拝殿
大石神社は昭和10年(1935)に当時の第23代京都府知事・鈴木信太郎氏を会長とする
大石神社建設会や山科義士会などの提唱により創建されました。
枝垂桜
鳥居をくぐった右側の枝垂桜は「大石桜」と呼ばれ、かって大石良雄隠棲の地に
生育していたものを現在地に移植し、御神木とされました。
「区民誇りの木」に指定され、毎年四月の第一日曜日には「さくら祭」が催されています。
回廊
拝殿からの左右に回廊は本殿へと結ばれています。
本殿
本殿
祭神は大石良雄(おおいし よしお/よしたか)で
通称を内蔵助(くらのすけ)と称されています。
大石家は藤原秀郷の末裔・小山氏(おやまし)の一族で、代々近江国守護・佐々木氏の
もとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていました。
大石姓の由来となったのですが、その後の応仁の乱などで没落しました。
大石良雄の曽祖父である大石良勝は江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになりました。
良勝は大坂夏の陣で戦功をあげ、浅野長政の三男・長重の永代家老に取り立てられました。
長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移り、良勝の長男・大石良欽
(おおいし よしたか)も赤穂藩浅野家の筆頭家老となりました。
大石良欽の長男・良昭の長男として万治2年(1659)に赤穂城内で誕生したのが大石良雄です。
延宝元年(1673)9月6日に父・良昭が亡くなり、祖父・良欽の養子となりましたが、
延宝5年(1677)1月26日に良欽も亡くなりました。
大石良雄は19歳で良欽の遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぎました。
延宝7年(1679)、21歳のときに正式な筆頭家老となり、貞享4年(1686)には
但馬豊岡藩筆頭家老・石束毎公(いしづか つねよし)の18歳の娘・りくと結婚しました。
元禄元年(1688)には長男の良金(通称:主税/ちから)が誕生しました。

元禄14年(1701)2月4日、主君・浅野長矩(あさの ながのり)が、江戸へ下向する
東山天皇の勅使の接待役を幕府より命じられました。
その指南役に就いたのが吉良義央(きらよしひさ)で、詳細は不明ですが
江戸城松之大廊下において長矩が吉良義央に対して刃傷事件を起こしました。
江戸城では勅答の儀が執り行われる直前だったため、将軍・徳川綱吉は激怒して、
長矩に即日切腹と赤穂浅野家をお家断絶の処分を下しました。
しかし、吉良義央には何の咎めもありませんでした。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、幕府の処分に対し不満を持っていた
大石良雄以下47名の浪士が吉良邸に討ち入りし、吉良義央を討ち取りました。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により赤穂浪士は
切腹して果て、泉岳寺に葬られました。

明治元年(1868)、明治天皇が泉岳寺に勅使を遣わし、これを弔って以降、
赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建されました。(赤穂の大石神社
大石像
本殿に向かって大石良雄の像が祀られています。
天神うし
臥牛に似た「天神うし」と称される石が祀られています。
牛は天神の神使いとされ、臥牛の像を撫でると学業向上や
病気の治癒に霊験ありとの信仰があります。
義人社
本殿の左方向に義人社があり、天野屋利兵衛が祀られています。
天野屋利兵衛は大坂の商人で、赤穂浪士が討ち入る前に密かに武器を調達し、
これを怪しんだ町奉行は利兵衛を投獄しました。
利兵衛は赤穂浪士の討ち入りが成功するまで口を割らず、
町奉行は利兵衛を大坂からの追放という寛大な処分を行いました。
家財や屋敷は妻子に下げ渡され、利兵衛は京都に移り住み、
利兵衛が通行中に妻子に会うことは問題なしとされました。
天野屋利兵衛は「商売の神様」と讃えられ、商売繁栄を願って信仰されています。
宝物殿
本殿の向かいに無料の忠臣蔵宝物殿があります。
俳優の写真
大石内蔵助の役を演じた歴代の俳優の写真
香炉
大石良雄自作の香炉
社務所
宝物殿の右側に社務所があります。
ポニー
境内には可愛い神馬が奉納されています。
平成11年(1999)4月30日に誕生したファラベラ・ミニホースで、「花子」と称されています。
池
境内の北側には池があります。
一の鳥居
池から東へ進むと一の鳥居が建っています。
一の鳥居をくぐった先に参拝者用の駐車場もあります。

山科神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村