内裏公園の東側に北真経寺があります。
北真経寺は山号を鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院です。
北真経寺は、鎌倉時代の徳治2年(1307)、真言宗であった真言寺の住職、
実賢(じっけん)が、日蓮の孫弟子である日像(にちぞう)に帰依し、
日蓮宗に改宗しました。
寺号の真経寺は、真言宗の「真」と日像の幼名である経一丸の「経」から
採られました。
江戸時代の承応3年(1654)、真経寺を南北に分けて、
北真経寺に鶏冠井檀林(かいでだんりん)を開いて僧侶の学問所とし、
南真経寺は村民の信仰の場となりました。
鶏冠井檀林には、講堂を囲むように、9棟の寮が建設され、
数十人~百人以上もの学僧が集い、多くの指導者も育ちました。
経典の収集や出版事業なども行われ、方丈には、三千冊を超える書物が
保管されていました。
しかし、明治8年(1875)檀林は廃止され、寮などの建物は破却されました。
南門
北真経寺は長岡宮の内裏の跡地に建立されたと考えられています。
平安京の内裏には紫宸殿、仁壽殿(じじゅでん)、承香殿(じょうきょうでん)が
南北に連なり、その北側の左右に弘徽殿(こきでん)と麗景殿(れいけいでん)、
その中間奥に常寧殿(じょうねいでん)などがありました。
長岡京で内裏内に建立されていた建物数は不明ですが、北真経寺の南門から
少し南側を中心に160m四方の広さがあったと推定されています。
残念なことに周囲は住宅街で、内裏内の発掘調査は当面不可能と思われます。
北門は、近年復興されました。
北真経寺には、釈迦が出家する因縁となった「苦・集・滅・道」の四諦(したい)を
示す東西南北に四門が建設されていましたが、 現在は東門は失われています。
四諦(したい)とは、「仏教の根本教理を示す語で、「苦」は生・老・病・死の苦しみ、
「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境地、
「道」は悟りの境地に達する修行。」と解説されています。
現在の本堂は江戸時代当時の講堂で、京都府の登録文化財です。
本尊は一塔両尊四士で、題目を大書した宝塔の左側に釈迦牟尼仏、
右側に多宝如来が奉安されています。
本堂奥の方丈には、「深玄窟」の扁額が掲げられています。
妙見堂には妙見大菩薩が祀られています。
日蓮宗の檀越であった下総の豪族・千葉氏が妙見菩薩を守護神としていたことから、
日蓮宗の寺院では妙見菩薩が祀られるようになったとされています。
鐘楼
経堂
春日神社
北真経寺から直線で北東約150mの場所に鶏冠井かしの木公園があります。
この公園の付近に春宮坊(とうぐうぼう)と安殿親王(あてしんのう=
後の第51代・平城天皇)の住居(東宮)があったと推定されています。
平成8~9年(1996~7)に発掘調査が行われ、宮城の東端を区画する
南北方向の溝(東一坊大路西側溝)が発見されました。
溝の中からは木簡、墨書土器、漆紙文書などの文字資料や
土器類など多量の遺物が出土しました。
文字資料から長岡京廃都時に春宮坊から捨てられたことが判明しました。
春宮坊は、皇太子の政務や日常生活を支えた役所であることから、
東宮もこの付近にあったと推定されています。
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公園の東側は東海道本線が通り、その東側に向日町操車場があります。
287系
泉福寺へ向かいます。
続く
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