山門-1
中山寺の付近には二輪の駐輪場が無いため、阪急・中山観音駅の東側にある
有料駐輪場にバイクを置き、中山寺へ向かいました。
参拝時間を短縮したために、一部の画像は平成29年(2017)参拝時のものを使用しています。
山門-2
中山寺は山号を紫雲山と号する真言宗中山寺派の大本山で、西国三十三所観音霊場・第24番、
神仏霊場・第80番、近畿三十六不動尊霊場・第21番、
聖徳太子霊跡・第26番などの札所となっています。
現在の山門は、江戸時代の正保3年(1646)に第3代将軍・徳川家光によって再建され、
兵庫県の重要文化財に指定されています。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は、平成21年(2009)頃に修復された際、胎内から木札が見つかり、
山門と同時期に製作されたことが判明しました。
仁王像を囲む柵には、願い事を記した数多くの小さなわらじが奉納されています。
狛犬-右
狛犬-左
狛犬-説明
門の内側には、獅子と狛犬が安置されています。
この獅子と狛犬は木製で、仁王像と同じように修復が行われました。
参道の石段
両側に塔頭が並ぶ参道を進むと石段がありますが、右に行くとエスカレーターや
エレベーターが設置されていて、足が不自由な方でも参拝できるように配慮されています。
手水舎
石段を上った所に手水舎があります。
蓮の花の蕾ような形をしています。
鐘楼
手水舎の背後に鐘楼があります。
五百羅漢堂
参道の正面にはエスカレーターが併設された石段があり、その右側に五百羅漢堂があります。
開創1400年記念事業として、平成19年(2007)に新築されました。
五百羅漢堂-釈迦如来
堂内には、中央に本尊である釈迦如来像、その周囲には五百羅漢像が安置されています。
五百羅漢堂-堂内左
五百羅漢堂-堂内右
五百羅漢は、仏陀に常に付き添った500人の弟子、
または仏滅後の結集(けつじゅう)に集まった弟子を称しています。
実際には700余体の像が安置され、「親兄弟の顔が見たくば、
中山寺の五百羅漢の堂にござる」と詠まれるほど様々な表情をしています。
天井には金剛界五仏と釈迦如来の種字曼荼羅が描かれ、床には蓮華の陶板が敷かれています。
塔婆納所-1
塔婆納所-2
参道の左側には塔婆おさめ所があります。
閻魔堂
塔婆おさめ所の左側に閻魔堂があります。
閻魔大王
本尊は閻魔大王で、罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と
司録(しろく)の2人の書記官が脇侍として安置されています。
閻魔堂-堂内
堂内には、その他の十王の像が安置されています。
寿老人堂
閻魔堂の左側奥に寿老神堂があります。
寿老人堂-寿老人像
本尊は寿老神で、長寿の神であり、南極老人星(カノープス)の化身とされ、七福神の一柱です。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである
牡鹿を従え、長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っています。
寿老人堂-勢至菩薩
左側には、午年生まれの守り本尊である勢至菩薩像が安置されています。
勢至菩薩は、智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ
落ちないように救う菩薩とされています。
大国堂
寿老神堂の左奥に大黒堂があります。
大国堂-堂内
本尊は大黒天で、日本では、大黒天は大国主と神仏習合し、福袋と打出の小槌を持ち、
米俵に乗った姿が一般的です。
両側には、子年生まれの守り本尊である千手観音坐像が安置されています。
千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、
観音の慈悲と力の広大さを表しています。
古墳-1
大黒堂の横に「石の櫃(いしのからと)」と称する中山寺古墳(白鳥塚古墳)の
横穴式石室があり、兵庫県の史跡に指定されています。
古墳-2
玄室の長さ6m、幅2.5m、高さ3m、羨道部(えんどうぶ)の長さ9.2m、幅2m、高さ2.4mで
ほぼ南向きに開口しています。
床には敷石を敷き、5枚以上の天井石を載せてあり、玄室の中央奥寄りに、
長さ190cm、幅115cm、高さ50cmの家形石棺が安置されています。

寺伝では、第14代・仲哀天皇の先后である大中姫の墓とされ、大中姫の子、
忍熊(おしくま)皇子もこの地に葬られました。
第15代・応神天皇の御代に疫病が蔓延したのは忍熊皇子の祟りだとして恐れられていました。
異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、古墳の羨道から白鳥が飛び出し、
山中の大岩(中山寺奥之院の白鳥石)の中に消えました。
その大岩からは清らかな水が湧き出し、疫病は鎮まりました。
忍熊皇子の霊は「恨みを捨て、厄除神になる」と答えたと伝わり、大岩の窟(いわや)に
忍熊皇子の霊が祀られ、湧き水は諸疫を祓う清水として信仰を集めました。
聖徳太子は中山寺を開創した際、大岩を取り込むように拝殿を建立し、
日本で初めて厄神を祀るようになりました。
聖徳太子は、大中姫と忍熊皇子の霊を鎮めるために中山寺を創建したという伝承により、
この古墳は大中姫の墓とされていました。
しかし、調査の結果、この地区に勢力を持っていた豪族の墳墓とみられ、家形石棺の形態から、
6世紀後半の造営と考えられています。

また、西国三十三所観音霊場を開創した徳道上人は、機が熟すのを待って宝印を中山寺の
石の櫃に納め、上人が亡くなってから約270年後に花山法皇がそれを探し出し、
霊場を再興したと伝わります。
阿弥陀堂-正面
阿弥陀堂-横
大黒堂の先に阿弥陀堂があり、その奥の信徒会館と隣接しています。
阿弥陀堂は、本堂とともに慶長8年(1603)、豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)に命じて
再建されましが、現在の阿弥陀堂は、新築されたように見えます。
中山寺の阿弥陀堂は、先祖供養や納骨回向のための御堂で、
永代経供養の位牌が数多く祀られています。
宝形造りの建物
阿弥陀堂の近くに宝形造りの建物がありますが、詳細は不明です。
亥の子地蔵
宝形造りの建物の先に、亥の子地蔵(北向き地蔵)が祀られた地蔵堂があります。
亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の亥の日のことで、この日に詣でて
ほうきにて地蔵尊を掃き清めた後に、自身を加持すれば、
頭痛・肩こり・腰痛・中風・リュウマチ等に功徳があるとされています。
六地蔵は知られていますが、ここでは十体の地蔵像が祀られています。
信徒会館
地蔵堂の先は広場になっています。
大きく立派な信徒会館があります。
絵馬堂
広場の左側にはガラス張りの絵馬堂があります。
展望台
広場の前は展望台になっていて、宝塚市内が望めます。
宝蔵
阿弥陀堂前を北へ進んだ所に宝蔵があり、その前に安産御手洗鉢があります。
安産御手洗鉢
安産手水鉢は忍熊(おしくま)皇子の石棺とされています。
第14代・仲哀天皇の前の后・大仲津姫は、この地方の豪族大江氏の娘で、香坂(かごさか)、
忍熊(おしくま)の二人皇子を残して亡くなり、大江氏が住む難波江近くの大柴谷へ葬られました。
後の后・神功皇后には、胎内に皇子(後の応神天皇)を宿し、仲哀天皇が亡くなると
2人の皇子を支持する派と、神功皇后派が対立し、天下を二分するほどの騒ぎとなりました。
後継をめぐっての戦いがはじまろうとした直前、兄の香坂皇子は狩場でイノシシの牙にかかって
不慮の死をとげました。
一説にはイノシシの皮をかぶった、皇后派の刺客に刺されたとも伝わります。
戦いが始まると忍熊皇子の軍は利あらず、ついに近江の琵琶湖に追いつめられて、
やがて皇子は入水して果てました。
中世以降、この石棺は手水鉢として使われ、どんな難産の人でも本尊の十一面観音に
祈願をこめて、この手水鉢で身を洗い清めれば安産になるとの伝承が残されています。
大願塔
宝蔵横の石段を上った所に大願塔があります。
大願塔は、開創1400年記念事業として平成19年(2007)に新築されたもので、
かつて中山寺に存在していたとされる大塔(5間ある多宝塔)を再建したものです。
堂内には位牌室や祈祷室などがあります。
鎮守社-1
鎮守社-2
大願塔から右方向へ進んだ所に鎮守社があります。
本堂-横
鎮守社から北へ進むと本堂横に描かれた極彩色の絵や彫刻を眺めることができます。
本堂内外の鮮やかな彩色や彫刻は江戸時代中後期に施されたと伝わり、
平成17年から平成20年にかけての修復事業で復元されました。
子授け地蔵堂
本堂横を北へ進むと地蔵堂があります。
子授け地蔵堂-堂内
堂内には子授け地蔵尊が祀られています。
子授け地蔵堂-石仏
地蔵前の広場の西側には石仏が並び、背後には宝篋印塔が建っています。
曼荼羅の扁額
地蔵堂から東へ進むと、本堂の裏側に胎蔵界曼荼羅が彫刻された扁額が
掲げられているのを見ることができます。
厄丸大明神社
参道の石段を上った正面に厄丸大明神社があります。
石窟
厄丸大明神社の背後、石室と思われる前に地蔵が祀られています。
萬霊塔
今回は行くのを断念しましたが、厄丸大明神社から西方向へ進むと萬霊塔があります。
梅林
萬霊塔から北方向へ進むと梅林があり、梅林の奥から徒歩約50分登ると奥之院があり、
更にその先を下れば清荒神清澄寺への合計約2時間のハイキングコースとなっています。
大師堂
厄丸大明神社の右側に大師堂があり、弘法大師が祀られています。
大師堂-前の庭園
大師堂の前には令和元年を祝い、小さな庭園が築かれています。
修行大師像
大師堂の右前方には修行大師像が祀られています。
五重塔
五重塔は平成29年(2017)に再建され、東西南北を司る四神から東の青龍をイメージして
「青龍塔(しょうりゅうとう)」と称されています。
高さ28mで、海住山寺(かいじゅうせんじ)と法隆寺にしか見られない、
初層に裳階(もこし)の付いた五重塔です。
各層の四隅、鬼瓦の背後にバッタ、トンボ、龍などの練り瓦が配されています。
塔内には心柱を大日如来と捉え、東に阿閃(あしゅく)如来、西に無量寿(むりょうじゅ)如来、
南に宝生(ほうしょう)如来、北に不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の金剛界五仏が祀られています。
不動堂
五重塔から石段を下って来た東側に護摩堂があります。
護摩堂は、桃山時代の建築様式を遺した貴重な木造建築として、
兵庫県の文化財に指定されています。
本尊は、平安時代後期作の不動明王で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と
制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えています。
また、須弥壇(しゅみだん)の上には中尊の不動明王、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、
軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王が祀られています。
太子堂
護摩堂の右側に開山堂があり、聖徳太子が祀られています。

開山堂の右奥にエレベーターの乗り場があり、
車いすでも本堂まで参拝できるように配慮されています。
本堂
参道の左側に本堂があります。
中山寺は、第31代・用明天皇の2年(586)、大仲津姫母子の供養をするようにとの
命を受けた聖徳太子が、この地を訪れて堂塔を建立し
「紫雲山 中山寺」と名づけたのが始まりとされています。
奈良時代には大小多数の堂塔伽藍を有し、『続日本紀』に平安時代、
中山寺は比叡山や高野山に匹敵する大寺院であったとの記述も見られます。
皇室や源氏、庶民からの信仰も篤く、幾度の兵火や天災などの災害からも再建されてきました。
しかし、天正年間(1573~1593)に荒木村重による兵火を受け、一山が灰燼に帰しました。
現在の本堂は慶長8年(1603)、豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)に命じて再建されました。
内陣中央柱間にかかる虹梁形飛貫(こうりょうがたひぬき)には、
飛天と迦陵頻伽(かりょうびんが=極楽に住むとされ童女面に鳳凰の下半身を持つ)の
彫刻が施されています。
また、135の各間を持つ格天井には、それぞれ雲龍図や花鳥図、法具など、
全て異なる図絵が描かれています。

本尊は十一面観世音菩薩であり、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した
三国伝来の尊像と伝わります。
左右の脇侍も十一面観世音菩薩で、後白河法皇の寄進によるものです。
本尊と脇侍をあわせて三十三面となり、西国観音を総摂すると共に法華経に説く
観音の三十三権変化身を表象し、真の三十三所巡拝と同じ功徳がえられると云われています。
普段は秘仏となっていますが、正月三ヶ日と毎月18日に開扉されます。
また、毎年八月九日に『星下り大会式』が厳修されます。
この日には三十三観音が本堂に来迎され、この日に参ると、
四万六千日参拝したのと同じ功徳が得られるとされています。

花山院へ向かいます。
続く