浄瑠璃寺は京都府最南端、木津川市の「当尾(とうの)の里」と呼ばれる地区にあり、
浄瑠璃寺(じょうるりじ)から岩船寺(がんせんじ)に至る約1.5kmの山道を中心に、
平安時代から室町時代の石仏や石塔が点在しています。
当尾磨崖仏文化財環境保全地区として、京都府の保全地区に指定されています。
当尾の里は、古くは「小田原」と呼ばれ、平安時代後期の頃から俗化を嫌った興福寺の僧などが
この地に隠棲して修行を行い、興福寺の「小田原別所」と呼ばれていました。
やがて、草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、
いつしか「当尾」と呼ばれるようになったと伝わります。
加茂青少年山の家から南へ約600m進んだ所に大門仏谷の阿弥陀如来磨崖仏があります。
丈六(約2.5m)の如来形坐像で、この磨崖仏には銘文がありませんが、
像容から鎌倉時代初期の作と推定されています。
更に山道を進んで行くと大門石仏群があります。
山内に散在していた石仏や石塔を集めて祀られています。
向かい側には小さな祠もあります。
木津川市観光ガイド「当尾マップ」によると、春日神社だと思われます。
大門石仏群の先に釈迦寺跡があり、その地に首切地蔵が祀られています。
弘長2年(1262)の銘があり、藪の中三尊と共に在銘石仏では最古のものです。
首のくびれが深く、切れて見えるからとも、また、処刑場にあったことから
「首切地蔵」と呼ばれたとも伝わります。
首切地蔵から先へ進み、府道752号線に入った所に「藪の中の三尊磨崖仏」があります。
右側の岩に右・十一面観音、左・地蔵菩薩が、左側の岩には阿弥陀如来が刻まれています。
「東小田原西谷浄土院 弘長2年 大工 橘安縄」と銘文が刻まれ、
塔頭の浄土院で祀られていたようです。
「藪の中の三尊磨崖仏」から府道を南西方向に進んだ所に浄瑠璃寺があります。
山門
浄瑠璃寺は山号を小田原山と号する真言律宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第37番、
仏塔古寺十八尊・第10番及び関西花の寺二十五霊場・第16番の札所となっています。
山門の前には石仏が祀られています。
山門を入った左側に鐘楼があります。
右側に灌頂堂があります。
正面に梵字の阿字をかたどったとされる苑池があり、中島には弁財天を祀る祠があります。
本堂は西向きに建立されています。
浄瑠璃寺は『浄瑠璃寺流記事(じょうるりじ るきのこと)』によると、永承2年(1047)に当麻(とうま)出身の
義明(ぎみょう)上人が、薬師如来を祀る小堂を建立したのが始まりとされています。
その後、浄瑠璃寺と称されるようになりましたが、嘉承2年(1107)には本堂が取り壊され、
新たに九躯の阿弥陀如来を本尊とする本堂が建立され、薬師如来は西堂に遷されました。
久安6年(1150)に興福寺の僧・恵心が入寺して池を掘り、極楽浄土の宝池になぞらえた苑池を中心とした
現在の伽藍配置となったとされています。
現在の本堂は嘉承2年(1107)に建立されたもので、国宝に指定されています。
堂内には横一列に九躯の阿弥陀如来坐像が安置されていますが、平成30年(2018)7月から
5ヵ年計画で二躯ずつ修理中です。
『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づき、九躯の阿弥陀如来像を安置したのは、記録には
多数残されていますが、平安時代の阿弥陀如来像が残されているのは浄瑠璃寺のみで、
国宝に指定されています。
中央に安置されている像は一際大きく、像高が224cmあり、左右に像高139cmから145cmの像が
並んで安置されています。
中央の阿弥陀如来像は、右手を挙げ、左手を下げる来迎印で、残りの八躯は腹前で両手を組む、
「弥陀の定印(じょういん)」を組んでいます。
造立された年代は定かではありませんが、平等院鳳凰堂に安置されている定朝による天喜元年(1053)作の
阿弥陀如来像と様式的類似を認められています。
また、厨子に納められた像高90.0cmの吉祥天立像は、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の建暦2年(1212)に本堂に安置され、現在は中尊の左側にある厨子内に納められています。
厨子は正月(1/1~1/15)、春季(3/21~5/20)、秋季(10/1~11/30)の期間のみ開扉されます。
中尊の右側に安置されている、平安時代作で像高像高157.6cmの地蔵菩薩立像は、
「子安地蔵」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
堂内右側に安置されている像高99.5cmの不動明王と制多迦(せいたか)・矜羯羅(こんがら)の
二童子像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
平安時代後期の作で国宝に指定されている四天王像ですが、広目天は東京国立博物館、
多聞天は京都国立博物館に寄託され、増長天と持国天のみが本堂の両端に安置されています。
本堂前の石灯籠は南北朝時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
本堂の左側に建つ「六字名号碑」は寛永2年(1625)に建立されました。
本堂と苑池をはさんで対面して建つ三重塔は、『浄瑠璃寺流記事』では治承2年(1178)に
京都の一条大宮から移築したと記され、国宝に指定されています。
彼岸の中日には三重塔背後から太陽が昇り、本堂の中央に沈みます。
初層内部に薬師如来像が安置され、壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれています。
薬師如来坐像は、平安時代の作で像高85.7cm、重要文化財に指定されていますが秘仏とされ、
毎月8日、彼岸中日、正月三が日のみ開扉されます。
薬師如来は、仏塔古寺十八尊・第10番及び西国薬師四十九霊場・第37番の札所本尊となっています。
壁画は平安時代から鎌倉時代にかけて描かれ、最も古いのが壁面の十六羅漢像で、その後、
柱や扉に八方天像、釈迦八相図などが描かれたと見られていますが、
現在では剥落が激しく、判別が困難な状況です。
塔の扉は、保護のため晴天時のみ開扉されます。
塔の前に建つ石灯籠には「貞治五年(1366)丙午正月十一日造立之為法界衆生願主阿闍梨祐実」の
銘が刻まれ、国の重要文化財に指定されています。
東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した庭園は極楽世界をこの世に表わし、
東岸を「此岸」(しがん=現世)、西岸を仏の世界である「彼岸」と見立てられています。
岩船寺(がんせんじ)へ向かいます。
続く