霞ヶ池-徽軫灯籠
金沢城址公園と兼六園は隣接していますが、間に車道があり、
それをまたぐように橋が架けられています。
兼六園の拝観は有料(320円)ですが、65歳以上は無料です。
橋を渡った先にあるのが桂坂口で、園内に入り坂を登った所に霞ヶ池があります。
池の北岸にあるのが兼六園を代表する徽軫灯籠(ことじとうろう)で、
琴糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることから名付けられました。
高さは2.67mで、灯篭の二股となった脚の長さが異なっています。
霞ヶ池-徽軫灯籠と虹橋
手前の曲水に架かる「虹橋」と背後の楓の古木とが一体となった
美しさが見所だそうです。

文久3年(1863)の『兼六園絵巻』には、現在とは別の場所に両脚が同じ長さで
立っているのが描かれ、明治維新後に理由は不明ですが片脚が短い形で
現在地に移されたと考えられています。
兼六園は明治7年(1874)から無料で一般公開され、24時間開放されるように
なりましたが、園内の石が持ち去られるなど、被害が多発しました。
この灯籠も数度池に倒され、破損したため昭和53年(1978)に新調された2代目で、
初代は公園事務所で保管されています。
兼六園は大正11年(1922)に国の名勝に指定され、昭和51年(1976)から
園の維持・管理費用の捻出のため有料拝観で、時間を限っての公開となりました。
昭和60年(1985)に国の特別名勝に指定され、
岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられています。
唐崎松-1
冬の兼六園の風物詩となっているのが雪吊で、雪の重みから枝が折れないように、
縄で枝が支えられています。
兼六園では11月~3月まで見ることが出来ます。
雪吊により見事な枝ぶりが守られているクロマツは「唐崎松」と呼ばれ、
12代藩主・斉泰(なりやす:1811~1884))が近江八景の一つ、
琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てました。
唐崎松-2
斉泰は天保8年(1837)に霞ヶ池を広げたり、姿の良い木を植えるなどして、
庭を拡張・整備し、万延元年(1860)には、蓮池庭との間にあった門と塀を
取りこわして、一大庭園につくりあげました。
更に文久3年(1863)には、母・真龍院の隠居所として
巽御殿(たつみごてん=現在の成巽閣)が造営され、
ほぼ現在の庭の形になりました。
霞ヶ池-蓬莱島
霞ヶ池は、古代中国の蓬莱神仙思想に基き作庭された庭園で、
池には東方にあって不老不死の仙人が住むとされる蓬莱島があります。
雁行橋
霞ヶ池の左側には曲水が流れ、雁行橋(がんこうばし)が架けられています。
11枚の赤戸室石で造られ、雁が列をなして飛んでいる姿が表されています。
また、石の一枚一枚が亀の甲に形をしていることから
「亀甲橋(きっこうばし)」との別名もあります。
かっては、この橋を渡ると長寿になると伝えられ、大勢の人が渡ったために
石がすり減り、現在は渡ることが禁止されました。
霞ヶ池-内橋亭
霞ヶ池の西南岸には内橋亭があります。
安永5年(1776)に10代藩主・治脩(はるなが:1745~1810)が蓮池馬場の馬見所に
建てたとされています。

内橋亭背後の栄螺山(さざえやま)は、斉泰が霞ヶ池を堀広げた時の土で
築かれた高さ9mの築山で、頂上へはうずを巻いて登り道があり、
栄螺の殻を思わせることからこの名が付きました。
山頂に「避雨亭(ひうてい)」と呼ばれる御亭(おちん)があります。
冬桜
冬桜でしょうか?
寒さの中で可憐に花を咲かせています。
霞ヶ池から連なる広い平坦な地は「千歳台」と呼ばれ、寛政4年(1742)に
治脩により藩校である明倫堂と経武館(けいぶかん)が創建されました。

11代藩主・斉広(なりなが:1782~1824)は、文政2年(1822)に37歳で隠居を表明し、
自らの隠居所を建設するため、藩校を現在の
いしかわ四高記念公園」の場所へ移しました。
文政5年(1822)にその跡地に建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所
「竹沢御殿(たけざわごてん)」を建立しました。
この年に、老中・松平定信(1759~1829)は『洛陽名園記』を引用し、
宏大・幽邃・人力・蒼古(そうこ)・水泉・眺望の
6つの景観を兼ね備えているとして「兼六園」と命名しました。
斉広の死後に竹沢御殿は斉泰により取り壊され、
兼六園は現在のような姿になりました。
ラジオ塔
ラジオ塔は日本放送協会(NHK)が公共放送普及のため
昭和8年(1933)に設置され、名古屋局のラジオ放送が流されていました。
昭和5年(1930)から全国に約460基が設置され、
戦後にラジオが普及したことから役割を終えました。
時雨亭
千歳台から少し下ると、長谷池があり、その奥に時雨亭が復元されています。
5代藩主・綱紀(つなのり:1643~1724)が蓮池庭を作庭した頃からあった建物で、
廃藩後に撤去されていました。
平成12年(2000)に竣工した「長谷池周辺整備事業」で再現されました。
瓢池
更に下ると瓢池(ひさごいけ)があり、この辺りは
かって「蓮池庭(れんちてい)」と呼ばれていました。
兼六園は、延宝4年(1676)に5代藩主・綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった
藩の建築や営繕を担当する役所・ 作事所を
城内へ戻し、別荘を建ててその周囲に庭園を築いたのが始まりとされています。
当初は「蓮池の上御露地(はすいけのうえおろじ)」と呼ばれ、
来藩した客人や重臣たちの接待、あるいは観楓(かんぷう)などの宴を
楽しむ清遊の場として活用され、一般的には「蓮池庭」と
呼ばれるようになりました。

宝暦9年(1759)の大火で一部が焼失し、安永3年(1774)に
10代藩主・治脩(はるなが:1745~1810)により再興され、
翠滝と夕顔亭が造営されました。
画像はありませんが、翠滝はそのまま残され、夕顔亭が復元されています。
また、安永5年(1776)に蓮池馬場の馬見所に内橋亭が建てられましたが、
現在は霞ヶ池の西南岸に復元されています。
辰巳櫓跡
真弓坂口から出てお堀通りを「兼六園下・金沢城」のバス停の方へ向かいます。
金沢城の辰巳櫓跡です。
橋
この橋を渡って金沢城址公園から兼六園へ向かいました。
前田利家像
11:18発、野町駅経由野々市車庫行で野町駅へ向かいます。
少し時間があったので城側に横断すると、
初代城主・前田利家の像が造立されていました。
バスに乗車すると、最初に下車した「香林坊」のバス停を通過しました。
バス路線を熟知していなかったために少々時間を無駄に使いました。
次回、機会があれば金沢駅から「兼六園下・金沢城」までバスで移動し、
兼六園の蓮池門口から入って歴史を追って霞ヶ池へと向かい、
金沢城の鼠多門橋を渡って「香林坊」のバス停に至るルートを辿りたいと思います。

野町駅から北陸鉄道石川線で、終点の鶴来まで乗車して
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)へ向かいます。
続く

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