鎮守の森
小椋神社から県道47号線を北上した先で、左へと大きくカーブした所で、
橋の手前を左に直進した、鎮守の森の中に融神社があります。
参道入口
参道
源融(みなもと の とおる:822~895)を祀る全国で唯一の神社です。
源融は第52代・嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』で光源氏のモデルとされています。
当地はかって、源融の荘園で、寛平年間(889~898)に源融がこの地で閑居したことに
因み、天慶8年(945)に祠を建て、祀ったのが始まりとされています。
寛和2年(986)、花山法皇の近江御巡幸の際、社殿が造営され、
「正一位融大明神」の神号を賜りました。
また、第66代・一条天皇からは水田百町歩を神領として賜り、
以後歴代天皇の奉幣にあずかりました。
しかし、鎌倉時代以後衰微して奉幣は廃絶し、
地元の氏神として祀られるようになりました。
元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ちで焼失しましたが、
神璽(しんじ)は時の神主により守られ、天正7年(1579)に社殿が再建されました。
寛政8年(1796)の火災で再び焼失し、勅書や神宝等を失いましたが、
社殿は翌年に再建され、現在に至っています。
鳥居
参道を進むと、石造りと木製の鳥居が並んで建っています。
歌碑
文正元年(1466)の当社への勅使参向の際、時の式部卿が詠まれた歌碑です。
「ちかひてし 公葉の末の 世々かけて すべらのこの処 まもれこの神」
「公に誓い合ったように、天皇の血を引く方と関係のある
この地と神を守り続けなさい」
拝殿
拝殿
融の命日である8月25日に「源氏舞」が奉納されているようです。
拝殿の瓦
葺き替えられた拝殿の屋根の旧瓦が残されています。
本殿
本殿には源融が祀られています。
源融は第52代・嵯峨天皇の皇子で、元服すると順調に昇進し、貞観14年(872)には
太政官の首班に立って左大臣に任ぜられました。
皇太子であった貞明親王(さだあきらしんのう)に仕え、
親王が貞観18年(876)に第57代・陽成天皇として即位すると、
母方の伯父・藤原基経が摂政に就きました。
藤原基経は、源融よりも約15歳年下で太政官の席次も下位の右大臣であったことから、
源融は上表を出して自宅に引籠もりました。
元慶8年(884)に第58代・光孝天皇(こうこうてんのう)が即位すると、
融は政務に復帰し、寛平3年(891)に関白太政大臣・藤原基経が没すると、
再び太政官の首班に立ちました。
神社の由緒書には寛平年間(889~898)にこの地で閑居されたと記されていましたが、
源融は寛平7年(895)に74歳で薨去されました。
本殿の左
本殿の左側には融の母・大原全子(おおはらの ぜんし)と
大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られています。
大原全子は「宮人(きゅうじん/くにん)」と呼ばれる宮中に奉仕する職員で、
身分的にはそれ程高くなく、嵯峨天皇の多くの宮人の一人でした。
嵯峨天皇には多数の皇子・皇女が生まれたため、その生活費が財政圧迫の原因となり、
姓を下賜して、臣籍降下させました。
源融もその一人で、「源氏姓」を賜り、嵯峨源氏融流初代となりました。

大山咋神は山の神で、日吉大社・東本宮の祭神です。
境内社
境内には19の摂・末社が祀られていますが、詳細は不明です。

還来神社(もどろきじんじゃ)へ向かいます。
続く

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