南口鳥居
南口鳥居です。
さざれ石
南口鳥居をくぐった左側(西側)に「さざれ石」が祀られています。
相生社
その北側に相生社(あいおいのやしろ)があり、縁結びの神とされている
神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られています。
相生社-夫婦像
北側には夫婦らしき石像が祀られています。
連理の賢木
南側には神木の「連理の賢木(れんりのさかき)」と呼ばれる
2本の木が立っています。
鴨の七不思議の一つとされ、2本の木が途中から1本に結ばれています。
相生社-参拝法-1
相生社で縁結びの祈願を行うには特別の作法があるようで、
社殿前にその方法が記されています。
その1
相生社-参拝法-2
その2
楼門
楼門は高さ13mで、東西の回廊とともに江戸時代の寛永5年(1628)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
楼門は三間一戸の入母屋造で檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式で、寄棟造の屋根の上に
切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。
日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、
それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとされています。
以前は21年ごとの式年遷宮で造り替えられてきましたが、
寛永の遷宮以降は解体修理を行い、保存されています。
式年遷宮は、平安時代の長元9年(1036)に第1回が行われました。
この頃、京都では天候不順による農作物の不作や鴨川の氾濫、
飢饉や疫病が蔓延し、政情不安に陥っていました。
朝廷が下鴨神社で祈願したところ沈静したことから、
成就した報恩として式年遷宮が行われました。
剣の間
西回廊の床張りの一間は「剣の間」と呼ばれ、賀茂祭(葵祭)の時、
勅使がここで剣を解かれます。
葵祭の起源は、欽明天皇28年(567)に天候不順で五穀が実らず、
疫病が流行したのは賀茂大神の祟りとされ、祟りを鎮めるため、
勅命により4月の吉日に祭礼を行ったのが始まりとされています。
馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)を
したところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったと伝わります。
弘仁10年(819)には、朝廷の律令制度として、最も重要な
恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になりました。
勅使が通る楼門は楼門の屋根を越えるように鏑矢(かぶらや)を放つ
歩射神事(ぶしゃしんじ)屋越式(やごししき)によって邪気が祓われます。
歩射神事は葵祭・路頭の儀に先立って、
葵祭の沿道を弓矢を使って祓い清める魔よけの神事です。
舞殿
正面の舞殿(まいどの)は、江戸時代の寛永5年(1628)に建立された
入母屋造、檜皮葺の建物で、国の重要文化財に指定されています。
葵祭の時、勅使が御祭文(ごさいもん)を奏上され
舞曲・東遊(あずまあそび)が奉納されます。
御祭文の用紙は『延喜式』に記されており、伊勢神宮が縹(はなだ)色、
賀茂社は紅(くれない)色、石清水八幡宮などは黄色と定められています。
また、御所が被災したとき、臨時の内待所と定められていました。
橋殿-1
東側の橋殿は、江戸時代の寛永5年(1628)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
橋殿-2
御手洗川の上に建立されており、御陰祭では御神宝が奉安される御殿です。
古くは御戸代会神事(みとしろえしんじ)、奏楽、里神楽、
倭舞(やまとまい)が行われていました。
御戸代会神事は秋の収穫を前に五穀豊穣、天下泰平を祈願した平安時代に
行われていた神事で、現在では名月管弦祭として引き継がれています。
また、正月神事など年中祭事の際に神事芸能が奉納されます。
細殿
橋殿の奥に寛永5年(1628)に建立され、国の重要文化財に指定されている
細殿があります。
歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の行在所(あんざいしょ)で、
行幸の際は歌会・茶会などが行われました。
第112代・霊元天皇が行幸した際に内侍所(ないしどころ)の
奉安所(たいあんしょ)になり、第121代・孝明天皇の行幸に際には
江戸幕府14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の
侍所(さむらいどころ)にもなりました。
揺拝所
南側に伊勢神宮の揺拝所が隣接しています。
細殿-解除所
細殿の北側に解除所(げじょのところ)があります。
解除所では、天皇の行幸や官祭などの際に解除(祓い)が行われました。
鴨社直会殿泉始聲-1
奥へ進むと鴨社直会殿泉始聲(かもしゃなおらいでんせんせい)がありますが、
通常は非公開です。
鴨社直会殿泉始聲-2
平安時代より、天皇が即位されて初めて行なう新嘗祭(にいなめさい)は、
「大嘗祭(だいじょうさい)」と称され、その際建立された
饗応殿(きょうおうでん)が下賜され、当地で直会殿として移築されてきました。
直会とは、神事の最後に神饌や神酒を参加者一同で分かち、飲食する行事です。​
老朽化により昭和23年(1948)に破却された後、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として再興されました。
平成5年(1993)に行われた伊勢神宮の第61回式年遷宮で五丈殿の撤下を受け、
再興されました。
庭園には紫式部という、マツヅラ科の落葉低木が植栽され、
「紫式部の庭」として復元されているそうです。
井上社
北側に御手洗池があり、奥に瀬織津姫(せおりつひめ)を祀る
井上社(御手洗社)があります。
瀬織津姫は、水神や祓神であり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされ、
賀茂斎院の御禊や解斎(げさい)、関白賀茂詣の解除(げじょ)の際に
参拝されました。
元は唐崎社と呼ばれ、高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座していましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)により文明2年(1470)に焼失したため、
文明年間(1592~1596)に現在地に再建されました。
井戸の井筒の上に祀られたことから井上社と呼ばれるようになり、
寛永年度(1692)に行われた式年遷宮より官営神社となりました。

御手洗池では、賀茂祭に先立つ斎王の御禊の儀が行われ、
土用の丑の日には、御手洗池に足を浸し、疫病や病封じを祈願する
「足つけ神事」が行われています。
土用になると御手洗池から清水が湧き出ると伝わり、
鴨の七不思議の一つに数えられています。
池底から自然に湧き上がる水泡をかたどったのが「みたらし団子」の発祥と
伝えられています。
輪橋-1
下流側に「輪橋(そりはし)」が架かっています。
鳥居の背後に見えるのが橋殿です。
輪橋-2
輪橋-その2
光琳の梅
輪橋の西側に植栽されている梅は、「光琳の梅」と呼ばれています。
尾形光琳(1658~1716)が描いた国宝の「紅白梅図屏風」がこの辺りとされることから
呼ばれるようになりました。
中門
境内の北側に中門、その左右に雅楽を奏した楽屋(がくのや)があります。
ともに寛永5年(1628)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
十二支の社
門を入った本殿前の前庭は「えと詣」と称され、えと(十二支)の社が祀られています。
いずれも大国主命の別名で、言霊の働きによって呼び名が変わります。
一言社
門の正面に当たる所の背中合わせの社殿は「一言社」と称せられています。
左側(西側)には顕国玉神(うつしくにたまのかみ)が祀られ、
午(うま)年生まれの守護神とされています。
右側(東側)には大国魂神(おおくにたまのかみ)が祀られ、
巳・未年生まれの守護神とされています。
二言社
境内の右側(東側)の社殿は「二言社(ふたことしゃ)」と称せられ、
むかって右側(南側)には大国主神が祀られ、子年生まれの守護神とされています。
左側(北側)には大物主神が祀られ、丑・亥年生まれの守護神とされています。
三言社
境内の左側(西側)の社殿は「三言社(みことしゃ)」と称せられています。
向かって右側(北側)には志固男神(しこおのかみ)が祀られ、
卯・酉年生まれの守護神とされています。
中央には大己貴神(おおなむちのかみ)が祀られ、
虎・犬年生まれの守護神とされています。
左側(南側)には八千矛神(やちほこのかみ)が祀られ、
辰・猿年生まれの守護神とされています。
本殿
本殿拝所
東本殿には玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
西本殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。
賀茂建角身命は、神産巣日神(かみむすびのかみ)の孫で、神武東征の際に
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と天照大御神の命を受け、
日向の曾(そ)の峰に天降り、八咫烏(やたがらす)に化身して神武天皇を
大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。

玉依姫命は賀茂建角身命の御子神で、鴨川で禊をしていた時、
上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床に置いていました。
丹塗矢は、火雷神(ほのいかづちのかみ)の化身であり、後に
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと=上賀茂神社の祭神)を出産しました。
下鴨神社が賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称されるのは、
上賀茂神社の祖父と母を祀ることによるものです。
三井社-1
本殿との並びの左側に三井神社があります。
三井神社も本宮と同じように周囲を玉垣で囲われ、正面に棟門があり、
門を挟んで東西の廊下があります。
三井社-配置図
寛永6年(1629)に造営され、全ての建物が国の重要文化財に指定されています。
『風土記』山城国賀茂社の条に「蓼倉里三身社(たてくらのさとみつみのやしろ)」、
『延喜式』には「三井ノ神社」と記されています。
奈良時代から平安時代にかけて、下鴨神社が位置する辺り一帯は
蓼倉郷と呼ばれていました。
三井社-2
正面に拝殿があり、その奥に向かって右の東社に伊可古夜日売命
(いかこやひめのみこと)、中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
左の西社に玉依媛命(たまよりひめのみこと)の三神が祀られていることから
「三身社」とも称されました。
賀茂建角身命と伊可古夜日売命は夫婦で、玉依媛命はその御子神です。

西側の末社は奥(北)から諏訪社【祭神:建御名方神 (たけみなかたのかみ)】
小社社【祭神:水分神(みくまりのかみ)】
手前(南)が白髭社【祭神:猿田彦神】です。
平安時代の『鴨社絵図』に描かれており、現在の配置もその絵図と変わりはありません。
三井社-白玉椿の木
三井神社の前に白玉椿の木が植栽されています。
江戸時代の寛政5年(1753)に第119代・光格天皇が参拝された際に奉納されたもので、
雪の白さに匹敵する花を付けることから「擬雪(ぎせつ)」と名付けられました。
同椿は三井家にも保存されていて、平成27年(2015)の第34回式年遷宮で三井社の
修理が行われた際に、枯れ死した先代に代り新たに三井グループによって
奉納されました。
神福殿
三井神社の前方(南側)に、寛永5年(1628)度の式年遷宮で造り替えられ、
国の重要文化財に指定されている神福殿(しんぷくでん)があります。
かって、夏・冬の御神福を奉製する御殿であったことが
その名の由来になっています。
近世以降は勅使殿または、着到殿となり、
古来殿内の一室が行幸の際は玉座となりました。
北西にある一室が「開かずの間」として伝えられ、御所が被災の際は
臨時の御座所と定められています。
江戸時代の安政元年(1854)に発生した南海トラフの大地震では
第121代・孝明天皇が移ったとの記録が残されています。
媛小松
神福殿の左側に媛小松(ひめこまつ)が植栽されています。
寛平元年(889)11月から賀茂祭で東遊(あずまあそび)が奏されたとあり、
その二段目「求め子」で詠われる藤原敏行の歌、
「ちはやぶる 鴨の社の姫小松 よろず世ふとも色はかはらじ」に因むものです。
「媛」の字が使われているのは、祭神の玉依媛命によるものです。
媛小松-解除所
媛小松の前にも解除所(げじょのところ)があります。
供御所
神福殿の裏側(西側)に寛永5年(1628)度の式年遷宮で造り替えられ、
国の重要文化財に指定されている供御所があります。
御所内は東、中、西の三間に分かれています。
東の間は、供御所で神饌を調理する所、中の間は贄殿(にえどの)で
魚介鳥類を調理する所、西の間は侍所(さぶらいどころ)で神官などが参集し、
直会(なおらい)、勧盃(かんぱい)の儀などが行われます。
直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を
神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。
古くから、お供えして神々の恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると
考えられてきました。
この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義である
ということができます。
出雲井於神社-1
供御所の南側に出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)があり、
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
『日本書紀』に「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)
とある人々が祖神として祀った神社」とされています。
その後、文武4年(700)にほぼ完成した大宝令(たいほうりょう)以降、
山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山・北山までの
地域が愛宕郡(おたぎぐん)となり、賀茂川の東岸が蓼倉郷(たでくらごう)、
西岸が出雲郷となりました。
「井於(いのへ)」とは、賀茂川の畔のことで、出雲郷の鴨川の畔の神社
との意味になります。
厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊(ひいらぎ)」となって
願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、
「鴨の七不思議」の一つに数えられていました。
そのことから柊神社、比良木神社(ひらきじんじゃ)とも呼ばれました。
出雲井於神社-2
現在の社殿は、寛永6年(1629)の式年遷宮の時、天正9年(1561)に造営された
賀茂御祖神社本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では
最も古い社殿になり、国の重要文化財に指定されています。

境内末社は、北社が岩本社で住吉神が祀られ、南社の橋本社には
玉津島神(たまつしまのかみ)が祀られています。
社殿はともに重要文化財に指定されています。
御車舎
三井神社の方へ戻り、西へ進むと大炊殿(おおいどの)があり、
神饌のための御料を煮炊き、調理する場所でした。
文明2年(1470)、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失する以前には、
魚介鳥類を調理する贄殿(にえどの)もありましたが、
現在は大炊殿のみが再建されています。
井戸の「御井(みい)」があり、神饌の御水や若水神事などの際に用いられ、
国の重要文化財に指定されています。

西側に御車舎があり、葵祭の牛車が置かれています。
敷地内には「葵の庭」が再興されています。
かって庭には、下鴨神社の社紋である双葉葵が自生していました。
徳川家の家紋三つ葉葵は、この双葉葵に一葉加えて回転させたものです。
場内へは秀穂舎(しゅうすいしゃ)と鴨長明資料館との共通拝観券(500円)で
拝観できるそうですが、秀穂舎が閉まっていたため、拝観は後日とします。
大炊殿氷室
西側には大炊殿氷室がありますが、門は閉じられ、
大炊殿と一緒に拝観できるかは不明です。
下鴨神社では旧暦六月一日を「氷の朔日」と呼び、氷室を開いて氷を宮中に献上し、
無病息災を祈願してお祓いをする「氷室神事」が行なわれていました。
かっては二カ所あったそうで、戦時中は改造して防空壕として使用されていました。
終戦後、長らく放置されていましたが、糺の森整備事業の一環として
一カ所が再現されました。
印納社
更に西へ進むと末社の印納社(いんのうのやしろ)があり、
印璽大神(おしでのおおかみ)と倉稲魂神(くらのいなたまのかみ)が
祀られています。
御本宮の御垣内に古くから祀られてある印璽社(おしでのやしろ)の
祭神が祀られ、古印が納められています。
かって、この地一帯は平安時代初期より室町時代まで賀茂斎院御所があった
由緒地でした。
応仁・文明の乱(1467~1477)により賀茂斎院御所は焼失し、賀茂斎院も
第82代・後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王(れいし/いやこないしんのう:1200~1273)が
第35代・斎院を退下したのを最後に承久の乱の混乱と皇室の資金不足で廃絶したため、
御所が再建されることはありませんでした。
愛宕社
その西側に末社の愛宕社(おたぎしゃ=東社)と稲荷社(西社)があります。
愛宕社は古くは賀茂斎院御所の守護神として御所内に祀られていました。
祭神は火伏せの神とされる火産霊神(ほむすびのかみ)ですが、
かっては贄殿神(にえどののかみ)、酒殿神(さかどののかみ)、
奈良殿神(ならどののかみ)が祀られていました。

稲荷社は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られ、
古くは「専女社(とうめのやしろ)」と呼ばれていました。
賀茂斎院御所内の忌子女庁屋(いんこのめちょうや)の守護神として
庁屋の池庭の中島に祀られていました。
忌子女とは御蔭神社の御生神事(みあれしんじ)で奉仕する巫女のような存在と
思われますが、詳細は不明です。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、
愛宕社と相殿として旧地に祀られるようになりました。

西口を出て、更に西へ進み出雲路橋へ向かいます。
続く
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