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太鼓橋
赤目四十八滝から国道165号線まで戻って西へ進み、
逢瀬大橋を渡って県道567号線を南東方向へ進んだ先に室生寺があります。
山号を「宀一山(べんいちさん)号する真言宗室生寺派の大本山で、
神仏霊場・第36番の各札所となっています。
宇陀川支流の室生川に架かる太鼓橋を渡った室生山の
山麓から中腹に堂塔が散在しています。
(記事及び画像は平成30年(2018)11月参拝時のものです)
女人高野 室生山の碑
橋は昭和34年(1959)の伊勢湾台風によって流された後に再建されました。
橋の手前に「女人高野 室生山」の石碑が建ち、女人禁制だった高野山に対し、
女性の参詣が許されていました。
総門
当日は金堂の特別拝観が行われていて、入山料との共通券1,000円を
納めて境内へ入りました。
慶雲殿
表門を入った左奥に慶雲殿があり、春には高野山開創1200年を記念して
特別秘宝展が催されていましたが、当日は催し物はありませんでした。
本坊
慶雲殿の右側に本坊があり、表書院、裏書院が隣接していますが、
公開はされていないようです。
護摩堂
参道を東へ進むと護摩堂があります。
経蔵
護摩堂の東側には経蔵と思われる建物があります。
仁王門
仁王門は昭和40年(1965)11月に再建されました。
仁王像
仁王像も新しく造立されました。
完成予想図
門の手前、当時は工事中でしたが、完成予想図です。
バン字池
仁王門をくぐった先に「バン字池」があります。
梵字の「バン」の形をしていて、大日如来を意味しています。
鎧坂
参道は池から左に折れて石段になり、この坂は「鎧坂」と呼ばれています。
自然石を積み上げた石段が、編み上げた鎧の様に見えることから
このように呼ばれるようになりました。
弁財天社
石段の途中、左側に弁財天社があります。
江戸時代の頃までバン字池の場所には二つの池があり、
かってはその一つの池の中に祀られていました。
鎧坂-2
鎧坂の両側は春はシャクナゲ、秋は紅葉の名所となります。
天神社の拝殿
石段を上った右側に天神社の拝殿があります。
天神社
拝殿の奥に天神社があります。
軍荼利明王
拝殿の左側の岩に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)が彫られています。
軍荼利明王は五大明王の一尊で、宝生如来(ほうしょうにょらい)の
教令輪身(きょうりょうりんしん)とされる尊格です。
宝生如来は「全ての存在には絶対の価値がある」ということを示し、
教令輪身は如来が導き難い相手に対して忿怒尊(ふんぬそん)の姿を
とったものとされています。
一般的に軍荼利明王は一面八臂の姿で表されていますが、
この明王には10本の腕があります。
藁
拝殿の右側にある杉の木には藁(わら)が吊るされていますが、この意味は不明です。
弥勒堂
拝殿の向かいにある弥勒堂は当時工事中で、
平成31年(2019)3月の完成予定だったことから、現在では完成していると思われます。
弥勒堂は鎌倉時代に興福寺の伝法院を受け継いだと伝える三間四方の建物です。
元は南向きでしたが、室町時代に東向きとし、江戸初期にも改造されています。
屋根裏からは籾塔(もみとう)という木製の小塔が多数発見されました。
堂内には「弥勒菩薩立像」や「釈迦如来坐像」などが安置されています。
弥勒菩薩立像は奈良時代から平安時代初期の作で、室生寺の中で最も古い仏像です。
釈迦如来坐像は平安時代前期の作で、国宝に指定されています。
また、神変大菩薩(役小角)像も安置されており、伝承では室生寺は
役行者によって創建され、空海によって再興されたと伝えられています。
金堂
石段を上った正面に金堂があります。
承平7年(937)に作成された『宀一山年分度者奏状』
(べんいちさん ねんぶんどしゃ そうじょう)という文書の前文に
室生寺の歴史について記されています。
年分度者とは、毎年人数を限って得度を許された、国家公認の僧のことです。
この文書によると、宝亀年間(770~781)に山部親王(後の第50代・桓武天皇)が
病を患い、浄行僧(行いの正しい僧)5名を室生山に派遣して延寿法を
修させたところ親王の病気が回復しました。
浄行僧の一人であった興福寺の僧・賢璟(けんきょう/けんけい:714~793)は、
山部親王(または即位後の桓武天皇)の命で室生山に寺を建立したのが
室生寺の始まりと記されています。
賢璟の後継者である修円(771~835)によって
寺観が整えられていったと考えられています。
現在の金堂は平安時代前期に建立されたもので、国宝に指定されています。
修円は興福寺別当を務め、室生寺は創建時から江戸時代まで興福寺の末寺でした。
興福寺別院として、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場でした。

金堂は鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられました。
江戸時代の寛文12年(1672)には前方に懸造(かけづくり)の
礼堂(らいどう)が増築されました。
元禄7年(1694)に室生寺は、第5代将軍・徳川綱吉(在職:1680~1709)と
生母・桂昌院(1627~1705)の寵愛を受けた隆光(りゅうこう:1649~1724)が
拝領するところとなり、護国寺末の真言宗豊山派の寺院となり、
桂昌院からは2千両の寄進を受けました。
表門前に建つ「女人高野 室生寺」の石標の上部に
九目結紋(ここのつめゆいもん)の家紋が彫られていますが、
桂昌院の実家「本庄家」の家紋です。
また、「女人高野」と称されるようになったのは江戸時代以降のことです。
室生寺は元禄11年(1698)に護国寺から独立し、
昭和39年(1964)には真言宗室生寺派の大本山となりました。

堂内須弥壇上には向かって左から十一面観音立像、文殊菩薩立像、
釈迦如来立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、
手前には十二神将立像が安置されていますが、堂内の撮影は禁止されています。
中尊の釈迦如来立像は像高237.7cm、平安時代前期の作で、
国宝に指定されています。
本来は薬師如来として造立されたもので、光背には七仏薬師や
宝相華・唐草文が華やかに描かれています。

十一面観音立像は像高195.1cm、平安時代前期の作で、国宝に指定されています。
本来は中尊・釈迦如来立像の脇侍として造立されたと考えられています。

地蔵菩薩立像は平安時代前期の作で、国の重要文化財に指定されています。
本来は中尊・釈迦如来立像の脇侍として造立され、
上記三尊が金堂に安置されていたと考えられています。
5躯の仏像はいずれも板光背(平らな板に彩色で文様を表した光背)を
負っていますが、地蔵菩薩像の光背は、像本体に比べて不釣り合いに大きく、
本来この地蔵像に付属していたものではないと考えられています。
室生村中村区にある安産寺に安置されている地蔵菩薩立像(重文)に変えると
違和感が無く、また釈迦如来立像と作風が近いことから
安産寺の像が金堂に安置されていたと考えられています。

文殊菩薩立像及び薬師如来立像は共に平安時代の作で、
国の重要文化財に指定されています。
この2躯は江戸時代中期に他の堂から移されたと考えられています。

釈迦如来立像が安置されている背後の壁(来迎壁)に描かれている壁画は、
「板絵著色伝帝釈天曼荼羅図(金堂来迎壁)」の名称で国宝に指定されています。
壁画は縦長のヒノキ材の板を横方向に5枚繋げた縦351.0x横192.5cm上に描かれ、
画面の中央やや下寄りに主尊の三尊像が描かれれています。
その周囲は横に8列、縦に15段に整然と並ぶ諸仏が描かれていますが、
下方は絵具の剥落が著しく、縦の段はもとは16段あったとみられています。
この壁画の主題は諸説ありますが、主尊の右手の持物が帝釈天の持物の
一つである払子(ほっす)とみなされ、伝・帝釈天曼荼羅図とされています。
金堂前の石灯籠
金堂前の石灯籠
潅頂堂
金堂前を西に進み、その先にある北へ向かう石段を上った所に
本堂である潅頂堂(かんじょうどう)があります。
潅頂堂は鎌倉時代後期の延慶元年(1308)に建立された五間四方入母屋造りで、
和様と大仏様の折衷様式の大きな建物です。
室生寺は法相宗である興福寺の末寺ですが、密教色が強まり、
密教で最も重要な法儀である灌頂を行う道場として建立されました。
悉地院の扁額
潅頂堂に掲げられている「悉地院(しっちいん)」の扁額は、
かってこの建物が支院の悉地院だったことによるもので、
堂内に安置されている如意輪観音像も悉地院に祀られていたものです。
五重塔
潅頂堂の右側にある石段を上った所に高さ16.22mと、
日本で一番低い五重塔があり、国宝に指定されています。
奈良時代後期に建立され、屋外にある木造五重塔としては
法隆寺五重塔に次ぐ古い塔になります。
1重目と5重目の屋根の大きさの変化が小さく、屋根には厚みがあり、
屋根の出は深く、屋根勾配が緩いことから独特の佇まいを見せています。
五重塔-2
塔の最上部を飾る相輪の最上部には「水煙(すいえん)」という飾りが
付きますが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状の
ものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが
乗っている珍しい形式となっています。
寺伝では、創建にかかわった修円がこの宝瓶に室生の竜神を
封じ込めたとされています。
五重塔は、平成10年(1998)9月22日の台風7号で屋根に倒木の直撃を受け、
西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けました。
心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事が平成11年から
12年(1999~2000)にかけて行われました。
以前の修理で、部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、
明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、
当初位置から移動しているものが多いことが判明し、屋根は建立当初は板葺きで、
明和の修理で檜皮葺きに変更したものとみられています。
今回の修理に際し、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、
794年頃に伐採されたものであることが判明し、塔の建立年代を800年頃と
する従来の定説が裏付けられました。
修円僧都の廟
付近には修円僧都の廟があります。
修円は興福寺の賢憬(けんきょう/けんけい:714~793)に法相を学び、
延暦13年(794)に比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめ、
延暦24年(805)に最澄(766or767~822)から灌頂を受けました。
空海(774~835)とも親しく、弘仁3年(812)に興福寺別当となると、
興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。
室生寺の実質的な創建者とされています。
北畠親房の墓-1
潅頂堂の左奥に北畠親房(きたばたけ ちかふさ:1293~1354)の墓があります。
北畠親房の墓-2
北畠親房は南朝の中心人物でしたが、正平3年/貞和4年(1348)に
四條畷の戦いで楠木正行(くすのき まさつら:?~1348)ら南朝方が
高師直(こう の もろなお:?~1351)に敗れると、
吉野からさらに山奥深い賀名生行宮に落ち延びることになりました。
正平9年/文和3年(1354)4月に賀名生にて62歳で亡くなり、
賀名生にも親房の墓があります。
親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退していきました。
参道
親房の墓の前から北へと参道が続きます。
奥之院への立札
しばらく歩くと「奥之院」への立札があります。
無明橋
立札からしばらく歩くと「無明橋」と呼ばれる太鼓橋が架かり、
傾斜が急になって石段が続きます。
この付近は暖地性シダの分布の北限に当り「室生山暖地性シダ群落」として
天然記念物に指定されています。
野生の鹿
谷には野生の鹿も生息しています。
賽の河原-1
途中には賽の河原のように小石が積まれている所もあります。
賽の河原-2
その2
常燈堂-1
「奥之院」への立札から5分位、370段余りの石段を上った上に
懸造(かけづくり)の常燈堂(位牌堂)が見えてきます。
御影堂
石段を上った左側に鎌倉時代後期に建立された御影堂(大師堂)があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には弘法大師の42歳像が安置されています。
御影堂の背後の岩は「諸仏出現岩」と呼ばれ、その上に七重石塔が建立されています。
御供所
御影堂の右側に御供所があり、奥之院の納経所となっています。
地獄極楽図
常燈堂には「地獄極楽」の扁額が掲げられています。
常燈堂から見下ろす参道
常燈堂の縁側は上がることができ、登ってきた石段を見下ろしました。
西側にある山
西側にある山を望みます。
山裾に室生川が流れ、川沿いに県道28号線が見えます。
諸仏出現岩
「諸仏出現岩」と七重石塔

法起院(ほうきいん)へ向かいます。
続く
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大鳥居
往馬大社から国道168号線まで戻り、北西方向にある近鉄奈良線の
「生駒」駅へ向かい、駅から生駒ケーブル沿いに山上方向へ進むと
宝山寺の駐車場があります。
駐車場の南側に大鳥居が建ち、生駒ケーブルの「宝山寺」駅からは
徒歩5分余りの距離になります。
大鳥居は、宝山寺の鎮守社である大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)が
現生利益の神として信仰を集め、建立されたと思われます。
惣門
惣門前に「歓喜天根本道場 寳山寺」と記されています。
宝山寺は山号を「生駒山」と号する真言律宗の大本山で、
大和北部八十八ヶ所霊場・第34番、神仏霊場・第29番などの札所です。
和光殿
惣門を入った右側の和光殿は信徒会館で、
売店や喫茶店などの営業も行われていますが、時間を過ぎて終了されていました。
ジオラマ
入口の右側に山内のジオラマが展示され、境内の広さが視認できます。
麓から続く参道の石段は奥の院まで含めると1,000段余りになるそうです。
地蔵堂
左側には地蔵堂があり、地蔵尊などの石仏が祀られています。
七福神
また、七福神の石仏も祀られています。
鐘楼
鐘楼
中門
その先に中門があります。
本堂
現在の本堂は、延宝8年(1680)に建立された仮本堂を貞享5年(1688)に建て替えられた
五間四面、重層の護摩堂様式の建物で、山内最古の建造物です。
本堂の後方に朝日嶽が聳え、岩壁には「般若窟」と称される岩窟があります。
生駒山は第37代・斉明天皇元年(655)に役行者(634~701)が開いたとされる
修験道場で、役行者が「般若窟」へ般若経を納めたと伝えられていることが
その名の由来となっています。
後に空海(774~835)も修業したと伝わり、
当時は「都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)」と
号されていたそうです。
江戸時代の延宝6年(1678)に湛海律師(1629~1716)により再興され、
宝山寺ではこれが開山とされています。
湛海律師作の不動明王像が本尊として安置されています。
天満宮
本堂前には天満宮があります。
水掛不動尊
水掛不動尊 
朝日宝塔
朝日宝塔は明治33年(1900)に建立された銅製の5重宝塔で、
各層に虚空蔵菩薩、大日如来、金剛薩埵などの仏像が納められています。
聖天堂
本堂の左側に聖天堂があります。
湛海律師が宝山寺の再興時に大聖歓喜天を鎮守社として祀り、
「天堂」として貞享3年(1686)に本堂の裏側に建立され、
湛海律師作の歓喜天像が安置されました。
文化2年(1805)に京都の豪商・角倉与一(1571~1632)の子孫により拝殿が寄進され、
西四間の場所に移築されました。
聖天堂-屋根
明治8年(1875)~同10年(1877)にかけ、現在地で天堂と中拝殿が新築され、
従来の拝殿も移築されて外拝殿として一体化され、
屋根も柿葺きから檜皮葺へ改められました。
外拝殿は24時間開放され、内陣は5月1日~10日までの大般若会式の期間と
毎月16日の縁日に参拝することができます。
般若窟
聖天堂の前から朝日嶽の岩壁に弥勒菩薩像が刻まれ、
その右側に「般若窟」と思われる洞窟があって祠が祀られているのが見えます。
湛海律師は、役行者がこの般若窟を、弥勒浄土の内院になぞらえて修行されたことから
弥勒菩薩像を本尊とした他、役行者像などを祀られました。
また、巌頭には雲上閣を建立し、自ら彫刻された虚空蔵菩薩像を安置し、
虚空蔵求聞持法を修せられました。
文殊堂
その先の石段を登った所に文殊堂があります。
中興開基300年大法要の記念事業の一つとして昭和53年(1978)3月に建立されました。
堂内には獅子に乗った文殊菩薩像が安置されています。
常楽殿
右側へ進むと常楽殿があります。
観音堂
その右側に観音堂が岩壁を背にして建っています。
前身の建物は天和4年(1684)に建立され、
「観音院」とも「常念観音院」とも呼ばれていました。
老朽化のため天保15年(1844)に現在の建物に建て替えられました。
堂内には像高5尺7寸5分(約174cm)の聖観音菩薩像が安置され、
従来の本尊であったと推定されている十一面観音像は
本堂の脇間に安置されています。
また、再建2年後に信者から像高1尺(30.3cm)の木造観音像百体が寄進され、
弘化2年(1845)に開眼供養が行われました。
遥拝所
観音堂からの石段の先に遥拝所があります。
般若窟に祀られている弥勒菩薩を遥拝するために建立され、
堂内には本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ、三宝荒神・弁財天・厨子入りの役行者像
などが安置されています。
般若窟への参道
遥拝所の横から「般若窟」への参道がありますが、
現在は落石の危険があり、立ち入りが禁止されています。
烏枢沙摩明王
遥拝所の東隣に烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祀られています。
「烈火で不浄を清浄と化す」明王で、トイレの神様として馴染みがありますが、
産室にも祀られ、安産の御利益があるそうです。
水神
その左側には観音菩薩や水神、地蔵菩薩が祀られています。
修行大師像
その先の参道には修行大師像などが祀られています。
多宝塔
多宝塔は昭和32年(1957)5月に鎌倉時代様式で建立されました。
元、常楽殿があった所で、5枚の和同開珎が発見されていたことから
多宝塔建立の適地とされていましたが、昭和になってようやく建立されました。
本尊として愛染明王像が安置されています。
奥之院への参道
更に参道は続きます。
五社明神
五社明神が祀られています。
水掛地蔵尊
その先に水掛地蔵尊が祀られ「子安地蔵尊」と記されています。
大師堂
現在の大師堂は昭和42年(1967)に信者の寄進により建立されましたが、
古図でもこの地に大師堂が描かれ、弘法大師がこの地に留錫・修業されたと
言い伝えられてきました。
堂内には弘法大師と地蔵菩薩像が安置され、有縁信者の位牌が祀られています。
奥之院の境内図
観音堂から10分弱で奥之院に到着しました。
奥之院の境内図です。
奥之院本堂
奥之院本堂は、宝永2年(1705)に信者の寄進により、
奥之院の護摩道場として建立されましたが、嘉永6年(1853)に出火して
十六体の諸仏と共に焼失しました。
安政3年(1856)に再建され、失われた諸仏も新しく造立されて安置されました。
本尊は不動明王で、周囲に八大童子が安置され、
大元帥明王(だいげんすいみょうおう)、毘沙門天、常倶利天、大威徳明王、
地蔵尊、薬師如来、大黒天が祀られています。
白龍弁財天社
右側に白龍弁財天社があります。
大国堂
奥へ進むと大国堂があります。
開山堂
開山堂に安置されている開山・湛海律師像は、
元は奥之院の境内にあった光明院に併祀されていました。
光明院は、貞享2年(1685)に湛海律師と京仏師・院達との合作で
不動明王並びに二童子像が造立され、それを祀るため同年建立されました。
明和6年(1769)6月に開山堂が建立され、湛海律師像が遷され安置されました。
正面の唐破風は昭和39年(1964)11月に増築されました。
開山廟
その背後に開山廟があります。
湛海律師は50歳の時に当山を開かれ、
最初の10年で現在に近い寺観を整えられました。
60歳を過ぎてからは国家の安泰と衆生の幸福を願って護摩供などの修業を積まれ、
正徳6年(1716)に88歳の生涯を閉じられました。
この五輪塔は律師の遺言により、翌正徳7年(1717)に造立され、
廟が築かれました。
湛海律師像
開山・湛海律師像
福徳大神
上部には福徳大神が祀られています。

次回からは三重県の弥勒寺、赤目四十八滝から室生寺、長谷寺などを巡ります。
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案内図
千光寺は霊山寺から南西方向の渓谷を分け入った所に位置し、
近鉄生駒線の「元山上口」駅からは徒歩50分の距離にあります。
千光寺まで舗装された道路はありますが、道幅は狭く、地元の方との離合も
困難なことから麓に駐車場があり、そこからは徒歩での登りとなります。
清滝石仏群への細道
しばらく登ると谷へ下る細い道があり、先へ進むと清滝石仏群があります。
摩崖仏
大きな岩に刻まれた摩崖仏のようですが、苔に邪魔されて不鮮明です。
清滝
これが清滝でしょうか?
摩崖仏の右側から流れ落ちています。
橋
その先に架かる橋を渡って道路へ戻ります。
地蔵菩薩
橋を渡った付近の岩に地蔵菩薩のような像が浮き彫りされています。
ゆるぎ地蔵
道路へ合流した角に「ゆるぎ地蔵」が祀られています。
病気などの痛みが揺るぐ(消える)という意味で「ゆるぎ地蔵」と呼ばれていますが、
左側面に銘文から蒙古が襲来した弘安の役(1281年)後に
国家的危機を回避するため、造立されたと推定されています。
総高は2mで、頭上に幅92cmの笠石が載せられた珍しい姿です。

右側に十三仏板碑が祀られ、高さ135cm、幅52cmの船型の石に
十三仏が浮き彫りされています。
天文二十年(1551)の銘があり、在銘の十三仏では信貴山成福院の石室十三仏に次いで
平群谷で二番目に古いものです。
おかめ石
舗装道路を進むと「おかめ石」と記されていますが、その由緒は不明です。
立ち入る気にはなれない所にあって、それらしき石を撮影しましたが、
ピントも合いませんでした。
不動の滝
その先道路を左側へ入ると不動の滝があり、行場巡りの入口にもあたるようです。
不動の滝-不動明王
不動明王が祀られていますが、ずんぐりむっくりした体形で、
親しみが持てます。
総門
舗装道路へ戻り、最後の急坂を登った先に千光寺の総門があります。
山号を「鳴川山」と号する真言宗醍醐派の寺院で、仏塔古寺十八尊霊場・第14番、
役行者霊蹟札所・第15番、大和北部八十八ヶ所霊場・第39番の札所です。
千光寺は役行者(634~701)が第37代・齊明天皇6年(660)頃に生駒明神へ参詣した際、
神託によって鳴川の里へ入り、小さな草堂を建てて
ウルシの木で千手観音を刻んで安置したのが始まりとされています。
役行者は遠見ケ嶽に登って霊威を感じ、二上山・葛木山・金剛山・友ケ島を経て
熊野ヘ、熊野から大峯山の山頂である山上ケ嶽に登り、
修行根本道場と定められました。
当地は役小角が大峯山を開く以前に修行したところから、
「元の山上(もとのさんじょう)」と呼ばれ、
「元山上 千光寺」とも称されています。
その後、第40代・天武天皇(在位:673~686)が国家鎮護を願って伽藍を建立し、
「千光寺」と名付け、寺領500石が下賜されました。
水車
その先の水車には発電装置が組み込まれ、教材として使用され、
防犯灯の点灯に利用されています。
護摩壇
手前には護摩壇があります。
写経堂
向かい側に写経堂があります。
表門
表門の右側の建物はユースホステルかと思われます。
庫裡
庫裡
納経はここで行われています。
母公堂
その手前、左側の建物に「仏塔古寺十八尊霊場」と掲げられていますが
母公堂と思われます。
役行者の母・白専女は役行者の身を案じ、
鳴川の里へ登って共に修行したとされています。
役行者が大峯山へ去った後も当地に残り、修行を続けたと伝えられ、
女人禁制の大峯山に対し女性の修行も受け入れられていたことから
「女人山上」と呼ばれ、女人の修行道場として栄えました。
三十六童子ノ池
「三十六童子ノ池」と称されています。
奥に滝があり、その前に不動明王、池の周囲に三十六童子が祀られています。
観音堂への石段
表門から観音堂への石段です。
観音堂
観音堂(本堂)
本尊は十一面千手観音で、不動明王・愛染明王を脇侍としています。
鐘楼
鐘楼
梵鐘には元仁2年(1225)の陽鋳名があり、県の文化財に指定されています。
観音菩薩像
観音菩薩像
納骨堂
納骨堂
なるかわ弁財天
弁手池には「なるかわ弁財天」が祀られています。
鳴川神社
鳴川神社は修理中でした。
役行者が千光寺の創建時に勧請して鎮守社としたとされ、
素戔嗚命(すさのおのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・
伊邪那美命(いざなみのみこと)が祀られ、
天平18年(746)に白山比売命が合祀されました
行者御加持水
神社の右側に「行者御加持水」が湧き出ています。
由緒がありそうですが、詳細は不明です。
行者堂
神社の上部に行者堂(開山堂)があり、役行者に贈られた諡(おくりな)である
神変大菩薩が祀られ、前鬼・後鬼を脇侍としています。
その左側に不動明王、右側に聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし:
832~909)像が安置されています。
鉄錫杖
行者堂の前に置かれている鉄錫杖を、「男子は3回持ち上げればよいお嫁さんを
授かる」と記されていますが、1回どころかビクとも動きませんでした。
鉄下駄
また、鉄下駄を女子が履いて3歩歩めば玉の輿の良縁を授かるとも記されていますが、
こちらは試しませんでした。
大師堂
大師堂には弘法大師が祀られ、写経が永代に納められています。
十三重石塔
十三重石塔は藤原時代(894~1185)と記されていますが、
町では鎌倉時代(1185~1333)とされ、町の文化財に指定されています。
境内
境内には多数の役行者像が奉納されています。

往馬坐伊古麻都比古神社へ向かいます。
続く
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幸せを呼ぶ鐘
霊山寺(りょうせんじ)は郡山城跡からは北西方向、バイクで10余りの距離ですが、
公共交通での最寄り駅は近鉄奈良線の「富雄」駅で、そこから徒歩30分、
またはバスで約5分の距離にあります。
住所は奈良市中町ですが、カテゴリーは「田原本町~生駒市」に含めます。
広大な駐車場に鐘楼があります。
昭和63年(1988)に建立され、梵鐘は「幸せを呼ぶ鐘」と称されています。
霊山寺は山号を「登美山鼻高」と号する霊山寺真言宗の大本山で、
などの札所です。
鳥居
拝観料は500円で、受付を入ると鳥居が建っています。
霊山寺は、元は法相宗の寺院でしたが、平安時代(794~1185)に空海(774~835)が
訪れ、登美山に龍神を感得されて奥之院に大辯才天女尊として祀ったことから
法相宗と真言宗の2宗兼学の寺院となりました。
この鳥居は、信仰の中心ともなっている大辯才天堂への入口を示すものです。
薬師湯殿
参道を進むと左側に薬師湯殿があります。
霊山寺が立地する付近は小野家が領有していました。
小野妹子(生没年不詳)の子とされる右大臣・小野富人は、
第40代・天武天皇元年(672)に起こった壬申の乱に関与したとして官を辞し、
現在の霊山寺境内にあたる登美山に閑居しました。
天武天皇12年(684)に熊野本宮大社へ参籠された際、薬師如来を感得されたことから
登美山に薬師三尊を祀り、薬草を栽培して薬湯を建て、病人を癒しました。
富人は「登美仙人」とも「鼻高仙人(びこうせんにん)」とも呼ばれ、
崇敬されたと伝わります。
薬師湯殿は、それが1300年もわたって今も引き継がれ、
昭和57年(1982)に改新築されました。
天然成分のみを用いて「鼻高仙人」の心が再現され、
10:30~19:00まで毎週水曜日の定休日を除き、
入湯料600円で利用することができます。
聚楽殿
右側の高台石段上に聚楽殿があり、食事が提供されていますが、
完全予約制です。
その左の天龍閣は宿泊所で、その先は行き止まりのため、登ってきた石段を下って
参道まで戻らなければなりません。
八体仏霊場
その石段の左側に八体仏霊場があります。
平成3年(1991)に完成し、生まれ年十二支の守り本尊に
生まれ日星座十二宮を加えて祀られています。
右側の千手観世音菩薩は子年・水瓶座、虚空蔵菩薩は丑及び寅年・山羊及び射手座、
文殊菩薩は卯年・さそり座、普賢菩薩は辰及び巳年・天秤及び乙女座、
勢至菩薩は午年・獅子座、大日如来は未及び申年・かに及び双子座、
不動明王は酉年・牡牛座、左側の阿弥陀如来は
戌(いぬ)及び亥年・お羊及び魚座とされています。
本坊への鳥居
その先に鳥居が建ち、石段が続きます。
行基像
その左側に行基像が祀られています。
神亀5年(728)、第45代・聖武天皇の皇女・阿倍内親王(後の第46代・孝謙天皇)が
病で苦しんでいた時。天皇の夢枕に鼻高仙人が現われ、
登美山の薬師如来の霊験を説いたので僧・行基(668~749)を登美山に遣わし、
祈願させたところ、皇女の病が平癒しました。
天平6年(734)に天皇は行基に命じて大堂を建立し、天平8年(736)にインドから来日した
菩提僊那(ぼだいせんな:704~760)が、登美山の地勢が故郷インドの
霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることからこの大堂を「霊山寺」と名付け、
聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の額を賜ったと伝わります。
本山寺務所
石段を登った所に本山寺務所があり、御朱印の受付が行われています。
大辯才天堂
向かいには大辯才天堂があります。
昭和10年(1935)に建立され、辯才天の本地仏である聖観世音菩薩を中尊に、
脇侍として不動明王と毘沙門天像が安置されています。
黄金殿
その背後に黄金殿があります。
昭和36年(1961)に大辯才天堂の奥本殿として新築され、
空海が勧請したとされる大辯才天女尊が本尊として祀られています。
鉄筋コンクリート造りの舞台の上に建てられ、堂の内外は総金箔貼りとされています。
白金殿
右側に白金殿があります。
昭和52年(1977)に落慶した黄金殿と同形同大同姿の建物で、
プラチナ箔貼りとされ、黄金殿と同様に周囲をガラス張りで囲われています。
堂内には大辯才天の大神通の霊感を受けられた円照尼と
眷属・大龍神が祀られています。
七福神
白金殿の前に七福神が祀られています。
円照尼の像
円照尼の像でしょうか?「教祖像」と記されています。
昭和10年(1935)に円照尼がお告げにより、大辯才天堂を建立したそうで、
霊山寺は昭和以降、本尊の薬師如来とともに、辯才天が信仰の中心となっています。
聖天堂
右側に歓喜天を祀る聖天堂があります。
本堂
西へ進むと本堂があります。
弘安6年(1283)に再建された入母屋造、本瓦葺きの和様仏堂の代表作として
国宝に指定されています。
本尊の薬師如来、脇侍の日光・月光両菩薩像は国の重要文化財に指定され、
本堂と同時期の春日厨子内に納められて秘仏とされています。
1月1日から3日の修正会と毎年秋の「秋薔薇と秘仏宝物展」の際に開扉されています。
厨子の左右には持国天・多聞天の二天像と十二神将像が、
外陣には大日如来坐像と阿弥陀如来坐像安置され、
何れも国の重要文化財に指定されています。
経蔵
本堂の右側に経蔵があります。
鐘楼
本堂の前に鐘楼があります。
室町時代(1336~1573)初期の再建とされ、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は寛永21年(1644)に鋳造されました。
鎮守社殿
本堂背後の石段上に鎮守社殿があります。
春日社、住吉社、本社、龍王社、大神宮が祀られ、「十六所権現」と称されています。
社殿は南北朝時代(1337~1392)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
地蔵院
本堂から西へ進むと地蔵院があります。
収納庫
その先に収納庫があります。
奥之院への鳥居-1
鳥居が建ち、奥之院まで1kmと記されています。
奥之院への鳥居-2
10分余り登った所に鳥居が建っています。
下りの参道
ようやく到着したと思ったら参道は下っています。
奥之院-鳥居
鳥居から10分余り下った谷川沿いに奥之院があります。
奥之院-社殿
平安時代(794~1185)に空海(774~835)が訪れ、登美山に龍神を感得されて
大辯才天女尊として祀ったと伝わります。
奥之院-遥拝所
山全体が御神体として祀られているようにも思えます。
奥之院-石段
ここから先、山へ登ることは禁じられています。
千体不動滝
収納庫横の鳥居まで戻り、そのまま直進すると千体不動滝があります。
放生池
滝からの水は放生池へと注がれ、池の対岸には放生池弁財天が祀られています。
如意輪観音堂
その右側の如意輪観音堂には如意輪観世音菩薩の石像が祀られています。
開山大師堂
池から滝の上の方へ登った所に開山大師堂があります。
古くは開山・行基菩薩が祀られていましたが、江戸時代(1603~1868)から
弘法大師を本尊とし、歴代徳川将軍の位牌が祀られています。
黄金殿と白金殿
三重塔へと向かう参道からの黄金殿と白金殿です。
菩提僊那の供養塔
その先に菩提僊那の供養塔があります。
菩提僊那(ぼだいせんな:704~760)は南インド出身で、
唐に滞在時に日本の僧に請われ、天平8年(736)に来日しました。
霊山寺が釈迦の聖地・霊鷲山(りょうじゅせん)に地相が似ていることから
寺名を「霊山寺」と名付けるよう第45代・聖武天皇に奏上されました。
天平勝宝3年(751)に僧正に任じられ、翌天平勝宝4年(752)4月9日に
東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師を務め、天平宝字4年(760)2月25日に
大安寺にて西方を向いて合掌したまま入滅されました。
3月2日に登美山へ葬られ、ここが埋葬地と思われていましたが、
昭和62年(1987)の発掘調査で、没後500年後に建てられた供養塔であることが
判明しました。
三重塔
三重塔は 弘安6年(1283)か弘安7年(1284)頃に建立された3間x3間、檜皮葺き、
高さ17mの小塔で、非公開ですが初重内部全面に
巨勢金岡(こせ の かなおか:生没年不詳)筆と伝わる
極彩色の壁画が描かれています。
行者堂
行者堂の本尊は神変大菩薩(=役行者)で、不動明王と青面金剛が祀られています。
平安時代に大峯山の再興に尽力され、修験道の祖とされる
聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし:832~909)に従った
霊山寺の乗阿上人は、大峯山方の正大先達の筆頭となられ、
それ以来毎年9月15日柴燈護摩法要が厳修されています。
ゴルフ練習場
東へ進むとゴルフ練習場がありますが、令和2年(2020)12月20日をもって
営業は終了されていました。
地蔵石像
更に東へ進むと地蔵菩薩の石像が祀られています。
「こしぬけ地蔵」と称され、上半身の像のように見受けられます。
腰痛にご利益があるとされています。
バラ園-入口
受付の方へ戻り、北側へ進むとバラ園があります。
昭和32年(1957)に開園され、面積4,000㎡(1,200坪)の近代洋風庭園で、
内外200種類のバラ2,000株が植栽されています。
バラ園-母子像
入口付近は母子像や兄妹のオブジェが置かれ、子供の世界が表されています。
バラ園-バラの女神
中間はバラの女神を中心に、「サムサーラ(輪廻)」と名付けられた
噴水が流れる成人の世界が展開されています。
バラ園-プリエール
奥は老人の世界として過ぎ去りし人生を顧見るバラの館・プリエール(祈り)が
あり、カフェが営業されていたようですが、当日は休業中でした。
バラの花
バラの花

千光寺へ向かいます。
続く
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仁王門
本薬師寺跡から国道169号線まで戻り、国道を南下して「神宮飛鳥口」の信号を
右折して西へ進み、近鉄橿原線の踏切を超えたY字路を左へ進み、
更に近鉄大阪線の踏切を超えて左折した先に久米寺の駐車場があります。
その西側に仁王門がありますが、建立された年代等は不明です。
仁王像
仁王像の造立年代も不明です。
久米寺は山号を「霊禅山」、院号を「東塔院」と号する真言宗御室派、
仁和寺の別院で、西国薬師四十九霊場・第7番、仏塔古寺十八尊霊場・第9番及び
大和七福八宝めぐり(寿老人)などの札所となっています。
大塔の礎石
門をくぐると大塔の礎石が残されています。
寺伝によると久米寺は、元はヤマト政権で軍事部門を担当していた
部民久米部(くめべ)の氏寺として創建されたと伝わりますが、
発掘調査の結果、興福寺前身寺院の厩坂寺(うまやさかでら)に比定する説が
有力となっています。

第31代・用明天皇(在位:585~587)の皇子である来目皇子(くめのみこ:
?~603)が7歳の時に眼病を患い、兄の聖徳太子(574~621)の勧めで
この地の薬師如来に祈願して平癒したことから第33代・推古天皇(在位:593~628)の
勅願により来目皇子が金堂、講堂、鐘楼、経堂、大門、五重塔を建立し、
「来目精舎(くめ の しょうじゃ)」と呼ばれるようになりました。

その後、養老2年(718)に天竺(インド)から善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう:
637~735)が久米寺に寄留して、日本最初の多宝大塔を建立し、
三粒の仏舎利と『大日経』を塔柱に納めました。
当時、我が国最高で最大の塔として知られ、延暦年間(782~806)に当寺を訪れた
空海(774~835)は、大塔内で『大日経』を感得しました。
大同2年(807)に唐から帰国した空海は、大塔内で経王を講讃(こうさん)し、
初めて真言密教を宣布しました。
このことから当寺は「真言宗発祥の地」とされています。
合掌之道場
駐車場の東側に巨大な建物の合掌之道場があります。
大師堂
道場から北へ大師堂・地蔵堂・観音堂があります。
大師堂には弘法大師が祀られています。
空海が撰文した「益田池碑銘并序(ますだいけひめいならびにじょ)」には、
「来目精舎」として言及されています。
益田池は平安時代初期の弘仁13年(822)より、高取川に堤防を築いて
水の流れをせき止めて造られた巨大な灌漑用の貯水池であり、
天長2年(825)に完成しましたが、現在は堤の一部が残り、
跡地には橿原ニュータウンが建設されています。
旱魃(かんばつ)の備えと土地の開拓のために造られ、弘仁12年(821)に
空海が改修した讃岐国(香川県)の満濃池の技法が取り入れられました。
この工事には空海は直接携わってはいませんが、代わりに弟子の真円らが
取り組み、完成後の碑銘の揮毫(きごう)は空海が行いました。
また、橿原ニュータウン内の岩船山頂上付近にある
益田岩船(ますだのいわふね)は碑銘を載せた台との説があります。
東西約11m、南北約8m、高さ約4.7mの、亀石や酒船石などと並ぶ
飛鳥の石造物の1つで、その中でも最大のものであり、
奈良県の史跡に指定されています。
石塔
大師堂と地蔵堂との間にある石塔は、
かっては九重か十三重の石塔であったように思われます。
地蔵堂
地蔵堂
地蔵菩薩像
奥に地蔵菩薩像が祀られています。
水子地蔵かと思われます。
観音堂
観音堂
本堂
現在の本堂は寛文3年(1663)に再建されました。
本尊は丈六の薬師如来坐像で、眼病に霊験ありとされています。
胎内には一寸八分(5.45cm)の金銅薬師如来立像が納められています。
来目皇子が眼病の平癒を祈願された際に、二十五菩薩と共にこの金銅薬師如来が
皇子の左手に降臨し、眼病が平癒したと伝わります。
日光・月光量菩薩像を脇侍とし、十二神将像や久米仙人が自ら彫ったと伝わる
自身の像などが安置されています。
この久米仙人像には自らの頭髪や髭、生歯を植えたと伝えられています。
久米仙人像
本堂の左前に久米仙人像が祀られています。
久米寺には「久米仙人伝説」が残されています。
久米仙人は、第29代・欽明天皇の御代(在位:539~571年)、金剛山麓葛城の里に
生まれたとされ、吉野山麓龍門ヶ獄(りゅうもんがたけ)で神通飛行術を取得し、
空中を自由に飛べるようになりました。
その後、百数十年もの間、久米寺に住んでいたと伝わり、
第45代・聖武天皇(在位:724~749)が東大寺に大仏殿を建立する際、
勅命を受けた久米仙人は神変不思議の仙術を使い、
国々にある大木大石の数々を三日三夜の内に大仏殿境内まで
飛ばして集めて見せました。
その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就し、久米仙人の働きに
深く感銘した聖武天皇は、免田30町歩を与えました。
しかし、空中を飛びまわっていた仙人は、ある日、川で美しい女性が
洗濯しているところに遭遇し、その女性のふくらはぎに目がくらみ
神通力を失い墜落したとされています。
この伝説は、『今昔物語』に収録され、『徒然草』にも言及されています。
仙人はまた、衆生の中風と下の病を除くため薬師に誓願をたて、
自ら孟宗竹の箸を作りました。
その竹箸を使うと中風や下の病にならず長寿が得られると言い伝えられています。
あじさいの花一枝をトイレに吊るすと中風封じになるとか、カボチャを
冬至に炊いて食べると中風にかからないといわれます。
あじさいの季節には鐘楼堂横のお休み処でカボチャの酢の物をいただけます。
鐘楼堂
その左側に鐘楼堂と右側に薬師如来の石像、
奥の左に見えるのがお休み処、右側は護摩堂と思われます。
薬師如来の石
本堂の前に薬師如来が刻まれた「薬師如来の石」があります。
大日如来像
本堂の右側に金色に輝く大日如来像が祀られています。
虫塚
その先には虫塚があります。
阿弥陀堂
大日如来像の北側に阿弥陀堂があります。
三宝荒神社
さらに北へ進むと三宝荒神社があります。
三宝荒神社-2
仏・法・僧の三宝を守護す神とされる三宝荒神が祀られています。
近鉄大阪線の踏切
その先は近鉄大阪線の踏切でした。
奈良県神社庁
線路沿いの北側に奈良県神社庁があります。
近鉄特急
その先の踏切で近鉄特急「青の交響曲(シンフォニー)」が通過しました。
多宝塔
本堂まで戻り、鐘楼堂から南へ進むと多宝塔があります。
万治2年(1659)に仁和寺から現在の大塔跡へ移築されましたが、
昭和62年(1987)に解体修理が行われ、その際に現在地へ移築されました。
桃山様式が残され、国の重要文化財に指定されています。
不動三尊像
南側に不動三尊像が祀られています。
その右側の役行者像には誰かのイタズラで塗装されているように見えます。
金刀比羅宮
その南に金刀比羅宮があります。
金刀比羅宮-2
大物主神が祀られています。

畝火山口神社へ向かいます。
続く
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