東海庵-表門
玉鳳院の西側を北へ進んだ左側に東海派の東海庵があります。
文明16年(1484)に妙心寺11世・悟渓宗頓(ごけいそうとん:1416~1500)により、
二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の塔所として創建されました。
悟渓宗頓は六祖・雪江宗深(せっこうそうしん:1408~1486)の4人の
法嗣(はっす=師から仏法の奥義を受け継いだ者)の一人で、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した妙心寺の再興に尽力し、
東海派の開祖となりました。

美濃国加納城主・斎藤妙純(さいとう みょうじゅん)の妻は、
妙純が明応5年(1497)に戦死したため、悟渓宗頓に帰依し、
出家して利貞尼(りていに)と称しました。
利貞尼は、永正6年(1509)に仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、
境内を3倍の広さに拡大しました。
東海派の格式は高まり、東海・関東を中心に勢力を伸ばし、
現在では妙心寺派末寺3500余りの約半数が東海派に属しています。

天正年間(1573~1592)、羽柴秀吉に仕えた武将・石川一光が
東海庵を現在の規模に拡張しました。
しかし、一光は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い
一番槍として突入し、戦死しました。
末弟の頼明(一宗)には、兄の代わりに一番槍の感状と1,000石が与えられました。
慶長4年(1599)に頼明は、兄・一光の17回忌を営み、東海庵を中興しました。
東海庵-方丈門
南側に方丈の玄関があり、「名勝・史跡 東海庵書院庭園」の碑が建っています。
方丈は江戸時代に再建され、悟渓宗頓の木像が安置されています。
また、悟渓宗頓に「仏徳広通国師」の諡号(しごう)を贈った
第121代・孝明天皇の木像も安置されています。
方丈南庭の枯山水庭園は「白露地の庭」と呼ばれ、ただ白砂のみが敷かれ、
東西方向に直線の砂紋が引かれています。

方丈の北側に江戸時代に再建された書院があり、
方丈と書院の間に方丈坪庭があります。
白砂が敷かれた枯山水庭園で、東西に七個の石がほぼ一直線上に配され、
中心となる石から同心円の砂紋が引かれています。

書院西側の庭園は座観式枯山水庭園で、「東海一連の庭」と呼ばれ、
国の名勝・史跡に指定されています。
庭の中央に三尊石(不動石・日天石・月天石)が立てられ、
その左には枯滝が組まれて龍門石が配されています。
北側には三神山とされる築山が築かれ、それぞれの島に松が植えられています。
三神山とは「三島」とも呼ばれ、渤海(ぼつかい)中にあって仙人が住むという
蓬萊山(ほうらいさん)・方丈山・瀛州山(えいしゆうさん)という伝説上の山です。
大心院-表門
東海庵の向かい側(東側)に塔頭の大心院があります。
大心院は宿坊でもあり、通年公開されています。
大心院は、文明11年(1479)に、景堂和尚に帰依した室町幕府の
管領 ・ 細川政元(1466~1507)により、上京区大心院町に創建されました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、天正年間(1573~1593)に
細川幽斎(藤孝)により現在地で中興されました。
妙心寺の塔頭となり、幽斎の子・忠興からも外護を受けました。
大心院は龍泉派に属し、現在の表門は寛永年間(1624~1645)に
建立された龍泉庵の門が移築されました。
僧像
山門をくぐった右側に僧の石像が立っていますが、詳細は不明です。
大心院-方丈門
方丈玄関の右側に、四方仏が祀られています。
四方仏
四方仏
大心院-方丈
方丈(本堂)は、大心院七世・嶺南崇六(れいなんすうろく)に帰依した
伊予国松山藩主・蒲生忠知により建立されました。
蒲生忠知は寛永11年(1634)に、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死しました。
享年31で、嗣子がなかったため、蒲生家は断絶しました。
切石の庭-2
方丈南庭は「切石の庭」と呼ばれ、庭の中央に長方形の花壇が設けられています。
切石の庭-1
東側にあるのは祖堂でしょうか?
祖堂は寛文6年(1666)に建立されましたが、その後本山・妙心寺に売却され、
平成15年(2003)に返却されました。
阿吽庭
方丈東庭は「阿吽庭(あうんてい)」と呼ばれ、方丈の東、書院の南にあります。
東西に長く、南北にやや狭い地割で、東南隅に苔地の築山が築かれ、
三尊石が組まれています。

妙心寺の小方丈と微妙殿、その先の桂春院へ向かいます。
続く

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