寺之内通を西へ進むと妙顕寺塔頭・泉妙院(せんみょういん)があります。
かって、この地には尾形家の菩提寺・興善院があり、寺の住職は代々、
尾形家より出されていました。
宝永5年(1708)に尾形光琳は嫡子を小西家へ養嗣子(ようしし)としたため、
享保元年(1716)に光琳没後には後継が途絶え、興善院は無住となりました。
その後は本行院の管理下となりましたが、天明8年(1788)の大火で焼失しました。
それに加え小西家も困窮し、文化2年(1805)に尾形家の墓は
妙顕寺の総墓所へ移されました。
尾形光琳没後100年の文化12年(1815)に酒井抱一が光琳の墓石を探しましたが
見出せず、本行院の跡にこの碑を建てました。
文政3年(1820)に本行院は泉妙院と合併し、興善院跡に再建されました。
小西家は縁談として尾形家を守り、明治41年(1908)6月に三越呉服本店は
小西得太郎と共に施主となり、昭和22年(1947)頃に小西家が絶えた後も
毎年6月2日に光琳忌法要が営まれています。
また、碑には「乾山」の名が追加されています。
酒井抱一が文政6年(1823)に乾山の墓を発見したことにより、
追加して記されたと思われます。
尾形乾山(おがた けんざん:1663~1743)は光琳の6歳下の弟で、父の遺言により、
室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、
光琳と折半で譲り受けました。
遊び人で派手好きで遺産を湯水のように使い果たした光琳とは対照的に
質素な生活を送りました。
参禅や学問に励むとともに、付近に住む野々村仁清から陶芸を学びました。
37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平から
鳴滝泉谷の山荘を与えられ、ここで窯を開きました。
その場所が京の北西(乾)方角にあったことから「乾山」と号し、
多くの作品を手がけました。
作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、
乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多く残されています。
正徳2年(1712)の50歳の時に、二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、
享保16年(1731)の69歳で江戸・入谷へ移り住み、
寛保3年6月2日(1743年7月22日)に江戸で亡くなりました。
日蓮聖人の遺命を受け、京都で布教していた日像上人が、元亨元年(1321)に
第96代・後醍醐天皇より寺領を賜り、現在の上京区大宮通上長者町で
創建しました。
建武元年(1334)に後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となって、
暦応4年/興国2年(1341)には北朝の光厳上皇の院宣により、
四条櫛笥(くしげ=現・京都市下京区と中京区の境)に移転しました。
嘉慶元年(1378)には比叡山衆徒による焼き討ちにより、若狭小浜へ避難し、
明徳4年(1393)に室町幕府第3代将軍・足利義満(在職:1369~1395)の斡旋により、
三条坊門堀川(現中京区堀川御池)で再建され、寺号を「妙本寺」に改められました。
応永18年(1411)に第4代将軍・足利義持(在職:1395~1423)の祈願寺となりましたが、
応永20年(1413)には再び比叡山衆徒により寺が破却されました。
永正18年(1521)に第10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね/在職:1490~1495/
1508~1522)の命により、二条西洞院(現・中京区)で再建され、
永正~大永年間(1504~1528)の頃に寺号を「妙顕寺」へ戻しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で伽藍を焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
天文17年(1548)に二条西洞院で再建されました。
天正12年(1584)には豊臣秀吉の命により、現在地へ移転させられ、
跡地には二条第妙顕寺城が築かれました。
総門へ戻り参道を進むと、左側(西側)に「勅賜宗号四海唱導之霊蹟」の
碑が建っています。
延文3年/正平13年(1358)に北朝第4代・後光厳天皇の詔により、
二世・大覚妙実(1297~1364)が祈雨修法を行い、その霊験があったとして
天皇から賜った綸旨から「四海唱導」が引用され、妙顕寺の称号となりました。
「四海」とは「世の中」の意味があり、法華経の教えに導き、
その功徳により人々を救うとの意味が込められています。
総門付近の参道まで戻ると、右側(東側)に三菩薩堂があります。
堂内には日蓮聖人、日朗上人、日像上人像が安置されています。
大覚妙実は、祈雨の功により、後光厳天皇から大僧正に任じられ、
日蓮聖人に大菩薩、大覚大僧正の師である日朗上人と
日像上人に菩薩の号を賜わりました。
更にその裏側に納骨堂があります。
三菩薩堂の北側に鬼子母神堂があり、鬼子母神が祀られています。
庫裡で拝観受付を済ますと、渡り廊下を経て、
鬼子母神堂と本堂の堂内参拝が出来ます。
鬼子母神は500人の子(一説では千人、1万人とも)の母であり、
これらの子を育てる栄養をとるため、人間の子を捕えて食べていたとされています。
それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子を
乞食(こつじき)に用いる鉢に隠しました。
鬼子母神は半狂乱となって子を探し、7日間世界中を駆け巡ったのですが見つからず、
釈迦に助けを求めました。
釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。
それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭しました。
鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、
そうすればすぐに子に会えるだろう」と答えました。
釈迦は三宝に帰依して五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教え、
子を戻された鬼子母神は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
京都でも屈指の大きさを誇る十五間四面(27m四方)の大堂で、
「四海唱導」の扁額が掲げられています。
中央の須弥壇には「一塔両尊四士」と称される日蓮宗の基本的な祀り方による
諸仏が安置されています。
中央にお題目を大書した宝塔を建て、その左に釈迦牟尼仏、右に多宝如来を奉安し、
下段左に普賢菩薩、右に騎獅文殊菩薩像が安置されています。
宝塔下に宗祖・日蓮大菩薩、左に日像菩薩、右に日朗菩薩、日蓮大菩薩の下段に
大覚大僧正の像が安置されています。
天井には元々、狩野派による2体の龍図「二大龍王図」が描かれていましたが、
昭和50年(1975)に老朽化により天井が崩れました。
その後、修復されて格天井(ごうてんじょう)となり、
寄進された方々の家紋が描かれています。
おりんは日蓮宗では「金丸」と呼ばれ、妙顕寺のは特別大きくて「でかまる」と
呼ばれています。
それを鳴らすための「ばい」と呼ばれる棒も大きくて重く、小さいのを用いて
脚立に登らずそっと鳴らしてみました。
梵鐘とは違う柔らかな余韻を感じることが出来ます。
北へ進むと寿福院塔があります。
寿福院(1570~1631)は、金沢城主となった前田利家の側室で、
加賀藩第3代藩主となる前田利常を出産しました。
寿福院は熱心な日蓮宗徒で、慶長6年(1601)に金沢にて経王寺を創建し、
同8年(1903)には妙成寺を菩提寺と定め、伽藍を建立しました。
身延山久遠寺の五重塔などを寄進し、この十一重石塔も寿福院により建立されました。
西側に勅使門があります。
建武元年(1334)に第96代・後醍醐天皇により、宗門最初の勅願寺となった際に
建立され、天明8年(1788)の大火後に再建されました。
現在では皇室の方々の参拝時以外は開門されません。
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