総門
桂川の北岸を嵐山方面から三条通りに入り、その先で左折して北へ進んだ先に
鹿王院があります。
総門前に無料駐車場があります。
鹿王院は正式には「覚雄山・大福田宝幢禅寺・鹿王院」と号する
臨済宗系の単立寺院です。
室町幕府第3代将軍・足利義満はある夜、夢の中で「今年必ず大病するが、
一伽藍を建立すれば寿命が延びる」と告げられました。
そこで、義満は春屋妙葩(しゅんおく みょうは:1312~1388)を開山として
康暦元年(1379)に興聖禅寺(こうせいぜんじ)を創建しました。
嘉慶元年(1387)に開山堂が建立されると周りに野鹿が集まったことから、
開山堂は「鹿王院」と称されました。
開山堂は春屋妙葩の寿塔(生前に造る墓)を守る塔頭として創建されましたが、
妙葩はその翌年に入寂されました。
その後、寺号は「大福田宝幢禅寺(だいふくでんほうどうぜんじ)」と改称され、
至徳3年(1386)には京都十刹(五山に次ぎ、
諸山の上に位置する臨済宗の寺格)に列せられました。
一休宗純は、12歳の時にこの寺で維摩経の講義を受けたと伝わります。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で灰燼に帰し、
宝幢禅寺は廃絶し鹿王院のみが残されました。
鹿王院も文禄5年(1596)の慶長伏見地震で倒壊しました。
寛文年間(1661~1673)に徳川四天王と称された酒井忠次の子・
忠知により再興され、忠知の子である虎岑玄竹(こしん げんちく)が中興開山となり、
鹿王院が寺名とされました。
総門は切妻造の本瓦葺きで、創建時に近い南北朝時代の建立と推定されています。
総門-扁額
山号「覚雄山」の扁額は、足利義満の22歳頃の真筆とされています。
築地塀
築地塀は「信長塀」のように見えますが、詳細は不明です。
参道
参道には多数の楓が植えられ、秋は紅葉の名所となっています。
鎮守社
参道の途中左側に鎮守社があります。
稲荷社
こちらは稲荷社でしょうか?
中門
更に参道を進むと中門があります。
庫裏
中門をくぐり、斜めに進んだ先に庫裏があります。
庫裏で参拝料400円を納めると、諸堂を参拝することができます。
玄関
庫裏の入口の左側にある客殿の玄関
韋駄天像
庫裏には韋駄天像が安置されています。
増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神で、
日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神とされ、
中国の禅寺では山門や本堂前によく祀られています。
客殿
客殿は明治時代(1868~1912)の初期に建立されました。
客殿-扁額
客殿の扁額「鹿王院」は足利義満の真筆で、「天山」という義満の法号の院があり、
出家した38歳以降の揮毫とみられています。
舎利殿前庭-1
舎利殿前の庭園は宝暦13年(1763)に、嵐山を借景として作庭されたもので、
市の名勝に指定されています。
舎利殿前庭-2
苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園です。
舎利殿前庭-三尊石
石組みは三尊石でしょうか?
茶室・芥室
茶室・芥室(かいしつ)は、昭和11年(1936)に俳優の大河内傳次郎から
寄進されたものですが、非公開です。
「芥室」は普明国師の号で、「取るに足りない小さな者」の意味があります。
渡り廊下
諸堂は渡り廊下で結ばれています。
小鳥
小鳥も遊びに来ています。
本堂
本堂(開山堂)は延宝年間(1673~1681)に虎岑玄竹により再建されました。
堂内中央に運慶作と伝わる本尊の釈迦如来坐像と
十大弟子像が安置され、仏殿を兼ねています。
後檀右に開山・普明国師(春屋妙葩)像が安置され、
その真下に延宝4年(1676)に建立された宝篋印塔があります。
左に延宝3年(1675)以前に造立されたとみられる衣冠束帯姿の
足利義満像が祀られています。
他に虎岑和尚像などが安置されています。
舎利殿
舎利殿は「駄都殿(だとでん)」とも称され、宝形造で裳階付き建物で、
江戸時代に建立され、宝暦13年(1763)に現在地に移築再建されました。
舎利殿-厨子
殿内の中央に銅製鍍金の多宝塔を納め、四方に四天王像を配した
宮殿風の大きな厨子があります。
多宝塔内には、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が宋(中国)から将来したと
伝わる仏牙舎利が水晶玉内に奉安されています。
仏牙とは釈迦の歯のことで、歯は言葉を発する重要な源であり、釈迦の教え
そのものと象徴されることから、仏舎利の中でも最も貴ばれています。
仏牙舎利は当初、鎌倉の円覚寺に安置されましたが、その一部を
北朝第4代・後光巌天皇が京都に献じさせ、応安7年(1374)に普明国師が
天皇から賜り、鹿王院に安置されるようになりました。
この仏牙舎利は、釈迦涅槃後の荼毘の時に帝釈天に与えると約束されていましたが、
捷疾羅刹(しょうしつらせつ)という鬼が盗んで逃げ去りました。
これを毘沙門天が取り戻し、南山道宣律師
付嘱(ふしょく=たのみまかせること)しました。
道宣律師は自らが開いた宋の都・臨安の能仁寺に奉安しました。
源実朝は、夢の中で道宣律師の再来と伝えられたことにより、
能仁寺の仏牙舎利の請来を再三行い、ようやく目的を遂げました。
仏牙舎利が博多に着いたのが10月15日とされることから、
この日を「舎利会」と定め、厨子を開帳して供養が行われています。
天蓋
天蓋には龍図が描かれ、堂内には釈迦涅槃図や十六羅漢図が掲げられています。

車折神社へ向かいます。
続く

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