南総門
今宮神社から丸太町通りまで戻り、丸太町通りを東へ進んで「妙心寺前」の信号を
左折して北へ進んだ先に妙心寺の南総門があります。
現在の南総門は慶長15年(1610)に建立された切妻造、本瓦葺きの薬医門で、
国の重要文化財に指定されています。
妙心寺は山号を正法山(しょうぼうざん)と号する臨済宗妙心寺派の総本山です。
かって、この地には第95代・花園天皇が営む離宮・萩原殿がありました。
文保2年(1318)に後醍醐天皇に譲位し、萩原殿を仙洞御所として移り住み、
禅宗の信仰に傾倒しました。
上皇は建武2年(1335)に円観のもとで出家し、法皇となりました。
円観(1281~1356)は、後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の5帝に
戒を授けたために「五国大師」の異名を持っています。
永仁3年(1295)に延暦寺に入り授戒を受けて大乗戒である円頓戒を学びましたが、
嘉元元年(1303)頃には比叡山から下って禅僧となりました。
その後、円観は後醍醐天皇を帰依を受け、嘉暦元年(1326)に法勝寺
勧進職となり、法勝寺を再興して住持となりました。
後醍醐天皇の倒幕計画に参画しましたが、元徳3年/元弘元年(1331)に
計画が露見して六波羅探題に捕縛され、陸奥国へ配流されました。
建武元年(1334)の建武の新政で赦免され、法勝寺に戻りました。

一方で花園法皇は大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に参禅し、

印可(いんか=弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)されています。
法皇は、花園御所を禅寺に改めることを発願しましたが、建武4年(1337)に宗峰妙超が
病で重態となり、宗峰は後継に高弟の関山慧玄(かんざんえげん)を推挙しました。
関山慧玄はその頃、美濃国(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に
明け暮れていたのですが、都に呼び戻され、暦応5年/康永元年(1342)に
妙心寺が開山されました。
しかし、妙心寺では宗峰妙超が入寂された建武4年(1337)を開創の年としています。
「正法山妙心寺」の山号・寺号は宗峰妙超によって命名されました。
釈尊が嗣法(しほう=弟子が師の法を継ぐこと)の弟子・摩訶迦葉
(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」
(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取られています。
勅使門
南総門の西側にある勅使門は、南総門と同じく慶長15年(1610)に建立された、
切妻造、檜皮葺の四脚門で、国の重要文化財に指定されています。
かっては総門であり、「南大門」と呼ばれていました。
勅使門は普段は閉じられ、妙心寺住持の入山・晋山時に
新住職がこの門から入られます。
放生池
勅使門の先に放生池があります。
池の中央には石橋が架かっていますが、橋の通行も禁止されています。
境内の参道には石畳が敷かれています。
花園法皇550年遠諱(おんき)に当たる明治28年(1895)に、
匡道慧潭(きょうどう えたん:1808~1895)が私財を投じて
境内縦横の参道に石板を敷きました。
雨が降った後などの“ぬかるみ”から解放されました。
三門
放生池の先に三門があります。
慶長4年(1599)に再建された五間三戸の二重門で、
国の重要文化財に指定されています。
三門は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門、三解脱門を表すとされ、
初期の寺院では正門と東西2つの副門があったことから「三門」と呼ばれました。
時代が下って、大門のみとなっても、三門の呼び名が残りました。
境内で唯一の朱塗りの建物で、上層には円通大士(円満融通の菩薩の意で、
観世音菩薩の異称)と十六羅漢像が安置されています。
6月18日に懺法会(せんぼうえ)、7月15日に施餓鬼会が修法されています。
浴室
三門の東側に浴室があり、「明智風呂」と呼ばれています。
天正15年(1587)、明智光秀の伯父にあたる塔頭・大嶺院(後に廃寺)の
密宗和尚により、光秀の菩提を弔うために創建されました。
天正10年(1582)に本能寺で織田信長を討った光秀は、妙心寺仏殿に礼拝し、
以下のような辞世の句を残したとされています。
「順逆不二の門 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来たって一元に帰す」
密宗和尚は光秀が自刃して果てることを誡めたとされていますが、
山崎の合戦で敗れて果てました。
浴室は明暦2年(1656)に改築され、国の重要文化財に指定されています。
浴鐘楼
浴室の北側に浴鐘楼があります。
寛永16年(1639)に春日局から寄進されたのですが、昭和37年(1962)に焼失し、
春日局の菩提寺である塔頭の麟祥院(りんしょういん)から移築されました。
井戸
浴鐘楼の北側には井戸が残されています。
浴室で使用される水が汲み上げられたと思われますが、浴室には湯舟は無く、
蒸し風呂で洗い場が設けられています。
鐘楼-三門西
三門の南側にも鐘楼があります。
仏殿
三門の北側に仏殿があります。
現在の仏殿は文政10年(1827)に再建された入母屋造、一重裳階付きの建物で、
国の重要文化財に指定されています。
妙心寺は応永6年(1399)の応永の乱で、6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が
足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、
足利義満の怒りを買いました。
義満は妙心寺を没収して子の青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、
拙堂宗朴は青蓮院に幽閉されました。
義円は更に妙心寺を南禅寺の廷用宗器(ていよう そうき)に与え、
廷用は寺号を「龍雲寺」と改め、妙心寺は中絶しました。
永享4年(1432)、廷用宗器は開山・関山慧玄の塔所である微笑塔の敷地を、
その頃南禅寺にいた根外宗利(こんがいそうり)に与えました。
根外宗利は関山慧玄の流れを汲み、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を迎えて
妙心寺を復興させ、日峰宗舜は妙心寺中興の祖とされています。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で妙心寺は消失しました。
文明9年(1477)に雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が、
後土御門院から妙心寺再興の論旨を得て再興しました。
雪江宗深は住持の期間を3年と定め、師亡き後は景川宗隆(けいせんそうりゅう)・
悟渓宗頓(ごけいそうとん)・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)・
東陽英朝(とうようえいちょう)の4人の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を
受け継いだ者)が交代で妙心寺の住持を務めて再興に尽力しました。
その四人は妙心寺四派の龍泉派(宗隆)、東海派(宗頓)、霊雲派(禅傑)及び
聖澤派(英朝)の祖となりました。
四派の松
三門と仏殿との間に植えられている竹垣に囲まれた4本の松は、
その四派を表し「四派の松」と呼ばれています。
現在の松が何代目かは不明ですが、代々一株から二本の幹が伸びる
松が植樹されています。
妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属しています。
永正6年(1509)には第104代・後柏原天皇から紫衣(しい/しえ)勅許の綸旨を賜り、
この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されていました。
これをもって妙心寺は大徳寺から独立したとみなされ、修行を重んじる厳しい禅風を
特色とする「林下(りんか)」の寺院として大徳寺と共に代表的な寺院となりました。
京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と
統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあり、
前者は「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者「林下」と呼ばれました。
同年、悟渓宗頓(ごけいそうとん)に帰依していた利貞尼(りていに)が
仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張されました。
やがて、七堂伽藍が再建され、塔頭が創建されていきました。
仏殿-堂内
仏殿中央の須弥壇に本尊の釈迦如来坐像が安置されています。
天正年間(1573~1593)の作で、脇侍には摩訶迦葉(まかかしょう)と
阿難尊者(あなんそんじゃ)の立像が安置されています。
経蔵
仏殿の右側(東側)に延宝2年(1674)に、大坂の豪商・淀屋の寄進により
建立された経蔵があります。
国の重要文化財に指定されていますが、非公開です。
堂内の八角輪蔵には、12人の学僧が8年の歳月をかけて書写したと伝わる、
一切経6527巻が納められています。
輪蔵を考案した傅大士(ふだいし)像が安置されています。
経蔵-扁額
経蔵に掲げられている扁額「毘盧蔵(びるぞう)」は、
第92代・伏見天皇の宸筆によるものです。
雪江松
経蔵の北側に植えられている松は「雪江松」と呼ばれ、
三笠宮殿下御手植と記されています。
文明9年(1477)に妙心寺を再興した雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が、
仏法の興隆を念じて植樹されました。
しかし、その松は昭和4年(1929)に枯死しました。
現在の松は三笠宮殿下御手植の曾孫の松です。
法堂
仏殿の北側に法堂(はっとう)があります。
明暦3年(1657)に再建された入母屋造、一重裳階付きの建物で、
国の重要文化財に指定されています。
法堂は、住持による法座や座禅が行われる所で、拝観ができますが
堂内の撮影は禁止されています。
柱のケヤキ材は富士山麓から運ばれてきたものであり、床には瓦が張られています。
法堂-雲龍図
天井には狩野探幽(1602~1674)による雲龍図が描かれています。
(パンフレットをコピー)
探幽は地上で板を立て、足場を組んで描き、8年を要して法堂の完成に合わせ、
探幽55歳の時に描き上げました。
その板が天井に張られ、鏡天井となっています。
直径は12mあり、外側の霊雲、内側の渦巻く黒雲を背景に、
円の中央に頭を置いてとぐろを巻く龍の図が描かれています。
探幽は胴体は蛇、爪は鷹など実在の動物を参考にして描き、
最後に眼に筆を入れた瞬間、暗雲が空を覆い、
雷鳴が轟いて暴風になったと伝わります。
「八方睨みの龍」と呼ばれ、どの位置から見ても常に龍に睨まれているように見え、
場所によっては天に昇るようにも、天から降って来るようにも見えます。
これほど立派な龍図を描いた探幽ですが、画料も酒樽も何も受け取らず、
立ち去ったと伝えられています。
堂内では「密」を避けるためか多くの扇風機が稼働し、
外は30度を超える暑さですが堂内は涼しく感じられます。
黄鐘調の鐘
堂内を龍に睨まれながら移動すると、北東隅に国宝に指定されている
梵鐘「黄鐘調(おうじきちょう)の鐘」が展示されています。
(パンフレットをコピー)
鐘の内側に「戊戌年四月十三日壬寅収 筑前糟屋評造春米連広国鋳鐘」の
銘が残され、銘のある鐘としては日本最古とされています。
戊戌年=文武天皇2年(698)に筑前糟屋=現在の福岡県糟屋郡(かすやぐん)の
評造(こおりのみやつこ=大化から文武天皇4年まで施行された地方行政区画「評」の
官名)・春米連広国(つきしねのむらじひろくに)が鋳造したと記されています。
この鐘は聖徳太子が推古天皇元年(593)に創建した四天王寺の聖霊会において、
楽律の調整に用いられた鐘と伝わります。
黄鐘調とは雅楽の六調子の一つで、基本となる音であり、
鐘の最も理想的な音とされています。
兼好法師の『徒然草』第220段に以下のように記され、
元は浄金剛院にあった鐘とされています。
「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。
西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、
叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。
浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」
浄金剛院は、暦応2年(1339)に足利尊氏が天龍寺を創建するのに伴い
二尊院の境内へと移されました。
浄金剛院の鐘はその際持ち出されたのかもしれません。
一説では、妙心寺を開山した関山禅師が、鐘を運んでいる農民と出会い、
交渉して農民から鐘を買い取ったとされています。
「黄鐘調の鐘」は高さ約1.5m、口径約86cm、重量約830kgで、古式の特徴として
口径が小さく、丈長で細身となり、撞座の位置が高く設計されています。
鐘楼-黄鐘調
法堂を出た左側(西側)に鐘楼があり、「黄鐘調の鐘」はここに吊るされていました。
鐘楼-黄鐘調-梵鐘
現在は「黄鐘調の鐘」を模して鋳造された梵鐘が代役を務めています。
大庫裏-門
鐘楼の手前、北奥に大庫裏があり、法堂と共に拝観ができますが、
建物内の撮影は禁止されています。
大庫裏
享禄元年(1528)に再建され、承応2年(1653)に改築された建物で、
国の重要文化財に指定されています。
文化5年(1808)に瓦葺に改築されましたが、瓦の重さで建物の負担が大きいとして
近年、元の杮葺き(こけらぶき)に戻されました。
屋根には煙出しが見えます。
大庫裏-韋駄天
右側に唐破風の庇が付いた門の内側には韋駄天像が安置されていますが、
この門は開門されません。
韋駄天は増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の
首位を占める天部の仏神です。

特に日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神とされています。
大庫裏-内部
(パンフレットをコピー)
正面の門を入った所は土間で、西側に竈の焚口が並んでいます。
竈と焚口との間には壁があります。
土間の北側は広い廊下で、天井には法堂の雲龍図を縮小・コピーした図があり、
法堂では見えなかった北側からの雲龍図を見ることができます。
廊下が広く取られているのは、この場所で配膳などが行われ、
東側に板敷きの広間があり、そこが食堂となるようです。
建物の西側に井戸があり、かっては井戸から樋が引かれて水が供給されていました。
また、大庫裏の北側は小庫裏で、少人数の食事の準備が行われます。
小庫裏の東側にも、狭いですが食堂があります。
寝堂
大庫裏から法堂の方へ戻ります。
法堂から北側への渡廊を進んだ正面に明暦2年(1656)に建立された寝堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
「前方丈」、「礼の間」とも称され、元は住持の居室・客間でしたが、
現在は法堂で儀式が行われる際の控えの間として用いられています。
玄関
寝堂の東側にある玄関は、承応3年(1654)に再建された唐破風造で、
国の重要文化財に指定されています。
玄関を入った左側に、拝観受付及び納経所があり、ここで700円を納めると、
職員の方のガイド付きで法堂と大庫裏の拝観ができます。
大方丈
右側には大方丈があります。
承応3年(1654)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
南側3室には狩野探幽、北側3室には狩野洞雲による障壁画が描かれていますが、
入室が許可されているのは中の間で、北側に仏間があります。
仏間には、明治の神仏分離令で石清水八幡宮から遷された
阿弥陀三尊像が安置されています。
真前唐門
玄関の右側に真前唐門があります。
承応3年(1654)に建立され、文化3年(1806)に改造されました。

妙心寺の塔頭を巡ります。
続く

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