来迎橋
勝林院への手前の川は「三途の川」とされ、この川に架かる来迎橋を渡って
本堂の阿弥陀仏の極楽浄土に至るとされています。
本堂-1
勝林院は正式には「魚山大原寺勝林院(ぎょざんだいげんじしょうりんいん)」と
号する天台宗の寺院で、法然上人二十五霊跡の第21番札所です。
仁寿年間(851~854)、第3代天台座主・慈覚大師円仁は
この地に天台声明の道場を開きましたが、その後荒廃しました。
長和2年(1013)に寂源により復興され、勝林院が建立されました。
寂源は左大臣・源雅信の八男で俗名を源時叙(みなもと の ときのぶ)と
称しました。
時叙は、寛和元年(985)には昇殿を許され、その後、右近衛少将に任じられましたが、
天延元年(987)頃、動機は不明ですが、同年に出家した
兄の源時通の後を追うかのように出家しました。
延暦寺園城寺(三井寺)の対立を避けて長和2年(1013)にこの地に移り住みました。
寂源は大原で声明を復興し、浄土信仰・法華信仰の研鑽に励んで様々な苦行を行い、
その度に毘沙門天が現れて寂源を守護したと伝えられています。

天仁2年(1109)に聖応大師良忍が来迎院を再興すると、勝林院を本堂とする下院と
来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院から成る付近一帯は
「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
江戸時代初期に春日局の願により崇源院の菩提を弔うため本堂が再建されましたが、
享保21年(1736)に焼失し、現在の本堂は安永7年(1788)に再建されました。
本堂-2
本尊は丈六の阿弥陀如来坐像で、創建当初の本尊は仏師の康尚の作と伝わります。
寛仁4年(1020)に寂源が勝林院の本堂で法華八講を開いた際、本尊が自らの意を
表したとされ、以来、「証拠阿弥陀」と呼ばれるようになりました。
また、文治2年(1186)に一昼夜にわたって行われた「大原問答」では、
法然上人の主張が正しいことを本尊が光を放って支持したと伝わります。
これにより本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになりました。
この問答に重源も招請されていました。
重源は源平の争乱で焼失した東大寺を再建し、前年の文治元年(1185)には
大仏の開眼供養が行われました。
問答を終えた翌日に重源は、自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事しました。
また、問答の聴衆たちは念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知り、
三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けました。
しかし、本尊は享保21年(1736)に焼失し、翌天文2年(1737)に開眼供養されたのが
現在の本尊です。
脇侍には不動明王立像と毘沙門天立像が安置されています。
弁天堂
本堂裏側に弁天堂があります。
最胤親王の墓
その右側に石段があり、それを登った所に
最胤親王(さいいんしんのう:1565~1639)の墓があります。
最胤親王は伏見宮邦輔親王の第八王子で、正親町(おおぎまち)天皇の猶子となって
天正3年(1575)に三千院で出家しました。
慶長17年(1612)に第169代天台座主に就き、28年間その任にあって
寛永16年(1639)に薨去されました。
池と石段
本堂の右前に池があり、その先に石段があります。
東屋
石段を登ると東屋があり、作庭されています。
カエルに似た石
池の中の石はカエルに似ているようにも見えます。
山王社
更に上部には鎮守社の山王社があります。
観音堂
右側には観音堂があります。
その右側の宝篋印塔は鎌倉時代末期の作で、国の重要文化財に指定されています。
鐘楼
宝篋印塔から下ると寛永年間(1624~1645)に春日局によって再建された
鐘楼があります。
梵鐘は平安時代中期に鋳造されたもので、国の重要文化財に指定されています。
経蔵
本堂の左前には経蔵があります。

西側に隣接する塔頭の宝泉院へ向かいます。
続く

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