タグ:元慶寺

参道
上品蓮台寺から北大路通まで北進し、北大路通を西へ進んで西大路通の一つ手前を
左折して南へ進み突き当りを右へ曲がった先に花山天皇陵の駐車場があります。
立札
「花山天皇 紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」と記されています。
花山天皇は安和元年10月26日(968年11月29日)に
第63代・冷泉天皇の第一皇子として誕生しました。
母は摂政太政大臣・藤原伊尹(ふじわら の これただ)の娘で
女御の懐子(かいし/ちかこ)です。
安和2年(969)に冷泉天皇は、天皇の同母弟である守平親王に譲位され、
親王が第64代・円融天皇として即位すると生後10ヶ月足らずで皇太子となりました。
永観2年8月27日(984年9月24日)、円融天皇から譲位され、
17歳で第65代・花山天皇として即位しました。
石碑
花山天皇に仕えていた藤原惟成(ふじわら の これなり)が従五位上に昇進し、
伊尹の五男・藤原義懐(ふじわら の よしちか)と共に天皇を補佐し、
荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行いました。
寛和元年(985)7月18日に寵愛していた女御の藤原忯子(ふじわら の しし)が、
懐妊していたのですが、17歳で亡くなりました。
翌寛和2年(986)6月22日、天皇は藤原忯子の死を悲しみ、
19歳で宮中を出て元慶寺で出家したとされています。

一方で、『大鏡』には藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を
即位させるために陰謀を巡らしたと記されています。
藤原兼家の娘・詮子(せんし/あきこ)は円融天皇の女御となり、
懐仁親王を出産しました。
花山天皇が即位すると懐仁親王(やすひとしんのう)は東宮に立てられ、
花山天皇が退位すると次期天皇となる地位を得ました。
そこで兼家は三男の道兼に、藤原忯子の死を悲しんでいた花山天皇に、
出家を勧めるように命じました。
兼家は家来の武士に警護させ、花山天皇と共に宮中を出て元慶寺へ向かい、
まず天皇が剃髪し出家したのを見届けてから、
道兼は「出家する前の姿を最後に父に見せたい」と言い残して去ってしまいました。
陵
出家後の花山法皇は比叡山で修行した後、書写山性空上人
河内石川寺(叡福寺)仏眼上人中山寺の弁光上人を伴って那智山に入り、
那智の滝壺で千日の滝籠りを行ったと伝わります。
また、中山寺で徳道上人が石棺に納めた三十三ヶ所の観音霊場の宝印を探し出し、
270年間途絶えていた観音霊場の巡礼を復興させました。
法皇が各霊場で詠まれた御製の和歌が御詠歌となっています。
晩年の十数年間を花山院で過ごした後、京都に戻り京都御苑の
敷地内にあった花山院で、寛弘5年(1008)2月に崩御されました。
京都の花山院は、花山院家の所有となり、東京奠都まで存続したそうですが
現在は廃され、その跡地には宗像神社が残されています。

神仏霊場・第94番札所である平野神社へ向かいます。
続く

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山門
天智天皇陵から府道143号線を南へ進み、横断歩道橋がある信号を右折し、
その先の渋谷街道で右折して渋谷街道を西進します。
「フレスコ北花山店」を通り過ぎ、「ドラッグ・ユタカ」前の細い路地を右折、
北上した正面に元慶寺があります。
渋谷街道沿いに立て看板があり、それが目印となります。
路地を入った右側に数台の駐車場があります。

元慶寺は山号を華頂山と号する天台宗の寺院で、平安時代の貞観10年(868)に、
第56代・清和天皇の女御であった藤原高子(ふじわら の こうし)が
貞明親王(後の第57代・陽成天皇)の誕生に際して発願し、
僧・遍昭を開基として創建されました。
当初は定願寺と称されていましたが、元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、
年号から寺号を元慶寺と改称されました。
元慶寺が立地する北花山は、山科七郷の一つで、
飛鳥時代の第38代・天智天皇の時代は「華頂」を郷名としていました。
その郷名が山号になったと思われます。

寛和2年(986)、藤原兼家、道兼父子の策略により第65代・花山天皇
出家させられるという寛和の変が起こりました。
花山天皇は元慶寺で出家し、花山法皇となりました。
花山法皇は、徳道上人が創始した後、廃れつつあった
西国三十三所観音霊場の巡礼を復興した縁で、元慶寺は番外札所となっています。

室町時代の応仁・文明の乱で被災してからは荒廃し、寺域は縮小され
小堂があるだけの寺院となりました。
江戸時代の安永8年(1779)になって、ようやく再建が始まり、天明3年(1783)に落慶し、
入仏供養が行われたとの記録が残されています。

山門は唐風の龍宮造の鐘楼門で、寛政4年(1792)に再建されました。
帝釈天
帝釈天
梵天
梵天
山門に安置されていた梵天と帝釈天は、現在は京都国立博物館に寄託されています。
梵鐘は、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目です。
山門前の碑
山門前には「禁葷酒(きんくんしゅ=酒の匂いをさせて
山門を潜るべからず)」と刻まれた石碑が建っています。
本堂
山門を入った左側に寛政元年(1789)に再建された本堂があります。
本尊は遍昭作の薬師瑠璃光如来で、花山法皇の宸影などが安置されています。
手水鉢
本堂前の手水鉢
歌碑
境内には遍昭僧正とその右側に遍昭の子である素性法師の歌碑が建立されています。
遍昭僧正 「天津風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
遍昭僧正は六歌仙及び三十六歌仙の一人とされ、多くの歌を残しました。

素性法師 「今こむと言ひし許(ばかり)長月のありあけの月を待ちいでつる哉」
遍昭僧正と素性法師は宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍しました。
仁明天皇の皇子・常康親王が出家して雲林院を御所とした際、
遍照・素性親子は出入りを許可されていました。
親王薨去後は、遍照僧正が雲林院の管理を任され、僧正入寂後も素性法師は
雲林院に住まい、雲林院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られました。
六所神社-御神水井跡
渋谷街道を更に西へ進み、交番がある四つ角を右折して北へ進むと
JR東海道線の跨線橋(こせんきょう)が架かり、
その手前を山側へ登った所に六所神社があります。
社号標石の建つ脇に「古跡 御神水井跡」がありますが、詳細は不明です。
六所神社-トンネル
跨線橋側から見れば、トンネル上に六所神社があります。
東海道線
余談ですが、トンネルを出た東海道線は大きく蛇行して山科駅へと続いています。
六所神社-鳥居
鳥居は平成2年(1990)に建立されました。
六所神社は、仁和3年(887)に遍昭が伊勢から天照皇大神、
尾張から熱田大神、山城から賀茂大神と八幡大神、大和から春日大神、
近江から日吉大神を勧請し、元慶寺の鎮守社として創建されました。
六所神社-社務所
鳥居をくぐると斜めに登る石段があり、角に社務所があります。
六所神社-拝殿
拝殿
六所神社-本殿-1
現在の本殿は昭和47年(1972)に再建されました。
六所神社-本殿-2
六所神社は明治の神仏分離令で元慶寺から切り離され、
明治6年(1873)に村社に列せられました。
それからか、それ以前からか、時期は定かではありませんが、
北花山の産土神として信仰されています。
遍昭僧正の墓-1
交番が四つ角から南へ進んだ住宅の裏側に遍昭僧正の墓があり、
宮内庁により管理されています。
遍昭は第50代・桓武天皇の孫で、第54代・仁明天皇に仕えましたが、
天皇が崩御されたのを期に出家しました。
比叡山で慈覚大師・円仁、智証大師・円珍に師事し、
貞観10年(868)に元慶寺を創建しました。
仁和元年(885)に僧正となって「花山僧正」と呼ばれるようになり、
この年の12月には第58代・光孝天皇が主催して宮中・仁寿殿で
遍昭僧正の70歳の賀が行われました。
遍昭僧正は寛平2年1月19日(890年2月12日)に入寂されました。

岩屋寺へ向かいます。
続く

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