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山門
梨木神社から寺町通を挟んだ向かい側(東側)に廬山寺があります。
正式には「廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)」と称し、
山号を「日本廬山」と号する天台宗系単立寺院です。
廬山は中国江西省九江市南部にある世界遺産に登録されている名山で、
中国第一の仏教の聖地でした。

廬山寺は、天慶年中(938年~947、天慶元年(938)とも)に延暦寺を中興した
良源(元三大師、慈恵大師)により、船岡山の南(現在の廬山寺通北)に
創建され、「與願金剛院(よがんこんごういん)」と称しました。
良源は応和3年(963)、宮中清涼殿で行われた宗論(応和宗論)で南都の
学匠・法蔵らを論破し、康保元年(964)には内供奉十禅師となりました。
比叡山から宮中へ参内するに当たり、寛和元年(985)正月三日に入滅するまで、
與願金剛院を都へ下った時の宿坊としました。

良源入滅後、次第相承の本光禅仙上人が與願金剛院を再興しました。
一方、台密、戒淨(顕教)等の威儀、行法などの実際上の修法を伝承した
法然の弟子・住心房覚瑜が出雲路に廬山寺を創建しました。

廬山寺第三世並びに第五世・明導照源上人が與願金剛院と廬山寺を伝領し、
與願金剛院跡に廬山寺を統合して、廬山寺として
円、浄土、戒、密の四宗兼学道場とし、天台の別院となりました。

第四世並びに第六世・実導仁空上人が廬山寺流とした天台秘密乗の教版を開設し、
この頃より「廬山天台講寺」と称するようになりました。

第八世・明空志玉上人は応永11年(1404)に足利義満の命により明に派遣された時、
明の確実上人より中国の廬山にならって日本の廬山と公称されるようになりました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失しました。

元亀3年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちでは第106代・正親町天皇の
女房奉書により免れました。
女房奉書(にょうぼう ほうしょ)とは、天皇や院の意向を女房(女官)が
仮名書きの書にして発給する奉書です。
天正年間(1573~1592)に豊臣秀吉による寺町建設により現在地に移りました。
現在地に移転後も宝永5年(1708)の宝永の大火、
天明8年(1788)の天明の大火で焼失しています。
大師堂
山門を入った正面にある大師堂は、天明の大火後、天保6年(1835)に
再建されました。
堂内には本尊の元三大師像が安置されています。
他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などが安置され、
毘沙門天は京都七福神の札所本尊となっています。

洛陽三十三所観音霊場の第32番札所本尊である如意輪観音菩薩は、
元は廬山寺の末寺であった金山天王寺の本尊でした。
幕末の金山天王寺の廃寺に伴い、如意輪像は廬山寺へ遷され、
本堂の入口に観音堂の仮堂が建てられ安置されていました。
しかし、仮堂が壊れ、現在は京都国立博物館に寄託され、
御前立が大師堂に安置されています。

大師堂では毎年2月3日に節分会が行われ、秘佛である、元三大師が鬼を退治した
と云われる「独鈷・三鈷」並びに、大師が宮中で使用したと伝わる
「降魔面」が当日に限り特別開帳されます。
第62代・村上天皇(在位:946~967)の御代、元三大師が宮中に於いて三百日の
護摩供を修せられていた時に3匹の鬼が現れ、護摩の邪魔をしたと伝わります。
鬼は人間の善根を毒する三種の煩悩、則ち貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)を
象徴しています。
自己の欲するものに執着して飽くことを知らない「貪欲(とんよく)」、
怒りや恨む「瞋恚(しんい)」、人を中傷する「愚痴(ぐち)」です。
元三大師はこの三毒を独鈷と三鈷をもって退散させたと伝わり、
江戸時代になって分かり易く鬼の姿で表されるようになりました。

当日は午後3時から追儺式鬼法楽(通称:鬼おどり)と、大師堂では護摩供、
午後4時ころから豆まきが行われます。
鐘楼
大師堂への参道の右側に鐘楼があります。
拝観受付
鐘楼の前を東へ進んだ左側に受付があり、
拝観料500円を納めて本堂へと上がります。
本堂と右側にある尊牌殿は、寛政6年(1794)に第119代・光格天皇の命により
仙洞御所の一部を移築して造営されました。
庭園-1
本堂は「御仏殿」、庭園の端に見える尊牌殿は「御黒戸」とも称され、
廬山寺は明治維新までは御黒戸四箇院と云って、
宮中の仏事を司る四箇寺院の一つでした。
明治の廃仏毀釈で、宮中より天台宗に預けられ、明治天皇の勅命により
廬山寺のみが復興され現在は天台圓淨宗として今日に至っています。

本堂には本尊の阿弥陀三尊像が安置されています。
平安末期~鎌倉時代の作と推定され、国の重要文化財に指定されています。
庭園-2
本堂前の庭園は「源氏庭」と称されています。
昭和40年(1965)に考古、歴史学者・角田文衞(つのだ ぶんえい)により
廬山寺の位置する所は紫式部邸跡とされました。
紫式部の曽祖父、権中納言・藤原兼輔が建てた邸宅であり、この邸宅で育ち、
長徳4年(998)頃、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚し、
長保元年(999)に一女・藤原賢子(ふじわら の けんし)を儲けたました。
しかし、長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別し、
その後、石山寺で七日間の参籠を行いました。
その時、琵琶湖に映える名月を眺め、源氏物語を起筆したとされています。
晩年は淳和天皇の離宮があった紫野に住み、が北区紫野西御所田町
(堀川北大路下ル西側)に残されています。
庭には桔梗が植えられています。
紫式部歌碑
本堂から出た所に、紫式部と「大弐三位」と呼ばれた娘の賢子の歌碑が
建立されています。
「有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」大弐三位
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月影」紫式部
鎔宮の墓-1
鎔宮の墓-2
歌碑を通り過ぎ、東への参道を進んで右側に入った所に
第120代・仁孝天皇(にんこうてんのう)皇子・鎔宮(のりのみや)の墓があります。
慶光天皇廬山寺陵-1
慶光天皇廬山寺陵-2
慶光天皇廬山寺陵-3
北側へ進むと慶光天皇廬山寺陵(きょうこうてんのうろざんじのみささぎ)が
あります。
安永8年(1779)、後桃園天皇が男子を残さないままに崩御した為、
朝廷は典仁親王(すけひとしんのう)の第六皇子として生まれた
師仁親王(もろひと、後に兼仁(ともひと)親王と改名)が急遽、
光格天皇として即位しました。
光格天皇は、父である典仁親王が宮中での地位が大臣より低い事から、
太上天皇の尊号を贈ろうとしたのですが、
江戸幕府老中・松平定信などに反対され叶いませんでした。
太上天皇とは譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号ですが、
明治以後に「太上天皇」制度は廃止されました。
明治17年(1884)、明治天皇の高祖父にあたるという事で「慶光天皇」の
諡号(しごう)が贈られましたが、歴代天皇の代数には数えられていません。
御土居跡
廬山寺陵から戻り参道を東へ進んだ突き当りに「御土居」跡が残されています。
御土井は豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として
外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、
天正19年(1591)に築いた土塁です。
その延長は22.5kmに及び、東は鴨川、北は鷹峯、西は紙屋川、
南は九条あたりにそって築かれました。
土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口を設け、
洛外との出入口としました。
ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と
呼ばれることもありました。
 
江戸時代になると天下太平の世が続き、外敵の脅威もなく御土居は
次第に無用の存在となり、また市街地が洛外に広がるにつれ
堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され、
北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。

現在は鷹峯北野天満宮の境内など9箇所が残され、京都市の史跡に指定されています。
廬山寺に残された御土井跡は幅9m、高さ3m、長さ55mあり、
鴨川と平行に築かれ、寺町に残された唯一のものです。

寺町通を南下して護浄院・清荒神へ向かいます。
続く
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伝教大師像
東塔の駐車場から横川(よかわ)の駐車場まではバイクで15分余りです。
回峰行者はドライブウェイの西側の峯道(みねみち)を行きます。
かって、西塔から峯道(みねみち)を歩いた時は、
横川の駐車場まで1時間弱を要しました。
ドライブウェイの瑠璃堂へと横断した少し先に峰道レストランがあります。
その駐車場には昭和62年(1987)の比叡山開創1200年を記念して造立された
高さ12mの伝教大師像が祀られています。
毎年3月13日にこの前で大護摩法要が執り行われています。
龍ヶ池
横川の駐車場から参拝受付所を経て参道を進むと龍ヶ池があり、
以下のような伝承が残されています。
『延暦寺古書に曰(いわく) 昔この池に大蛇が住みつき村人達に害を与えていた。
元三(がんざん)大師これを聞き大蛇に向い 「汝―法力を持っていると聞くが
本当か」とおたずねになった。
大蛇は、威猛々に「本当ダ俺に出来ないことは何もない」 と答えました。
大師は 「ナラバ大きい姿になってみよ」と申されると
お安いご用とばかり数十倍の大きさに変身しました。
大師は再び 「デワ小さくなり私の手の平に乗れるか」とのお言葉に
「承知」とばかり小さくなり手の平の中に入りました。
大師がすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。
そして弁天様をお迎えし、小さくなった大蛇をお渡しになり、
弁天様のお侍いとしてお側に仕えさせて頂きたいとお願いされました。
大蛇も大師に諭され前非を悔い今度は自分の持っている法力を善業に向け
横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就の助けをしようと大師に誓いました。
以後訪れる人の幸せを願い助力を盡(つ)くしております。
別名 「雨乞いの弁天様」としても有名であります。』
龍ヶ池八大龍王
池の中央にはその弁財天が祀られ、「龍ヶ池八大龍王」と称されています。
横川中堂-1
池の前から南への石段があり、それを登った所に横川の本堂であり、
「首楞厳院(しゅりょうごんいん)」とも称される横川中堂があります。
横川中堂は、新西国霊場の第18番札所です。
横川中堂は舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴で、
堂内中央部が2mほど下がっています。
横川中堂-2
横川中堂は嘉祥元年(848)に第3代天台座主・慈覚大師円仁により創建され、
自ら刻んだ像高170.6cmの聖観音菩薩立像と毘沙門天像が安置されています。
円仁は最後の遣唐使として承和3年(836)に太宰府から出航しましたが、
嵐に遭遇して九州に漂着しました。
翌年も渡航に失敗して第1船が損傷し、承和5年(838)に第1船と副使の小野篁が
乗る予定の第2船を交換して出航しました。
この渡航でも一隻が遭難し、円仁は観音菩薩に祈ると、船は毘沙門天に導かれて
唐に渡ることが出来たと伝わります。
帰国した円仁がこの二躯の像を安置したのは、その時の加護によるものとされています。

その後、横川中堂は第18代天台座主・慈恵大師良源によって改造されました。
良源は、承平5年(935)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、
荒廃していた延暦寺を再建し、中興の祖とされています。
良源は第62代・村上天皇の皇后の安産祈願を行ったことから
皇后の父・藤原師輔(ふじわら の もろすけ)の援助を得ました。
横川の定心房に住し、天禄3年(972)に横川を東塔、西塔からの独立体制としました。
天延2年(974)に不動明王を開眼し、本尊を聖観音菩薩、右脇侍を毘沙門天、
左脇侍を不動明王とする三尊形式とし、横川中堂を改造しました。

元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後、天正12年(1584)に豊臣秀吉により
再建され、慶長9年(1604)には豊臣秀頼を願主として秀吉の側室・淀殿により
改修が加えられました。
昭和17年(1942)に落雷で焼失し、昭和46年(1971)に現在の横川中堂が
再建されました。
護法石
横川中堂の前に護法石が祀られています。
延暦寺の守護神である鹿島明神と赤山明神が影向された石と伝わり、
「影向石」とも呼ばれています。
赤山明神社-1
横川中堂の前方、石段の上に赤山明神を祀る赤山明神社があります。
赤山明神社-2
唐に渡った円仁は山東半島の石島湾に入りました。
近くに赤山が聳え、その山中に新羅僧たちに営まれていた
「赤山法華院」と呼ばれる寺院があり、円仁はここに8ヵ月間逗留しました。
そこで祀られていた道教の神・泰山府君を勧請し、9年6ヵ月に及ぶ入唐求法巡礼で
自らの守護神としました。
帰国後この地に祀り、比叡山東麓の守護神・日吉大社の山王権現に対し、
西麓の守護神としました。
一念寺跡
赤山明神社への石段の奥に「一念寺跡」の碑が建っています。
かって、この地には横川中堂の政所があり、明治40年(1907)に高浜虚子は
政所に籠り、小説『風流懺法(ふうりゅうせんぽう)』を執筆しました。
政所に請われ、小説中の小僧・一念から「一念寺」と名付けましたが、
その後、焼失したとも台風による倒木で壊滅したとも伝わり、廃されました。

高浜虚子の同郷の先輩・正岡子規が明治35年(1902)に亡くなると、
虚子は俳句の創作を辞め、小説の執筆に没頭するようになりました。
正岡子規は虚子の俳句の師であり、俳号の「虚子」も正岡子規から授かりました。
しかし、親友であり、同じく子規から俳句を学んだ河東碧梧桐
(かわひがし へきごとう:1873~1937)が、従来の五七五調の形にとらわれない
新傾向俳句に走り始めると、対抗するために俳壇に復帰しました。
星野立子の句碑
横川中堂の正面からの緩い上り坂の参道を進むと、左側に高浜虚子の次女で俳人の
星野立子(ほしの たつこ:1903~1984)の句碑が建っています。
「御僧に 別れ惜しなや 百千鳥」
虚子の句碑
その横には虚子の句碑も建っています。
「清浄な 月を見にけり 峰の寺」
虚子の塔
奥には虚子の塔(逆修爪髪塔=ぎゃくしゅうそうはつとう)があります。
生前に予め造った墓である寿塔であり、昭和28年(1953)に建立されました。
昭和34年(1959)4月8日に鎌倉の自宅で永眠され、この塔に遺髪と爪が納められました。
周囲には虚子が愛した椿が植えられています。
また、毎年命日には元三大師堂において法要が営まれています。
横川-鐘楼
参道の坂を登り詰めた所に鐘楼があります。
秘宝館
鐘楼から左側(南側)へ進むと昭和42年(1967)に建立された秘宝館があります。
かっては寺宝が収蔵されていましたが、現在は使われていません。
恵心院はこの地で創建されたと伝わります。
恵心院は永観元年(983)に藤原兼家(929~990)が良源のために建立した
念仏三昧道場でした。
因みに、藤原兼家は策略により、第65代・花山天皇を退位させ、
娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となりました。
元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後、天正12年(1584)に豊臣秀吉により
再建されましたが、明治元年(1868)、昭和31年(1956)にも焼失しました。
海軍通信学校
向かいには海軍通信学校の慰霊碑が建立されています。
恵心堂
その先に恵心堂があります。
現在の恵心堂は昭和31年(1956)の焼失後に
坂本の別当大師堂が移築されて再建されました。
源信はこの地で『往生要集』を執筆しました。
源信は天慶5年(942)に大和国で生まれ、天暦2年(948)の7歳の時に父と死別しました。
天暦4年(950)、9歳で比叡山に登って良源に師事し、
止観業、遮那業を学び、天暦9年(955)に得度しました。
良源は定心房(現在の元三大師堂)を住房として横川(よかわ)に住したため、
源信も横川に居を移しました。
永観2年(984)11月に良源が病に倒れ、
これを機に『往生要集』の執筆に取り掛かりました。
永観3年(985)1月3日に良源が入滅し、
以後、良源は「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれるようになりました。
源信は横川の恵心院に篭り、寛和元年(985)に『往生要集』を書き上げました。
『往生要集』は、多くの仏教の経典や論書などから、
極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなり、
以後の浄土宗信仰の発展に大きな影響を与えました。
恵心院は、我が国の浄土信仰の発祥の地とされています。
源氏物語の碑
『源氏物語』の横川僧都遺跡の碑が建てられています。
源信は、寛弘元年(1004)に藤原道長の帰依を受け、権少僧都となり、
道長の別荘「宇治殿(後の平等院)」があった宇治へ移り、
龍泉寺を再興して「朝日山恵心院」と改めました。
『源氏物語』では「横川の僧都」のモデルとなり、自殺を図るも一命を取り留めた
浮舟を助け、願いを聞き浮舟を出家させた僧侶として登場しています。
しかし、源信は母の諌言(かんげん)、「まことの求道者となり給へ」を守り、
翌寛弘2年(1005)に権少僧都の位を辞退して横川へと戻り、
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)に76歳にて入滅されました。
源信は法然上人や親鸞聖人に大きな影響を与え、「恵心僧都」と尊称されています。
浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」、
「源信大師」と尊称されています。

この先、徒歩13分の所に恵心僧都の墓所・恵心廟がありますが、
参拝は後日とします。
鐘楼まで戻り、そこから直進すると元三大師堂があり、その前の広場から
南東側に下ると「道元禅師得度の地」があります。
ここも参拝は後日とします。
角大師
元三大師堂の前に「元三大師と角大師(つのだいし)の由来」と「おみくじ発祥之地」
の碑が建っています。
「角大師」と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨ばかりに痩せた夜叉の姿を
表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2種類があります。
72歳の元三大師が座禅を組み、その姿を弟子が写し取ったものとされています。
永観2年(984)に疫病が流行した際、疫病の神が徘徊して
人々を冒すと信じられていました。
元三大師は写し取った絵を版木でお札に刷り、これを人々に配布して各家の戸口に
貼り付けるように命じられました。
すると疫病は収まり、以来病気の平癒と厄難除けのお札として全国に広まりました。
また、33体の豆粒のような大師像が描かれた「豆大師」と呼ばれる護符もあります。
正確には「魔滅大師」と称され、元三大師があらゆる衆生を救うために33の姿に
変える観音菩薩の化身とする信仰から生まれました。

「おみくじ」は、古代に神の意向を伺うための籤引き(くじびき)を起源とし、
多くの神社仏閣でみられる現在のおみくじの原型は
元三大師が創始したものとされています。
「元三大師観音籤(がんざんだいし かんのんせん)」と呼ばれ、

慈覚大師・円仁が唐から持ち帰った、観音菩薩に祈念して授かった
偈文(げもん=仏の教え)を、元三大師がおみくじに改めたとされています。

元三大師が如意輪観世音菩薩の化身であるとの言い伝えから

「観音籤」と呼ばれています。

元三大師堂-門
元三大師堂の門をくぐります。
元三大師堂
元三大師堂は、第18代天台座主・慈恵大師良源の住房であった定心房の跡とされ、
康保4年(967)に第62代・村上天皇の勅命により、春夏秋冬の四季に
法華経が論議されたことから「四季講堂」とも呼ばれています。
現在の建物は、元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後、
天正12年(1584)に豊臣秀吉により再建され、慶長9年(1604)には豊臣秀頼を
願主として秀吉の側室・淀殿により改修が加えられました。
当初、本尊は弥勒菩薩でしたが、現在は元三大師の画像です。
鶏足院灌室
右側(北側)に鶏足院灌室があり、「灌室」とは灌頂(かんじょう)を行なう部屋
のことです。
旧恵雲院
左側(南側)に旧恵雲院があります。
箸塚弁財天社-1
元三大師堂の東側に箸塚弁財天社があります。
箸塚弁財天社-2
慈恵大師良源が千僧供養を行った際に、使われた箸をこの地に埋め、
弁財天を祀ったのが始まりとされています。
その後、信長の焼き討ちで焼失し、文禄3年(1594)に修行僧が竹生島に参詣した帰途、
一匹の白蛇が船に乗り込んできたと伝わり、
弁天の分身としてこの地で祀られるようになりました。
比叡山行院
北へ進むと比叡山行院があります。
一般の天台僧侶を養成する所で、2ヶ月間修行します。
瀬戸内寂聴さんもここで修行されたそうです。
甘露山王社
その向かい側には甘露山王社があります。
道標
先へ進むと参道は、直進・定光院、左折・元三大師御廟へと分岐しています。
この御廟への北回りの道を「猿馬場(さるがばんば)」、
南回りの道を「龍馬場(たつがばんば)」と呼ばれています。
地蔵堂
曲がった所には地蔵堂があります。
元三大師御廟-拝殿
元三大師御廟が築かれたこの地は、比叡山の「三大魔所」とされ、
天狗が住み、不浄・不信の輩を懲らしめたと伝わります。
慈恵大師良源は天禄2年(971)に、自身の葬儀についての詳細を遺言し、
永観3年1月3日(985年1月26日)に入寂されました。
命日が正月の3日であることから、「元三大師」と呼ばれるようになりました。
元三大師御廟-2
慈恵大師良源は、承平5年(935)の大規模火災で根本中堂を初めとする
多くの堂塔を失い、荒廃していた延暦寺を再建しました。
天禄元年(970)には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、
山内の規律の維持に努め、広学堅義(こうがくりゆうぎ)を興して
学の論議を盛んにしました。
元三大師御廟-1
天台宗は密教化へと傾いていたため、最澄の原点に戻し「天台本覚思想」という
大乗仏教の究極のとも言うべき哲理を極めました。
本覚思想は、その後さらに深化され、『源氏物語』や『花伝書』など日本文化に
大きな影響を与え、鎌倉仏教の開祖を生む土壌となりました。
閼伽井
御廟から南へ進むと、元三大師堂から下ってきた参道と合流します。
更にそれを下った所に閼伽井があります。
根本如法塔-1
その脇から登って行くと根本如法塔があります。
この塔は、第三代天台座主・慈覚大師円仁が、自ら書写した法華経一部八巻を
納める宝塔を建てたのが起源で、横川発祥の聖跡であることから
「根本如法塔」と称されています。
現在の塔は大正14年(1925)の再建で、釈迦・多宝の二仏を本尊としています。
根本如法塔-2
大正12年(1923年)、如法堂跡に塔を建てるための工事中に経箱が発掘されました。
銅製の箱に金メッキが施され、蓋には「妙法蓮華経」と書かれており、
この箱は後に「金銅経箱」として国宝に指定されました。
三十番神
塔前には、法華経守護の三十番神が祀られています。
定光院-寺号標
駐車場まで戻りドライブウェイを仰木(おおぎ)の方へ下って行くと、
右側に「日蓮上人御霊跡」の碑が建ち、定光院への参道があります。
定光院-権現の滝
それを登って行くと、日蓮上人が滝尾権現を感得されたと伝わる滝があります。
滝尾権現
更に登ると駐車場があり、駐車場と山門の間に滝尾権現を祀る祠があります。
定光院-三門
山門
本来は16:00で閉門されるようですが、少し過ぎていましたが
まだ開いていたので参拝しました。
定光院-庫裡
山門をくぐると手前から庫裡、本堂と続きます。
定光院-本堂
本堂
この地は「華芳谷(かほうだに)」と呼ばれ、華光坊・浄光院がありました。
その後の変遷は不明ですが、再建されて「定光院」に改められました。
寛元元年(1243)から建長6年(1254)まで、日蓮上人はこの地を拠点として
修行を行いました。
妙法蓮華経(法華経)を中心とする文献的な学問と、天台本覚思想を学び、
「阿闍梨」の称号を得ました。

定光院はその後、江戸時代に復興され、日蓮上人700遠忌にあたる昭和56年(1981)に
「定光院奉賛会」が結成され、
天台宗の寺院ですが、日蓮宗が整備するようになります。
平成5年(1993)に日蓮宗と延暦寺との間で定光院護持運営に関する協定が結ばれ、
日蓮宗による組織的な護持管理体制が確立されました。
平成17年(2005)の日蓮宗立教開宗750年慶讃事業で
本堂、庫裡、山門が再建されました。
日蓮-手水鉢
本堂前には日蓮上人が使用したとされる手水鉢があります。
日蓮聖人像
日蓮上人像は大正14年(1925)に造立されました。
右側のコンクリート造りの建物は、研修道場として使用されているようです。
飯室-寺号標
仰木の料金所を出て県道47号線を南に向かって走った所に
「飯室谷不動堂」の碑が建っています。
この地を開いた第三代天台座主・慈覚大師円仁が、不動の秘法を求めて
この地に道場を造り、修行に励まれました。
その時、弁財天十六童子の一人である飯櫃童子(はんきどうじ)が老翁に化身して
慈覚大師に仕えたとされています。
飯櫃童子が飯室谷の名の由来となりました。
安楽律院への道標
脇には「安楽律院」への立札もありますが、参拝は後日とします。
飯室-仁王像
駐車場の先には多数の灯籠が奉納され、仁王像の奥には閼伽井があり、
「明王水」と称されています。
飯室-閼伽井
慈覚大師円仁が、不動明王の霊感により発見したとされ、
諸病平癒、健康増進の功徳があるとされています。
千日回峰行の堂入りでは不動堂から石段を下ってこの水を汲み、
不動堂本尊の不動明王に供えられます。
比叡山千日回峰行は、無動寺の本流、西塔の正教坊流、
そして飯室谷の恵光坊流の三流があります。
西塔の正教坊流は元治元年(1864)以来途絶し、恵光坊流は天正18年(1590)に
松禅院慶俊により創始されました。
その後途絶し、昭和19年(1944)に箱崎文応師が古い手文をもとに、百日回峰行が
満行されました。
昭和62年(1987)には酒井雄哉師(さかい ゆうさいし:1926~2013)が、無動寺での
本流の千日回峰行を満行した後に、飯室谷で60歳という最高齢で
2度目の満行を達成しました。
更に、平成15年(2003)に藤波源信師(1959~)が満行を達成し、
長壽院の住職となりました。
飯室-灑水観音
横の石段上には灑水観音(しゃすいかんのん)の像が祀られています。
飯室-千手堂
石段を登った左側に千手堂があります。
飯室-水掛観音
右側には水掛観音が祀られています。
飯室-御供所
奥には御供所があります。
飯室-一願不動尊
御供所の左端に一願不動尊が祀られています。
飯室-護摩堂
左側に護摩堂があります。
毎月第2日曜日と28日に護摩供が修せられています。
飯室-不動堂
護摩堂の左側の石段を登った所に本堂の不動堂があります。
飯室谷不動堂は、根本中堂、転法輪堂(釈迦堂)、横川中堂、無動寺明王堂と並ぶ
延暦寺五大堂の一つで、この地で修行した慈覚大師円仁が不動明王を感得され、
自ら不動明王を刻んで安置したのが始まりとされています。
第18代天台座主・慈恵大師良源は、弟子・尋禅(じんぜん:943~990)のために
飯室谷に妙香房を建立しました。
尋禅は藤原師輔(ふじわら の もろすけ:909~960)の十男で、天延2年(974)に
天台宗で初めて一身阿闍梨となり、天元4年(981)には権僧正に任じられました。
寛和元年(985)に良源のあとを受けて第19代天台座主となり、「妙香房」を
「妙香院」と改称し整備拡充しました。
永祚元年(989)に天台座主を隠退して飯室谷へ移り、正暦元年(990)には
第66代・一条天皇の御願寺となり、父・師輔から荘園を寄進され、
不動堂を建立しました。
没後の寛弘4年(1007)に「慈忍」の諡号が贈られました。
元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ち後は
江戸時代まで復興がなされませんでした。
飯室-鐘楼
石段を下った所に鐘楼があります。
南へ進むと松禅院とその奥に慈忍和尚廟がありますが、
参拝は後日とします。
飯室-庫裡
北側の石段上に庫裡があります。
飯室-地蔵堂
その脇を北へ進むと地蔵堂がありますが、扉は閉じられていました。
元三大師堂への道標
その先の橋を渡ると元三大師堂への登り口があります。
「中尾坂」と呼ばれるそうで、後日ここから横川まで登り、今回参拝できなかった
所を巡りたいと考えています。

仰木料金所の方まで戻り、仰木の里から坊村の葛川明王院へ向かいます。
続く

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