花園西陵から西へ進むとカーブして南北の通りとなり、
南へ進んだ東側に地蔵院があります。
待賢門院が法金剛院を再興された際に地蔵院が建立されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、地蔵院は法金剛院の塔頭となりましたが、
享保18年(1733)に焼失し、安永8年(1779)に再建されました。
しかし、明治32年(1899)の水害で倒壊し、明治41年(1908)に
本堂の南100mへ場所を移して再建されました。
明治45年(1970)の丸太町通り拡張工事に伴い、地蔵院は取り壊され、
現在地に移転されました。
本尊の地蔵菩薩坐像は像高270cmで、眼が金色であることから「金目地蔵」と呼ばれ、
「要(かなめ)地蔵」、「叶(かなえ)地蔵」と転訛したとも伝わります。
「要」とは、扇のかなめを意味し、宇田川と御室川が合流する地点であり、
花園扇野町の町名の由来となったとされています。
金目地蔵は通常非公開ですが、毎月23日に法要が営まれ、
その日には自由に参拝できるそうです。
地蔵院から南へ進み、丸太町通りへ左折して
少し東へ進んだ北側に法金剛院があります。
法金剛院は新型コロナの影響で長い間拝観が停止されていましたが、6月中旬の
蓮の季節から再開され、それが済んだ8月3日から再び拝観停止となっています。
幸いにも8月1日に時間が取れ、拝観してきました。
拝観には予約が必要ですが、予約をしなくても入山を拒まれることはありませんでした。
但し、拝観時間は7:30~11:30の間で12:00には閉門されてしまいます。
本堂への参拝とトイレの使用は中止され、庭園のみの拝観となります。
御朱印は書置きタイプのみ授与されますが、予約が必要です。
但し、法金剛院は京都十三仏霊場の第十番札所及び関西花の寺二十五霊場の
第13番札所で、霊場巡りの御朱印は予約なしでも授与されます。
丸太町通りに面して表門があり、その西側に駐車場への入口があります。
法金剛院は、山号を五位山と号し、唐招提寺に属する律宗の寺院ですが、
明治維新までは真言宗の寺院でした。
現在は表門は閉じられ、駐車場から入り、その先の中門が拝観入口となりますが、
新型コロナの影響で中門の向かい側にテントが張られ、
臨時の拝観入口となっています。
天長7年(830)頃、この地には右大臣・清原夏野
(きよはら の なつの:782~837)が営む山荘がありました。
承和4年(837)に夏野が没すると、山荘は寺に改められ、
「双丘寺(ならびがおかでら)」と称されました。
境内には珍花奇花が植えられ、「花園」の地名の由来となりました。
第52代・嵯峨天皇、第53代・淳和天皇、第54代・仁明天皇などの行幸が相次ぎ、
承和14年(847)に仁明天皇は内山に登られて景勝を愛で、
五位の位を授けられたことから内山は「五位山」と呼ばれるようになりました。
天安2年(858)、第55代・文徳天皇の発願で伽藍を建立し、
定額寺に列せられて寺号は「天安寺」と改められました。
元慶3年(879)に第87代・陽成天皇は、応天門事件で失脚した大納言・伴善男
(とも の よしお)の荘園を没収し、天安寺に施入されました。
寺は栄えますが、その後の火災などで荒廃し、大治5年(1130)に
待賢門院(たいけんもんいん)により再興され、「法金剛院」と称されました。
前年の大治4年(1129)に養父だった白河法皇が崩御され、
その菩提を弔う意味があったのかもしれません。
花園西陵がある五位山を背に中央に池を堀り、池の西に西御堂、
南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東に女院の寝殿が建てられ、
庭に青女(せいじょ)の滝を造り、極楽浄土を模した庭としました。
その後、三重塔、東御堂、水閣が建立され、法金剛院に多くの荘園を集積して
「女院領」を形成した最初の女院となりました。
しかし、後ろ盾でもあった白河法皇が崩御されからは、待賢門院の人生は暗転し、
康治元年(1142)に出家して法金剛院で過ごし、
3年後の久安元年(1145)に崩御されました。
法金剛院は、待賢門院の子・統子内親王(とうし/むねこないしんのう)に継がれますが、
文治5年(1189)に統子内親王が崩御されると、法金剛院は衰微していきました。
法金剛院は、鎌倉時代に導御(どうご/どうぎょ:1311~1223)によって中興されました。
導御は3歳の時に父を亡くして捨て子となり、東大寺に拾われて養育されました。
18歳で唐招提寺中興第2世長老・証玄(しょうげん)の弟子として出家しました。
文永5年(1268)頃、法隆寺夢殿に参籠して融通念仏を弘めるようにとの
聖徳太子の託宣を受け、活動の拠点を京都に移しました。
法金剛院・壬生寺・清涼寺などの勧進・復興活動を行うとともに、
これらの寺院において融通大念仏会を催しました。
融通大念仏の結縁者が10万人に満ちるごとに供養を行ったので、
「円覚十万上人」と呼ばれました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天正13年(1586)の天正大地震で被災しました。
更に文禄5年(1596)の慶長伏見地震でも被災して、
元和3年(1617)に泉涌寺の僧・照珍によって再建されました。
待賢門院により再興された法金剛院の領地は、現在の2倍以上とされ、
鉄道の開通や新丸太町通りの拡幅工事などで失われました。
平成8年(1996)のJR花園駅周辺の整備工事に伴い、
駅の南で発掘調査が行われ、池跡や三重塔の基壇などが発見されました。
中門の先に庫裏があり、庫裏の西側に茶室、庫裡の北側に仏殿がありますが、
中門から先への立ち入りは禁止されています。
表門を入った西側に鐘楼があります。
梵鐘は元禄元年(1688)に鋳造されました。
庭園への入口の北側に元和3年(1617)に建立された経蔵があります。
参道には鉢植えのハスが並べられています。
法金剛院は「花の寺」として、春は桜、初夏は花菖蒲・アジサイ・菩提樹・沙羅双樹・
山椒バラ、秋は嵯峨菊・その後の紅葉、冬には仏手柑(ぶっしゅかん)や
千両・万両が実を付け、年が開けると椿が咲きます。
そして、夏・7月中はハスが見頃となり、法金剛院は「蓮の寺」とも呼ばれています。
本堂の車寄せです。
境内図では庫裏へと続き、その間の渡廊で礼堂へと結ばれています。
北側には礼堂があります。
現在の礼堂は、元和3年(1617)に照珍により、本堂として再建されました。
昭和43年(1968)に国庫補助金を受け、新たにコンクリート造りで
収蔵庫を兼ねた仏殿(本堂)が礼堂の西側に建立されました。
旧本堂は礼堂に改められ、北側に釣殿が設けられました。
本尊は大治5年(1130)に仏師・院覚により造立された像高2.27mの阿弥陀如来坐像です。
かっての西御堂の本尊であり、定朝様で本年度(2020)に国宝に指定される予定です。
十一面観世音菩薩坐像は像高69.2cmで、正和5年(1316)に院派(いんぱ)仏師16人
により造立され、国の重要文化財に指定されています。
昭和4年(1929)の解体修理で、像内から1万3千人に及ぶ署名紙片が発見されました。
十一面観世音菩薩坐像としては珍しい四臂の像で、厨子内に安置されています。
平安時代後期作で像高127.2cmの地蔵菩薩立像及び像高78cmの
僧形文殊菩薩坐像も国の重要文化財に指定されています。
他に平安時代作の不動明王立像と毘沙門天立像、
鎌倉時代作の阿弥陀如来坐像などが安置されています。
礼堂前の奥には石仏がまとめられ、祀られています。
礼堂の向かい側の庭園に仏足石が祀られています。
その奥に「名勝 法金剛院庭園」の標石が建っています。
法金剛院庭園は、昭和46年(1971)に国の名勝に指定されました。
庭園の北側の滝組は「青女(せいじょ)の滝」と呼ばれ、
日本最古の人工の滝として、国の特別名勝に指定されています。
滝は大治5年(1130)には既にに完成し、造営にあたった林賢りんけん)は
滝の傍らに「衣もて なつれとつきぬ 石の上に 万代をへよ 滝の白糸」
という和歌を書きつけてました。
長承2年(1133)、法金剛院に渡御した待賢門院は、池で舟に乗り、
滝の高さを5・6尺(150~180cm)ほど上げるよう指示し、
静意がこれを受けて改作したとされています。
明治30年(1987)に京都鉄道株式会社(現在の山陰線の嵯峨野線区間)の
鉄道敷設計画に伴い、法金剛院は境内地を売却しましたが、
線路と平行して国道(現在の丸太町通り)も開通しました。
この国道は交通量が激しくなり、昭和42年(1967)に京都市は道路拡張のために
境内地の南側を買収しました。
昭和43年(1968)に京都市は法金剛院庭園の緊急発掘調査を行い、
埋もれていた滝の石組や渓流曲水、池の汀線(ていせん=池面と陸地との境界線)
などが発見されました。
庭園が復元され、境内全体が北に寄せられました。
待賢門院堀河の歌碑です。
「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物こそ思へ」
待賢門院堀河は、平安時代後期の歌人で、女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人です。
待賢門院(藤原璋子)に出仕し、「堀河」と呼ばれるようになりました。
康治元年(1142)に璋子が落飾すると、堀河も出家しました。
現在の池には蓮が生い茂り、水面が見えない状況です。
蓮の見頃は終わってしまったようで、遅咲きの花がまばらに見られます。
池の南側には橋があり、二つの島が連なっています。
島に渡ってみましたが蓮に覆われ、視界は開けませんでした。
池の西南に西御堂跡があり、この小高い丘辺りかと思われます。
背後に見えるのは経蔵です。
今宮神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村