羽束師坐高御産日神社は京都市伏見区羽束師志水町にあり、府道123号線から北へ
進んだ所から参道となって、一の鳥居が建立されています。
一の鳥居の手前の四つ角に「北向見返天満宮」の碑が建っています。
東へ進んだ所に摂社の北向見返天満宮があります。
平成27年(2015)に境内の整備が行われました。
暖冬のせいか早くも梅が満開に近く開花しています。
昌泰4年(901)、大宰府への左遷が下された菅原道真は羽束師橋付近の草津湊から
出発したとされ、道真は都への別れを惜しんで羽束師神社へ参拝したとされています。
その際に禁裏がある北方を振り向いたとされ、
「北向見返天満宮」と呼ばれる所以となりました。
「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 社といふらん」と
詠まれていますが、その後先は不明ですがかって、
菅原道真の領地だった所にも立ち寄ったとされています。
その地には長岡天満宮が創建され、羽束師坐高御産日神社から
西へ、徒歩で約1時間の距離にあります。
社殿は覆屋の中に納められています。
北向見返天満宮から戻り、参道を北へ進むと角柱の二の鳥居が建っています。
二の鳥居をくぐった左側に「区民の誇りの木」に指定されている
クスの大樹が聳え、御神木とされています。
かって、鎮守の森は「羽束師の森」と呼ばれ、「恥づかし」を掛けて和歌にも詠まれました。
元は大きな森であったと推察されていますが、都市化により規模が縮小され、
現在残る境内は貴重として京都市の史跡に指定されています。
左側に羽束師大神を祀った祠があります。
石像は阿弥陀如来だそうで、周囲の宅地開発に伴い、
掘り出されて祀られるようになりました。
鳥居をくぐった右側には社務所があります。
社務所の北側に神輿庫があります。
毎年5月の第2日曜日に羽束師祭が行われ、3基の神輿(内2基は子供神輿)が巡幸します。
3基の神輿の内2基は江戸時代に造られました。
現在の拝殿は嘉永3年(1850)に、本殿と共に再建されました。
拝殿に掲げられている扁額には「羽束石社」と記されています。
羽束師社の表記には変遷があるようで、康保4年(967)の『延喜式』に臨時祭が催され、
祈雨神祭八十五座の中に「羽束石社」が記されています。
拝殿には俵が奉納されています。
割拝殿をくぐると正面に本殿があり、屋根付きの廊下で結ばれています。
羽束師坐高御産日神社の創建は古墳時代の雄略天皇21年(477)とされています。
この地は古くから農耕や桂川などの水上交通によって栄えた場所であり、
賀茂氏や秦氏のほかに品部(しなべ/ともべ=古代日本の人的集団)の
泊橿部(はつかしべ)が居住していたとされています。
飛鳥時代の欽明天皇28年(567)に桂川が増水して周囲の集落が浸水しましたが、
人命に被害が及ばなかったとして、第29代・欽明天皇から
封戸(ふこ)を賜ったとされています。
封戸とは「食封(じきふ)」とも称され、貴族や社寺などに支給した戸で、
その戸の租税が収入となりました。
天智天皇4年(665)には勅を受けて中臣鎌足が再建したとされ、
『続日本紀』大宝元年(701)4月3日条に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・
木嶋神・波都賀志神(羽束志神)などの神稲については、
「今後は、中臣氏に給付せよ」と記され、これが文献上での初見とされています。
中臣氏はこの神稲でもって新嘗祭を行っていたようです。
延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳では山城国第一の社として
大社に列せられましたが、明治維新後の近代社格制度では郷社となりました。
本殿
祭神は高皇産霊神(たかみむすひのかみ)と神皇産霊神(かみむすひのかみ)で、
天地開闢の際に最初に高天原に出現したのが天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、
その次に神皇産霊神と高皇産霊神が現れたとされています。
この三神は「造化の三神」とされ、性別が無く、人間界から姿を隠している
「独神(ひとりがみ)」とされています。
宮中の八神殿で祀られ、高皇産霊神と神皇産霊神は霊魂に関わる神々とされ、
他の六神と共に天皇の健康に関わる重要な神々とされました。
『続日本紀』の記載にあるように当初の祭神は、波都賀志神(羽束志神)だったと推察されます。
当地に居住していた泊橿部(はつかしべ)の祖神だったのかもしれません。
その後、当地に御所に食物を献上する「羽束師園(その)」が置かれたのが、
現在の祭神となった関わりがあるように思えます。
また、現在では「縁結びの神」として信仰されています。
本殿の左右には境内社が並んでいます。
左側
手前から貴船神社、西宮神社、稲荷大社、厳島神社、愛宕神社、若王子神社
右側
左から伊勢神宮(天照皇大神)、石清水八幡宮、春日大社、大神神社、籠勝手明神
大同3年(808)に斎部広成(いんべ の ひろなり)は、第51代・平城天皇の奏聞を得て
天照皇大神を始め十一神を新たに勧請したとされています。
斎部氏は代々中臣氏と並んで朝廷において祭祀を掌る官職に任ぜられてきました。
右側の奥には稲荷社があります。
境内の西側にある社殿には神社近郊で祀られていたものが合祀され、祀られています。
神社の西側に西羽束師川が流れています。
この地では古くから農耕が行われていましたが、低湿地帯で水はけが悪く、
江戸時代には3年に1度は米の収穫ができなくなりました。
当時の羽束師神社の神官らが中心となって文化8年(1811)に治水工事が開始されました。
17年の歳月を費やし、文政18年(1825)に完成したのがこの水路で、
総延長は12km余りに及びます。
この道標は偉業を讃えるため、久我畷四ッ辻に建立されていましたが、
昭和55年(1980)に現在地に移されました。
誕生寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村