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歌碑-1
亀型石造物から東へ進み、県道15号線へ左折して北へ進んだ先に
大原神社があり、その前に第40代・天武天皇(在位:673~686)と
藤原夫人(ふじわらのぶにん=鎌足の娘・五百重娘(いおえのいらつめ:
生没年不詳)とする説あり)の歌碑があります。
歌碑-2
天武天皇の「わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 
落(ふ)らまくは後(のち)」に答えた、藤原夫人の
「わが岡の 龗(おかみ)に言いて 落らしめし 雪のくだけし 
其処に散りけむ」の歌碑が建立されています。
割拝殿
大原神社には鳥居が無く、正面に割拝殿があります。
明治元年(1868)まで右側の田んぼに「藤原寺(とうげんじ)」があり、
その鎮守社でした。
藤原寺の前の道路は多武峯へと続き、多武峯妙楽寺
(とうのみね みょうらくじ)の参道となっていました。
藤原寺は多武峯最高道場と伝わり、江戸時代後期には国学者の
本居宣長(1730~1801)も訪れましたが、神仏分離令で廃寺となりました。
藤原寺や大原神社の什物等全ては妙楽寺によって回収されましたが、
多武峯妙楽寺もまた神仏分離令により、談山神社へ改められました。
本殿
現在の本殿は覆屋の中に納められています。
創建当初は藤原寺の鎮守社でしたが、いつのころからか八幡大菩薩が祀られ、
神仏分離令以降は当時の氏子等により天照大神・品陀別命・
天児屋根命が奉祀されましたが、現在は品陀別命のみが祀られています。
産湯の井戸-1
本殿の右側を下って行った竹田川の畔に「鎌足 産湯の井戸」と
伝わる跡があります。
産湯の井戸-2
現在は野草に埋もれ、僅かに石積みが見られます。
大伴夫人の墓
大原神社の西側に大伴夫人(おおともぶにん:生没年不詳)の墓があります。
大伴夫人は中臣鎌足(後の藤原鎌足:614~669)の母で、
この辺りが鎌足の生誕地と伝えられています。
墓は東西11m、南北12m、高さ2.4mの円墳です。
大伴夫人の墓-2
鎌足は推古天皇22年(614)に誕生したのですが、その時、どこからか
鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、
その子を「鎌子」と名づけたと伝わります。
その後中臣鎌足に改名し、臨終に際して天智天皇より最高位の大織冠とともに
藤原姓を賜りました。
大原神社の前には「大織冠誕生○跡(丸印は判読できなかった文字)」と
刻字された石碑が建立されています。
飛鳥坐神社-社号標
大原神社から西へ進んだ所に飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)があります。
祭神は、大国主命の第一子・八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)で、
国譲りの際は大国主命から判断を託されました。
その後、首渠神(ひとごのかみ)として八十万の神々統率して高市に集め、
この天高市(飛鳥)に鎮まったとされています。
また、神奈備飛鳥社(かんなびあすかのやしろ)に鎮座されているとの
記述も残されています。
高市とは「うてなの斎場(いつにわ)」と呼ばれ、
「小高い所にある祀りの庭」を意味しています。
飛鳥坐神社-鳥居
飛鳥坐神社の創建に関する詳細は不明ですが、『日本紀略』によれば
天長6年(829)に神託により、高市郡賀美郷にある神奈備山から
現在の鳥形山へ遷座したとの記録が残されています。

『日本書紀』朱鳥(あかみとり)元年(686)7月の条に、
第40代・天武天皇(在位:673~686)病気平癒祈願のため幣帛が奉られた
との記載があり、延長5年(927)成立の
『延喜式』神名帳では名神大社に列せられていました。
飛鳥井
鳥居前の右側にある「飛鳥井」には石碑が建立され、
「飛鳥井に 宿りはすべし をけかけもよし 御水(みもひ)もよし 
御秣(みまくさ)もよし」の歌が刻まれています。
平安時代に隆盛した古代歌謡である『催馬楽(さいばら)』に
水の清らかさを讃えて歌われています。
手水舎
左側にある手水舎です。
社務所
社務所前には願掛けの絵馬を結ぶ「むすびの木」があります。
祓戸社
参道を進むと祓戸社があります。
折口信夫の歌碑
石段の途中、右側に国文学者である折口信夫(1887~1953)の歌碑があります。
「ほすすきに 夕ぐもひくき 明日香のや わがふるさとは 灯をともしけり」
折口信夫は釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもありました。
飛鳥坐神社の宮司は、事代主神から7代目に当る太比古命が
第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)より大神朝臣飛鳥直
(おおみわのあそんあすかのあたい)姓を賜って以来、
87代に亘って飛鳥家に引き継がれています。
国文学者である折口信夫の祖父・酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の
8男でしたが、第81代宮司の飛鳥助信の養子となった上で折口家に入りました。
折口信夫は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを
終生誇りにし、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて
飛鳥を旅していました。
力石
石段を上った所に「力石」があり、男性は左手、
女性は右手で持ち上げられると幸福が掴めるとされています。
四社殿
「力石」の右側に四社殿がありますが詳細は不明です。
飛鳥坐神社の境内に江戸時代に式内大社・飛鳥山口坐神社
(あすかやまぐちにますじんじゃ)が遷座しています。
飛鳥山口坐神社には大山津見命、久久乃之知命(くぐのちのみこと)、
猿田彦命が祀られています。
神産みに於いて伊弉諾と伊弉冉との間に久久乃之知命が生まれ、
その次に大山津見命が生まれたとされています。
久久乃之知命は「木の神」、大山津見命は「山の神」で、
かって飛鳥山が皇室の御料林であり、その山神を祀ったものと
考えられていますが、旧鎮座地は不明です。
拝殿
拝殿
現在の本殿には八重事代主神、飛鳥神奈備三日女神(みひめのかみ)、
大物主神、高皇産靈神(たかみむすびのかみ)が祀られています。
大物主は、大国主命が国譲りを行ってからの別名で、八重事代主神と
飛鳥神奈備三日女神は共に大物主神の子とされています。
高皇産靈神は、天地開闢の時、最初に天之御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)が現れ、その次に神産巣日神
(かみむすびのかみ)と共に高天原に出現した神とされています。
また、当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地
倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であるとする伝承もあり、
近世には元伊勢とも称していました。

寛永17年(1640)に高取藩の初代藩主となった植村家政は、
飛鳥坐神社が高取城の鬼門に当たるとして信仰を深めました。
享保10年(1725)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、
天明元年(1781)に高取藩8代藩主・植村家利により再建されました。
現在の社殿は、平成13年(2001)に大滝ダム建設に伴って
移築することとなった吉野の丹生川上神社・上社から
旧社殿を譲り受けて再建されたものです。
神楽殿
拝殿の向かいにある神楽殿は、毎年2月に奇祭として知られる
「おんだ祭」の舞台となります。

新西国霊場・第9番及び徳太子霊跡・第11番札所である飛鳥寺へ向かいます。
続く
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狛犬
鷹峯から下って北大路通を左折して東へ進み、「今宮門前」の信号を左折した
先に今宮神社があります。
時短するなら鷹峯から下ってきた変則的な四差路を、右折して北大路通りの方へ
向かわず、東へ進めば今宮神社の楼門間に出ます。
北大路通から左折すると、本来は大鳥居が建っていましたが、
平成29年(2017)10月の台風で南に傾き、更に平成30年(2018)夏の大阪北部地震や
相次ぐ巨大台風の接近などで危険を感じた神社は、
計画を前倒しして鳥居を撤去しました。
いずれ再建されると思われますが、狛犬だけが残されています。
楼門
北大路通からの参道の正面にある楼門は大正15年(1926)に建立されました。
古地図には北大路通からの参道は描かれていないので、明治年末から大正初年に
かけての沿道整備計画により北大路通が完成し、
その後、参道が整備され、楼門が建立されたと思われます。
手水舎
手水舎は「お玉の井」と称され、元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により造られました。
手水鉢
手水盤は、京都西町奉行の小出淡路守 守里から寄進されました。
水盤は以前からの出入り口であった東向きに据えられていましたが、
楼門の建立に伴い現在のように変えられました。
東門前
東門の前にはかっての門前町の名残を留めています。
一和
北側の「一和」は、長保3年(1002)に一文字屋和輔 (いちもんじやわすけ)によって
創業された日本最古の茶店で、名物の「あぶり餅」が販売されています。
長保3年(1001)に疫病が流行したことから、朝廷は疫神を祀った社に神殿・玉垣・
神輿を造らせて今宮社と名付けました。
疫病退散の祈願には竹が使われ、餅が供えられました。
和輔がそれらを参拝者にふるまったのが「一和」の始まりで、
「あぶり餅」は疫病除けの餅とされています。
また、広隆寺の名物だった「勝餅(おかちん)」を、
和輔が今宮神社に奉納したのが始まりとの説もあります。
店内には井形を組まない直径3mの井戸があり、市内で最古とされ、
今も水が湧き出ています。
但し、現在はその井戸の水は使われていません。
かざりや
南側の「かざりや」は江戸時代初期の創業と伝わります。
時間が早かったため、どちらの店も営業前でした。
東門
東門はかっての正門ですが、江戸時代の再建と思われます。
神橋
門をくぐった先に「神橋」が架かっています。
神馬舎
橋を渡った左側に神馬舎があります。
宗像社
神馬舎の西側にある宗像社には、宗像三女神の多紀理姫命(たきりひめのみこと)、
湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られています。
社殿は元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により造営されましたが、
古い様式が残され、以前から祀られていたようです。
ナマズ
市杵島姫命は弁財天と同一視され、台座には弁財天の神使いとして
約60cmのナマズが描かれています。
神輿庫
神輿庫には「あぐい神輿」、「鷹神輿」、「大宮神輿」の三基が納められています。
大宮神輿は文禄3年(1593)に豊臣秀吉の奇進によって造営されたと伝わり、
元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により修復されました。
八角形八面の御屋根には菊の御紋四面と豊臣家の家紋、五三の桐四面となっています。
神輿の大きさと重量及び芸の技を集め尽くした豪奢(ごうしゃ)さは
京都一とされています。
毎年5月5日の「今宮祭」で神輿の巡行が行われます。
今宮祭」は平安時代の「紫野御霊会」を起源とし、官祭として営まれてきました。
4月に「今宮祭」に先んじて行われる「夜須礼(やすらい)祭」の行装が
華美に過ぎため、久寿元年(1154)に勅命によって禁止されました。
それに伴い「今宮祭」も衰え、鎌倉時代の末期に一時復興したものの、
応仁の乱、戦国の兵乱後は神社の荒廃とともに「今宮祭」も再び衰退しました。
江戸時代になって、桂昌院の寄進や経済的に発展した西陣の氏子衆により
「今宮祭」が復興され、現在に至っています。
授与所
神輿庫の先に参集殿があり、その奥に授与所があります。
今宮神社は神仏霊場の第96番札所です。
授与所前
授与所前の庭園
旧本殿地
参集殿の前方、円形に玉垣で囲われた場所に、かって本殿がありました。
明治29年(1896)に及び拝殿が焼失し、明治35年(1902)に
現在地で本殿が再建されました。
対の石灯籠
絵馬舎前に正遷宮を紀念する対の石灯籠が建立されています。
力石-2
旧本殿地の北側に「力石」があります。
力石-3
持ち上げるのは無理だそうで、試してはいません。
桂昌院レリーフ
「力石」から西へ進むと桂昌院のレリーフが建立されています。
今宮神社は鎌倉時代の弘安7年(1284)に正一位の神階が授けられ、
室町時代には第11代将軍・足利義高により社殿の造営がなされ、
第12代将軍・足利義春は神輿を新造するなど、朝廷・民衆・武家からの
厚い崇敬を受けていました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
その後の戦乱で荒廃しました。
文禄2年(1593)に豊臣秀吉により今宮社の御旅所が再興され、
神輿一基が寄進されました。
元禄7年(1694)には桂昌院により社殿が造営され、神領が寄進されました。
また、途絶えていた「やすらい祭」を復活され、「今宮祭」には、
御牛車・鉾などを寄進され、御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、
中興の祖となりました。
桂昌院は寛永5年(1628)に西陣の八百屋の次女に生まれ、「玉」と名付けられました。
その後、関白・二条光平の家政を掌る本庄宗利の養女となり、
関白家の鷹司孝子に仕えました。
やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、
春日の局に認められて家光の側室となり、
後に5代将軍となる綱吉の生母となりました。
慶安4年(1651)に家光が亡くなると落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入り、
4代将軍・家綱が逝去され延宝8年(1680)に綱吉が将軍職に就くと、
江戸城三の丸へ入りました。
元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位を賜っています。
宝永2年(1705)6月に79歳で逝去され、東京都港区の増上寺に埋葬されました。
善峰寺金蔵寺の復興にも尽力され、善峰寺には遺髪塚、
金蔵寺には遺髪を納めた桂昌院廟があります。
拝殿
参道に戻ると、正面に拝殿があります。
元禄7年(1694)に造営され、弘化3年(1846)に改修されました。
毎年5月1日に今宮祭に出御する神輿3基が倉から拝殿に上げられる
「神輿出し」が行われます。
三十六歌仙
拝殿の上部には平成17年(2005)に奉納された、
西陣織の「三十六歌仙」が掲げられています。
本殿及び幣殿-1
拝殿の正面に幣殿及び本殿があります。
現在の社殿は明治29年(1896)の火災で焼失した後、明治35年(1902)に再建されました。
東御座に事代主命(ことしろぬしのみこと)、
中御座に大己貴命(おおなむちのみこと)、
西御座に奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)が祀られています。
高天原を追放され、出雲に降り立った素盞嗚尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)の
生贄にされそうになっていた奇稲田姫命と出会いました。
美しい奇稲田姫命が愛しくなった素盞嗚尊は、
奇稲田姫命との結婚を条件に八岐大蛇の退治することにしました。
素盞嗚尊の神通力によって奇稲田姫命は湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に姿を変えられ、
その櫛を髪に挿した素盞嗚尊は、「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」を
用いて八岐大蛇を退治しました。
その後、現在の須我神社(すがじんじゃ)の地に宮殿を建て、移り住みました。
二神は八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)を産み、
その子孫が大己貴命(大国主命)です。
事代主命は大国主命の御子神で、国譲りの際、大国主命から託されて了承しました。
疫神社
本殿の左側に疫神を祀る摂社の疫(えやみ)神社があり、素盞嗚尊が祀られています。
今宮神社が創建される以前からこの地で祀られていたとされています。
古来疫病除けの神として崇められ、諸国に悪疫が流行すると
風流の装いを凝らして詣で、鎮静安穏を祈願する習わしがあり、
「夜須礼(やすらい)」と呼ばれていました。
平安京に都が遷され、都市として栄える一方で、
疫病や洪水が発生するなどの災厄に悩まされていました。
これを鎮めるため神泉苑御霊社祇園社、今宮社など
各地で盛んに御霊会が営まれました。
当時、今宮神社は「紫野社」と呼ばれ、久寿元年(1154)には紫野社へ詣でる
「夜須礼」は、その行装が華美になりすぎたため勅命によって禁止されました。
現在は京の三奇祭の一つとされ、4月の第2日曜日に行われています。

正暦5年(994)に都で起こった大規模な疫病のために朝廷は神輿2基を造って
船岡山に安置し、音楽奉納などを行った後、
疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流しました。
民衆の主導で営まれたこの御霊会は「紫野御霊会」と呼ばれ、
今宮祭の起源とされています。
長保3年(1001)に疫病が流行した際、朝廷は疫神を船岡山から遷し、
疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けられました。
既に祇園社で疫神が祀られていたため、祇園今宮の意味で「今宮」と称しました。
社殿には大己貴命、事代主命)、奇稲田姫命の三柱の神が創祀されました。
疫病が流行する度に「紫野御霊会」が営まれ、やがて「今宮祭」として
定着するようになり、平安時代から鎌倉時代は官祭として執り行われていました。
織姫社
疫神社前の西側に織姫社があります。
江戸時代に氏子である西陣織の機織り家によって創建されました。
祭神は栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、
七夕伝説の織女に機織を教えたとされ、織物の祖神とされています。
高皇産霊神(たかみむすびのみこと)の御子神で、天照大神の御子神である
天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)の妃となり、天火明命
(あめのほあかりのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の母となりました。
阿呆賢-1
疫神社の前方に古くから神占石として信仰されている
「阿呆賢(あほかし)さん」と呼ばれる奇石が祀られています。
阿呆賢-2
「病弱な人はこの石に病気平癒を祈って石を撫で、その手で身体の悪い所を
摩れば健康の回復を早める」と記されています。
また、「重軽石」とも云われ、先ず掌で三度かるく石を打って持ち上げる、
次に願い事を込めて三度の掌で撫でて持ち上げます。
先より軽く感じれば願い事が成就すると伝えられています。
八社
境内の西側に大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・鏡作社・
諏訪社を祀る「八社」があります。
八幡社
八社の左側に八幡社があり、石清水八幡宮と同じく応神天皇、
比咩大神(ひめおおかみ)、神功皇后が祀られています。
大将軍社
八幡社の左側に大将軍社があり、牛頭天王(ごずてんのう)と
八大王子が祀られています。
牛頭天王は素盞嗚尊と同一神とされ、素盞嗚尊の五男三女が八大王子とされています。
都を鎮護するため、平安京の四方に大将軍社が建立され、
その一つの大徳寺門前に祀られた社が遷されました。
日吉社
大将軍社の左側に日吉社があり、日吉大社の祭神が祀られています。
明治元年に今宮神社の産土(うぶすな)の地「上野村」に祀られていた
上ノ御前、下ノ御前の両社が合祀されました。
若宮社-拝殿
若宮社の拝殿
若宮社
日吉社の左にある若宮社は三社が祀られています。
中央はかって、鷹峯に鎮座していた愛宕社を現在の愛宕山に遷した際、
分霊として祀られたと伝えられています。
右の加茂斎院は、元々は賀茂大神に奉仕する歴代天皇の未婚の皇女
(斎王)の館のことで、かっては今宮神社の近くにあったと伝わります。
建暦2年(1212)に加茂斎院が廃止され、その後、総鎮守の今宮社に
歴代斎王の御霊を祀るため遷されました。
左の若宮社は「薬子の変」に処罰された御霊を鎮めるため祀ったと伝わります。
紫野稲荷社
若宮社の向かいに、島のように造成された所に紫野稲荷社が祀られています。
伏見稲荷大社と同じく素盞嗚尊の御子神である
宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。
織田稲荷社
紫野稲荷社の右側に織田稲荷社があり、織田信長とその家臣が祀られています。
天正10年(1582)に本能寺の変で倒れた信長とその家臣は、
上京区元伊佐町にあった阿弥陀寺に葬られました。
その後、豊臣秀吉の都市改造により現在の上京区鶴山町に移され、
その跡地に織田稲荷社が創建されましたが、昭和62年(1987)に現在地に遷されました。
月読社-一の鳥居
若宮社の南側に鳥居が建っています。
月読社-二の鳥居
鳥居をくぐり石段を登ると、二の鳥居が建っています。
地主稲荷社の鳥居
鳥居の手前、右側には地主稲荷社の朱塗りの鳥居が建っています。
地主稲荷社
地主稲荷社には、倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が祀られ、
今宮の地の守護神とされています。
月読社
参道に戻り、更に石段を上った正面に月読社があります。
絵馬舎
石段を下った南側の絵馬舎は寛政12年(1800)に建立されました。
神馬
内部には奉納された多数の絵馬が掲げられ、神馬の像が祀られています。
寛政10年の絵馬
寛政10年(1798)作の絵馬には海北友徳(1763~1847)の名が見えます。
明和9年の絵馬
明和9年(1772)の絵馬
寛政9年の絵馬
寛政9年(1797)の絵馬
弘化3年の絵馬
弘化3年(1846)の絵馬にも海北友徳の名が見えます。

今宮神社から南へ進み、北大路通を横断して建勲神社の北参道へ向かいます。

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