倉時代にかけて描かれ、最も古いのが壁面の十六羅漢像で、その後、
柱や扉に八方天像、釈迦八相図などが描かれたと見られていますが、
現在では剥落が激しく、判別が困難な状況です。
塔の扉は、保護のため晴天時のみ開扉されます。
塔の前に建つ石灯籠には「貞治五年(1366)丙午正月十一日造立之為法界衆生願主阿闍梨祐実」の
銘が刻まれ、国の重要文化財に指定されています。
東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した庭園は極楽世界をこの世に表わし、
東岸を「此岸」(しがん=現世)、西岸を仏の世界である「彼岸」と見立てられています。
岩船寺(がんせんじ)へ向かいます。
続く