赤目四十八滝から国道165号線まで戻って西へ進み、
逢瀬大橋を渡って県道567号線を南東方向へ進んだ先に室生寺があります。
山号を「宀一山(べんいちさん)号する真言宗室生寺派の大本山で、
神仏霊場・第36番の各札所となっています。
宇陀川支流の室生川に架かる太鼓橋を渡った室生山の
山麓から中腹に堂塔が散在しています。
(記事及び画像は平成30年(2018)11月参拝時のものです)
拝殿の左側の岩に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)が彫られています。
軍荼利明王は五大明王の一尊で、宝生如来(ほうしょうにょらい)の
教令輪身(きょうりょうりんしん)とされる尊格です。
宝生如来は「全ての存在には絶対の価値がある」ということを示し、
教令輪身は如来が導き難い相手に対して忿怒尊(ふんぬそん)の姿を
とったものとされています。
一般的に軍荼利明王は一面八臂の姿で表されていますが、
この明王には10本の腕があります。
拝殿の右側にある杉の木には藁(わら)が吊るされていますが、この意味は不明です。
拝殿の向かいにある弥勒堂は当時工事中で、
平成31年(2019)3月の完成予定だったことから、現在では完成していると思われます。
弥勒堂は鎌倉時代に興福寺の伝法院を受け継いだと伝える三間四方の建物です。
元は南向きでしたが、室町時代に東向きとし、江戸初期にも改造されています。
屋根裏からは籾塔(もみとう)という木製の小塔が多数発見されました。
堂内には「弥勒菩薩立像」や「釈迦如来坐像」などが安置されています。
弥勒菩薩立像は奈良時代から平安時代初期の作で、室生寺の中で最も古い仏像です。
釈迦如来坐像は平安時代前期の作で、国宝に指定されています。
また、神変大菩薩(役小角)像も安置されており、伝承では室生寺は
役行者によって創建され、空海によって再興されたと伝えられています。
石段を上った正面に金堂があります。
承平7年(937)に作成された『宀一山年分度者奏状』
(べんいちさん ねんぶんどしゃ そうじょう)という文書の前文に
室生寺の歴史について記されています。
年分度者とは、毎年人数を限って得度を許された、国家公認の僧のことです。
この文書によると、宝亀年間(770~781)に山部親王(後の第50代・桓武天皇)が
病を患い、浄行僧(行いの正しい僧)5名を室生山に派遣して延寿法を
修させたところ親王の病気が回復しました。
浄行僧の一人であった興福寺の僧・賢璟(けんきょう/けんけい:714~793)は、
山部親王(または即位後の桓武天皇)の命で室生山に寺を建立したのが
室生寺の始まりと記されています。
賢璟の後継者である修円(771~835)によって
寺観が整えられていったと考えられています。
現在の金堂は平安時代前期に建立されたもので、国宝に指定されています。
修円は興福寺別当を務め、室生寺は創建時から江戸時代まで興福寺の末寺でした。
興福寺別院として、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場でした。
金堂は鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられました。
江戸時代の寛文12年(1672)には前方に懸造(かけづくり)の
礼堂(らいどう)が増築されました。
元禄7年(1694)に室生寺は、第5代将軍・徳川綱吉(在職:1680~1709)と
生母・桂昌院(1627~1705)の寵愛を受けた隆光(りゅうこう:1649~1724)が
拝領するところとなり、護国寺末の真言宗豊山派の寺院となり、
桂昌院からは2千両の寄進を受けました。
表門前に建つ「女人高野 室生寺」の石標の上部に
九目結紋(ここのつめゆいもん)の家紋が彫られていますが、
桂昌院の実家「本庄家」の家紋です。
また、「女人高野」と称されるようになったのは江戸時代以降のことです。
室生寺は元禄11年(1698)に護国寺から独立し、
昭和39年(1964)には真言宗室生寺派の大本山となりました。
堂内須弥壇上には向かって左から十一面観音立像、文殊菩薩立像、
釈迦如来立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、
手前には十二神将立像が安置されていますが、堂内の撮影は禁止されています。
中尊の釈迦如来立像は像高237.7cm、平安時代前期の作で、
国宝に指定されています。
本来は薬師如来として造立されたもので、光背には七仏薬師や
宝相華・唐草文が華やかに描かれています。
十一面観音立像は像高195.1cm、平安時代前期の作で、国宝に指定されています。
本来は中尊・釈迦如来立像の脇侍として造立されたと考えられています。
地蔵菩薩立像は平安時代前期の作で、国の重要文化財に指定されています。
本来は中尊・釈迦如来立像の脇侍として造立され、
上記三尊が金堂に安置されていたと考えられています。
5躯の仏像はいずれも板光背(平らな板に彩色で文様を表した光背)を
負っていますが、地蔵菩薩像の光背は、像本体に比べて不釣り合いに大きく、
本来この地蔵像に付属していたものではないと考えられています。
室生村中村区にある安産寺に安置されている地蔵菩薩立像(重文)に変えると
違和感が無く、また釈迦如来立像と作風が近いことから
安産寺の像が金堂に安置されていたと考えられています。
文殊菩薩立像及び薬師如来立像は共に平安時代の作で、
国の重要文化財に指定されています。
この2躯は江戸時代中期に他の堂から移されたと考えられています。
釈迦如来立像が安置されている背後の壁(来迎壁)に描かれている壁画は、
「板絵著色伝帝釈天曼荼羅図(金堂来迎壁)」の名称で国宝に指定されています。
壁画は縦長のヒノキ材の板を横方向に5枚繋げた縦351.0x横192.5cm上に描かれ、
画面の中央やや下寄りに主尊の三尊像が描かれれています。
その周囲は横に8列、縦に15段に整然と並ぶ諸仏が描かれていますが、
下方は絵具の剥落が著しく、縦の段はもとは16段あったとみられています。
この壁画の主題は諸説ありますが、主尊の右手の持物が帝釈天の持物の
一つである払子(ほっす)とみなされ、伝・帝釈天曼荼羅図とされています。
金堂前の石灯籠
金堂前を西に進み、その先にある北へ向かう石段を上った所に
本堂である潅頂堂(かんじょうどう)があります。
潅頂堂は鎌倉時代後期の延慶元年(1308)に建立された五間四方入母屋造りで、
和様と大仏様の折衷様式の大きな建物です。
室生寺は法相宗である興福寺の末寺ですが、密教色が強まり、
密教で最も重要な法儀である灌頂を行う道場として建立されました。
潅頂堂の右側にある石段を上った所に高さ16.22mと、
日本で一番低い五重塔があり、国宝に指定されています。
奈良時代後期に建立され、屋外にある木造五重塔としては
法隆寺五重塔に次ぐ古い塔になります。
1重目と5重目の屋根の大きさの変化が小さく、屋根には厚みがあり、
屋根の出は深く、屋根勾配が緩いことから独特の佇まいを見せています。
塔の最上部を飾る相輪の最上部には「水煙(すいえん)」という飾りが
付きますが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状の
ものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが
乗っている珍しい形式となっています。
寺伝では、創建にかかわった修円がこの宝瓶に室生の竜神を
封じ込めたとされています。
五重塔は、平成10年(1998)9月22日の台風7号で屋根に倒木の直撃を受け、
西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けました。
心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事が平成11年から
12年(1999~2000)にかけて行われました。
以前の修理で、部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、
明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、
当初位置から移動しているものが多いことが判明し、屋根は建立当初は板葺きで、
明和の修理で檜皮葺きに変更したものとみられています。
今回の修理に際し、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、
794年頃に伐採されたものであることが判明し、塔の建立年代を800年頃と
する従来の定説が裏付けられました。
北畠親房は南朝の中心人物でしたが、正平3年/貞和4年(1348)に
四條畷の戦いで楠木正行(くすのき まさつら:?~1348)ら南朝方が
高師直(こう の もろなお:?~1351)に敗れると、
吉野からさらに山奥深い賀名生行宮に落ち延びることになりました。
正平9年/文和3年(1354)4月に賀名生にて62歳で亡くなり、
賀名生にも親房の墓があります。
親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退していきました。
親房の墓の前から北へと参道が続きます。
途中には賽の河原のように小石が積まれている所もあります。
石段を上った左側に鎌倉時代後期に建立された御影堂(大師堂)があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には弘法大師の42歳像が安置されています。
御影堂の背後の岩は「諸仏出現岩」と呼ばれ、その上に七重石塔が建立されています。
西側にある山を望みます。
山裾に室生川が流れ、川沿いに県道28号線が見えます。
「諸仏出現岩」と七重石塔
法起院(ほうきいん)へ向かいます。
続く
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