「鷹峯」の信号から東へ進んだ北側に常照寺があります。
常照寺は山号を寂光山と号する日蓮宗の寺院で、本阿弥光悦の養子・光嵯が
この地に建立した四ヶ寺の一寺です。
元和2年(1616)に光嵯が、身延山久遠寺の21世・日乾上人(にっけんしょうにん)を
招き、「法華の鎮所」として開創したのが始まりです。
日乾上人は「寂光山・常照寺」と名付け、
寛永4年(1627)には学寮である鷹峯檀林を開きました。
鷹峯檀林は明治5年(1872)に、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である
学制が発布されるまで続きました。
参道を進んだ先にある朱塗りの山門は、日乾上人に帰依した二代目・吉野太夫が
寛永5年(1628)に寄進したもので、「吉野門」と呼ばれています。
現在の門は大正6年(1917)に再建されたもので、当初は二層の楼門でした。
門を入った右側に帯塚があります。
昭和44年(1969)に「じゅらく」の創業者・伊豆蔵福治郎氏が発願主となって
建立されました。
塚石は帯の形状をした重さ6トンの四国吉野川産の自然石で、
「昭和の小堀遠州」と称えられた中根金作氏により作庭されました。
春には帯着物の供養が行われています。
左側の小直衣(このうし)姿の像は、大正時代から昭和時代にかけての京都の
日本画家、版画家・吉川観方(よしかわ かんぽう)のものです。
小直衣とは、貴族の平服であった直衣(のうし/ちょくい)のやや小ぶりのもので、
狩衣(かりぎぬ)の裾に「襴(らん)」と呼ばれる、
足さばきが良いように横ぎれが付けられたものです。
吉川観方は、幼い頃から書や日本画を学び、京都市立絵画専門学校
(現・京都市立芸術大学)に入学してからは京都で初めて木版役者絵を制作しました。
大正9年(1920)に同研究科を修了し、大正11年(1922)に関西で初めて雲母摺り
大錦判の役者絵を作り、関西での新版画作家として知られるようになりました。
役者絵のほか、風景画や美人画も制作する一方で、故実研究会を創立し
浮世絵、時代風俗研究や資料収集に取り組みました。
編著書の中に、いづくら商事発刊の『帯の変遷史』などがあります。
この像は昭和54年(1979)に吉川観方氏の功績を永久に祈念するために、
仏師・江里宗平(えり そうへい)の監修で、
彫刻家の江里敏明により制作されました。
経蔵だと思われますが定かではありません。
経蔵だとすれば、元禄9年(1696)に建立されました。
経蔵前の碑には、日蓮聖人の言葉が記されています。
「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」
その先に受付があり、拝観志納金400円を納め、本堂へ向かいます。
現在の本堂は、創建時の講堂を改築したものとされています。
本堂に掲げられた日潮筆の扁額「旃檀林(せんだんりん)」が
講堂の名残を留めています。
中国唐代の禅僧の永嘉玄覚(ようか げんかく)の作とされる『証道歌』の
「旃檀林に雑樹無し、鬱密深沈(うつみつしんちん)として獅子のみ住す」
から取られています。
本尊は仏・法・僧の三宝を祀る三宝尊だと思われます。
一般的には中央に題目宝塔が安置されていますが、常照寺では日蓮聖人と
思われる像が安置されています。
両脇に釈迦如来・多宝如来、更にその両側に二躯の仏像が安置されています。
向かって右側は不動明王で、左側は五大明王の一躯だと思われます。
本堂で常照寺のビデオを鑑賞した後、渡り廊下で東の離れに向かいます。
廊下の北側は、枝垂桜と巨石を配して作庭されています。
こちらがその離れで、堂内には吉野太夫の掛け軸や阿弥陀如来像が
安置されていますが、撮影は禁止されています。
本堂まで戻り、本堂から西の方へ進むと鬼子母神堂があり、三躯の鬼子母神像と
十羅刹女(じゅうらせつにょ)が祀られています。
堂内右側に行者守護の鬼形鬼子母神像、左側に子安の母形鬼子母神像、
中央には鬼面にして、足元に男女の子供を連れた、行者守護と子安の両面を意味する
双身鬼子母神像が祀られています。
十羅刹女は、元は人の精気を奪う鬼女でしたが、釈迦の説法に触れ、
鬼子母神と共に改心して法華経の諸天善神となった10柱の女性の鬼神です。
鬼子母神堂の手前、北側に常富大菩薩を祀る鎮守社があります。
亨保年間(1716~1736)に山内に度々不思議な出来事が起こり、当時学頭だった
日善上人が、ある夜学寮の智湧(ちゆう)という年老いた学僧の部屋を覗きました。
すると、一匹の白狐が一心に勉強しており、姿を見られた狐は檀林を去り、
能勢・妙見山に登って修行を重ね、常富大菩薩になったと伝わります。
檀林を去るに際して、首座(しゅざ=学長)あてに起請文(きしょうもん)と
道切請文(どうぎりしょうもん=退学届)とを書いて残され、
その末文には狐の爪の印が押されており、常照寺の霊宝として保存されています。
鎮守社の右側に妙法龍神社があります。
東へ進むと、奥に門があり、下りの石段が続きます。
下った右側に白馬観音の石碑が建ち、更に右側に下ります。
下った所に白馬池があり、手に法華経を持ち、
白馬にまたがる観音像が祀られています。
昔、常照寺の北山で白馬に乗り、池を往来していたという伝説の仙人が
「白馬観音」として祀られています。
像は江里敏明氏によるブロンズ製で、背後の宝塔は、インド・マトューラ出土の
釈尊像後背を模して造られました。
池は平成21年(2009)秋に復刻され、畔には顕彰碑が建立されています。
但し、この先は行き止まりなので、下ってきた石段を登って戻らなければなりません。
門まで戻り、門の右横の短い石段を上ると空き地があります。
檀林時代、この地には30棟を超える学寮が建ち並び、数百人の学僧が13年以上も
入寮して、学業のみならず、勤行や日常の礼儀作法など厳しい「山門永則」に
定められた教育を受けていました。
現在でも5700坪の敷地が残されていますが、かっては数万坪に及んだと伝わります。
聚楽亭
空き地を横切った先に茶室・聚楽亭、その東側に茶室・遺芳庵があります。
遺芳庵は吉野太夫を偲んで建てられました。
建物は東西に長く、東の端が開放されています。
茶窯や炉が残されています。
壁いっぱいに切られた円窓は、吉野太夫が好んだことから
「吉野窓」と呼ばれています。
外から見ると円窓の下部が切り取られています。
完全な円は、禅の神髄、悟りの境地、仏性の本質などを表し、
その境地には達していないことを客観的に見つめ直すように、
あえて完全な円にはされていません。
参道を本堂の裏側へと戻ります。
飾瓦
本堂裏の東北側に比翼塚があります。
第14代・片岡仁左衛門が、吉野太夫と太夫を身請けして夫となった
灰屋紹益(はいやじょうえき)の二人を題材とした狂言「さくら時雨」を
演じたことから、二人の供養のため昭和46年(1971)にこの塚を建立しました。
紹益の歌碑が建っています。
「都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして」
紹益の父は本阿弥光悦の甥・光益で、若くして紺灰座(こんばいや)を営む佐野家の
養子となり、家業を継ぎました。
佐野家は、紺染めに用いる灰を扱う、京の上層町衆を代表する豪商でした。
一方で、本阿弥光悦より茶の湯を学んだ他、和歌、挿花、書画、蹴鞠(難波系)、
俳諧など、当時その道の第一人者と目される門人となる知識人でもあり、
第108代・後水尾天皇や八条宮智忠親王等の皇族とも親交がありました。
寛永8年(1631)、紹益が22歳の時、後水尾天皇の実弟の関白・近衛信尋
(このえ のぶひろ)と当時26歳の吉野太夫の身請けを巡って争い、
これに勝利して太夫を妻としました。
しかし、寛永20年(1643)に太夫が亡くなり、荼毘に付されました。
紹益がその灰を飲み干し、詠んだのが上記の歌とされています。
元禄4年(1691)に紹益は82歳で亡くなり、佐野家の菩提寺である
立本寺(りゅうほんじ)に埋葬されました。
片岡仁左衛門は二人の名前を記し、この供養塔を建てました。
塚から墓地に入ると、その中央に開山廟があり、
日乾上人の本墓である五輪塔が祀られています。
欅の扉には、珍しい「五七の花桐紋」が彫刻されており、
常照寺の寺紋にもなっています。
開山廟の背後に二代目・吉野太夫の墓があります。
太夫の本名は松田徳子で、慶長11年3月3日(1606年4月10日)に、
西国の武士・松田武左衛門の娘として方広寺付近で誕生しました。
7歳の時に父を亡くし、六条三筋町(後に島原に移転)の林家に、
禿(かむろ=遊女の世話をする少女)として預けられました。
14歳で太夫となり、和歌、連歌、俳諧に優れ、琴、琵琶、笙が巧みであり、
更に書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたと伝わります。
才色兼備を称えられ、国内のみならず、遠くは明国にまで名声を轟かせました。
寛永20年8月25日(1643年10月7日)に38歳で亡くなりました。
太夫を偲び、毎年4月第3日曜日に花供養が行われ、島原から太夫が参拝します。
井原西鶴の『好色一代男』には、世之介が吉野太夫との結婚を、
親族から猛反対される話が記されています。
世之介は太夫に頼まれ、「吉野に明日限りで暇を出すので、最後に花見の宴を催す」
との触れ状を出し、親戚一同を集めました。
当日、太夫は下女のみすぼらしい恰好をして親戚一同の接待を行いました。
「箏を弾き、笙をふき」「茶をしほらしく点て花を活け替え」「話題は風流事からはては
家計のやりくりの話まで」人をひきつけて離すということがない、
このような女性は親戚中探してもいないと、
離縁に対して親族から抗議の声が上がりました。
そこで、正式に祝言をあげることとなったと記されています。
光悦寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村