鎮守社、庫裏が描かれるのみとなり、塔頭3院も失われました。
にほんブログ村
府道733号線から善峯寺への道は、大型車は通行不能の狭く急坂・急カーブが続く
険しい道で、二度と走りたくない道です。
途中に三鈷寺への分かれ道がありますが、一気に善峯寺へ下りました。
善峯寺の参道脇の樹木は大量に伐採され、河岸では改修工事が行われていました。
画像の右上部にもブルーシートで土留めが行われていましたが、
諸堂の参拝は問題ありませんでした。
善峯寺及び三鈷寺の記事は掲載済ですので、十輪寺へ向かいます。
十輪寺は山号を小塩山(おしおざん)と号する天台宗の寺院で、
京都洛西観音霊場の第3番札所です。
善峯寺からバイクで5分ほど下った車道に面しています。
平安時代の歌人で『伊勢物語』の主人公である在原業平が、
晩年に隠棲したことから通称「なりひら寺」とも呼ばれています。
また、業平が塩焼きの風流を楽しんだことから、
「小塩」の地名が付いたとされています。
十輪寺は平安時代の嘉祥3年(850)、第55代・文徳天皇の
染殿(そめどの)皇后(藤原明子=あきらけいこ)の安産祈願のために
(又は世継ぎ誕生を祝って)創建されました。
円仁(えんにん)の弟子である恵亮(えりょう)によって開山されました。
無事に惟仁(これひと)親王(後の第56代・清和天皇)が誕生し、
文徳天皇の勅願所となり栄えました。
平安時代、花山法皇は、西国三十三所観音霊場を再興した際、善峯寺へ向かう途中、
十輪寺の前を通りかかった時に美女が現れ、後を追うと地蔵菩薩の前で消えました。
法皇は足を止め、縁ある寺として背負っていた観音像を安置して、
木版の手形を貼り付け、奉納されました。
その手形は、業平御殿の床の間がある部屋のガラスケース内に納められています。
現在の我々の手と比べると、ずいぶん小さな手だったことが伺い知れます。
また、観音像は法皇自作の十一面観音菩薩で、「草分観世音」とも
「笈摺観音(おいずるかんのん)」とも呼ばれ、西国三十三所観音霊場巡りをするには、
一番最初に参拝しなければならない観世音とされています。
その後、応仁・文明の乱で戦火に逢い、荒廃しました。
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に、藤原北家のひとつである
公卿・藤原(花山院)定好によって再建され、
以後、花山院家の菩提寺となりました。
受付で拝観料(400円)を納めて境内に入ると、
左手に大きなクスの木が目に入ります。
このクスの木は樹齢約800年で、本尊もクスの木で彫られていることから
分身とされています。
伝説によると、本尊である地蔵菩薩の神力で一夜にして
大樟樹(おおくすのき)に成長したとされ、
「願掛け樟」として祀られています。
境内には小さな祠が、幾つも祀られています。
境内奥にある石仏。
鐘楼は寛文6年(1666)に建立されたもので、京都府の文化財に指定されています。
梵鐘は「不迷梵鐘(まよわずのかね)」と称され、決心がつかずに迷っている時、
この鐘をつくと迷いが取れるご利益があるとされています。
まず本尊の前で、百円を供えて祈り、息を止めて一点鐘をつき、
音が鳴り止むまで息をしてはいけない。
再び息をした時、決心がつく...とされています。
結構長い間、余韻が続きますので、
息を止める練習をしておいた方が良いかもしれません。
本堂は、寛延2年(1750)に藤原(花山院)常雅によって再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
本堂の屋根は、神輿のような鳳輦(ほうれん)の形をしています。
本堂の屋根ばかりに気を取られていましたが、帰宅してから調べると、
本堂は密教本堂、神社拝殿、禅宗仏堂を混交した珍しい建築物であること。
また、施されている彫刻も見るべき価値があったことが判り、
もっとよく見ておくべきだったと反省しきり...
本尊は、伝教大師作という延命地蔵菩薩で、腹帯が巻かれていることから、
腹帯地蔵尊とも称されます。
但し、本尊は秘仏で、毎年8月23日のみ開帳されます。
本堂から見た池
高廊下
高廊下を挟んで、池と反対側の庭は「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」
と名付けられ、寛延2年(1750)に藤原常雅により、
本堂再建の際に作庭されました。
「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることだそうですが、
凡人には宇宙を感じるのは難しいように思います。
高廊下から見える景色は天上界を想像させる造りになっているとか...?
茶室からの景色は現実世界を見立てているそうですが、
茶室に立ち入ることはできません。
茶室横の屏風絵
業平御殿からは極楽浄土の世界を眺めることができるとか...
本堂に向かって少しずつ高くなり、庭を大きく見せる工夫がされ、
しばし横になって庭に見とれることはできました。
ここは、横になって庭を見ることが許されています。
本堂から出て、寺の裏山を登ります。
本堂の屋根を目の高さで見ることができます。
業平の墓があります。
在原業平(825~880)は六歌仙・三十六歌仙の一人で、父は第51代・平城天皇の
第一皇子・阿保親王、母は第50代・桓武天皇の皇女・伊都内親王
(いとないしんのう)と高貴な身分の生まれです。
大同5年(810)、平城上皇と第52代・嵯峨天皇が対立し、嵯峨天皇側が
迅速に兵を動かしたことから平城上皇は出家しました。(薬子の変)
天長3年(826)、阿保親王は臣籍降下し、在原朝臣姓を名乗りました。
業平は第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)の第一皇子・惟喬親王
(これたかしんのう)の従姉にあたる紀 有常(き の ありつね)を妻とし、
惟喬親王に仕えました。
惟喬親王は第一皇子でありながら皇位の継承ができず、貞観14年(872)に出家しました。
業平もこの頃に十輪寺に移り住んだのかもしれません。
墓から少し登った所に、塩竃跡があり、近年復元されました。
業平は難波から海水を運ばせ、塩焼きの風情を楽しんだとされています。
業平の思いの人・藤原高子(ふじわら の こうし/たかいこ)が大原野神社へ参詣の際、
塩竃で紫の煙を立ち上げ、思いを託したと伝わります。
塩竃を清めて煙を上げ、その煙に当たり、良縁成就、芸事上達、ぼけ封じ、
中風除け等々を願う「業平信仰」があり、11月23日には、塩竃清祭が行われます。
次回は乙訓寺から向日神社、長岡京跡などを巡ります。