鳥居
広隆寺の東側の通りを北へ進むと右側にカーブし、
次の信号の手前に大酒神社があります。
かって、広隆寺の桂宮院(けいぐういん)内にあって鎮守社として祀られ、
「大辟神社(おおさけじんじゃ)」と称されていました。
「辟」には君主の意味があります。
大辟神社は、仲哀天皇8年(199)に秦始皇帝(しんのしこうてい)十四世の孫・
功満王(こうまんおう)が戦乱を避け、日本に渡来し、
始皇帝の新霊を勧請したのが始まりとされています。

応神天皇14年(372)には功満王の子・弓月王(ゆんずのきみ)が、
百済から百二十七県(あがた)の民衆(ともがら)18,670余名を統率して渡来し、
金銀玉帛(ぎょくはく)等の宝物を献上しました。

弓月王の孫・酒公(さけきみ)は蚕を養い、上質な絹織物を織り、
朝廷に多数献上しました。
宮中に絹織物が山のように積まれ、天皇は酒公に埋益(うずまさ)という意味から
「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を贈りました。

大辟神社境内に呉服漢織の神霊が祀られるようになりましたが、
社が明暦年間(1655~1658)に破壊して合祀されるようになり、
酒公に因んで「大酒神社」と改められました。

推古天皇11年(603)に酒公の六代目の孫・秦河勝(はた の かわかつ)が
広隆寺を創建するとその鎮守社となりました。

現在広隆寺で十月十二日の夜に行われる京都三大奇祭の一つである「牛祭り」は、
大酒神社が広隆寺の伽藍神であった時の祭礼です。

明治の神仏分離令により、大酒神社は現在地に遷座し、
昭和45年(1970)の道路開通により社地は半減されました。

石碑には「蠶(蚕)養機織管絃舞楽之祖神」、側面には「太秦明神、
漢織女(あやかとりめ)、呉織女(くれはとりめ)」と刻字されています。

太秦明神とは秦河勝のことで、聖徳太子が秦河勝に「六十六番の物まね」を作らせ、
紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まりとされ、秦河勝は、
歌舞芸能の祖神とされています。
また、漢織女と呉織女は渡来した4人の織女の2人とされています。
手水舎
手水舎
本殿
本殿
大辟神社は延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳に列せられ、
近代社格制度では村社でした。
近代の研究で、「大辟」を「大避」と解釈し、「災難を避ける」との意味で道祖神が
祀られていたとも、「大裂」と解釈され土木技術によって大地・川を裂き開拓を
行なった秦氏をたたえる神格とする説など祭神の神格には諸説ありました。

明治16年(1883)の神社明細帳に主祭神を秦始皇帝・弓月王・秦酒公、
相殿神に兄媛命(えひめのみこと=呉織女)・弟媛命(おとひめのみこと=漢織女)を
祀ると記され、それが現在でも継承されています。

祭礼の「牛祭り」は、長和年間(1012~1017)に恵心僧都・源信が広隆寺金堂(講堂)の
阿弥陀如来を拝して念仏会を修し、念仏守護神として
麻多羅神を勧請したのが始まりと伝わります。
摩多羅神(またらじん)は、慈覚大師・円仁が勧請したインド伝来の神で、
円仁は常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたとされています。
当日は特異な面をつけた摩多羅神が牛に乗って四天王(白装束の赤鬼、青鬼)・
行列を従え四周を練り歩き、薬師堂前で祭文を読み上げて祭を閉じます。
鞍馬の火祭今宮神社のやすらい祭と共に、京都三大奇祭の一つに数えられ、
京都市登録無形民俗文化財に登録されています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)へ向かいます。
続く

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