鳥居
自宅から近江今津港までスマホのナビで検索すると、約2時間と表示されたので、
出航時間9:30に余裕を持たせて7時に自宅を出発しました。
しかし、坂本から先の湖西道路は125cc以下は通行が禁止されていたため、
国道161号線への迂回を余儀なくされ、予定時間に遅れが生じました。
白鬚神社に到着した時、出航時間に間に合わないと判断して参拝することにしました。
白鬚神社で有名なのが湖中大鳥居ですが、その由来は諸説あるようです。
古来波打ち際に鳥居が湖水の増減で見え隠れしていたとも、室町時代後期に天下変災の
前兆として社前の湖中に石橋や鳥居が突然姿を現したとも伝わります。
或いは琵琶湖で100以上確認されている湖底遺跡のように、以前は鳥居が建っていた所も
陸地だったのでは...と想像もされます。
弘安3年(1280)の絵図では陸上に鳥居が描かれていますが、
現在のように離れているのかは不明です。
江戸時代中期には既に湖中に鳥居が建っていることが確認でき、
舟での参拝の目印となっていたのかもしれません。
昭和12年(1937)に大阪で薬問屋を商う小西久兵衛氏の寄進によって再建された後、
現在の鳥居は昭和56年(1981)に、琵琶湖総合開発の補償事業で建立されました。
国道端から58.2m沖に建てられ、高さが湖面から12m、柱幅は7.8mの大きさを誇り、
「近江の厳島」とも称されています。
鳥居復興の碑
境内に入った左側には昭和12年(1937)に建てられた鳥居復興の碑があります。
拝殿
白鬚神社の所在地は滋賀県高島市鵜川215で、国道161号線に面しています。
全国に約300社に及ぶ白鬚神社の総本社です。
第11代・垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)によって社殿が造営、
または再建されたのが始まりと伝わる近江最古の大社とされています。
倭姫命は垂仁天皇の第4皇女で、第10代・崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命
(とよすきいりひめのみこと)の跡を継いで諸国を巡り、伊勢の国に入って神託により
皇大神宮(内宮)を創建したとされています。
倭姫命が大和を出発したのが垂仁天皇25年で、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の
諸国を経て、垂仁天皇26年(BC4年)に伊勢の国に入り皇大神宮を創建したと伝わります。
伊勢の国に入ると先導を務めたのが、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)で、
五十鈴川の川上一帯を献上したとされています。

また、背後の山頂には磐座や古墳群が残されていることから、倭姫命がこの地を訪れる
以前から何らかの祭祀が行われていたのかもしれません。

祭神は猿田彦命で、白髪で白い鬚を蓄えた老人の姿だったことが
「白鬚神社」の由来となりました。
観阿弥作の謡曲「白髭」では、湖岸で釣りをする翁に姿を変えた白鬚明神が、
参詣に訪れた勅使に白鬚明神の縁起を語ります。
社伝では白鬚明神が猿田彦命であったとされています。
白鳳3年(675)には、第40代・天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとされています。
貞観7年(865)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載がありますが、
『延喜式』神名帳には記載されていないため、国史見在社とされています。
国史見在社とは、六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』
『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載が見られ、『延喜式神名帳』に記載の無い
390余社の神社を指します。
朝廷の尊崇が厚く、由緒ある神社として重んじられています。
明治の近代社格制度では、明治9年(1876)に郷社に列し、
大正11年(1922)に県社に昇格しています。
境内図
本殿は豊臣秀頼の寄進により、慶長8年(1603)に再建され、
国の重要文化財に指定されています。
拝殿は明治12年(1879)に再建されました。
若宮神社
本殿の左側には末社・若宮神社があり、大田命が祀られています。
太田命(おおたのみこと)とも表記され、猿田彦命の別名とする説もあります。
現在の社殿は、本殿と同じく豊臣秀頼により、慶長8年(1603)に再建されたもので、
昭和15年(1940)に高島町指定文化財の第一号に指定されました。
上の宮への石段
若宮神社の右側にある石段を上り、「上の宮」へ向かいます。
伊勢両宮
石段を上った左側には手前から外宮、内宮、三社殿が並び、
いずれも町の文化財に指定されています。
三社殿には中央に八幡神社、向かって右に加茂神社、左に高良神社が祀られています。
伊勢両宮と三社殿は、天文8年(1540)に近江国守護・六角義賢(ろっかくよしかた)
により奉納されました。
紫式部歌碑
社殿の前に「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 
都恋しも」と詠まれた紫式部の歌碑が建っています。
長徳2年(996)、越前の国司となった父・藤原為時が船路にて湖西を通り
越前へと赴く際に、同行した式部が高島の三尾崎の浜辺で、
漁をする人々の網を引く見なれぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだとされています。
昭和63年(1988)4月に紫式部を顕彰して、高島町観光協会によって建立されました。
弁財天社
奥の方には右側の覆い屋の中に鳴子弁財天社と寿老神社、
その左側に波除稲荷社と天満宮社が祀られています。
鳴子弁財天社は、社殿が大阪の信者の寄進により建立されましたが、
昭和初年から社務所や宮司宅で奉斎されていました。
寿老神社は昭和63年(1988)に西近江七福神巡りの一つになったのを
記念して建立されました。
波除稲荷社の社殿は平成17年(2005)に修復されました。
天満宮社はかって、三社殿の軒下にあったものが、
平成11年(1999)に現在地に移転、修復されました。
磐座
更に山の方へ登って行くと、右側に磐座として祀られていると思われる岩があります。
天の岩戸社
岩の左側に岩戸社があり、古墳の石室が天の岩戸として祀られています。
暗くてよくは見えませんが、結構大きな石室のように思われます。
池
下って拝殿の右側へ進むと、小さな池があります。
与謝野夫妻の歌碑
池の畔に与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建っています。
「しらひげの 神のみまへに わくいづみ
 これをむすべば ひとの清まる」
大正初年に白鬚神社に参拝した二人が、社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、
上の句は鉄幹、下の句を晶子が詠みました。
大正7年(1918)、京都延齢会が手水舎を再建した際に
その記念として同年12月この歌碑を建立しました。
鉄幹の揮毫によるもので、全国にある与謝野夫妻の歌碑の中で
最も古い頃のものとされています。
社務所
歌碑から右側へ進んだ所に社務所があります。
四十八石仏への道標
白鬚神社から国道161号線を北へ少し進んだ先に、四十八体石仏群への
道標が建っていますが、車高の高い自動車では進入できません。
四十八石仏
「鵜川四十八躯仏」と称され、滋賀県の史跡に指定されています。
伝承では六角義賢(ろっかくよしかた)が母の菩提を弔うために、
天文22年(1533)に造立したとされていましたが、永享8年(1436)、
周辺の境界争いの記録に四十八仏が記されていることから、
この頃には既にあったと推察されています。
四十八躯は『無量寿経』に説く、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行していたときに
仏になる条件として立てた四十八の誓願によるものです。
地元の「比良石」と呼ばれる花崗岩製で、
像高は多少の大小の差があるものの像高は約1.6mあります。
しかし、内十三躯が江戸時代前期に坂本の慈眼堂(じげんどう)へ遷され、
昭和62年(1987)10月には二躯が盗難に遭いました。
現在は三十三躯の定印を結んだ結んだ阿弥陀如来坐像が、
東を向いて整然と安置されています。
海津大崎
近江今津港発10:50の便に間に合うように出発しましたが、予定より若干早く到着したので、
近くのコンビニで弁当を購入して竹生島行の船に乗船することにしました。

現在待合所が工事中で、北へ少し離れた所に仮設の待合所があり、
その前にバイクを置くことができました。
乗船券は往復で2,590円ですが、10/1から消費税が10%になるのに伴い、
2,640円に変更されますが、ネットで1割引きになる割引券が取得できます。

乗船すると船は定置網を避けるためか北に進路を取り、海津大崎が正面に見えてきます。
波の浸食により突き出た岩礁地帯で、琵琶湖国定公園の中でも有数の景勝地となり、
「暁霧(ぎょうむ)・海津大崎の岩礁」として、琵琶湖八景の1つに数えられています。
春は琵琶湖岸4kmに渡って約800本の桜が立ち並び、遅咲きの桜の名所となっています。
葛籠尾崎
海津大崎の先にある半島が葛籠尾崎(つづらおざき)です。
葛籠尾崎へは無料の観光道路「奥琵琶湖パークウェイ」が開通するまで、
容易に立ち入ることができませんでした。
しかし、葛籠尾崎の沖10~700m、湖岸に添って北へ数kmの範囲、水深10~70mの湖底に
葛籠尾崎湖底遺跡が発見されました。
大正13年(1924)末に漁師が網で数個の縄文・弥生土器を引き上げたことから
その存在が明らかとなりました。
現在までに縄文時代早期から晩期、弥生時代中・後期、古墳時代、奈良時代、
平安時代の各期の土器等が見つかっています。
葛籠尾崎周辺に河川が無く、土砂が堆積しなかったために、
土器等が沈んだ当時のままの状態で引き上げられました。
但し、何故この湖底から土器等が発見されたかは現在でも解明されていません。
竹生島-西側
竹生島に近付いてきました。
竹生島と伊吹山
島の南側の奥に伊吹山が見えてきました。
『近江国風土記』には、夷服岳(いぶきのたけ=伊吹山)の多多美比古命
(たたみひこのみこと)が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、
負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、
湖に落ちた首が竹生島になったと記されています。
伊吹山の標高は1,377mで現在は滋賀県の最高峰ですが、
金糞岳は1,317mで頭を切られたため、二位に転落したのでしょうか?
竹生島-南側
竹生島の南側は波に削られ、岩が露出しています。
竹生島港
竹生島港には既に長浜からの便が入港しています。
竹生島へは今津、長浜の他に彦根港からも出航しています。
今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で
往復の料金は10/1から2,640円になります。
長浜港からは乗船時間が約30分で、往復の料金は10/1から3,130円で
便数はこちらの方が多いです。
彦根港からは近江マリンが運行し、乗船時間は約40分で往復料金は3,000円ですが、
西武プリンスクラブのカードを提示すると2割引きで最安となります。
間もなく島に上陸します。
続く

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