清和院前の七本松通を南下し、西行一方通行でバイクでは進入できない仁和寺街道を
東へ進み、千本通の一筋手前を南下した所に成人映画を上映する映画館があります。
この辺りが「五番町」で、昭和33年(1958)に売春防止法が施行されるまで
遊郭がありました。
現在は住宅街に変貌し、その面影は残されていませんが、学生時代には僅かに
それらしき建物があり、友人が下宿していました。
付近に居酒屋があり、そこの御主人の機嫌が良い時はカラオケの無い時代なので、
「カスバの女」などをアカペラで歌われることがありました。
心に染み入り、その歌を目当てに通われる常連さんもいたほどです。

かって、この地は野原で、豊臣秀吉が聚楽第を築城する際に武家地として
開発・整備し、一番町から七番町辺りまで名付けられました。
しかし、秀吉が居城を伏見へ移すと及び荒廃し、江戸時代初期に再開発されて
ここに移住してきた住民が北野天満宮愛宕山への参拝客を相手に
茶屋を営んだのが花街として発展していくことになりました。
作家・水上勉は、この遊郭を舞台に学生僧の金閣寺放火事件を題材として
五番町夕霧楼』を著しました。
通用門
映画館の西の六軒通を南下した東側の七番町に福勝寺があります。
福勝寺は山号を竹林山と号する真言宗善通寺派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場・第29番及び京都十二薬師霊場の第六番札所です。
山門
通に面した山門は、かっては九条家の屋敷の門と伝わります。
毎年2月3日の節分会の日に開門されます。
節分会には瓢箪のお守りが授与されます。
正式には「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」と称され、
弘法大師が唐で学んだ「如意宝珠の修法」に由来します。
「如意宝珠」とは「意のままに願いを叶えてくれる」という宝珠で、
瓢箪が宝珠をふたつ重ねた姿に似ているとして、鎌倉時代ごろから
お守りとして用いられるようになったと伝わります。
この瓢箪のお守りから「ひょうたん寺」と呼ばれるようになりました。
細い通路
通路を右側に進んだ左側に本堂があります。
福勝寺は弘法大師により河内国古市郡中村(現在の大阪府羽曳野市)
に創建されたと伝わります。
しかし、その後衰微し、正嘉年間(1257~59)に醍醐寺覚済(かくぜい)に
よって、京都油小路五条坊門に再建されました。

その後も2回移転し、安土・桃山時代には豊臣秀吉の京都改造により
福勝寺を寺町通丸太町下ルに移転させたと推定されています。
秀吉は武運長久を祈願して奉納した瓢箪で「千成瓢箪」の旗印を作ったと
伝わります。
天下統一後に自作の木像を福勝寺に納め、寺領を寄進しました。
第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の勅願寺となりましたが、
宝永の大火(1708)で焼失しました。
その後、現在地で再建され、第111代・後西天皇(在位:1654~63)の
勅願寺となりました。
本堂
本堂
本尊は薬師如来で「峰の薬師」と呼ばれ、京都十二薬師霊場・第六番の
札所本尊ですが、60年に1度開帳される秘仏とされています。
かって、京都市西京区御陵峰ケ堂の法華山寺の峯堂に安置されていましたが、
南北朝の争乱の際に遷されたと伝わります。
法華山寺は鎌倉時代に延朗(えんろう)上人により西山の峰ヶ堂に
創建されましたが、正慶元年(1332)に兵火で焼失し、その後廃寺となりました。
寺の跡地には、峰ヶ堂城が築かれました。

本堂の脇壇に安置されている聖観世音菩薩像は聖徳太子の作と伝わり、
後西天皇が祈願し、それが成就されたことから「観世音菩薩」の名号と
紫宸殿の左近の桜の分木を下賜され、「桜寺」と呼ばれるようになりました。
聖観世音菩薩は洛陽三十三所観音霊場・第29番の札所本尊でもあります。

聖歓喜天像は唐に渡った空海が、長安の青龍寺の恵果(けいか)和尚より
伝授されたものと伝わります。
恵果和尚は延暦24年(805)に60歳で入寂され、臨終間際に空海に伝授され、
翌年空海は日本に帰国しました。

不動明王像は空海の作と伝わり、「牛皮不動」とも呼ばれ、
名不動の一つに数えられています。
十三重石塔
本堂前に建つ十三重石塔の横に下賜されたと思われる桜の木があります。

福勝寺南の出水通を西へ進み、地福寺へ向かいます。
続く

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