天智天皇陵から府道143号線を南へ進み、横断歩道橋がある信号を右折し、
その先の渋谷街道で右折して渋谷街道を西進します。
「フレスコ北花山店」を通り過ぎ、「ドラッグ・ユタカ」前の細い路地を右折、
北上した正面に元慶寺があります。
渋谷街道沿いに立て看板があり、それが目印となります。
路地を入った右側に数台の駐車場があります。
元慶寺は山号を華頂山と号する天台宗の寺院で、平安時代の貞観10年(868)に、
第56代・清和天皇の女御であった藤原高子(ふじわら の こうし)が
貞明親王(後の第57代・陽成天皇)の誕生に際して発願し、
僧・遍昭を開基として創建されました。
当初は定願寺と称されていましたが、元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、
年号から寺号を元慶寺と改称されました。
元慶寺が立地する北花山は、山科七郷の一つで、
飛鳥時代の第38代・天智天皇の時代は「華頂」を郷名としていました。
その郷名が山号になったと思われます。
寛和2年(986)、藤原兼家、道兼父子の策略により第65代・花山天皇が
出家させられるという寛和の変が起こりました。
花山天皇は元慶寺で出家し、花山法皇となりました。
花山法皇は、徳道上人が創始した後、廃れつつあった
西国三十三所観音霊場の巡礼を復興した縁で、元慶寺は番外札所となっています。
室町時代の応仁・文明の乱で被災してからは荒廃し、寺域は縮小され
小堂があるだけの寺院となりました。
江戸時代の安永8年(1779)になって、ようやく再建が始まり、天明3年(1783)に落慶し、
入仏供養が行われたとの記録が残されています。
山門は唐風の龍宮造の鐘楼門で、寛政4年(1792)に再建されました。
帝釈天
梵天
山門に安置されていた梵天と帝釈天は、現在は京都国立博物館に寄託されています。
梵鐘は、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目です。
山門前には「禁葷酒(きんくんしゅ=酒の匂いをさせて
山門を潜るべからず)」と刻まれた石碑が建っています。
山門を入った左側に寛政元年(1789)に再建された本堂があります。
本尊は遍昭作の薬師瑠璃光如来で、花山法皇の宸影などが安置されています。
本堂前の手水鉢
境内には遍昭僧正とその右側に遍昭の子である素性法師の歌碑が建立されています。
遍昭僧正 「天津風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
遍昭僧正は六歌仙及び三十六歌仙の一人とされ、多くの歌を残しました。
素性法師 「今こむと言ひし許(ばかり)長月のありあけの月を待ちいでつる哉」
遍昭僧正と素性法師は宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍しました。
仁明天皇の皇子・常康親王が出家して雲林院を御所とした際、
遍照・素性親子は出入りを許可されていました。
親王薨去後は、遍照僧正が雲林院の管理を任され、僧正入寂後も素性法師は
雲林院に住まい、雲林院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られました。
渋谷街道を更に西へ進み、交番がある四つ角を右折して北へ進むと
JR東海道線の跨線橋(こせんきょう)が架かり、
その手前を山側へ登った所に六所神社があります。
社号標石の建つ脇に「古跡 御神水井跡」がありますが、詳細は不明です。
跨線橋側から見れば、トンネル上に六所神社があります。
余談ですが、トンネルを出た東海道線は大きく蛇行して山科駅へと続いています。
鳥居は平成2年(1990)に建立されました。
六所神社は、仁和3年(887)に遍昭が伊勢から天照皇大神、
尾張から熱田大神、山城から賀茂大神と八幡大神、大和から春日大神、
近江から日吉大神を勧請し、元慶寺の鎮守社として創建されました。
鳥居をくぐると斜めに登る石段があり、角に社務所があります。
拝殿
現在の本殿は昭和47年(1972)に再建されました。
六所神社は明治の神仏分離令で元慶寺から切り離され、
明治6年(1873)に村社に列せられました。
それからか、それ以前からか、時期は定かではありませんが、
北花山の産土神として信仰されています。
交番が四つ角から南へ進んだ住宅の裏側に遍昭僧正の墓があり、
宮内庁により管理されています。
遍昭は第50代・桓武天皇の孫で、第54代・仁明天皇に仕えましたが、
天皇が崩御されたのを期に出家しました。
比叡山で慈覚大師・円仁、智証大師・円珍に師事し、
貞観10年(868)に元慶寺を創建しました。
仁和元年(885)に僧正となって「花山僧正」と呼ばれるようになり、
この年の12月には第58代・光孝天皇が主催して宮中・仁寿殿で
遍昭僧正の70歳の賀が行われました。
遍昭僧正は寛平2年1月19日(890年2月12日)に入寂されました。
岩屋寺へ向かいます。
続く
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