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勅使門
茨木市宿久庄の新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)から
北東方向の山中へ登った標高400m余りの府道4号線に面して
勝尾寺の勅使門があります。
山号を「応頂山」と称する高野山真言宗の寺院で、
寺号は「かつおじ」「かちおじ」とも読まれます。
摂津三十三ヶ所観音霊場・第22番、法然上人二十五霊場・第5番の各札所です。
花の茶屋
勅使門の西側に「お休み処 花の茶屋」があり、その横が入口となっています。
入山料400円を納め、境内へと入りますが、帰りには花の茶屋の売店内を
通らなければならず、ついお土産に手が伸びてしまいます。
お迎え地蔵
境内に入ると勅使門の方へと戻りますが、
その正面に「お迎え地蔵さま」が祀られています。
手を合わせ、心を整えてから仁王門をくぐりなさいと諭されているようです。
仁王門-工事中
しかし、仁王門は工事中でした。
平成8年(1996)にも修復されたようです。
仁王門
こちらは平成31年(2019)に参拝した時の画像です。
寛文9年(1669)に豊臣秀頼(1593~1615)により再建されました。
山号「応頂山」の扁額が掲げられています。
仁王像-吽形
仁王像(吽形)
門の再建時に造立されたと思われます。
仁王像-阿形
仁王像(阿形)
仁王は仏敵の侵入を阻止するとされています。
仁王門-内側
門をくぐると、「勝王寺」の扁額が掲げられています。
寺号「勝王寺」は、第56代・清和天皇(在位:858~876)から賜りました。
元慶4年(880)、当時の住職・行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、
「勝王寺」の寺号を賜りましたが「王に勝つ」という意味の寺号は
畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたと伝わります。
『日本三代実録』には、清和天皇は貞観18年(876)に第一皇子である
9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、2年半後の元慶3年(879)に出家して
畿内巡幸の旅に入り、勝尾山に参詣したとの記述が残されています。
清和天皇の勅額は、国道171号線勝尾寺口の南側の大鳥居に掲げられており、
この大鳥居は日本最古の町石の起点でもあります。
翌年、天皇は京都嵯峨水尾の地に入りましたが病を発症し、
行巡の祈祷により回復の兆しを見せたものの、同年崩御されました。
お浄め橋
仁王門の先に「お浄(きよ)め橋」が架かっています。
橋の下からは霧が出ていて、心身が浄められます。
時折、虹も架かり、心から癒されます。
参道
橋を渡った参道の両側には石灯籠が立ち並び、平成31年(2019)に参拝時には
木々は新緑に映え、今回は紅葉にはまだ早すぎました。
勝尾寺HPの動画では、「自然は人の五感に訴える」と説かれています。
勝尾寺は平安時代以降、山岳信仰の拠点として栄えたことから、
今もその教えが伝えられているような気がします。
また、参道ではスピーカーを通して読経が流されています。
宝物館
参道を少し進んだ右側に宝物館がありますが、残念ながら公開されていません。
勝尾寺は、勝運の寺であったことから武将や貴族から数多くの
経典、仏像、古文書などが寄進され、収蔵されています。
観音像
参道の石段を上ると正面に多宝塔が見え、手前の池には観音像が祀られています。
一願不動堂
池の左側に「一願不動堂」があります。
一願不動尊
一願不動尊は、一つの願い事のみを叶える不動尊として信仰されています。
勝ち達磨奉納所
不動堂の左側には「勝ち達磨奉納所」があり、多くの達磨像が奉納されていますが、
この奉納所以外にもあらゆるところに達磨像が置かれています。
ただ一つの願い事に対して目を入れ、願いが叶い両目が入った勝ち達磨は、
まず荒神堂へ、続いて本堂でお礼の参拝をしてから奉納所へ納められ、
その数は平成31年(2019)に参拝時から数倍に増えています。
応頂閣
参道の南側には宿坊の応頂閣があります。
応頂閣-庭園
応頂閣の北側には滝が組まれた庭園が築かれています。
石垣
参道へ戻り、進んだ北側に城壁のように積まれた石垣の上に、
鐘楼やチラッと本堂の屋根の一部が見えます。
厄払い三宝荒神堂
参道を西へ進み、突き当たった右側に「厄払い三宝荒神堂」があります。
宝亀3年(772)、開成(かいじょう)皇子(724~781)が修行していた時、
体長3mの鬼神の姿をした三宝荒神が、
多数の眷属とともに夢の中に現れたと伝わります。
皇子は驚き、自ら尊影を模刻し守護神として祀った、日本最初の荒神社です。
三宝荒神は、凄まじい力を持ち、仏・法・僧を守護し、
不浄を許さない厳しさを持つことから、
火で清浄が保たれる竈(かまど)に祀られ、かまどの神、火の神とされています。
勝尾寺の荒神は、厄を祓う、難を祓うとして信仰を集めています。
薬師堂
荒神堂の北側に石段があり、その上に修復中の薬師堂があります。
源頼朝(1147~1199)によって再建された薬師堂は、勝尾寺で最古の建造物です。
本尊の薬師三尊像は開成皇子一刀三礼の作とされ、
秘仏で国の重要文化財に指定されています。
他にも経堂や閻魔堂もあるようですが、工事中で薬師堂は完成したように見えますが、
まだ石段から先の通行は禁止されていました。
鎮守堂
石段の北側に鎮守堂があります。
手前には修復中の薬師堂の防護壁がまだ残されていますが、
間もなく撤去されると思われます。
開山堂
鎮守堂の右側にある開山堂には善仲、善算と開成皇子の木像が安置されています。
伝承によると神亀4年(727)、藤原致房(むねふさ)の双子の
兄・善仲(ぜんちゅう:708~768)と弟・善算(ぜんさん:708~769)は、
この地に草庵を結び、仏道修行を続けていました。
それから約40年後の天平神護元年(765)、第49代・光仁天皇(在位:770~781)の
皇子である開成皇子が2人に師事して仏門に入りました。
宝亀8年(777)、開成皇子は念願であった大般若経600巻の書写を終え、
勝尾寺の前身である弥勒寺を創建しました。
宝亀11年(780)、妙観が弥勒寺を訪れ、7月18日から8月18日の間に、
本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝わり、
18日が観音の縁日となった由来とされています。
水掛け観音堂
「開山堂」前の短い石段を下った左側に「水掛け観音堂」があり、
先祖供養・水子供養の観音菩薩が祀られています。
大師堂
右側に「大師堂」があります。
大師堂-弘法大師像
堂内中央に弘法大師像が安置されています。
大師堂-阿弥陀如来像
その左側に阿弥陀如来像が安置されています。
大師堂-地蔵菩薩像
右側には地蔵菩薩像が安置されています。
大師堂-御砂踏み場
周囲には四国八十八ヶ所霊場より持ち帰られた砂が埋められた御砂踏み場が設けられ、
各霊場の本尊が祀られています。
本堂
現在の本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建され、
平成11年(1999)に修復が行われました。
勝尾寺は、元暦元年(1184)、治承・寿永の乱の一ノ谷の戦いの兵火を受けて
焼失しましたが、文治4年(1188)に源頼朝の命により、
熊谷直実(1141~1207)・梶原景時(1140頃~1200)によって再建されました。
応永30年(1423)には室町幕府の第4代将軍・足利義持(在職:1395~1423)により
将軍家の祈願寺となりました。
延宝2年(1674)に高野山の釈迦文院の末寺となったことから天台宗から
真言宗へと改められました。
本尊の十一面千手観世音菩薩像は、観音縁日である毎月18日に特別開帳されます。
鐘楼
鐘楼と「勝ち達磨」授与所
不動堂
不動堂
不動堂-堂内
堂内
二階堂
不動堂から北方向へと登って行くと二階堂があります。
承元元年(1207)、法然上人(1133~1212)は讃岐国流罪を赦免されて帰途、
証如上人の遺徳をしのび西の谷の草庵に4年間滞在され念佛三昧の行に入られました。
建暦元年(1211)に中国浄土教の中興の祖・善導大師(613~681)と夢中対面され
布薩戒を授けられました。
その時、 壁板に浮かび上がった善導大師と法然上人の二祖の尊影が
二階堂の本尊となりました。
上人は同年に京都に戻りましたが、
翌建暦2年(1211)に享年80(満78歳)で亡くなりました。
二階堂は上人没後に建立されましたが、敷地が狭く二階建ての建物であったため
「二階堂」と称されるようになったと伝わります。
明和7年(1770)に勝尾寺が焼失した際に、二階堂も類焼し、
天保13年(1843)に再建されました。
多宝塔
二階堂から下り、不動堂の手前を東へ進んだ所に多宝塔があります。
多宝塔-干支の彫刻
軒下には干支の彫刻が施されています。
弁天堂-1
多宝塔から下って行くと池の中に弁天堂があります。
弁天堂-2
弁財天が祀られています。
滝
その先には滝があり、小さな祠が祀られていますが詳細は不明です。
智慧の環
「お浄め橋」まで戻り、橋の北東角にある「智慧の環」を試してみました。
智慧の環-説明書
説明書にはこのように記されています。
お清め橋から弁天堂
改めて霧が出る「お清め橋」から弁天堂を望みました。

箕面の滝へ向かいます。
続く
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勅使門
勝尾寺(かつおうじ)は、標高400m余りの箕面の山中にあります。
山号を「応頂山」と称する高野山真言宗の寺院で、寺号は「かつおじ」「かちおじ」とも読まれます。
府道4号線に面して勅使門があります。
入口
勅使門の西側に「お休み処 花の茶屋」があり、その横が入口となっています。
入山料400円を納め、境内へと入りますが、帰りには花の茶屋の売店内を通らなければならず、
ついお土産に手が伸びてしまいます。
お迎え地蔵
境内に入ると勅使門の方へと戻りますが、その正面に「お迎え地蔵さま」が祀られています。
手を合わせ、心を整えてから仁王門をくぐりなさいと諭されているようです。
山門
仁王門(山門)は、寛文9年(1669)に豊臣秀頼により再建され、平成8年(1996)に修復されました。
仁王門には山号「応頂山」の扁額が掲げられています。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は門の再建時に造立されたものでしょうか?
仁王は仏敵の侵入を阻止していますが、
仏敵は自分の心に中に潜んでいることがようやく解かってきました。
山門-内側
山門をくぐると、「勝王山」の扁額が掲げられています。
寺号「勝王寺」は、第56代・清和天皇から賜りました。
元慶4年(880)、当時の住職・行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、
「勝王寺」の寺号を賜りましたが「王に勝つ」という意味の寺号は
畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたと伝わります。
『日本三代実録』には、清和天皇は貞観18年(876)に第一皇子である
9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、2年半後の元慶3年(879)に出家して
畿内巡幸の旅に入り、勝尾山に参詣したとの記述が残されています。
清和天皇の勅額は、国道171号線勝尾寺口の南側の大鳥居に掲げられており、
この大鳥居は日本最古の町石の起点でもあります。
翌年、天皇は京都嵯峨水尾の地に入りましたが病を発症し、
行巡の祈祷により回復の兆しを見せたものの、同年崩御されました。
お浄め橋
仁王門の先に「お浄(きよ)め橋」が架かっています。
橋の下からは霧が出ていて、心身が浄められます。
時折、虹も架かり、心から癒されます。
参道
参道-2
橋を渡った参道の両側には石灯籠が立ち並び、木々は新緑に映えています。
勝尾寺HPの動画では、「自然は人の五感に訴える」と説かれています。
また、参道ではスピーカーを通して読経が流されています。
宝物館
参道を少し進んだ右側に宝物館がありますが、残念ながら公開されていません。
勝尾寺は、勝運の寺であったことから武将や貴族から数多くの経典、仏像、古文書などが
寄進され、収蔵されています。
多宝塔と観音像
参道の石段を上ると正面に多宝塔が見え、手前の池には観音像が祀られています。
一願不動堂
池の左側に「一願不動堂」があります。
一願不動尊
一願不動尊は、一つの願い事のみを叶える不動尊として信仰されています。
勝ち達磨奉納所
不動堂の左側には「勝ち達磨奉納所」があり、多くの達磨像が奉納されていますが、
この奉納所以外にもあらゆるところに達磨像が置かれています。
ただ一つの願い事に対して目を入れ、願いが叶い両目が入った勝ち達磨は、
まず荒神堂へ、続いて本堂でお礼の参拝をしてから奉納所へ納められています。
応頂閣
参道の南側には宿坊の応頂閣があります。
応頂閣の滝
応頂閣の北側には滝が組まれた庭園が築かれています。
石垣
参道へ戻り、進んだ北側に城壁のように積まれた石垣の上に、
鐘楼やチラッと本堂の屋根の一部が見えます。
荒神堂
参道を西へ進み、突き当たった右側に「厄払い三宝荒神堂」があります。
宝亀3年(772)、開成(かいじょう)皇子が修行していたとき、
体長3mの鬼神の姿をした三宝荒神が、多数の眷属とともに夢の中に現れたと伝わります。
皇子は驚き、自ら尊影を模刻し守護神として祀った、日本最初の荒神社です。
三宝荒神は、凄まじい力を持ち、仏・法・僧を守護し、不浄を許さない厳しさを持つことから、
火で清浄が保たれる竈(かまど)に祀られ、かまどの神、火の神とされています。
勝尾寺の荒神は、厄を祓う、難を祓うとして信仰を集めています。
薬師堂
荒神堂の北側に石段があり、その上に修復中の薬師堂があります。
源頼朝によって再建された薬師堂は、勝尾寺で最古の建造物です。
本尊の薬師三尊像は開成皇子一刀三礼の作とされ、秘仏で国の重要文化財に指定されています。
他にも経堂や閻魔堂もあるようですが、工事中に付、石段から先の通行は禁止されていました。
鎮守堂
石段の北側に鎮守堂があります。
開山堂
鎮守堂の右側にある開山堂には善仲、善算と開成皇子の木像が安置されています。
伝承によると神亀4年(727)、藤原致房(むねふさ)の双子の兄・善仲(ぜんちゅう)と
弟・善算(ぜんさん)は、この地に草庵を結び、仏道修行を続けていました。
それから約40年後の天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子である開成が2人に師事して仏門に入りました。
宝亀8年(777)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、
勝尾寺の前身である弥勒寺を創建しました。
宝亀11年(780)、妙観が弥勒寺を訪れ、7月18日から8月18日の間に、
本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝わり、
18日が観音の縁日となった由来とされています。
水掛け観音堂
「開山堂」前の短い石段を下った左側に「水掛け観音堂」があります。
水掛け観音堂-観音像
先祖供養・水子供養の観音菩薩が祀られています。
大師堂
「水掛け観音堂」の右側に「大師堂」があります。
弘法大師像
阿弥陀如来像
地蔵菩薩像
堂内には弘法大師像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像が安置されています。
大師堂-堂内
周囲には四国八十八ヶ所霊場より持ち帰られた砂が埋められた御砂踏み場が設けられ、
各霊場の本尊が祀られています。
本堂
現在の本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建され、平成11年(1999)に修復が行われました。
勝尾寺は、元暦元年(1184)、治承・寿永の乱の一ノ谷の戦いの兵火を受けて焼失しましたが、
文治4年(1188)に源頼朝の命により、

熊谷直実梶原景時によって再建されました。
本尊の十一面千手観世音菩薩像は、観音縁日である毎月18日に特別開帳されます。
勝ち達磨授与所
本堂前に「勝ち達磨」授与所があります。
鐘楼
授与所の横に鐘楼があります。
納経所横の大樹
鐘楼の向かいに納経所があり、その横には楠の大木が聳えています。
勝尾寺は、西国三十三所観音霊場・第23番、神仏霊場・第65番、
法然上人二十五霊場・第6番などの札所となっています。
不動堂
納経所の東側に不動堂があります。
不動堂-堂内
堂内
二階堂
不動堂から北方向へと進むと二階堂があります。
二階堂は、第四代座主・証如上人によって建立されました。
承元元年(1207)、法然上人は讃岐国流罪を赦免され、帰途、証如上人の遺徳をしのび
西の谷の草庵に4年間滞在され念佛三昧の行に入られました。
建暦元年(1211)に中国浄土教の中興の祖・善導大師と夢中対面され布薩戒を授けられました。
その時、 壁板に浮かび上がった善導大師と法然上人の二祖の尊影が二階堂の本尊となりました。
上人は同年に京都に戻りましたが、翌建暦2年(1211)に享年80(満78歳)で亡くなりました。
二階堂は上人没後に建立されましたが、敷地が狭く二階建ての建物であったため
「二階堂」と称されるようになったと伝わります。
明和7年(1770)に勝尾寺が焼失した際に、二階堂も類焼し、天保13年(1843)に再建されています。
二階堂からの境内
二階堂から少し下り、山門を望みます。
多宝塔
二階堂から下り、不動堂の手前を東へ進んだ所に多宝塔があります。
多宝塔-干支の彫刻
軒下には干支の彫刻が施されています。
弁天堂-1
弁天堂-2
多宝塔から下って行くと池の中に弁天堂があります。
鳥居と滝
鳥居を東側にくぐった所に滝があり、小さな祠が祀られていますが詳細は不明です。
智慧の環
智慧の環-説明
「お浄め橋」まで戻り、橋の北東角にある「智慧の環」で、案内板の通りに試してみました。

西国三十三所観音霊場・第22番、神仏霊場・第63番他札所の総持寺へ向かいます。
続く

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