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一の鳥居
成相寺から下り国道178号線を東へ進み、大型バスの駐車場を超えた所に、
一般参拝者用の無料駐車場があります。
国道まで戻ると、国道に面して一の鳥居が建ち、その手前には宇治橋が架けられています。
(画像は全て平成29年(2017)3月の参拝時のものを使用しています。)
さざれ石
鳥居をくぐり参道を進むと、右側に舞鶴市で見つかった「大和さざれ石」が奉納されています。
二の鳥居
参道を進んだ先に二の鳥居が建っています。
狛犬-右-1
狛犬-右-2
狛犬-左-1
狛犬-左-2
鳥居の先にある狛犬は、鎌倉時代の作とされ重要文化財に指定されています。
この狛犬には、以下のような伝説が残されています。
「その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行人を
驚かしたので、たまたま仇討ちに来ていた豪傑・岩見重太郎が一夜待ち伏せ、
剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り事無きを得て、
爾来魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。」

岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の次男でしたが、
父が同僚の広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川八左衛門によって殺害されました。
三人は丹後へと逃れ、領主の京極家に匿われていましたが、
追って来た重太郎は京極家に乞うて仇討ちが許されました。
寛永9年(1632)9月20日、天橋立の濃松において三人を討ち倒し、ついにその本望を
とげたと伝わり、天橋立には「仇討の場」の碑が建立されています。
また、その付近には、仇討の前に試し切りをしたと伝わる石も残されています。
重太郎はその後、叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田兼相(すすきだかねすけ)と
名乗って豊臣氏に仕え、大坂夏の陣の道明寺の戦いで戦死したとされています。
拝殿
神門をくぐった先に拝殿があるのですが、ここから先は撮影禁止になっています。
籠神社は延喜12年(912)に完成した『延喜式神名帳』では名神大社、天平時代以降は
丹後国一宮、旧社格は国幣中社に列せられていました。
現在は神社本庁の別表神社に列せられ、神仏霊場の第131番札所となっています。

神代の昔、籠神社の奥宮である「眞名井原」は匏宮(よさのみや)と呼ばれ、
豊受大神が祀られていました。
『丹後國風土記』によれば、現在の峰山町の比治山(ひじさん=磯砂山[いさなごさん])の
山頂にある池に八人の天女が舞い降りて水浴をしてました。
その内の一人が老夫婦に羽衣を隠されて天へ帰れなくなってしまい、
老夫婦の娘にされて一緒に暮らすようになりました。
天女は一杯飲めば万病に効く酒を造り、また機織りも教え、老夫婦はたちまち裕福になりました。
10年後、なぜか老夫婦は天女を追い出しました。
天女は比治の里を彷徨った末、船木(現在の京丹後市弥栄町船木)の里に至り、
そこに鎮まりました。
以来、この地は「奈具」と呼ばれ、村人たちによって天女は
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られたと伝わります。

後に、邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄である彦火明命(ひこほあかりのみこと)が、
十種神宝(とくさのかんだから)の沖津鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)を
携えて冠島に降臨されたと伝わります。
彦火明命は、籠神社の社家、海部氏(あまのべし)の始祖となり豊受大神を祀ったのが
籠神社の始まりとされています。
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)に大和笠縫邑(かさぬいむら)に移された、
天照大神の神霊を込めた八咫鏡(やたのかがみ)は、真名井神社に遷されて
4年間祀られ、「元伊勢籠神社」と呼ばれる由縁となりました。
その後、海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、
真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代の
養老3年(719)に、二十七代目当主・海部直愛志(あまべのあたええし)が、
現在の籠神社の地へと遷宮しました。
それを機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に
豊受大神・天照大神・海神(わたつみのかみ)・
天水分神(あめのみくまりのかみ)が合祀されました。

本殿は伊勢神宮の内宮と同様の神明造りで、鰹木(かつおぎ)は十本、
千木(ちぎ)は内削(うちそぎ)で、神社建築最古の様式となっています。
また、内宮・外宮の正殿と同様に高欄上に五色(青、黄、赤、白、黒)の
座玉(すえたま)が飾られ、これは他の神社では見られません。
産霊岩
拝殿から左側に進んだ左側に「産霊岩(むすびいわ)」と呼ばれる
天然記念物のさざれ石が祀られています。
御生れの庭
産霊岩の横に磐座を象徴したと思われる「御生(みあ)れの庭」が作庭されています。
天照神社
「御生れの庭」の向かいには、天照大神和魂社(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)があります。
天照大神の、優しく平和的な側面である和魂が祀られています。
春日社
天照大神和魂社の左側に春日大明神社(かすがだいみょうじんのやしろ)があります。
古代は武甕槌(たけみかづち)社と称されていましたが、現在は春日四神が祀られています。
猿田彦神社
春日大明神社の横に猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)があります。
古代は大世多大明神と呼ばれ、猿田彦命が祀られています。
真名井稲荷神社
猿田彦神社の横に真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)があり、
古代から明治末迄奥宮・真名井原に祀られていました。
平成3年(1991)になって、現在地に遷座されました。
倭宿禰命像
真名井稲荷神社の先に亀に乗った倭宿禰命(やまとすくねのみこと)の像があります。
倭宿禰命は、海部家四代目の祖先で、元々は「珍彦(うづひこ)」、
「椎根津彦(しいねづひこ)」、「神知津彦(かんしりつひこ)」、
「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていました。
倭宿禰命は神武東征の際に、速吸門(はやすいのと=明石海峡)に亀に乗って現れ、
神武天皇の先導役として浪速、河内、大和へと導いて東征の行軍に貢献したとされています。
神武天皇が帝位に就いてから、天皇を無事に大和へと導いた
功労者として「倭宿禰」の称号を授かりました。

真名井神社へ向かいます。
続く

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海上自衛隊
復員引揚桟橋からバイクで10分余り走った所に赤レンガ博物館がありますが、
その先に海上自衛隊の造修補給所があります。
海外では写真を撮ると逮捕されるかもしれないと思いながらも、こっそりと撮ってしまいました。
赤れんが博物館
赤れんが博物館の建物は、明治36年(1903)に旧舞鶴海軍の魚雷の倉庫として建設されました。
日本に現存する建物では最も古い時代の建造物の一つで、国の重要文化財に指定されています。
赤煉瓦倉庫の碑
建物の左前には「赤煉瓦倉庫壱号棟」の石標が建っています。
銀座の柳
隣接して「銀座の柳二世」が植栽されています。

館内の見学は一通り行ったのですが、涼むのがメインになってしまい、
展示内容等の記憶が乏しくなりました。
赤れんがパークもスルーして成相寺へ向かいました。
展望台の碑
途中、昼食で少し涼んだのですが、直射日光とアスファルトの照り返しで、
温風を受けて走るので、ヘルメットの中でも汗が流れます。
直進「宮津」と左折「大江」の標識が出ている三叉路に出ましたが、
スマホのナビは左折を指示しています。
疑問を感じながらもナビに従い左折したのですが、
誘導されたのは自動車専用道路の入口でした。
原付二種では入れないのでUターンして木陰でバイクを停め、
スポーツドリンクで水分補給を行いました。
心は萎えましたが、気を取り直し、三叉路まで戻ることにしました。
予定では丹後国分寺跡や山道の途中に祀られている子育て子宝地蔵尊にも
立ち寄る予定でしたが、時間のロスを取り戻すため通り過ぎ、
予定より20分遅れの14:00に成相寺に到着しました。
前回、成相寺へは北タンゴ鉄道の天橋立駅から智恩寺(文殊堂)を経て、
約1時間かけて天橋立を歩き、ケーブルとバスを乗り継いで訪れました。
パノラマ展望台へは時間的に無理があるので最初から諦めていました。
今回は成相寺の駐車場前で入山料500円を納め、
駐車場から成相山パノラマ展望台へ向かいました。
かなりの急坂を約7分バイクで登った所に展望台があります。
標高470mの地点にあり、「日本一 成相山パノラマ展望台」の石碑が建っています。
下界より気温が約3度低く、山を渡ってくる風は、幾分涼しく感じられます。
冠島
展望台の西側から遠くに冠島とその左側に画像では判りにくいですが沓島が望めます。
傘松公園には冠島・沓島遥拝所があります。
伝承では、冠島と沓島は元伊勢籠神社の奥宮で、籠神社のご祭神である
彦火明命(ひこほあかりのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が
天降り夫婦となった神聖な島として古代から特別視されてきました。
また、『丹後風土記』には、大宝元年(701)に三日続きの大地震が発生し、
凡海郷(おおしあまごう)と呼ばれた集落が海に沈み山頂だけが海上に残って
冠島と沓島になったとの記述が見られます。
そして、「冠島の磯に鳥居ありて 老人島神社(おいとじまじんじゃ)といふ」との
記述があり、この老人島神社が籠神社の奥宮であったとされています。
現在も社殿が残され、彦火明命(ひこほあかりのみこと)が祀られています。
冠島周囲の海底の一部から弥生時代の遺跡のようなものが見つかっているそうです。
現在、冠島は国の天然記念物に指定されていて、沓島とともに
京都府指定冠島沓島鳥獣保護区にも指定されていることから、
一般の人は島に立ち入ることが出来なくなっています。
半島-1
半島-2
正面には天橋立の左側から複雑な形の半島が伸び、天橋立を形成したのは
この半島が何か関与したのではないかとと思われます。
2万年前は、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地で、その後、
6千年前の縄文時代に海面が上昇し、海底に砂州が形成され始めたと考えられています。
この付近には山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中しています。
約2千2百年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、
天橋立が形成されたと考えらています。
天橋立
橋立の右側は「阿蘇海」と呼ばれる汽水域で、
阿蘇海の西端(右側)の野田川から大量の土砂が運ばれました。
半島は土砂をそれ以上奥へと流さない堤防のような役目をしていたのかもしれません。

展望台から下って成相寺へ向かいます。
続く

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