サンダーバード
Go Toトラベルを利用すると、「サンダーバード」と北陸新幹線「つるぎ」を
利用した往復の運賃と一泊の宿泊代をセットにして、33,000円が21,450円に
割引され、更に地域共通クーポン5.000円が付きました。
サンダーバード1号で9:13に金沢に到着しました。
北陸新幹線の敦賀までの延伸工事が一部で遅れながらも進められ、4~5年後には
サンダーバードも敦賀止まりになると思われます。
エンブレム
683系4000番台リニューアル車
エンブレムステッカー
鼓門
金沢駅で途中下車しました。
平成17年(2005)に兼六園口(東口)側に、「もてなしドーム」と
「鼓門(つづみもん)」が完成し、平成27年(2015)の北陸新幹線の
金沢延伸に向けて駅舎の改造も進められ、現在の姿となりました。
鼓門は、高さが13.7mあり、金沢の伝統芸能である能楽で使われる鼓を
イメージして造られ、日没から0:00までライトアップが行われています。
もてなしドーム
もてなしドームは、雨や雪が多い金沢で、「駅を降りた人に傘を差し出す
おもてなしの心」をコンセプトとしています。
つるぎ
「つるぎ」に乗換え、富山駅へ向かいます。
W7系/E7系は、北陸新幹線・長野駅~金沢駅間延伸開業に際し、JR西日本とJR東日本が
共同開発・導入した車両で、JR西日本の所有車がW7系、JR東日本がE7系で、
設計最高速度は275km/h、最高運転速度260km/hで運行されています。
富山駅
10:12に富山駅に着きました。

向かって駅の右側に富山地方鉄道の電鉄富山駅があり、2日フリーきっぷを
4,600円で購入しました。
JR富山駅から富山地方鉄道の市内電車で丸の内まで乗車し、
富山城公園へ向かいました。
市内電車の運賃は均一制で210円ですが、フリーきっぷが使用できます。
模擬天守
富山城は、天文12年(1543)頃に神保長職(じんぼう ながもと)が、家臣の水越勝重
(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされていましたが、最近の発掘調査により
室町時代前期の遺構が発見され、更に歴史はさかのぼると考えられています。

永禄3年(1560)、上杉謙信の攻撃を受け、神保長職は富山城に火を放って逃走し、
天正6年(1578)に謙信が急死したのを機に、城を取り戻しました。
しかし、天正10年(1582)には失脚し、佐々成政が城主となりました。
佐々成政は大規模な改修を行いましたが、本能寺の変後に豊臣秀吉と敵対し、
天正13年(1585)には秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し、
城は破却されました。
その功により恩賞で越中三郡を得た前田利家は、金沢城を本拠地とし、
その後、家督と加賀の所領は長男・利長に引き継がれました。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、利長は徳川家康に帰順して出陣し、
その功により日本最大の藩・加賀藩主となりました。
利長は富山城を再建し、大改修を行って金沢城から移り住み隠居城としましたが、
慶長14年(1609)に建物の主要部がことごとく焼失しました。

加賀藩第2代藩主・前田利常は、次男の利次に10万石を与えて分家させ、
富山藩が成立しました。
万治4年(1661)、利次は富山城を本格的に修復して居城としました。
城下町を整え、明治維新まで前田家が富山藩を治めましたが、明治4年(1871)に
廃城となり、堀も埋め立てられました。

現在の富山城公園の模擬天守は、昭和29年(1954)に鉄筋コンクリート造りで建立され、
富山市郷土博物館として運営されています。
前田正甫像
公園内には、高さ約10mの富山藩第2代藩主・前田正甫(まえだ まさとし)の像が
造立されています。
前田正甫(1649~1706)は、新田開発や治水工事を行って生産力の向上を計る一方で、
但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始するなど、産業の育成を行い藩財政を
豊かにしようと尽力しました。
元禄3年(1690)に参勤交代で江戸城に登城した際、とある大名が腹痛を訴えました。
正甫が常備していた「反魂丹(はんごんたん)」を分け与えると、腹痛が治癒し、
諸大名がその効能に驚き、自国の領内での販売を求めるようになりました。
正甫は製薬業を奨励して、諸国に行商するようになったのが、
富山売薬の始まりとされています。
本丸亭-1
本丸亭は、茶室・碌々亭(ろくろくてい)と増築棟の総称です。
碌々亭は当初、明治時代(1868~1912)中期に飛騨高山の永田家に建てられました。
昭和23年(1948)に実業家で茶人でもあった佐藤助九郎氏が譲り受け、
富山へ移築されました。
本丸亭-2
その後、平成17年(2005)に佐藤家から富山市へ寄贈され、同26年~27年(2014~5)に
かけて移築工事が行われて現在の姿となりました。
茶室には明治19年(1886)の武者小路千家11代・一指斎(いっしさい:1848~1898)
による扁額「臥雲居(がうんきょ)」が掲げられていましたが、一指斎没後に
実兄の表千家11代・碌々斎が茶室全体を完成させたとも伝わり、
富山に移築後は「碌々亭」と呼ばれるようになりました。
佐藤記念美術館
佐藤記念美術館は、佐藤助九郎氏が収集した、東洋古美術のコレクションを
展示するため、佐藤家などにより昭和36年(1961)に「佐藤美術館」として
開館したのが始まりです。
昭和38年(1963)に「富山美術館」と改称し、平成3年~同5年(1991~1993)にかけて
開館30周年を祈念して新館の増築が行われ展示室面積が約2倍となりました。
平成10年(1998)に「富山佐藤美術館」と改称されましたが、同13年(2001)に
解散し、建物や収蔵品も含め美術館ごと富山市に寄贈されました。
富山市は「佐藤記念美術館」と改称して、平成14年(2002)に開館しました。
庭園-1
美術館前には池泉回遊式庭園が作庭されています。
庭園-2
その2
佐藤記念美術館-横
美術館の横
公園の北側
公園の北側
市内電車7000形
市内電車7000形
昭和32年~40年(1957~65)にかけて製造されました。
CENTRAM
市内電車9000形、愛称はCENTRAM(セントラム)。
平成21年(2009)に導入されました。
富山売薬の像
立山行の発車時間が近づいてきましたので駅まで歩いて戻りました。

駅の南側に富山の薬売りの像があります。
子供の頃の記憶では、置き薬を点検に来られ、使用した分代金を払って補充されます。
その際、紙風船などのお土産を置いて帰られました。
一方で薬売りにより全国の情報が集められ、蓄積された資本力で近代産業の創設など
郷土の発展に大きく貢献しました。
電鉄富山駅-立山と上市行
電鉄富山駅のホームには既に14760形の立山行と上市行が入線していました。
14760形は昭和54年~56年(1979~81)にかけて新造されました。
電鉄富山駅-10030形
上市行が発車してから10030形が入線し、立山行はその後の発車となりました。
10030形は、元京阪特急の3000系で、8編成16両が導入されています。
立山行各駅停車は電鉄富山駅から寺田駅まで本線、寺田駅で本線から分かれて
立山駅に至る34kmを1時間余りかけて走り、運賃は1,230円です。
既に2日フリーきっぷを購入済ですが、鉄道軌道全線1日フリーきっぷや
エリア限定の1日フリーきっぷなども販売されています。

富山地方鉄道(株)は、昭和5年(1930)に設立された富山電気鉄道を母体とし、
昭和18年(1943)に発令された「陸上交通事業調整法」に基づき、
富山県内のすべての私営・公営の鉄軌道・バス会社を合併して発足しました。
現在の立山線の前身は、立山鉄道(五百石~岩峅寺=いわくらじ)と
富山県営鉄道立山線(岩峅寺~立山)です。
車窓からの景色
車窓からは剣岳から立山連峰の雄大なパノラマが楽しめます。
立山駅
12:27に立山駅に到着しました。
ケーブル
立山・黒部アルペンルートへ向かうには、ケーブルに乗り換えです。
12:40発の称名滝行のバスに乗車します。
このバスは後何日かで、春まで運休となります。
悪城の壁
車窓から悪城の壁(あくしろのかべ)が望めますが、往きの時は座席が
反対だったので、帰りに撮影しました。
往きは快晴だったのに、2時間余り滞在した帰りには、車窓に雨粒が付きました。
悪城の壁は、高さ500m、総延長2kmの大規模な岩壁で、溶結凝灰岩で形成され、
一枚岩としては日本一の高さとされています。
現在の室堂平は火口の密集地帯で、ミクリガ池やミドリガ池も立山火山の火口湖で、
今も地獄谷では火山ガスが発生し、水蒸気爆発の危険性があります。
富士ノ折立(2,999)、大汝山(3,015)、雄山(3,003)の立山三山は
火山ではありませんが、室堂平から、天狗平、弥陀ヶ原、美女平と続く
なだらかな斜面と立山カルデラ、そして鷲岳(わしだけ:2,617)・
鳶山(とんびやま:2,616)を含んだ五色ヶ原が立山火山で、
22万年前から火山活動を始めました。
溶岩による台地が、称名川によって削られ、かってはこの辺りに称名滝があり、
その滝で削られた岩盤が悪城の壁と推定されています。
称名滝から上流は、川幅数m、両側の岸壁の高さ約200mの険しい峡谷で、
平成28年(2016)まで、遡行した記録もありませんでした。
ハンノキ滝-1
15分ほどで称名滝の駐車場に到着し、運賃は500円でした。
幾筋かの滝が見えますが、称名滝ではありません。

称名川とは別の流れによるハンノキ滝で、その右側はソーメン滝と称されています。
ハンノキ滝は落差約500mで、称名滝よりも大きいのですが、水量が減少すれば
ソーメン滝と共に消滅してしまうため、日本一の落差の滝として
認められないようです。
ハンノキ滝-2
駐車場から徒歩で称名滝へ向かい、10分程歩いた所でようやくハンノキ滝の全貌が
見えてきました。
快晴だった空は薄雲に覆われてきました。
称名滝-橋
称名滝に近付くにつれ、滝のしぶきが霧雨のようになって降り注ぎます。
滝の下流にある橋を渡ると称名滝が見えてきますが、上部はやや岩陰で不鮮明です。
称名滝-滝見台
橋を渡って対岸を少し登ると上部が見えてきますが、下部は手前に張り出した
岩に隠されます。
称名滝は4段の滝により構成され、落差は350m余りで日本一とされています。
落差30mの爆流から落差45m、滝壺の直径20mの第1段の滝、第2段の滝は落差58m、
滝壺の直径は40m、そして、落差4mの爆流を経て落差96m、滝壺の直径30mの
第3の滝へと至り、落差126m、滝壺の直径60mの第4の滝となって流れ落ちています。
国の名勝及び天然記念物に指定され、日本の滝百選に選定されています。
また、法然上人が滝の轟音を「南無阿弥陀仏」という称名念仏の声と聞いたことが
滝の名の由来で、その音は日本の音風景100選に選定されています。
紅葉
思っていたより寒くはなく、金沢駅で購入した弁当で昼食を済ませ、14:40発の
バスに間に合うように駐車場へと戻ることにしました。

振り返れば、紅葉が美しいことにも気付きました。
大日岳登山口
途中、大日岳(2,501)への登山口があります。
大日岳まで5時間40分だそうです。
悪城の壁-登山道
下山路からの悪城の壁。
ALPS EXPRESS
立山駅まで戻ると、16010形の電鉄富山行特急列車が入線していました。

「ALPS EXPRESS」と記されています。
16010形は「レッドアロー」の愛称で親しまれた、元西武鉄道5000形で、
平成7年~8年(1995~6)にかけて2編成が導入されました。
特急で寺田まで乗車し、寺田で上市行に乗り換えますが、運賃の1,130円の他に
特急料金110円(電鉄富山までは210円)が必要で、フリーきっぷには
特急料金も含まれています。
サロンカー
特急列車は3両編成で、中間にサロンカーが連結されています。
稚児塚古墳
立山駅を15:05に発車し、15:40に寺田駅に到着しましたが、上市行の待ち合わせに
約1時間あります。
近くにある稚児塚古墳まで往復することにしました。

10分余り歩いた踏切の向こうに稚児塚古墳が見えてきます。
稚児塚古墳-石段
踏切を渡ると正面は石段で、整備されています。
稚児塚古墳は、5世紀頃のかなり有力な一族の墓と推定されています。
高さ7.2m、底部の直径が46.8mの円墳で、富山県の史跡に指定されています。
墳丘は県内で唯一、葺石で覆われ、周囲には濠が巡らされて、濠は現在、水田として
使われています。
稚児塚古墳-切り株
石段を登ると、巨大な杉の切り株が覆屋の中にあります。
樹齢300年とされる杉の古木でしたが、昭和48年(1973)に枯死しました。
稚児塚古墳-蛭子神
また、墳頂には蛭子神を祀る祠があります。
被葬者については諸説あり、なぜ「稚児塚」と呼ばれるのか?
疑問は残りますが、寺田駅へ戻ります。
稚児塚古墳-17480形
下ってくると17480形の岩峅寺行が通過します。
元東急8590系で、令和元年(2019)に導入されました。
民家
このような屋根の民家を見たのは初めてです。
寺田駅-駅舎
寺田駅です。
手前に立山線の列車が停車していました。
寺田駅-ホーム
こちらが本線のホームで、駅舎側に立山線のホームがあります。
寺田駅-14720形
昭和36年~39年(1961~64)にかけて製造された
14720形の宇奈月温泉行が入線してきました。
寺田駅を発車する頃にポツポツ落ち出した雨は、上市駅に着く頃には本格的な
降りとなりました。
上市駅は終着駅のようです。
宇奈月温泉行は、スイッチバックのように前後が逆となって発車して行きます。
大した降りでも無いので、徒歩で温泉宿へ向かいました。
明日は宇奈月温泉まで乗車し、黒部峡谷鉄道の黒部トロッコ電車で欅台まで
往復する予定です。
続く