タグ:在原業平

南大門
法華寺から東へ進み、国道24号線の高架をくぐった次の丁字路へ左折して
北へ進んだ突き当りに不退寺があります。
現在の南大門は正和6年(1317)に建立された切妻造・本瓦葺の四脚門で、
国の重要文化財に指定されています。
昭和9年(1934)に解体修理が行われています。
不退寺は、山号を「金龍山」、正式には「不退転法輪寺」と号する真言律宗の寺院で、
略して「不退寺」、また「業平寺」とも呼ばれ、
大和北部八十八ヶ所霊場の第18番札所です。
庫裡
参道を進んだ左側に庫裡があり、拝観受付(500円)が行われています。
現在の建物は、明治18年(1885)に政治家・品川弥二郎(1843~1900)により
瑞景寺から移築されました。
石棺
庫裡の北側に石棺が保存されています。
ウワナベ古墳の南、現在は国道24号線となってしまった平塚古墳から発掘された、
長さ2.7mの舟形割竹くり貫き石棺です。
本堂
参道の正面に本堂があります。
かって、この地には平城上皇(774~824)が造営した
萱葺の御殿がありました。
第51代・平城天皇(へいぜいてんのう/在位:806~809)は大同4年(809)に
弟の第52代・嵯峨天皇(在位:809~823)へ譲位し、旧都の平城宮へ移り住み、
この地に「萱の御所」と呼ばれた御殿を造営されました。
その後、上皇の第一皇子・阿保親王(792~842)と親王の五男・在原業平(825~880)が
共に居住し、阿保親王の薨去後の承和12年(845)に在原業平が、
第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう/在位:833~850)の詔を奉って
承和14年(847)に「萱の御所」を寺に改めました。

業平は父・阿保親王の菩提を弔うために自ら聖観音菩薩像を刻み、
衆生救済のため「法輪を転じて退かず」と発願し、
「金龍山不退転法輪寺」と号して仁明天皇の勅願所となりました。
『三代実録』には貞観2年(860)10月15日に平城天皇の第三皇子・真如親王(799~?)
から平城京内の田地を不退寺へ施入したとの記載があります。
真如親王は「高岳親王(たかおか しんのう)」と称して大同4年(809)に
嵯峨天皇の皇太子に立てられていましたが、薬子の変で廃され、
出家して「真如親王」と名乗りました。
空海(774~835)の十大弟子の一人となり、承和2年(835)に空海が入定すると
入唐求法を志すようになり、貞観4年(862)に唐へ渡りました。
当時の唐は18代皇帝・武宗(ぶそう/在位:840~846)の仏教弾圧政策により
仏教は衰退して長安では優れた師を得られなかったことから
広州から海路で天竺を目指して出発し、その後の消息を絶ちました。

養和元年(1181)の平重衡(1157or1158~1185)による南都焼討で諸堂を焼失し、
鎌倉時代(1185~1333)になって叡尊上人(1201~1290)によって再興され、
中世から近世にかけては西大寺と興福寺一乗院の末寺となり、
双方からの支配を受けました。
江戸時代(1603~1868)には幕府から寺領50石が安堵され、天和3年(1683)には
二町四方に七堂伽藍が建ち並ぶに至りました。
しかし、その後衰微し始め、寛政3年(1791)の絵図には本堂、多宝塔、南大門、鐘楼、
鎮守社、庫裏が描かれるのみとなり、塔頭3院も失われました。
明治6年(1873)からは完全に無住となって西大寺住職が兼務するようになり、
大正12年(1923)に住職が定まって復興が開始されました。
昭和5年(1930)に当時、学習院高等科の学生であった久邇宮邦英王
(くにのみやくにひでおう:1910~2014)が不退寺を訪れ、
その窮状を国に報告、交渉して国庫補助が下り、
同年、本堂の解体修理が行われました。

現在の本堂は寺伝では鎌倉時代(1185~1333)後期に建立された正面5間、側面4間、
単層寄棟造・本瓦葺の和様風建物で、国の重要文化財に指定されています。
須弥壇上中央に本尊・聖観音菩薩立像、その周囲に五大明王像、地蔵菩薩像が
安置され、聖観音菩薩立像と五大明王像は国の重要文化財に指定されています。

聖観音菩薩立像は、寺伝では在原業平の作とされていますが、
平安時代中期に三尊像の脇侍として造立されたと推定されています。
一木彫で、頭部に2つのリボンのようなものが付いている珍しい作風です。

五大明王像は、不動明王像は鎌倉時代後期の作、他の四明王像は平安時代後期の作で、
作風に異なりが見られます。
須弥壇の左右には小部屋があり、東小部屋に神仏習合名残りの伊勢太神宮を奉安し、
西小部屋に阿保親王坐像と平城天皇、伊都内親王の位牌が祀られています。
歌碑
本堂前の東側に池があり、池の畔に在原業平の歌碑があります。
「おほかたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の 老いとなるもの」
「たいていの場合には、月を愛でることはしない。
これはつまり、この月こそが積もり積って人の老いの原因となるものなのだから。」
余り若くはない友人数人が集まってお月見をしていた時に詠まれた歌だそうです。
多宝塔
池の対岸に多宝塔があります。
鎌倉時代中期に建立された檜皮葺で二層の多宝塔でしたが、
明治時代に上層部と相輪が取り払われ、現在の姿になったとされています。
不退寺に残る最古の建物であり、国の重要文化財に指定されています。
昭和9年(1934)に行われた解体修理で発見された墨書には、
仏師・快慶(生没年不詳)作の千体地蔵が安置されていたことが記されていました。

聖武天皇陵へ向かいます。
続く
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善峯寺参道
府道733号線から善峯寺への道は、大型車は通行不能の狭く急坂・急カーブが続く
険しい道で、二度と走りたくない道です。
途中に三鈷寺への分かれ道がありますが、一気に善峯寺へ下りました。
善峯寺の参道脇の樹木は大量に伐採され、河岸では改修工事が行われていました。
画像の右上部にもブルーシートで土留めが行われていましたが、
諸堂の参拝は問題ありませんでした。
善峯寺及び三鈷寺の記事は掲載済ですので、十輪寺へ向かいます。
山門
十輪寺は山号を小塩山(おしおざん)と号する天台宗の寺院で、
京都洛西観音霊場の第3番札所です。
善峯寺からバイクで5分ほど下った車道に面しています。
平安時代の歌人で『伊勢物語』の主人公である在原業平が、
晩年に隠棲したことから通称「なりひら寺」とも呼ばれています。
また、業平が塩焼きの風流を楽しんだことから、
「小塩」の地名が付いたとされています。

十輪寺は平安時代の嘉祥3年(850)、第55代・文徳天皇の
染殿(そめどの)皇后(藤原明子=あきらけいこ)の安産祈願のために
(又は世継ぎ誕生を祝って)創建されました。
円仁(えんにん)の弟子である恵亮(えりょう)によって開山されました。
無事に惟仁(これひと)親王(後の第56代・清和天皇)が誕生し、
文徳天皇の勅願所となり栄えました。

平安時代、花山法皇は、西国三十三所観音霊場を再興した際、善峯寺へ向かう途中、
十輪寺の前を通りかかった時に美女が現れ、後を追うと地蔵菩薩の前で消えました。
法皇は足を止め、縁ある寺として背負っていた観音像を安置して、
木版の手形を貼り付け、奉納されました。
その手形は、業平御殿の床の間がある部屋のガラスケース内に納められています。
現在の我々の手と比べると、ずいぶん小さな手だったことが伺い知れます。
また、観音像は法皇自作の十一面観音菩薩で、「草分観世音」とも
「笈摺観音(おいずるかんのん)」とも呼ばれ、西国三十三所観音霊場巡りをするには、
一番最初に参拝しなければならない観世音とされています。
その後、応仁・文明の乱で戦火に逢い、荒廃しました。
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に、藤原北家のひとつである
公卿・藤原(花山院)定好によって再建され、
以後、花山院家の菩提寺となりました。
願掛け樟
受付で拝観料(400円)を納めて境内に入ると、
左手に大きなクスの木が目に入ります。
このクスの木は樹齢約800年で、本尊もクスの木で彫られていることから
分身とされています。
伝説によると、本尊である地蔵菩薩の神力で一夜にして
大樟樹(おおくすのき)に成長したとされ、
「願掛け樟」として祀られています。
小さな祠
境内には小さな祠が、幾つも祀られています。
石仏
境内奥にある石仏。
鐘楼
鐘楼は寛文6年(1666)に建立されたもので、京都府の文化財に指定されています。
梵鐘
梵鐘は「不迷梵鐘(まよわずのかね)」と称され、決心がつかずに迷っている時、
この鐘をつくと迷いが取れるご利益があるとされています。
まず本尊の前で、百円を供えて祈り、息を止めて一点鐘をつき、
音が鳴り止むまで息をしてはいけない。
再び息をした時、決心がつく...とされています。
結構長い間、余韻が続きますので、
息を止める練習をしておいた方が良いかもしれません。
本堂
本堂は、寛延2年(1750)に藤原(花山院)常雅によって再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
本堂-屋根
本堂の屋根は、神輿のような鳳輦(ほうれん)の形をしています。
本堂-梁
本堂の屋根ばかりに気を取られていましたが、帰宅してから調べると、
本堂は密教本堂、神社拝殿、禅宗仏堂を混交した珍しい建築物であること。
また、施されている彫刻も見るべき価値があったことが判り、
もっとよく見ておくべきだったと反省しきり...
本堂-堂内
本尊は、伝教大師作という延命地蔵菩薩で、腹帯が巻かれていることから、
腹帯地蔵尊とも称されます。
但し、本尊は秘仏で、毎年8月23日のみ開帳されます。
池
本堂から見た池
高廊下
高廊下
三方普感の庭
高廊下を挟んで、池と反対側の庭は「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」
と名付けられ、寛延2年(1750)に藤原常雅により、
本堂再建の際に作庭されました。
「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることだそうですが、
凡人には宇宙を感じるのは難しいように思います。
高廊下から見える景色は天上界を想像させる造りになっているとか...?
茶室
茶室からの景色は現実世界を見立てているそうですが、
茶室に立ち入ることはできません。
屏風絵
茶室横の屏風絵
三方普感の庭-御殿側
業平御殿からは極楽浄土の世界を眺めることができるとか...
本堂に向かって少しずつ高くなり、庭を大きく見せる工夫がされ、
しばし横になって庭に見とれることはできました。
ここは、横になって庭を見ることが許されています。
山道の入口
本堂から出て、寺の裏山を登ります。
山道からの屋根
本堂の屋根を目の高さで見ることができます。
業平の墓
業平の墓があります。
在原業平(825~880)は六歌仙・三十六歌仙の一人で、父は第51代・平城天皇の
第一皇子・阿保親王、母は第50代・桓武天皇の皇女・伊都内親王
(いとないしんのう)と高貴な身分の生まれです。
大同5年(810)、平城上皇と第52代・嵯峨天皇が対立し、嵯峨天皇側が
迅速に兵を動かしたことから平城上皇は出家しました。(薬子の変
天長3年(826)、阿保親王は臣籍降下し、在原朝臣姓を名乗りました。
業平は第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)の第一皇子・惟喬親王
(これたかしんのう)の従姉にあたる紀 有常(き の ありつね)を妻とし、
惟喬親王に仕えました。
惟喬親王は第一皇子でありながら皇位の継承ができず、貞観14年(872)に出家しました。
業平もこの頃に十輪寺に移り住んだのかもしれません。
塩釜
墓から少し登った所に、塩竃跡があり、近年復元されました。
業平は難波から海水を運ばせ、塩焼きの風情を楽しんだとされています。
業平の思いの人・藤原高子(ふじわら の こうし/たかいこ)が大原野神社へ参詣の際、

塩竃で紫の煙を立ち上げ、思いを託したと伝わります。
塩竃を清めて煙を上げ、その煙に当たり、良縁成就、芸事上達、ぼけ封じ、
中風除け等々を願う「業平信仰」があり、11月23日には、塩竃清祭が行われます。

次回は乙訓寺から向日神社、長岡京跡などを巡ります。

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