タグ:修二会

二月堂
二月堂は天平勝宝4年(752)に実忠(じっちゅう:726~?)によって創建された、
正面(間口)が7間、奥行きが10間の懸造の建物です。
二月堂は、治承4年(1180)の平重衡(1157or1158~1185)の兵火と永禄10年(1567)の
三好・松永の兵乱からの焼失を免れましたが、寛文7年(1667)に
修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失しました。
現在の建物は寛文9年(1669)に再建されたもので、国宝に指定されています。
寺伝では天平勝宝3年(751)に実忠が笠置(現在の京都府南部、笠置町)の
龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(とそつてん=兜率天)の
内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の
十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていました。
悔過とは自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することであり、
実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったのですが、そのためには
生身の十一面観音を祀らねばならないと告げられました。
下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの
補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養しました。
すると、その甲斐あってか、100日ほどして
生身の十一面観音が海上から来迎しました。
実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったと伝わります。
二月堂では旧暦の2月、二七日(にしちにち=14日間の意)にわたって
修二会が執り行われることから「二月堂」と呼ばれています。
修二会とは、二月堂本尊の十一面観音に対して自らの過ちを懺悔し、
国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する十一面悔過(けか)法要です。
現在では新暦の3月1日から14日まで、法要は練行衆と呼ばれる、
特に選ばれた11名の僧によって執り行われています。
手水舎
法華堂北門を出て、石段を上った正面に唐破風(からはふ)造りの
豪華な手水舎があります。
飯道神社
手水舎の右側の石段の上に飯道神社(いいみちじんじゃ)があります。
実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡信楽町の飯道神社が勧請されたものと
考えられています。
二月堂-2
二月堂の本尊は二躯の十一面観音菩薩像で、1躯は内陣中央に安置され、
「大観音」(おおがんのん)と称され、もう1躯は厨子に納められ、
通常は大観音の手前に安置されているもので、
「小観音」(こがんのん)と称されています。
大観音・小観音ともに絶対の秘仏で、修二会の法要を務める
練行衆さえもその姿を見ることは許されません。
修二会が行われる14日間のうち、上七日(じょうしちにち・前半の7日間)は
大観音が本尊とされ、下七日(げしちにち・後半の7日間)は代わって
小観音が本尊とされています。
小観音の厨子は2月21日に「御輿洗い」と称して、礼堂に運び出されて、
丁寧に拭き清められます。
その後、大観音の手前ではなく背後に安置され、修二会の前半の上七日の間は
大観音が法要の本尊となり、小観音は陰に隠されます。
3月7日の夕方から深夜にかけて「小観音出御(しゅつぎょ)」と
「小観音後入(ごにゅう)」という儀式が執り行われます。
「小観音出御」は3月7日午後6時頃から行われ、大観音の背面に安置されていた
小観音の厨子が礼堂に運び出され、香炉、灯明、花などで供養されます。
その後、深夜0時過ぎには「小観音後入」が行われ、礼堂に運び込まれた
厨子を再び内陣に戻す儀式で、下七日の本尊として大観音の正面に安置されます。
手水所
二月堂の東側を進んだ所にも手水所があります。
茶所
二月堂の北側に茶所があります。
茶所付近に遠敷明神(おにゅうみょうじん)を祀る遠敷神社が
あったようですが見落としました。
登廊-1
茶所と二月堂の間に登廊があります。
登廊-2
登廊-その2
湯屋
登廊を下った正面の右側に「練行衆」の入浴施設である湯屋があり、
左側は参籠所と接続されています。
湯屋-2
湯屋の間を通り抜け、下からの光景です。
井戸
湯屋から下ってきた斜め前の建物の前に井戸らしきものが見えます。
かってはこの水が使われていたのかもしれません。
詳細不明の建物
当初はこの井戸の後ろにある建物が湯屋だと思っていたのですが、
違っていたようで、この建物の詳細は不明です。
参籠所
参籠所は室町時代に再建されたもので国の重要文化財に指定されています。
参籠所は修二会で儀式を行う「練行衆」が期間中に寝泊りするための施設で、
北半分が参籠所、南半分が食堂となっています。
修二会の期間中、練行衆が参籠所から登廊を上り二月堂へ向かう際に、
練行衆一人一人を松明(たいまつ)が先導します。
鬼子母神
食堂の西面には鬼子母神が祀られています。
鬼子母神は多くの子を持ち、それらの子を育てる栄養を摂取するために
人間の子供を捕えて食べていました。
それを見かねた釈迦から五戒を守り、施食によって飢えを満たすことを
諭(さと)され、仏法の守護神となりました。
閼伽井屋
参籠所の南側に閼伽井屋があり、現在の建物は鎌倉時代初期に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
閼伽井屋の中の井戸は「若狭井」と名付けられています。
良弁杉
閼伽井屋の東に良弁杉が聳え、その傍らに
興成神社(こうじょうじんじゃ)があります。
二月堂の修二会行法(お水取り)を守護する三社の一つで、
鵜が祀られていました。
東大寺の僧・実忠は、天平勝宝4年(752)に二月堂を創建し、
修二会を始めました。
修二会にはすべての神々が参列されましたが、
ただ若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん=彦姫神)のみは
川で魚を採っていたため遅参されました。
そのお詫びとして、二月堂の本尊へお香水を送る約束をされました。
若狭の鵜の瀬から白と黒の二羽の鵜がもぐっていき、二月堂のほとり、
傍らに木が立つ岩の中から飛び立ち、その跡から湧水が満ちあふれたと伝わります。
それが二月堂の閼伽井で、「若狭井」と名付けられ、
その水を汲む行事「お水取り」が始まったと伝わります。
興成神社にはその白と黒の二羽の鵜が祀られています。
また、飯道神社、遠敷神社、興成神社の三社は、二月堂の鎮守社で、
「惣神所(そうのじんしょ)」とも呼ばれています。
練行衆は修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜
(正確には15日未明)にこれら3社に参詣し、修二会のとどこおりない執行と、
法会の終了を感謝します。
石碑
良弁杉には由来が記された石碑が建っています。
かって、この地には樹齢600年、高さ7丈(約21m)に及ぶ大木が
聳えていたと伝わり、良弁(689~774)がまだ幼少だった頃に大鷲にさらわれ、
その木に飛来したと記されています。
昭和31年(1956)9月16日の台風によりその木は倒壊し、
現在の木はその枝から植樹されたものです。
開山堂-門
良弁杉と対面するように開山堂があります。
開山堂はかって、僧坊があった所に寛仁3年(1019)に創建され、
僧正堂と呼ばれていました。
その後、鎌倉時代の正治2年(1200)に重源上人によって大仏様の
四方一間の大きさの堂舎に改築され、建長2年(1250)に現在地に移築されました。
開山堂
堂内、内陣の中央には八角造の厨子があり、
厨子内には良弁僧正坐像が安置されています。
良弁僧正坐像は像高92.4cm、平安時代の作で開山堂と共に
国宝に指定されています。
神亀5年(728)、第45代・聖武天皇の第一皇子・基親王(もといしんのう)が
一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、菩提を弔むため、若草山麓に
金鍾山寺(こんしゅせんじ)を建立され、智行僧九人が住持しました。
その筆頭となったのが良弁で、後に金鍾山寺は大和国分寺と定められ、
東大寺となり、天平勝宝4年(751)には、東大寺大仏建立の功績により
東大寺の初代別当となりました。
天平勝宝8年(756)に鑑真(688~763)と共に大僧都に任じられ、宝亀4年(773)には、
僧正に任命されましたが、その年の閏11月24日に亡くなりました。
三昧堂
開山堂の南側に三昧堂(四月堂)があります。
三昧堂は平安時代の治安3年(1021)または治暦3年(1067)の創建と考えられ、
現在の建物は江戸時代の延宝9年(1681)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
毎年四月に法華三昧会(ほっけさんまいえ)が執り行われることから、
「四月堂」とも呼ばれています。
本尊は千手観音菩薩立像でしたが、東大寺ミュージアムに遷されたために、
二月堂から十一面観音菩薩立像が新たに本尊として遷されました。
また、堂内には阿弥陀如来坐像等が安置され、
共に国の重要文化財に指定されています。

手向山八幡宮へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山門
笠置寺は標高289mの笠置山を境内とし、般若寺から国道369号線を進み、
柳生の里から北上した笠置山上に駐車場があります。
山号を鹿鷺山(しかさぎさん)と号する真言宗智山派の寺院です。
駐車場から歩き、料理旅館の前を右に曲がり、石段を上った先に山門があります。
笠置型灯篭
山門をくぐった所に、平安時代に参道に建てられていたと伝わる
笠置型灯篭が復元されています。
本尊仏香爐
本尊仏香爐は高さ20mもある磨崖仏の前に置かれていた香炉で、室町時代に造られ、
江戸時代は手水鉢に転用されていました。

参道の左側に本坊がありますが、画像を撮り忘れました。
平安時代の最盛期、笠置寺には49の子院がありましたが、鎌倉時代の元弘元年(1331)に
後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こすと
幕府軍の奇襲により全山焼失しました。
室町時代に小規模の復興がなされましたが、江戸時代後期の安政年間(1850年代)に
起こった安政南海地震でも甚大な被害を受け、江戸末期には福寿院・多聞院・文殊院・知足院の
四子院が無住のまま残されました。
明治9年(1876)、大倉丈英和尚により復興がなされ、文殊院と知足院は破却され、
多聞院の本堂は毘沙門堂となり、福寿院を本坊として再興し笠置寺とされました。
鐘楼
参道の正面にコンクリートで再建された鐘楼があります。
梵鐘は「解脱鐘」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の建久4年(1193)、藤原貞慶(じょうけい=後の解脱上人)が
日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、
信仰の山として全盛を極めました。
東大寺再建中の俊乗房重源は、建久7年(1196)に貞慶に宋から持ち帰った紺紙金泥の
『大般若経』600巻を寄進し、般若台(『大般若経』を安置する六角堂)の鐘として
「解脱鐘」を寄進しました。
最下部に6つの切り込みを入れて六葉形にするのは中国鐘に見られる形式で、
日本に一つしかありません。
また、銘文は鐘の側面でなく下面に刻まれています。
収蔵庫
鐘楼から東へ進んだ先に受付があり、入山料300円を納め、
その先へ進んだ左側に収蔵庫があります。
無料で見学はできますが、館内の撮影は禁止されています。
朱塗りの鳥居
収蔵庫の先に朱塗りの鳥居が建っています。
椿本護王宮
鳥居をくぐった右側に椿本護王宮があります。
椿本護王宮は笠置山一山50ヶ寺の総鎮守社で、延喜8年(908)に
吉野・金峯山から勧請されました。
元弘の乱で焼失後、桃山時代に豊臣氏によって再興されたと見られています。
春日明神社
左側には春日明神社があり、建久4年(1193)に藤原貞慶が
笠置寺へ入る際に勧請されました。
藤原貞慶の祖父・藤原通憲(信西)は、平治元年(1160)の平治の乱で自害させられ、
また父・藤原貞憲も 土佐に配流されました。 生家が没落した幼い貞慶は望まずして、
興福寺に入り11歳で出家して叔父・覚憲(かくけん)に師事して法相・律を学びました。
仏教界において将来の日本仏教界を背負って立つ存在として期待されていましたが、
僧の堕落を嫌い春日明神の神託を受けて笠置寺に入りました。
貞慶は以後15年間にわたり笠置寺の再興と南都仏教復興運動を展開されました。
春日明神社は元弘の乱で焼失後、平成28年(2016)の春日大社第60次式年造替に際し、
御蓋山(みかさやま)に祀られていた摂社・本宮神社社殿を移譲され再興されました。
行場入口
鎮守社の先で参道は突き当りとなり、左に曲がると修行場の入口があります。
修行大師像
修行場の入口から進んだ先に修行大師像が祀られています。
笠やん-像
修行大師像の傍らに道案内猫「笠やん」の像が祀られています。
茶トラのオス猫で、住所不定だった野良猫が平成2年(1990)に笠置寺に住着き、
5年間に渡り日に何回か参拝客と共に修行道を歩きました。
いつしか道案内猫の「笠やん」と呼ばれ、人気猫になりましたが
平成6年(1994)2月2日に永眠しました。
大師堂
修行大師像横にある石段を上った所に大師堂があります。
かって、この地には天平勝宝3年(751)に東大寺の僧・実忠が創建した正月堂がありましたが、
元弘の乱で焼失後はこの地に再建されることはありませんでした。
明治30年(1897)に関西鉄道(JR関西本線の前身)の開通により、
現在の笠置駅にあった大師堂がこの地に移築されました。
堂内には室町時代の弘法大師石像が安置されています。
正月堂
石段を下って参道を進んだ先に正月堂があり、
笠置寺の本尊・弥勒大磨崖仏の礼拝堂となっています。
実忠は天平勝宝3年(751)に笠置山に入り、山中にあった龍穴の奥へ入っていくと、
そこは都卒天(とそつてん=兜率天)の内院に通じており、そこでは天人らが
生身(しょうじん)の十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていました。
悔過とは自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することであり、実忠はこの行法を
人間界に持ち帰りたいと願ったのですが、そのためには生身の十一面観音を
祀らねばならないと告げられました。
実忠は下界に戻り難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの
補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養し、100日ほどして
生身の十一面観音が海上から来迎したと伝わります。
現在東大寺二月堂で営まれる修二会は、二月堂本尊の十一面観音に対して
自らの過ちを懺悔し、国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する
十一面悔過(けか)法要です。
天平勝宝4年(752)、笠置寺に正月堂が建立され、十一面観音像が安置されて
第1回のお水取りは正月堂で営まれました。
同年2月には実忠により東大寺に二月堂が建立されてこの行法が修され、
以後、東大寺に引き継がれることになりました。
現在の正月堂は室町時代に東大寺の僧・貞盛により再建されました。
因みに東大寺には二月堂、三月堂、四月堂がありますが、正月堂はありません。
弥勒磨崖仏-写真
堂内には弥勒大磨崖仏の写真が祀られています。
平成22年(2010)に文化財復元センターが岩に残るわずかな痕跡からデジタル技術で
復元した画像で、像高は10~12mにもなる立像であることが判明しました。
笠やん-写真
また、道案内猫「笠やん」の写真も掲示されています。
弥勒磨崖仏
正月堂の正面の弥勒大磨崖仏は元弘の乱の兵火を受け、現在は姿が失われ、
輪郭を残すのみとなっています。
笠置山は、山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、弥生時代には磐座を信仰する
巨石信仰の霊地であったと推定されています。
笠置石
笠置寺の創建については諸説ありますが、寺伝では白鳳11年(682)に
大海人皇子(後の天武天皇)によって創建されたと伝わります。
大海人皇子がある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、鹿は断崖を越えて
逃げ去ったのですが、馬は断崖の淵で動きが取れなくなりました。
皇子は山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と
誓願して難を逃れたと伝わり、その断崖の目印として笠を置いたことが、
笠置の地名の起こりとされています。
弥勒大磨崖仏の左側にある「笠置石」と呼ばれる断崖がその地とされています。
その後、皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたのですが、
あまりの絶壁で困難を究めました。
伝承では天人が現れて弥勒像を刻んだとされていますが、
実際には中国からの渡来人によるものと考えられています。
十三重石塔
笠置石の手前には十三重石塔が建てられ、国の重要文化財に指定されています。
この塔は鎌倉時代のものとされ、元弘の乱での戦死者の供養塔とも、
貞慶上人が母のために建てた供養塔とも伝わります。
元来この場所には建久7年(1196)に貞慶上人が建てた、
木造瓦葺の十三重塔がありましたが、元弘の乱の兵火で焼失しました。
正月堂-懸崖造り
正月堂の懸崖造りの柱の脇を参道は進みます。
龍神
岩と岩の間に千手窟があり、龍神が祀られ、立ち入りができなくなっています。
千手窟
天平勝宝3年(751)に笠置山に入った実忠が、この奥へと入り
十一面悔過(けか)法要が伝授されたと伝わります。
また、東大寺大仏殿再建の際、用材は木津川を利用して奈良へと送る計画でしたが、
日照り続きで木津川の水量が少なく、用材の配送に遅延が生じていました。
実忠はこの場で雨乞いの修法を行うと大雨が降り、無事に用材を奈良へと送ることができて、
予定通りに大仏殿を完成させることができたとの伝承もあります。
この故事から以後、大仏殿の修理の際は、必ずこの場で無事完成を願っての
祈願法要が執り行われたとされています。
虚空蔵磨崖仏
千手窟の先にある高さ10mの岩には、太さ約2cmの線で像高約7mの虚空蔵仏が描かれ、
こちらはくっきりと像が残されています。
寺伝では弘仁年間(810~824)に弘法大師がこの岩に登り、求聞寺法を修した際、
「星から出た光が穿(うが)った」と伝わります。
しかし、彫刻の様式が中国・山西省雲崗(うんこう)の磨崖仏に相通じるものが
あることから、弥勒磨崖仏と同様に奈良時代の渡来人の作と考えられています。
虚空蔵磨崖仏-図面
昭和59年(1984)にこの磨崖仏が拓本にとられ、8mX10mの大掛け軸が作成されました。

また、正月堂にはその拓本から採寸された図の写真が掲示されています。
胎内くぐり
虚空蔵磨崖仏の先は、約40分の笠置山修行場となっており、
その入り口に胎内くぐりが設けられています。
本来は滝で身を清めてから行場へ入るのですが、笠置山では滝が無いため、
胎内くぐりすることによって身を清めるとされています。
嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した安政南海地震により、
天井石が落下したため切り石が天井石となっています。

通路は緩くカーブしており、少しかがみながら、それでも小さなリュックを
背負ってでも通り抜けることができました。
太鼓石-2
参道を進んだ正面に太鼓石があります。
標識の柱が立つ背後の石で、ある一部を叩くとポンポンと音を発します。
その場所は自分で見つけることに意義があり、目印を付けてはならないそうです。
岩のトンネル
参道には岩のトンネルがありますが、こちらの通過は容易です。
木津川
ゆるぎ石
更に参道を進み眼下に木津川の流れが望める所にゆるぎ石があります。
元弘元年(1331)9月28日に鎌倉幕府軍による奇襲を受けた所で、
その奇襲に供えるために運ばれた石とされています。
石の運搬には怪力の持ち主で般若寺の僧・本性房が携わっていたのかもしれません。
ゆるぎ石の重心は中央にあり、人の力で動くことから「ゆるぎ石」と呼ばれています。
平等石
参道は大きな岩と右側の岩の間の狭い通路をよこばいになって進みます。
「蟻の戸わたり」と呼ばれ、大きな岩は「平等石」と名付けられています。
二の丸跡
開けた所に二の丸跡があります。
笠置山には正式な城は築かれず、山頂の後醍醐天皇行在所が本丸と見立てられ、
室町時代以降にこの広場が二の丸跡と呼ばれるようになりました。
貝吹き石
二の丸跡の先を右に曲がり西へ進んだ先に貝吹き岩があります。
修験者がこの岩の上で法螺貝を吹いたとされ、元弘元年(1331)の元弘の乱では
後醍醐天皇の軍が士気を高めるためこの岩の上で法螺貝を吹いたと伝わります。
登ってみようと試みたのですが、カメラをぶつけ途中で諦めました。
貝吹き石前の塔
広場には塔が建てられていますが詳細は不明です。
もみじ公園への下り坂
広場から階段を下った所に宝蔵坊跡があり、現在はもみじ公園として整備されています。
もみじ公園
公園には東屋があります。
行在所への石段
公園を横切った先にも階段があり、それを登った所に行在所への石段があります。
もみじ公園へ下らなくても、参道をそのまま進めばこの石段下に着けます。
行在所
標高289mの笠置山の山頂に後醍醐天皇の行在所跡があります。
後醍醐天皇は文保2年3月29日(1318年4月30日)に31歳で即位しましたが、
兄・後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が成人して皇位につくまでの
中継ぎとして位置づけられていました。
後醍醐天皇が即位しても3年間は父の後宇多法皇が院政を行い、邦良親王の皇位継承計画は
後宇多法皇の遺言状に基づくもので、鎌倉幕府はその計画を承認し保障しました。
これに対して後醍醐天皇は幕府への不満を募らせていき、正中元年(1324)に
討幕計画を立てたのですが発覚し、天皇の側近が
処分されましたが天皇の処分は免れました。(正中の変
元弘元年(1331)の後醍醐天皇による再度の討幕計画が側近・吉田定房の密告により発覚し、
身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断しました。
後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて笠置山に籠城し、
三種の神器を持って挙兵しました。
幕府軍7万5千に対し、後醍醐天皇の軍は2.500でその差は歴然でした。
後醍醐天皇は大覚寺統でしたが、大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を
支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、
後醍醐天皇は窮地に陥っていました。
笠置山は一カ月間は持ちこたえましたが、9月28日の夜半、風雨を味方に付けた
幕府軍の決死隊50名の奇襲攻撃を受け、笠置寺山内49の支院全てが灰燼に帰しました。
後醍醐天皇は捕えられ、隠岐島へ配流されました。
後醍醐天皇歌碑
行在所の玉垣前には後醍醐天皇御製の歌碑があります。
「うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る」
大師堂-裏側
行在所跡から石段を下り、参道を下ると大師堂の裏側に出ます。
毘沙門堂
大師堂から参道を戻り、直進した右側に毘沙門堂があります。
毘沙門堂は支院・多聞院の本堂が移築され、
鎌倉時代作の毘沙門天像を本尊としています。
この毘沙門天像は像高50cmで、楠木正成の念持仏であったと伝わり、
かっては信貴山の毘沙門天と共に戦勝の神、福徳の神、財宝の神として信仰を集めました。
信貴山は聖徳太子が物部守屋を攻めた時、この山に毘沙門天が現れ、太子が信ずべし、
貴ぶべしといったことに由来すると伝わります。
稲荷社-鳥居
毘沙門堂の南側に鳥居が建っています。
稲荷社
鳥居をくぐり、石段を上った先に稲荷社があります。
大正時代に笠置町の回船業者の発願で愛知県の豊川稲荷(妙厳寺)から勧請されました。
稲荷権現、飯綱権現と同一視される荼枳尼天(だきにてん)が祀られ、
「その法を修するものは自由自在の力を与える」とされています。
笠置山の麓を流れる木津川は、古くから船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、
江戸時代から鉄道が開通する明治初期までは栄えていました。
舎利殿
鳥居の手前を東へ進むと舎利殿があります。
昭和49年(1974)春に笠置寺創建1300年、宗祖弘法大師御生誕1200年を
記念して建立されました。

海住山寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ