住吉行宮-1
住吉武道館の駐輪場から南方向へバイクで10分足らず走った所に住吉行宮跡があります。
かって、この地には住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり宮司家でもあった
津守氏の邸宅「住吉殿(住之江殿)」がありました。
康平3年(1060)に住吉大社第39代神主・津守国基(つもり の くにもと)は、邸宅内に
住吉大社の神印が納め置かれた建物である正印殿(しょういんでん)を創建しました。
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、津守氏は大覚寺統と強く結びついて活動していました。
正平5年/観応元年10月26日(1350年11月26日)、
室町幕府で内紛が起き戦乱へと発展しました(観応の擾乱=かんのうのじょうらん)。
高 師直(こう の もろなお)が起こしたクーデターにより
足利尊氏の弟・直義(ただよし)が失脚し、京都を脱出して南朝に帰服しました。

一方で尊氏の実子として認知されず、直義の養子となっていた足利直冬は
長門探題に任命され備後国(びんごのくに=現在の広島県の東半分)にいましたが、
その知らせを聞いて兵を集めました。
尊氏は自ら兵を率いて直冬討伐へと、備後国へ出陣しましたがその留守を狙い、
正平6年/観応2年(1351)1月、直義軍は京都に進撃しました。
留守を預かっていた尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)は降伏し、備前の尊氏の下に落ち延びました。
尊氏軍は備後国から引き返しましたが直義軍に敗北し、高 師直一族は直義に仕えていた
上杉能憲(うえすぎ よしのり)に殺害されました。
尊氏は和議を申し入れ同年11月に正平一統が成立して年号が正平6年に統一されました。
翌年、第97代/南朝第2代・後村上天皇は吉野を追われ逃亡していた
賀名生行宮(あのうのあんぐう)から住吉殿内の正印殿を行宮としました。

直義は義詮の補佐として政務に復帰しましたが、尊氏と直義の対立は解消されておらず、
尊氏と義詮は京都を出て近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めました。
それを知った直義は鎌倉へと逃れましたが、戦いに敗れて
正平7年(1352)1月5日に延福寺に幽閉され、2月26日に急死しました。
その機に乗じて南朝側は京都と鎌倉を同時奪還する軍事的進攻を行い、
後村上天皇は同年2月に京都を目指して出立しました。
しかし、京都に入ることが出来ず、5月に捕虜とした北朝の3人の上皇
(光厳・光明・崇光)と廃太子(直仁親王)を連行して賀名生に戻りました。
住吉行宮-2
その後も南朝側は京都の奪取を企てましたが、維持出来ずに撤退しました。
正平9年/文和3年(1354)に4月に南朝の主導的人物であった
北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が逝去されると、同年10月に後村上天皇は、
行宮を賀名生から金剛寺へ遷しました。
正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が逝去され、嫡男・義詮(よしあきら)が
第2代将軍となり、本格的な南朝掃討を始めました。
しかし、幕府内に対立が起こり、正平16年/康安元年(1361)に政争から失脚した
管領の細川清氏(ほそかわ きようじ)が離反して南朝へ下りました。
細川清氏は楠木正儀(くすのき まさのり)らと4度目の京都侵攻を行って一時的に占領し、
後村上天皇は住吉行宮へ遷りました。

正平23年/応安元年(1368)、後村上天皇が住吉行宮で崩御され、
長慶天皇が即位しましたが、強硬派だったとみられ和平派の楠木正儀は北朝へ降りました。
同年12月に天皇は吉野へと後退し、正平24年/応安2年(1369)4月に金剛寺へ遷りましたが、
文中2年/応安6年(1373)8月に北朝軍の攻撃を受け、再び吉野へ退きました。
弘和3年/永徳3年(1383)に長慶天皇は弟の後亀山天皇に譲位し、
後亀山天皇は元中9年/明徳3年(1392)に京都へ赴き、後小松天皇に

神器を譲渡して南朝が解消される形で南北朝合一が成されました(明徳の和約)。

明治元年(1868)に明治天皇が住吉大社に行幸の際に立ち寄られ、
昭和14年(1939)3月7日には国の史跡に指定されました。
トドロキ神社-鳥居
住吉行宮跡から南東方向にバイクで約5分走った所に
止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)があります。
創建に関する詳細は不明ですが、延長5年(927)に編纂された
『延喜式神名帳』では小社に列せられ、元は住吉大社の摂社(奥之院)であったとされています。
かって、境内の松林の中に清水が湧く「轟池(とどろきいけ)」と呼ばれる池があり、
轟橋が架けられていました。
それが社名の由来となったと伝わります。
また、稲田姫尊を「止止呂支比売命」と呼んだことが由来となった説もあります。
トドロキ神社-社殿
社殿は住吉造と同じように見えます。
祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊で、社頭の由緒書きには
止止呂支比売命も記されています。
『古事記』では素戔嗚尊は、伊邪那岐命が黄泉の国から引き返し、
筑紫の阿波岐原(宮崎市阿波岐原町に比定)で禊を行った際、

天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとされています。
素戔嗚尊は我が身の潔白を証明するため、
天照大御神と誓約(うけひ)を行い、高天原へ上りました。
しかし、次々と粗暴を行い、天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れ、
素戔嗚尊は高天原から追放されました。
素戔嗚尊は出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降り、八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた
稲田姫尊(櫛名田比売命=くしなだひめのみこと)と出会いました。
素戔嗚尊は八俣遠呂智を退治し、稲田姫尊を妻として出雲の地に留まったとされています。
八俣遠呂智を退治した際、八俣遠呂智の尾から出てきたのが
草那藝之大刀(くさなぎのたち=草薙剣)で、天照大御神に献上し、

古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなりました。
若松行宮
境内の西側に後鳥羽上皇若松行宮跡があり、すぐ後ろに南海高野線の線路が通っています。
第82代・後鳥羽天皇は元暦(げんりゃく)元年(1184)7月28日に
安徳天皇が退位しないまま即位しました。
寿永2年(1183)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫り、平家は安徳天皇と
三種の神器を奉じて西国に逃れたため、神器なき即位となりました。
文治元年(1185)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、三種の神器の一つ、
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草那藝之大刀)は安徳天皇が携え、海底に沈みました。
後鳥羽天皇は建久9年(1198)1月11日に土御門天皇に譲位し、院政を敷きました。
院政は上皇が隠岐島に配流される承久3年(1221)まで、3代23年間に亘りました。
承久2年(1220)、後鳥羽上皇は熊野詣と称し、当地へ行幸されました。
住吉大社神主・津守経国(つねくに)は境内の松林の中に「若松行宮」を
造営したことから、止止呂支比売命神社は別名で「若松神社」とも呼ばれるようになりました。
上皇は鎌倉幕府に対して強硬的であり、当地に行幸されたのも、
津守家を頼り畿内の勢力を集結させる目的があったのかもしれません。
後鳥羽上皇は翌承久3年(1221)5月14日に、時の執権・北条義時追討の院宣を下し、
承久の乱を起こしましたが、幕府の大軍に敗北し、7月9日に隠岐島に配流され、
延応元年(1239)2月20日に60歳で崩御されました。

家原寺へ向かいます。
続く

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