社標
自宅を7:00に出て家原寺へ向かう予定でしたが、交通がスムーズで家原寺の
開門時間9:00よりも早く着きそうなので、予定を変更して住吉大社へ向かいました。
住吉大社は神功皇后の摂政11年(201)の創建と伝わり、
旧官幣大社で現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
全国にある住吉神社の総本社で、神仏霊場の第42番札所となっています。
遣唐使
参道に入った左側に「遣唐使進発之地」の石碑が建立されています。
住吉大社は古くから海上交通の守護神として信仰されてきました。
遣隋使・遣唐使は住吉大社で航海の無事を祈願し、仁徳天皇が開いたとされる
住吉津(すみのえつ)より旅立ったとされ、
円仁は遣唐使船の中に住吉大神を祀ったと伝わります。
航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から
600基以上の石燈籠が奉納され、更に大きさが競われました。
第一鳥居
鳥居をくぐった正面に放生池があり、池には反橋が架かっていますが
渡らずに右に曲がり、西へ進んだ所にある橋を渡ります。
禁裏御祈祷場所
橋の袂には「禁裏御祈祷場所」の石碑が建っています。
この石碑が何時頃建立されたかは不明ですが、南北朝時代に住吉には
第97代/南朝第2代・後村上天皇と跡を継いだ長慶天皇の行宮(あんぐう)がありました。
住吉社神主家である津守氏は、中世期には大覚寺統と強く結びつき、
津守国夏の住吉殿を行宮としました。
約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つとなりましたが、
長慶天皇は正平23年/応安元年(1368)3月に践祚(せんそ)して間もなく
同年12月には吉野へ後退しました。
反橋-横
その橋から反橋を見ました。
神馬像
橋を渡ると神馬像が奉納されています。
龍社
神馬像の北側に末社「龍社(たつしゃ)」があり、
水波野女神 (みづはのめのかみ) が祀られています。
水波野女神は、代表的な水の神で、龍社はもとは御井殿社 (みいどのしゃ) と呼ばれていました。
船玉神社
「龍社」の東側に摂社の「船玉神社」があり、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)と
猿田彦命が祀られています。
天鳥船命は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)とも呼ばれ、
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那岐命(いざなみのみこと)との間に
産まれた神で、鳥の様に空を飛べるとされています。
猿田彦命は、天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を
道案内した国津神で、「船玉神社」は主に海外への渡航の無事を祈る神として信仰されています。
昭和45年(1970)までは第四本宮の社殿前に鎮座し、古くは延喜式にも名前がみえ、
元々の祭神を住吉神の荒魂とする説もあります。
幸福門
「船玉神社」前から参道が斜めに伸び、その先に本宮への「幸福門」があります。
神館への門
「幸福門」方向とは逆、「船玉神社」の東側に神館への門がありますが、
門は閉じられています。
市戎大黒社-1
市戎大黒社
門の南側に「市戎大黒社(いちえびすだいこくしゃ)」があり、
事代主命 (ことしろぬしのみこと=えびす)と
大国主命 (おおくにぬしのみこと=だいこく)が祀られています。
大阪では最古の戎社になります。
稲
「市戎大黒社」の南側に建物には神田で刈り取られた稲が干されています。
神田
南側には「御田」が拡がります。
毎年6月14日に執り行われる「御田植神事」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
社伝によれば、神宮皇后が五穀豊穣を祈るために、長門国から植女を召して
御田を定められたことに始まると伝えられています。
今は、稲刈りも終わり、園児が立てた案山子だけが残されています。
鴨
落穂でも残っているのでしょうか?...神田には鴨がいました。
祈祷所
放生池の東側を南から北へと進みます。
鳥居が建つ「幸禄門」前を通り過ぎると「幸壽門(幸寿門)」があり、
門に続いて祈祷殿があります。
誕生石-1
更に北へ進むと「誕生石」があります。
誕生石-2
源頼朝の寵愛を受けた丹後局 (たんごのつぼね) が出産した場所と伝わり、
その子が成長して薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久となりました。
丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したのですが、北条政子に捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ほんだじろうちかつね)が逃亡を助けました。
住吉にあたりで日が暮れ、雷雨にも遭って視界が遮られましたが、
不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導きました。
誕生石-3
社頭に辿り着いた時、局が産気づき、本田次郎が住吉明神に祈るなか
局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました。
これを知った源頼朝は本田次郎を賞し、男児が若君に成長した後、
薩摩・大隅二か国をあてられました。
この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が生まれました。
参集所
「誕生石」から先へ進むと右側に参集所(社務所)があります。
吉祥殿
参集所から西への参道の北側に吉祥殿があり、結婚式場となっています。
時計塔
車道に出る手前には時計塔があります。
住吉ライオンズクラブがチャーターナイト25周年記念として奉納し、
昭和61年(1986)12月25日に建立されました。
南向き鳥居
時計塔から少し戻ると南向きに鳥居が建っています。
神馬舎
鳥居をくぐって進むと右側に神馬舎があります。
神馬は1月7日の白馬神事(あおうましんじ)まで出張されているそうです。
住吉大社の神馬は代々白馬で、平安時代以降、白河天皇や源頼朝など
によって奉納されてきました。
江戸時代より大阪炭屋仲間の「神馬講」が普段黒い炭を扱う為、
反対の白馬を奉納してきました。
この伝統は今も続いているそうです。
反橋-正面
神馬舎の前にも橋が架かっていますが、その先にある反橋を渡ります。
反橋は高さ4.4mあり、住吉大社を象徴する橋で、鎌倉時代の文献にも記されています。
石造の脚・梁部分は慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼、または
淀殿により寄進されたものと伝わり、木製部分は昭和56年(1981)に造営されました。
かってはこの橋付近までが海でした。
放生池もかっては潟湖(せきこ)だったのかもしれません。
現在の住吉公園は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、
『源氏物語』では明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
また、『一寸法師』では、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参拝して、
一寸法師を授かったとされています。
手水舎-1
手水舎-2
反橋を渡った左側に手水舎があり、兎の像から水が流れ出ています。
神功皇后が住吉の地に住吉大神を祀ったのが
辛卯(かのと う)の年(211)卯月の卯日とされ、兎は住吉大神の神使いとされています。
住吉鳥居
反橋を渡った先に建つ鳥居は、古い様式の四角柱の鳥居であるため、
「角鳥居 (かくとりい)」 とも「住吉鳥居」とも呼ばれています。
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆による
陶製の扁額が掲げられています。

鳥居をくぐった神門には「幸禄門」の扁額が掲げられ、
江戸初期(1615~1661)に建立されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。

本宮への門は正面の、神の恵みによる幸運をもたらすとされる「幸禄門」、
右側の幸福を授かるとされる「幸福門」、左側の長寿を授かるとされる「幸壽門」があります。
撫でうさぎ
右側の「幸福門」から入ると翡翠で造られた「撫でうさぎ」の像が祀られています。
「五体を撫でて無病息災を祈る」と記されています。
神井
「撫でうさぎ」の左側に神井があります。
毎年1月1日午前5時に宮司自らが神井の水を汲み上げ、
神前に供える「若水の儀」が執り行われます。
神井の水は「若水の儀」と6月14日の「御田植神事」のみに汲み上げられます。
授与所
左の「幸壽門(幸寿門」から入ると、授与所があります。
矛社
授与所の北側に「矛社(ほこしゃ)」があり、経津主命 (ふつぬしのみこと)が祀られています。
神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、
刀剣の威力を神格化した神とする説があります。
盾社
対面する南側には「盾社」があり、武甕槌命 (たけみかづちのみこと) が祀られています。
神名の「ミカヅチ」は雷(イカヅチ)に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の
縮まったものであり、雷神は剣の神でもあります。
「矛社(ほこしゃ)とともに本宮を守護しています。
第三本宮
「幸禄門」から入ると正面に第三本宮があり、表筒男命(うわつつのおのみこと)が祀られています。
火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んで大火傷を負った
伊邪那美命は黄泉国(よみのくに=死の世界)へと旅立ちました。
伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとしましたが、
果たせず黄泉国の穢れを落とすために禊を行いました。
禊を行った瀬の深いところで底筒男命、瀬の流れの中間で中筒男命、
水面に近い所で表筒男命が生まれたとされています。

本宮には第一から第四の本宮があり、全て文化7年(1810)に造営されたもので、
国宝に指定されています。
「住吉造」と称され、神社本殿としては神明造・大社造・大鳥造と並んで
飛鳥時代まで遡る最古様式の一つに数えられています。

住吉大社は南朝側に組していたため、室町幕府から制圧を受け、
社領も大幅に削減されて現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模に縮小されました。

明応2年(1493)に起きた明応の政変では、神主・津守国則が遊佐氏と
姻戚関係にあったため、上原元秀に撃たれ、社殿が放火されました。

天正4年(1576)には織田信長と大坂本願寺との戦い(石山合戦)に
巻き込まれて社殿の大半を焼失しました。

その後、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により本格的な復興が行われましたが、
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しました。
元和4年(1618)に第二代将軍将軍・徳川秀忠の命により再興されました。
第四本宮
第三本宮の右側に第四本宮があり、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと
=神功皇后)が祀られています。

神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后で、天皇が熊襲討伐のため筑紫に赴く際に、
皇后に神懸りがあり、住吉三神より託宣を受けました。
「熊襲の痩せた国を攻めるよりも、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある
新羅を戦わずして得るだろう」という内容でしたが、仲哀天皇はこれには従わず、
熊襲を攻撃しました。
天皇はこの戦いに敗れ、翌年崩御されました。
その後、再び皇后に託宣があり、皇后自らが兵を率いて新羅へ出航し、
戦わずして新羅、高句麗、百済の三韓を従わせたとされています。
皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも、
船が進まなくなりました。
務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと、
住吉三神が三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で
祀るように託宣を下しました。
皇后は、神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになりました。
大津の渟中倉の長峡が、現在の住吉大社の地であり、住吉大社の歴史年表によると、
鎮祭されたのは、神功皇后摂政11年(211)とされています。
第二本宮
第三本宮の東側に第二本宮があり、中筒男命(なかつつのおのみこと) が祀られています。
第三本宮から第一本宮まで東西に一直線上に配されています。
本殿前には全て幣殿が建てられ、屋根上に千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が乗り、
千木は第四本宮のみ内削ぎとなっています。

住吉大社では式年遷宮が行われてきました。
『興福寺年代記』に見える天平勝宝元年(749)が初見で、以後、
室町時代の永享6年(1434)の第35回までは20年ごとに行われていましたが、
戦国時代に中断されました。
その後、永正14年(1517)に復活されますが、不定期の遷宮となり、
平成23年(2011)には御鎮座1800年記念大祭に合わせ第49回式年遷宮が斎行されました。
第一本宮
第二本宮の東側に第一本宮があり、底筒男命 (そこつつのおのみこと) が祀られています。
住吉大社の祭神は伊邪那岐命が禊を行った際に生まれた神で、
禊祓(みそぎはらい)の神として信仰され、7月30日~8月1日に催される
例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行されています。
また、平安時代頃からは和歌の神として信仰されるようになりました。
かって、住吉大社の馬場(現在の住吉公園)は、白砂青松の風光明媚の
代表地とされ、「住吉の松」と歌枕で歌われるようになりました。
やがて、住吉明神、玉津嶋明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として
「和歌三神(わかさんじん)」と総称されるようになりました。
神楽殿
本宮境内の北側、「矛社」の東側に神楽殿があり、伝統ある神楽として、
神楽女の行なう神降 (かみおろし) ・倭舞(やまとまい)四段・熊野舞四段・白拍子・
田舞 (やおとめまい) などが伝承されています。
祓所
神楽殿の東側に祓所があります。
子供神輿
祓所の前には七五三の撮影用でしょうか?...子供用の神輿が展示されています。
菊花
祓所の先には菊花が展示されています。
神饌所
祓所向かいの南側には神饌所があります。
侍者社-1
侍者社-2
建物内には末社の侍者社(おもとしゃ)があり、初代神主・田裳見宿禰 (たもみのすくね)と
その妻神・市姫命 (いちひめのみこと)が祀られています。
神に供える前の検視を行い、神と人の仲を執り持つ役目を担ったことから縁結びの神・
夫婦円満の神とされています。
社殿前には、縁結びは侍者人形、夫婦円満には裸雛が祈願され、奉納されています。

第一本宮の左側にある門を出て御文庫へ向かいます。
続く

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