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社号標
JR山陰本線の「並河」駅から南東方向へ徒歩約2分の距離に大井神社があります。
伝承では大宝2年(702)に松尾大社から月読命と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
が松尾大社の神使いである亀の背に乗って大堰川を遡上したのですが、
急流となった保津峡の八畳岩の辺りから進めなくなったので、
鯉に乗り換え、当地より東、大堰川を渡った河原林町勝林島の在元淵へと至りました。
それを見た大工が社を建立し「在元社」と呼ばれ、大工が住んでいた里は
「宮前町神前(みやさきちょうこうさき)」という地名として残されています。
その後、現在地へ遷座され、平城京へ遷都された和銅3年(710)9月に
第43代・元明天皇(在位:707~715)の勅命により大井神社が創建されました。
太鼓橋
駐車場がある南東側から境内へ入ると神池があり、石造りの太鼓橋が架かっています。
かって、境内には別当寺(=神社を管理するために置かれた寺)の東光寺があって、
その名残とされています。
神池
神池は、亀岡盆地が往古、「丹の湖(にのうみ)」と称された泥湖でしたが、
保津峡が開削されて水が引き、その後も残った池とされ、
旱魃でも枯れない「大いなる井戸」として社名となり、この地の地名ともなりました。
亀の像
神池には、当社でも神使いとされている亀の像が祀られています。
鯉の浮き彫り
また、大井神社の神使いとされる鯉が浮き彫りされ、祀られています。
当社の氏子地区内では鯉を食べないばかりか、触れることもなく、
端午の節句に「鯉のぼり」さえ揚げない風習が今も残されています。
ケヤキの木
ケヤキの木の根からサルスベリの木が生えています。
鳥居
境内の北側に鳥居が建っています。
延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある式内社で、
貞観8年(866)には駆馬神事が始まりました。
天正4年(1576)、明智光秀(1516~1582)による丹波平定の兵火により焼失しました。
拝殿
拝殿
天正12年(1584)に豊臣秀吉(1537~1598)の命により、
片桐且元(かたぎり かつもと:1556~1615)が造営奉行となって再建されました。
片桐且元は、「正一位大井大明神」の扁額を自著し奉納しました。
近代社格制度では明治6年(1873)に郷社に列せられ、
明治40年(1907年)3月には神饌幣帛料供進神社に指定されました。
平成22年(2010)の鎮座1300年を記念して、本殿の全面修復が行われました。
本殿
本殿
月読命・市杵嶋姫命・木俣神(きのまたのかみ)が祀られています。
木俣神は、「御井神(みいのかみ)」とも称され、
木の神、水神、安産の神とされています。
また、木俣神は大国主命の御子神であり、
大国主命は大山咋命 (おおやまくいのみこと)などと協力して湖であった
亀岡盆地を開拓するため、保津峡を開削したと伝えられています。
境内社
本殿の裏側には境内社が、手前から、厳島神社・出雲神社・春日神社・蛭子神社・
愛宕神社・大原神社と並んでいます。
阿弥陀如来
中央には阿弥陀如来が祀られています。
大井大明神の本地仏とされ、東光寺で祀られていました。
天満宮-1
境内社の天満宮です。
天満宮-2
菅原道真(845~903)が祀られています。

亀山城跡へ向かいます。
続く
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堰
承和年間(834~847)、法輪寺を中興した道昌は勅願により大堰川(おおいがわ)を
修築し、現在の渡月橋より上流約100mに橋を架けました。
欄干-大堰川
大堰川とは渡月橋の上流から松尾の辺りを指し、それより上流は「保津川」、
下流は「桂川」と呼ばれています。

この地を開拓した秦氏により、洪水対策や農業用水の確保に葛野大堰(かずのおおい)と
下嵯峨から松尾にかけての東岸に「罧原堤(ふしはらづつみ)」が築かれ
「大堰川」と呼ばれるようになりました。
橋は「法輪寺橋」と呼ばれ、交通の便が開かれると共に、
下流域の荒野に河水を引き、田畑を開墾しました。
後に橋を見た亀山上皇(1274~1287)は、「くまなき月の渡るに似たり」として
「渡月橋」と命名されました。
渡月橋
江戸時代初期に角倉了以(すみのくらりょうい)により保津峡改修が行われ、
現在の位置に渡月橋が架けられたとされています。
欄干-渡月橋
現在の橋は昭和9年(1934)に架けられ、中ノ島公園から桂川右岸の
短い橋は「渡月小橋」と呼ばれています。
琴きき橋の碑
渡月橋北詰に「琴きき橋跡」の石碑が建っています。
小督局(こごうのつぼね)は美貌の持ち主で琴の名手でした。
第80代・高倉天皇は小督局を寵愛したことから、天皇の中宮・徳子の父・平清盛の
怒りにふれ、小督局は密かに宮中を去り、嵯峨野に身を隠しました。
嘆き悲しんだ天皇は、腹心の源仲国に小督局を捜すように命じました。
仲国が、現在は嵐山頓宮前に移されている「琴聴橋」とも「駒留橋」称された橋付近で
琴の音を聞き、小督局を捜し出したことが、この碑の由来となっています。
碑の側面には「一筋に 雲ゐを恋ふる 琴の音に ひかれて来にけん 望月の駒」と
刻まれています。
琴きき橋
渡月橋北詰の上流、右側(北側)に車折神社(くるまざきじんじゃ)の嵐山頓宮があります。
神社前には「琴きき橋」が残されています。
「琴聴橋」はかって、渡月橋北詰にありましたが、
道路の拡張に伴い橋は現在地に移されました。
かっての橋は木造で、明治13年(1880)に幅・長さとも3mの石橋に架け替えられ、
欄干にはその旨が刻まれています。
嵐山頓宮
毎年5月の第3日曜日に大堰川で行われる三船祭は、車折神社の例祭で平安時代の
舟遊びが再現されますが、その際にこの頓宮で神事が行われるようです。
三船祭は昌泰元年(898)に宇多上皇が嵐山へ御幸した際、大堰川で舟遊びを楽しんだ
ことに始まり、その後第72代・白河天皇(在位:1073~1087)が、和歌・漢詩・奏楽に
長じたもの3隻に乗せ、遊びをされたことが「三船祭」の名の由来となりました。
昭和御大典を記念して昭和3年(1928)から始められました。
小督塚
嵐山頓宮から上流へ進み、次の丁字路を右折した先に小督塚があります。
小督局が隠れ住んでいた住居跡とされています。
小督局はこの地で「想夫恋(そうぶれん)」の曲を琴で奏でていた際に、源仲国が
その音の方へ向かい、得意の笛で調べを合わせたとされています。
源仲国から高倉天皇の真意が伝えられ、小督局は宮中に戻り、ひっそりと逢瀬を重ね、
治承元年(1177)に範子内親王が誕生しました。
平清盛の知るところとなり、小督局は出家させられました。
治承5年1月14日(1181年1月30日)に天皇が崩御され、清閑寺で葬られると、
その付近に移り、天皇の菩提を弔ったとされています。
宝巌院-拝観入口
拝観入口
大堰川畔まで戻り、上流へと進むと突き当りとなって右に進みます。
左側(西側)に天龍寺塔頭の宝巌院があります。
宝巌院は春と秋に特別公開され、それ以外は非公開です。
春の特別公開は3月19日~6月30日の予定でしたが、4月13日~5月6日までの
期間中は新型コロナの影響で休止されていました。
宝巌院-山門
宝巌院は寛正2年(1461)に室町幕府の管領・細川頼之の寄進により、夢窓国師から
三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え、現在の上京区辺りに創建されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、天正年間(1573~1585)に豊臣秀吉により
再建され、その後は徳川幕府により幕末まで外護されました。
宝巌院-3
その後の変遷は不明ですが、昭和47年(1972)に天龍寺塔頭・弘源寺境内に移転し、
平成14年(2002)に現在地で再興されました。
羅漢像-1
羅漢像-2
羅漢像-3
宝巌院の向かい側には、多数の羅漢像が祀られ、「嵐山羅漢」と称されています。

天龍寺へ向かいます。
続く

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